大河ドラマ『豊臣兄弟』がいよいよ「桶狭間の戦い」へ突入します。
迫りくる今川の大軍に対して右往左往する織田家――1月18日の第3回放送ではそんな様子が描かれ、軍議が終わった後には「信長を裏切って義元に降る」と打ち明ける者までいました。
佐久間盛重です。
織田家の重臣として知られる佐久間信盛や佐久間盛政と同じ一族の盛重。
とても裏切りなど考えそうにない立場ですが、史実における盛重は、桶狭間で一体どんな行動をしていたのか?
佐久間盛重の事績を振り返ってみましょう。
信秀・信長・信勝に仕え
佐久間盛重の生年は不明。
もともとは、信長の父である織田信秀に仕えていました。
ドラマの中で忠誠心が薄いように描かれるのは、その後のコロコロと変わる立場が影響しているのかもしれません。
というのも盛重は、当初は信秀と信長のもとで働き、その後、信長の弟・織田信勝(信行)の配下になったかと思えば、再び信長のもとへ戻るなど、いささか微妙な立場だった様子がうかがえるのです。
具体的な記録は『信長公記』に残されており、まず天文二十一年(1552年)、信勝のお供として信秀の葬儀に参列。

織田信秀像/wikipediaより引用
信長が抹香を投げつけた一件で知られる父の葬儀ですね。
このとき盛重は、弟・信勝に付き、柴田勝家らと行動を共にしていました。
そして次の記録が弘治二年(1556年)、今度は“信長の家臣”として名塚砦に配置されています。
動きをまとめるとこうです。
◆佐久間盛重の流れ
信秀の配下
↓
信長の配下
↓
信勝の配下:天文二十一年(1552年)信秀の葬儀
↓
信長の配下:弘治二年(1556年)で名塚砦に配置
気になるのが“名塚砦”でしょう。
いったい何のため、盛重はこの砦に配置されたのか?
稲生の戦い
織田信長が築いた名塚砦は、清洲城(信長方)と末森城(信勝方)の間に楔を打ち込むようにして作られた軍事拠点です。
当時の織田信長は、尾張を統一するために四苦八苦していた時期。
何かと反抗的な弟の信勝にプレッシャーをかけるため設置され、実際の地図で位置関係を確認されるとわかりやすいでしょう。
西(左)から見て
黄色……清州城(信長)
緑色……名塚砦(佐久間信盛と佐久間盛重)
青色……末森城(織田信勝と柴田勝家)
となり、名塚砦は「信長軍が清洲城から於多井川(おたいがわ)を渡って東へ攻め込んでいく」ための攻撃的拠点となります。
そこで勃発したのが「稲生の戦い(いのうのたたかい)」でした。
弘治二年(1556年)8月、ついに織田信長と、その弟・織田信勝が真正面から衝突したのです。
最初に動きがあったのが8月23日。
柴田勝家が1000、林美作守が700ほどの兵を連れて名塚砦へ迫ると、翌24日、信長も手勢を引き連れ清洲城から出陣します。

柴田勝家(左)と織田信長/wikipediaより引用
そして同日正午に開戦――当初は信長軍が勝家軍に押されるも、森可成らの働きで盛り返し、最終的に信長の勝利となりました。
この戦いで橋本十蔵を討ち取る活躍を見せたのが佐久間盛重。
しかし、信長も自ら敵将を討ち取るなどして盛重より目立ってしまい……その詳細は以下の記事にお譲りします。
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稲生の戦いで信長vs信勝と勝家|信長公記第19話
続きを見る
次に盛重の記録が見えるのが桶狭間の戦い、正確に言えばその前哨戦でした。
丸根砦で敵に包囲され
永禄三年(1560年)5月、駿河を出発した今川軍は、先手の徳川家康(当時は松平元康)がまず大高城へ兵糧と共に入ります。
今川義元はいったん東にある沓掛城に入り、さらに西へと進軍してくる動きでした。
いったん地図で確認しておきましょう。
・左の赤い拠点が大高城で、それを囲むように以前から設置されていたのが黄色い拠点の鷲津砦(上)と丸根砦(下)
・一番右側にある赤い拠点が沓掛城
織田軍では以前から、大高城のそばに鷲津砦と丸根砦を設置。
むろん大高城を攻め落とすためのものでしたが、今川軍がやってくる状況においては、最前線での重要な防御拠点となります。
そこに配置されたのが、佐久間盛重でした。
言うまでもなく、丸根砦は今川軍から真っ先に攻撃される超危険な拠点です。
実際、徳川家康を先手とした今川軍が大高城に入ると、今度は鷲津砦と丸根砦が包囲されてしまいました。
もしも佐久間盛重が、ドラマで語っていたように信長を裏切るならば、このときを置いて他にない――そんな絶好のタイミングでも、盛重は丸根砦を死守しようとしたのでしょう。
結果、永禄三年(1560年)5月18日、今川軍に攻撃されると敢えなく落城し、盛重は討死したのでした。
娘は盛政に嫁ぎ
織田信長と対立した弟の織田信勝。
そんな信勝の配下に付けられた佐久間盛重は、事が起きる前に信長のもとへ戻っており、以降、怪しげな動きをした記録はありません。
桶狭間の戦いでは、危険過ぎる最前線の丸根砦に配置されながら、討死するまで戦ったのですから、信長としては大いに助かったことでしょう。
義元の首を取れたのも、今川軍の兵を丸根砦に引きつけておいたからとも言えます。
そもそも佐久間一族は織田家で重用されており、後に佐久間信盛こそ追放されてしまいますが、猛将として知られる佐久間盛政は柴田勝家のもとで活躍。

『佐久間盛政秀吉ヲ襲フ』/wikipediaより引用
その盛政に嫁いでいたのが、盛重の娘だとされます。
織田家を裏切って今川家に降る気など、まるで無かったように思えるのですが……。
👨👦 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅
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【TOP画像】佐久間信盛と佐久間盛政/wikipediaより引用
【参考書籍】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館公式サイト)
太田 牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 国立国会図書館サーチ)



