べらぼう松平定信と田沼意次の対立背景に一橋治済あり

左から松平定信・一橋治済・田沼意次/wikipediaより引用

江戸時代

なぜ賢丸(定信)と意次は激しく対立するのか?背後でほくそ笑む一橋治済

2025/01/30

なぜ田沼意次は、平賀源内に文書偽造させてまで、賢丸(まさまる)を追い出したかったのか?

大河ドラマ『べらぼう』第4回放送を見て、そんな疑問を持たれた方が少なくないようです。

確かに彼はまだまだ若い。

堅苦しい性質で頑固で、何かといえば吉宗の意向を振りかざすことは劇中でも描かれていますが、文書偽造というリスクを背負ってまで警戒しなければならない人物とは思えない。

いったい意次は、どうした? ドラマゆえの誇張だからか?

というと、あながち荒唐無稽でもないのが、史実における

◆田沼意次

◆賢丸(後の松平定信)

◆一橋治済(はるさだ)

という三者の複雑な関係です。

ドラマの第2回放送でも、生田斗真さん演じる一橋治済が傀儡師として田沼意次と共に振る舞い、これに対して田安賢丸(松平定信)が激怒するシーンがありましたが、史実でも、この三者が絡み合う政争があったからこそでしょう。

ではそれは一体どんな内容だったのか?

田沼意次と松平定信の背後で奇妙な政治力を発揮する一橋治済にも注目しながら、当時を振り返ってみましょう。

 


徳川御三卿・一橋家二代当主

江戸幕府を開いた初代家康は子沢山でした。

単なる好色というわけではなく、政権安定のためには多数の男子が必要であると痛感していたのでしょう。

なんせその直前の天下人・秀吉による豊臣政権は、跡継ぎ問題がその崩壊の大きな一因となった。

ゆえに子を沢山をもうけたわけですが、子孫の代まで安定的に続くとは限りません。

実際、2代徳川秀忠の時点で、側室はなく、嫡出の男子は2名だけ。

3代の徳川家光にいたっては男色を好んでなかなか男児ができず、春日局をはじめとする周囲を多いに焦らせたものです。

結果的に秀忠の血筋は途絶え、8代は御三家・紀州から徳川吉宗を迎えることになり、

徳川吉宗/wikipediaより引用

御三家だけでなく吉宗と9代徳川家重の血統を基とする御三卿が置かれることとなりました。

それが以下の通りです。

【御三卿】

田安徳川家:始祖は8代将軍吉宗三男・宗武

一橋徳川家:始祖は8代将軍吉宗四男・宗尹

清水徳川家:始祖は9代将軍家重次男・重好

大名として領地を持つ【御三家】とは異なり、御三卿は宗家の部屋住という扱い。

『べらぼう』の第2回放送では「子を成す以外にすることはない」という台詞がありましたが、確かにその通りと言えます。

一橋治済は宝暦元年(1751年)、そんな一橋家初代・宗武の四男として生まれました。幼名は豊之助です。

江戸時代も中期となると、子沢山の大名は他家に男子を養子として出すことも多い。

ましてや一橋家のような筋目正しい血ともなれば引く手数多であり、彼の兄たちも他家の養子とされていきました。

宝暦8年(1758年)、豊之助は世子とされ、同年、10代将軍・徳川家治より偏諱を賜って「治済」を名乗ると、明和元年(1764年)には一橋家2代目の家督を継いだのでした。

この年には公仁親王の娘・在子女王を正室に迎えています。

妻を迎えたとはいえまだ若く、世継ぎ誕生までは時間があり、待望の男子誕生は9年後となる安永2年(1773年)のこと。産んだのは旗本岩本正利の娘・富子でした。

 


一橋家と田沼意次との関係

一橋家は田沼意次と縁がありました。

意次の弟である田沼意誠が家老となり、その嫡男・田沼の意致がその跡を継ぐ。

もともと田沼氏は、徳川吉宗の代に江戸入りを果たしたときに旗本となり、意次が10代将軍・徳川家重に重用されることによって幕府中枢へのぼりつめた、いわゆる新参者です。

周囲にキッチリとした人脈を築き上げることで、体制を盤石にしておきたい。

そんなとき、一橋のような後発の良家との接近は、重要な人脈形成と言えました。

田沼意次の政治改革は多岐に渡る遠大な計画だったため、己一代だけでは達成できないことを理解できていたのでしょう。

田沼意次/wikipediaより引用

権力の集中しやすい側用人といっても、将軍の代替わりで中枢から去っていくのが宿命。

家治の寵愛だけを頼みにしていては危うい――そう理解していたはずで、ならば何をどうすべきか?

家治は徳川歴代将軍の中では異例といえるほど、京都からきた正室・五十宮倫子と仲睦まじい夫婦でした。

しかし倫子は女子二人しか産むことができません。

そこで意次は、自らの人脈を駆使し、お知保という女性を側室とします。

お知保は男子を産み、彼が徳川家基として将軍世嗣となった。

ただし、家基はまだ若く、保険となる弟もいない……となると、まさかの時の【御三卿】が存在感を増してきます。

 

田安家・定信、将軍継嗣からの脱落

田安家は【御三卿】の中でも筆頭であり、一橋家より上に位置していました。

その二代である治察が、世継ぎ無きまま亡くなってしまい、弟である定国は伊予松山藩へ養子に出されていた。

そこで注目されるのが次の弟・賢丸こと定信です。

治察の亡くなった安永3年(1774年)、田安家は定信が継ぐであろう――と、本人はじめ周囲が思っていても何ら不思議はありません。

しかし、治察の死から半年も経たないわずか5ヶ月後、定信は奥州白河藩松平家との養子縁組が進められてしまいます。

田安家側はこの縁組を固辞しようとしますが、

「田沼意次から将軍の命令だと伝えられ、断ることはできなかった」

と、定信が苦々しく書き残す程です。

松平定信/wikipediaより引用

このとき定信は、さすがに家治の息子で将軍候補である徳川家基が亡くなるとまでは予想していなかったでしょう。

とはいえ、万が一があれば将軍を継ぐことができたかも……という思いは心に強く残る。吉宗の孫であることを誇りにしてきた定信にとって、あまりに屈辱的なことでした。

なんせ定信は

田沼意次を二度刺殺しようと考えた

とまで書き残しています。

奥州白河藩松平家との養子縁組は、それほどまでに大きな禍根を残したのです。

定信からすれば、田沼意次と一橋家の縁の深さも、動機として腑に落ちるところではあったのでしょう。

しかし、本当に得をしたのは田沼意次であったのかどうか。

 


豊千代を将軍世嗣とする

そして安永8年(1779年)、大事件が起こります。

家治の世子であった徳川家基が、鷹狩りの帰り道、品川の東海寺に立ち寄りました。

まだ満18歳、鷹狩りができるほど健康でした。

ところが突如、体調不良を訴え、急死してしまうのです。

徳川家基/wikipediaより引用

病死だとか、不自然な負傷があったとか、いくつかの不吉な噂話が流れました。意次の薦める医師・池田雲拍がこのとき随行していたともされます。

父の徳川家治は半狂乱となり、大いに嘆き悲しんだことはいうまでもありません。

かくして、世嗣の候補として【御三卿】の男子が挙げられ、一橋家の豊千代を強力に推したのが田沼意次です。

『べらぼう』第2回放送で一橋治済(生田斗真さん)のもとに生まれた赤子ですね。

天明元年(1782年)、豊千代は9歳で正式な世嗣・家斉となりました。

田沼意次からすれば、完璧な筋書きであったでしょう。

次期将軍とその父である治済に恩を売り、己の政権基盤をさらに盤石にできた!と考えても何ら不思議はありません。

しかし、一橋治済はしたたかでした。

意次に取り入る連中がいると苦々しく批判し、そのことを良しとしない松平定信らにも取り入る動きを見せていたのです。

 

意次、定信の進退までも手玉に取る

天明6年(1786年)、10代将軍・徳川家治が病に倒れました。

家基の母であるお知保は「家基の死には意次が関与している!」と猜疑心を募らせています。

すでに政治的敵対者も多かった意次は、家治の後ろ盾なくしては持ちません。

その意次にとどめを刺すような処置を積極的に行なった一人が治済であり、彼は田沼派一掃のために大鉈を振るいます。

治済の子を将軍としたことは、田沼意次にとって安泰を保証するどころか、とどめを刺す相手に力をつけさせたようなものだったのです。

徳川治済(一橋治済)/wikipediaより引用

しかし、田沼意次のあと、老中となった松平定信も長くは持ちません。

その一因として挙げられるのが治済の不興。

天明8年(1788年)、将軍の父である己を「大御所」待遇とするよう治済が求めると、これに反対したのが定信でした。それが原因の一つとなり、後に失脚へ追い込まれてしまうのです。

一橋治済は、寛政11年(1799年)に家督を六男・斉敦へ譲り、隠居しました。

すると文政元年(1818年)、病に倒れます。

日頃から鶏卵や魚を食し、冬でも薄着、身体頑健であったのに頭痛が止まらない。

薬効なく、加持祈祷に頼ると、なんと死霊の祟りだというではありませんか。

これに悩んだのか、治済は出家剃髪し、穆翁と号します。

このあとも位人臣を極め、文政3年3年(1820年)、従一位。文政8年(1825年)に准大臣にのぼり、文政10年(1827年)、77歳で大往生を遂げたのでした。

 

御三家も、御三卿も、治済の血統となる

治済の子である家斉は、徳川将軍のうちでも際立った子沢山で知られます。

一説には55人いたとされ、【御三家】と【御三卿】にはこの家斉の子が次々と養子に入ります。二代目以降、空白であった田安家にも治済の血が家斉を通して入るのです。

徳川家斉/wikipediaより引用

治済は「天下の楽に先んじて楽しむ」人とされています。

これは先憂後楽(せんゆうこうらく)――君子たるものは先んじて憂い、後になってから楽しむべきだ――という朱子学の理想とは反対。

要は、刹那的で享楽的な人物と目されていたのでしょう。

治済の意向は、将軍家の慣例をも変えてしまいました。

徳川将軍家の正室は京都の公卿から迎えることが通例でした。

それが己に味方する外様大名として、家斉の妻には薩摩藩・島津家から広大院を迎えさせたのです。

近衛家の養子を経て、彼女は将軍家の御台所の座におさまった。これは時代がくだってから前例として持ち出され、同じく島津家から天璋院が13代将軍・徳川家定の正室として嫁ぐことの正統化として持ち出されます。

このことは幕府への外様大名家の政治介入を招くことにつながるのでした。

大河ドラマ『べらぼう』における治済の初登場シーンは、かなり考え抜かれていたといえます。

豊千代生誕の宴にて、傀儡師として人形を操っていたのは一橋治済と田沼意次。

家基の急死後、様々な政治工作を行い、後嗣を決める様が傀儡師のように世間の目には映ることでしょう。

生真面目な田安賢丸(松平定信)に対し、「子作り以外やることはない」とあっけらかんと語る治済。

【御三卿】の役割を反映した意見といえばそうです。

あの宴のときのように、飄々としたまま、治済は己の意に背くものを蹴落とし続けるのでしょう。

そんな治済が病に倒れ、出家した際、目にした怨霊とは「徳川家基のものであった」とまことしやかに伝えられています。

息子の家斉は、家基の墓参を欠かさなかったとも……。

果たしてどこまでが治済の陰謀なのか?

確たることは学術的には断言できなくとも、そこはフィクションです。

『べらぼう』の世界では、治済は暗躍し続け、意次と定信を地獄に突き落とすのでしょう。

『鎌倉殿の13人』での源仲章に続く、生田斗真さんの憎々しげな演技に期待したいところです。

🏯 江戸時代|徳川幕府の政治・文化・社会を総合的に解説

📘 『べらぼう』総合ガイド|登場人物・史実・浮世絵を網羅


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【参考文献】
藤田覚『田沼意次』(→amazon
「歴史読本」編集部『よくわかる徳川将軍家』(→amazon
『徳川家歴史大事典』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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