戦国武将は、主家が滅亡しても終わりではありません。
それどころか、たとえ主君や当人が死んでも、子孫が別の武家に仕えて活躍することは普通にあること。
特に織田軍に滅ぼされた甲斐武田の旧臣たちは、後に徳川家康に数多く抱えられたことで知られますが、中には大名まで出世した者もおりました。
今回注目したいのは、武田二十四将にも数えられる名臣・土屋昌続(まさつぐ)――。
その甥である土屋忠直は徳川政権下で大名にまでなります。
むろん、それは昌続や、その弟である土屋昌恒の活躍があったからこそ。
では、武田信玄に重く用いられていた土屋昌続とは一体どんな人物だったのか。

土屋昌続(浜松市文化遺産デジタルアーカイブ「武田二十四将図」より)
その生涯を振り返ってみましょう。
※昌次と表記されることもありますが、本記事では、正しいとされる昌続で統一いたします
父は信玄の傅役
土屋昌続は生年が確定されておらず、一説には天文十四年(1545年)とされます。
父は金丸筑前守で、昌続は次男。
弟に「片手千人斬り」で知られる土屋昌恒がいますが、その詳細は後述するとして、父の金丸筑前守に注目しますと、実は、信玄の傅役(もりやく・教育係)を務めるほどの武将でした。
ただし、こちらも生年や没年は不明です。
武田信玄が大永元年(1521年)生まれですから、少なくとも金丸筑前守は西暦1500年よりは以前の生まれでしょう。
織田家では、天文3年(1534年)生まれの織田信長に対し、傅役の平手政秀が延徳4年(1492年)生まれですので、それぐらいかもしれませんね。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
武田家の武将は、知名度に反して謎が多く、二十四将や五名臣ですら出自や生没年が不明というケースは珍しくありません。
それでも一部の史料から昌続が家老衆にされたことは判明しており、父・金丸筑前守の代までに甲斐武田氏の中で相応の立場を確立していたことが浮かんできます。
永禄九年(1566年)以降は、昌続も他者から起請文を受け取る立場になっていて、一定の高い地位にいました。
信玄の娘が病気になった際は、伊勢の名医を呼ぶ書状を出したこともあるほどです。
17才の初陣が第四次川中島の戦い
土屋昌続は初陣からしてなかなか印象的です。
それは永禄四年(1561年)のこと。
昌続が天文十四年(1545年)生まれだとすれば、数えで17才のときですね。
このときの武田家の合戦とは、上杉軍と真っ向からぶつかり合いをしたことで有名な【第四次川中島の戦い】でした。
信玄の弟・武田信繁や山本勘助などが討死したことでも知られるこの大戦がデビュー戦になるとは、よほど戦の神に見込まれたか、あるいは嫌われたか。

武田信繁と山本勘助/wikipediaより引用
最初にこんな修羅場を経験しておくと、その後はどんな戦場でも耐えられそうですよね。
実際、永禄十一年(1568年)1月からは、文書上で土野氏と記載されていることが確認でき、甲斐の名門であった土屋家の名跡を継いだことがわかります。
同年12月には対今川家の駿河侵攻にも参戦。
このとき、駿河の国衆や富士山本宮浅間大社との戦後交渉にあたったのが昌続でした。
駿河の人々と折衝する担当者となり、権勢はますます強まります。
他にも上野や信濃の豪族、あるいは関東の太田氏や里見氏、宇都宮氏などの指導や取次も担当しており、信玄からの信頼ぶりが半端ないです。
というか働き過ぎな気もしますが、昌続に能力があったか、他に裁量を任せられる家臣がいたか。
※武田神社(躑躅ヶ崎館跡)の側にある昌続屋敷跡
それでも限界はあったのでしょう。
元亀三年(1573年)に、高田能登守という人に朱印状の遅れを謝罪したという記録が残されています。
この年の昌続は、信玄の権僧正任官に向けても動いていたため、その影響が強かったのかもしれません。
同年12月には三方ヶ原の戦いも起きていますしね。
しかも、ここで昌続は非常に印象的な武功を残しています。
三方ヶ原の戦いで一騎打ち
元亀三年(1573年)10月、3万ともされる軍勢を分け、三河と遠江の徳川領へ攻め込んだ信玄。
武田軍はやがて合流すると、家康の籠る浜松城へ攻めかかる……のかと思いきや、素通りしていきました。
この信玄の挑発に対し、徳川家康はまんまと乗ってしまいます。
屈辱に耐えきれなかったのか。それとも勝てる見込みは抱いていたのか。
ともかく背後を衝こうとして一撃だけでも加えたかったのかもしれません。武田軍は、そんな徳川の動きを見透かしたかのように陣を配置しており、そのまま家康を完膚なきまでに叩きました。
土屋昌続はこのときどうしたか?
というと、徳川十六神将にも数えられる鳥居忠広と一騎討ちを繰り広げ、見事、勝利を収めました。
忠広は、後に伏見城の戦いで城を枕に討死したことで知られる鳥居元忠の実弟です。こちらも一族揃って徳川への忠義心が凄まじいですね。

鳥居元忠/wikipediaより引用
武田軍は三方ヶ原の戦いで勝利した後、いったん長篠城に入ったとされ、刻一刻と信玄の病状が悪化していった状況が浮かんできます。
昌続も、信玄の枕元で、今後のことを指示された可能性はあるでしょう。
程なくして信玄は病死。
武田軍は帰国せざるを得なくなります。
元亀四年(1574年)2月、こんな状況下でも昌続は、下野の宇都宮広綱から北関東の情勢に関する手紙を受け取っています。
取次として外部とのやり取りが恒常的だったことが浮かんできますね。
長篠の最期 土屋家のその後
信玄が亡くなった後の土屋昌続は、残念ながらあまり目立たなくなります。
天正三年(1575年)5月21日、長篠の戦いで討死してしまい、歴史から姿を消すことになったのです。
『信長公記』でも、織田・徳川軍が取った首の一人として名前が挙げられているのみで、山県昌景や真田信綱、小幡信真らのように目立った描写はありません。
しかし、土屋家は終わりではありません。
昌続の死後、家督を継いだのが弟の昌恒でした。
甲斐武田は、天正十年(1582年)に織田家から攻め込まれ、次々に裏切り者が出ていく中、土屋昌恒は最後の最後まで武田勝頼に従い、天目山で主人が自害するまでの時間を稼いだとされます。
狭い崖道で織田軍と対峙し、片手で藤の蔓を掴みながら、片手に武器を持ち、戦い続けたというのです。
さらには勝頼の命によって勝頼の正室(北条夫人)に介錯をしたとか、勝頼の辞世の句に返歌を詠んだとか、忠臣の鑑として語り伝えられる存在。
『信長公記』だけでなく、徳川家臣・大久保忠教の『三河物語』でも昌恒は称賛されるほどです。

歌川国綱『天目山勝頼討死図』/wikipediaより引用
だからでしょう。駿河に逃げ延びた昌恒の子・土屋忠直は、その後、家康の側室・阿茶局の養子として迎えられ、徳川秀忠の近習を務めると上総久留里藩2万石の大名にまで出世します。
家康が旧武田軍の将兵を数多く抱えたのは有名ですが、土屋昌続や土屋昌恒の活躍が果たした役割が小さくなかったのでしょう。
久留里藩の土屋家は江戸中期に改易とされながら、その後は旗本として続いています。
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参考文献
- 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋 編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。
出版社公式サイト:東京堂出版(書誌情報)
Amazon:商品ページ - 柴辻俊六 編『新編 武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。
出版社公式サイト:KADOKAWA(書誌情報)
Amazon:商品ページ - 平山優『図説 武田信玄 クロニクルでたどる“甲斐の虎”』戎光祥出版、2022年。
出版社公式サイト:戎光祥出版(書誌情報)
Amazon:商品ページ - 上田正昭・西澤潤一・平山郁夫・三浦朱門 監修『日本人名大辞典』講談社、2001年。
出版社公式サイト:講談社(書誌情報)
Amazon:商品ページ





