大河ドラマ『べらぼう』では何とも不思議な名前の方たちが多数登場します。
現代で言えばペンネームであり、特に狂歌師たちは元木網(もとのもくあみ)やら知恵内子(ちえのないし)やら四方赤良(よものあから)など、振り切った名前が非常に多い。
そんな、ぶっ飛んだキャラたちの中で、いささか不思議なのが平秩東作(へづつとうさく)かもしれません。
俳優の木村了さん扮する戯作者であり、実はドラマの中では何度か平賀源内と行動を共にしていた人物。
以下の画像の通り『古今狂歌袋』に描かれた姿は、第36話でも再現されたように個性バツグンなだけでなく、

平秩東作/国立国会図書館蔵
自著の中でも大田南畝との面白エピソードが記録されていたりします。
眼鏡をかけた姿がかなりクセが強い――平秩東作の史実における事績を振り返ってみましょう。
『べらぼう』で不思議な立ち位置の平秩東作
史実の平秩東作(へづつとうさく)とは一体どんな人物だったのか?
本題に入る前に『べらぼう』における彼の特殊な立ち位置をおさらいしておきましょう。
というのも本来は戯作者である彼が人物相関図では不思議なポジションにいるからです。
第16回までは平賀源内と共に「江戸市中の人々」に掲載され、「蔦重と関わる人々」とされていました。
しかし、源内が死亡退場した第17回以降は、なぜか「幕臣・諸大名」の中にいて、しかも肩書は「内藤新宿の煙草屋」になっている。
一体これはどういうことなのか?
彼を考える上で重要なのは「平賀源内を慕っていた」という点でしょう。
多才だった源内は本草学者でありながら戯作もこなすなど、マルチな才能が大きな特徴でした。

平賀源内/wikipediaより引用
『べらぼう』では若く見える平秩東作は、実際のところ享保11年(1726年)生まれで、寛延3年(1750年)生まれの蔦屋重三郎よりずっと年上、実は源内よりも二歳上です。
そして平賀源内が亡くなる直前、安永8年(1779年)の54歳時点で、剃髪していました。
内藤新宿の煙草屋・稲毛屋金右衛門としての商売から隠居して「娯楽に生きる」と宣言しているのです。
そんな彼の取扱が難しいのは
平秩東作は◯◯です――
とは言い切りにくい点でしょう。
彼が慕った平賀源内と同じで、二人とも才能の幅が多方面に渡っていて「これぞ」という的が絞りにくい。
平秩東作は天命年間の文壇長老格であり、誰しも一目置く存在でありながら、実に蝦夷地探検までこなした、非常にエネルギッシュな人だったことがわかります。
そんな彼をドラマの脇役として出す場合、肩書をどうするのか、実に悩ましい。だからこそ、源内の後継者枠として扱われているのかもしれません。
『べらぼう』の劇中でも、戯作者としてより、別の活動をしている場面が多い。
例えば、源内と共に秩父・中津川鉱山の開発に携わっているときは、待遇に怒った船頭から首を絞められる場面もありました。
そうかと思えば、エレキテルがイカサマ扱いされて落ち込んでいる平賀源内に、蝦夷地で採れる砂金を持ち込んで励ましたこともあります。
いったい何者なの? と、問いたくもなる登場の仕方なのです。
当時は、どこか胡散臭い人物のことを「山師」と呼んでおり、源内もまた、自嘲を込めて己をそう呼んでいました。
では平秩東作は……?
稲毛屋金右衛門は天明文壇の長老格となる
平秩東作は享保11年(1726年)に生まれました。
前述の通り、平賀源内よりも2歳年長。
大河ドラマ『べらぼう』ではかなり若く見えますが、平賀源内と同世代にあたり天明文壇の長老格とされています。
実は、息子ほど歳の差があった大田南畝ら後進の才能を見出したのが彼です。

大田南畝(四方赤良)/国立国会図書館蔵
彼の父は元々尾張藩士であり、そこから内藤新宿の煙草屋・稲毛屋金右衛門となりました。
平秩東作は父の屋号を継承し、幼名は八十郎、後に八右衛門となり、さらに父を継いで金右衛門となります。
姓は立松、名は懐之(かねゆき)、字は子玉。
最も有名な“平秩東作”は、戯作者としてのペンネームである「戯号」となります。
当時の文人らしく、東蒙山・嘉穂庵という号もあり、とにかくルーツも名前もなかなか掴み所のない人物と言えるでしょう。
武士の父を持つためか、若い頃から教養がありました。
宝暦年間には江戸の文人ネットワークにも参加。
当時のこうした集まりには、平賀源内や大田南畝もおり、そこから人間関係が広まっていったことが想像できます。
『べらぼう』第16回放送において平賀源内が亡くなりましたが、罪人であるがゆえに遺体を見ることができず、そこを踏まえて蔦重は「源内さんは生きている」と思うことにしていました。
史実では、このとき源内の遺骸を引き取ったのが平秩東作とされています。
「寝惚先生」を見出した平秩東作
『べらぼう』第18回において、大田南畝はこんな風に説明されました。
平賀源内にその才を激賞された、かつての天才少年です――。
この経緯を、平秩東作が自著の『莘野茗談』(しんやめいだん)で書き記しています。
大田南畝がまだ若く、少年であった頃、平秩東作によればまだ17歳の彼が、慰みに作ったという【狂詩】(漢詩のパロディ)を20首ばかり見せてきた。
これがなかなか出来が良く「申椒堂」(しんしゅくどう)こと須原屋市兵衛に見せたところ、とんとん拍子で出版が決定。
その二年後、平賀源内が跋文をつけた『寝惚先生文集』が刊行された。
大田南畝の回想シーンに、破顔一笑しながら跋文(ばつぶん)を記す平賀源内が出てきてもおかしくはないですね。
天明年間には文壇の頂点に立ち、若き文人を見出していた平秩東作。
大田南畝が彼に対して敬愛の念を抱くのは自然なことであり、となれば平秩東作も【狂歌】の大ブームに関わらないわけがありません。
そもそも大田南畝が「寝惚先生」として世に出した作品は【狂詩】、つまりは漢詩のパロディでした。
漢詩をおちょくるとなれば知識が必須。
きちんとした【書物問屋】が扱う漢籍を読みこなせなければできません。
【狂歌】ブームの前段階として、この【狂詩】があります。
明和6年(1769年)には唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)の【狂詩】の会があり、平秩東作はそこにも参加していました。

唐衣橘洲/国立国会図書館蔵
『べらぼう』は明和9年から始まりますので、その3年前ということになりますね。
それから時代がくだり、平賀源内の痛恨の死を経て、江戸文壇には間口が広い【狂歌】ブームが引き起こされました。
今度は漢詩ではなく【和歌】のパロディなので、難易度はずっと低い。
つまりは武士だけでなく、町人の参加も可能になり、身分秩序が崩れた愉快な文壇と熱狂的なブームは、かくして煮えたぎってゆきます。
第21回放送を終えた『べらぼう』では、今まさにそんな場面へ流れつつありますが、平秩東作に関しては文壇ではなく別の場所で見ることになりそうです。
それが蝦夷地です。
蝦夷地探検をこなして歌に詠む
蔦が絡まるように興味深い人脈を繋いでゆく『べらぼう』の平秩東作。
これまた前述の通り、源内に対して「蝦夷地には砂金がある」と持ちかけたのは平秩東作でした。
当時の江戸文壇では蝦夷地やロシアのことも話題にのぼっていてもおかしくはなく、そこで掴んだ情報だったかもしれません。
田沼意次が蝦夷地情報を掴んだタイミングは、仙台藩医・工藤平助からの提言があってからとされる説があります。
それを前倒しすることはありえないことともいえず、かつ江戸文人のネットワークと田沼政治の繋がりを描く上ではなかなか重要な描写といえます。
【狂歌】の文壇には大田南畝ら武士も参加しています。
ただの旗本御家人やどこかの藩士であれば、趣味を楽しんでいただけで終わります。
しかし、そこには土山宗次郎もいました。
田沼政治において、勘定奉行につながる有力な人材です。
その縁ゆえか、平秩東作はなんと天明3年(1783年)から翌年にかけて、蝦夷地へ赴くのです。

伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の蝦夷地/wikipediaより引用
アイヌの人々や蝦夷地の風土について見聞を深め、その様を『東遊記』として発表。
【狂歌】文壇でも蝦夷地について詠み、名作を残しています。
しかし、そうした熱狂も程なくして終わりを迎えてしまうのです。
いったい当時の江戸に何が起きたのか。
田沼政治の終焉は狂歌文壇にも大打撃
天明6年(1786年)8月、十代将軍の徳川家治が亡くなりました。

徳川家治/wikipediaより引用
家治の死によりその庇護を失った田沼意次は、政敵らに追い詰められて失脚。
彼の人材もただでは済みませんでした。
土山宗次郎の上役であった松本秀持は罷免。
そして土山宗次郎は、罷免だけでは済まされなかったのです。
富士見宝蔵番頭を務めていた際、土山は買米金の500両を横領したとされました。身辺調査の結果、病死した娘を生きているかのように届け出ていたことも発覚します。
【狂歌】文壇での連日連夜の遊び。
そして吉原大文字屋の誰袖花魁を1200両もの金で身請けしていたことも問題視されます。
「もはやこれまで……」と蓄電した土山宗次郎を武蔵国所沢の山口観音に匿ったのは平秩東作でした。
彼の侠気が、友の窮地を見過ごせなかったのでしょう。
しかし土山は結局捕まってしまい、天明7年(1787年)12月5日に斬首されてしまいます。
平秩東作も奉行所に呼び出され【急度叱り】とされました。『べらぼう』で瀬川が下された罰は【叱り】であり、これより一段階下の処分であります。
【狂歌】文壇という宴は終わったのです。
平秩東作も気力が尽きました。
そして寛政元年3月8日(1789年4月3日)にひっそりと世を去ります。
享年64。
なお、新宿区富久町に平秩東作の墓が伝わっています。
恩人・平秩東作を忘れようとしてもできなかった大田南畝
土山宗次郎の死後、「四方赤良」として狂歌を詠んでいた大田南畝は焦りました。
彼は武士であり、かつ女郎を身請けして愛妾としていたのです。
万が一、明るみに出たら追及されるに違いない――大田南畝は必死になって【狂歌】文壇との繋がりを消そうとし、平秩東作が蝦夷地で詠んだ歌を作品集から削除します。
田沼の後の松平定信時代になると、蝦夷地は禁句とされたのです。

松平定信/wikipediaより引用
寛政4年(1792年)、須原屋市兵衛は林子平の『三国通覧図説』を刊行しました。
と、これが松平定信の逆鱗に触れ、絶版のうえ板木を没収され、重過料まで課されてしまいます。
結果、須原屋市兵衛の経営が大きく傾く一因となりました。
そんな危険な状況の最中、大田南畝は平秩東作を忘れることはできませんでした。
寛政7年(1795年)に彼は平秩東作の随筆『莘野茗談』に追悼の漢詩を寄せているのです。
平賀源内という巨星が堕ちたあと、彼に近い人物たちも苦難の人生を歩まねばなりません。
それでも彼らは文を書き、書を以て世を耕すことを捨てはしませんでした。
その姿をドラマの中だけでも見守って参りたいと思います。
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参考文献
- 沓掛良彦『大田南畝:詩は詩佛書は米庵に狂歌おれ(ミネルヴァ日本評伝選)』(ミネルヴァ書房, 2007年3月, ISBN-13: 978-4623048656)
出版社: ミネルヴァ書房(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 揖斐高『江戸の文人サロン:知識人と芸術家たち(歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館, 2009年8月, ISBN-13: 978-4642056786)
出版社: 吉川弘文館(公式商品ページ) |
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