大河ドラマ『豊臣兄弟』に登場した宮部継潤(みやべけいじゅん)をご存知でしょうか?
浅井長政の家臣であり、戦国ゲームなどでもお馴染みの存在。
僧侶出身の武家であり、大河ドラマでも剃髪して浅井家の軍議で声を張り上げていましたが、史実では豊臣秀吉に降り、豊臣家でもなかなか重要なポジションに置かれます。
秀吉が凄惨な手口で陥落させた戦場として知られる鳥取城の復興を任されているのです。
いったい宮部継潤とはどんな武将だったのか?
豊臣政権でなぜ重用されたのか?

浅井から織田へ
宮部継潤は近江浅井郡の出身です。
比叡山で修行した後、宮部郷にある湯次(ゆつぎ)神社の善祥坊で住持職を担っていました。
実家は、当時荘園管理を現地で任されていた一族であり、還俗して武家となった継潤は、浅井長政に仕え、戦略的要衝である宮部城(宮部砦)を任されます。
妻子は人質として、浅井家の本拠地・小谷城に置かれました。
そんな継潤の運命が大きく変わり始めるのは元亀元年(1570年)になってから。
主君の浅井長政が織田信長を裏切り、美濃と近江で激しい戦闘状態に陥ると、横山城の城代だった豊臣秀吉が継潤に対して調略を仕掛けてきたのです。

若き頃の秀吉を描いた月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』/wikimedia commons
実際に織田家へ降ったのは元亀二年(1571年)10月のことですから、その1ヶ月前に行われた比叡山焼き討ちの影響も大きかったかもしれません。
ただし一点、調略に応じるにあたり継潤には条件がありました。
秀吉に対し、養子を求めたのです。
ご存知のように、当時の秀吉には実子がいません。
もしも宮部に預けてしまえば人質同然となりますから、秀吉が調略を仕掛ける以上、自身の身内から差し出さねばならない。
そこで選ばれたのが甥の治兵衛(後の豊臣秀次)でした。
豊臣秀次を養子に迎える
豊臣秀次は、秀吉の姉ともの長男です(父は三好吉房)。
永禄十一年(1568年)生まれですから、当時は数えでまだ4歳ですね。
生年については諸説ありますが、とにかくまだまだ小さな子なだけに、秀吉の姉ともは「手放したくない」と抵抗したのではないでしょうか。
こういうとき実子に恵まれていなかったことは、本当に大きなハンデですね。
しかし現実はそんなことを言ってられません。
継潤にしてみれば、単に人質を確保したというだけでなく、秀吉派閥の中でいきなり上位のポジションに置かれることになります。
結果、まだ幼い秀次が養子に出されると、継潤にしても秀吉の気遣いに心が動かされたのか。

豊臣秀次/wikimedia commons
浅井から宮部城を攻められても必死に死守していきます。
元亀三年(1572年)10月には、小谷城に残されたままだった妻子が、秀吉によって遣わされた友田左近右衛門の働きにより救出されました。
豊岡城の城代
翌天正元年(1573年)8月、朝倉家と浅井家が滅亡しました。
尾張と伊勢から美濃を経由して、近江・越前・畿内一帯をも支配した織田家は、一気に全国最大の戦国大名へと躍り出ます。
しかし、それは同時に数多の強敵と対峙するということであり、北陸方面では上杉、関東甲信越では武田と北条、中国方面では毛利などの大大名が眼前に立ちはだかります。
秀吉が任されたのは、中国地方の攻略でした。
天正五年(1577年)10月、秀吉は黒田官兵衛と共に播磨での調略を開始。
当初はまたたく間に近隣一帯を支配下におくなどして順調に進んでいきましたが、三木城の別所長治が織田家を裏切り、毛利勢についてからは風向きが一変します。

別所長治/wikipediaより引用
ほかに荒木村重などの裏切りもあり、一進一退を続ける秀吉。
その後、三木城に対しては“三木の干し殺し”、鳥取城に対しては“鳥取の渇え殺し”と呼ばれる、壮絶な籠城戦を仕掛けることになります。
一方、宮部継潤は豊臣秀長に従い、山陰地方の攻略に注力していました。
山名氏などの諸勢力を打ち破り、天正八年(1580年)には豊岡城の城代に任ぜられた継潤。
民に対する諸負担を軽減するなど、秀長と共に民心の掌握に努め、但馬国内で反乱が起きかけたときもこれを未然に防ぐなど、統治能力の高さを見せます。
但馬では竹田城の秀長、豊岡城の継潤が、秀吉の毛利攻めを支える構図となっていました。
渇え殺し後の鳥取城を任されて
天正九年(1581年)7月、ついに鳥取城攻めが始まりました。
宮部継潤も駆り出され、但馬の先鋒隊として鳥取城へ向けて進軍。
雁金山城を落として鳥取城への連絡網を遮断するという武功を挙げると、以降は城を取り囲み、徹底した兵糧攻めを敢行します。

鳥取城
鳥取城には将兵だけでなく、近隣の住民も逃げ込んでいました。
結果、20日分の兵糧は瞬く間に枯渇。
城内の人々は、死した牛馬や草木など食べ尽くすと、遺体にまで手をつけたとされ、まさに地獄絵図と化していきます。
その辺の詳細は別記事「鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し」に譲りまして、本記事で注目したいのはその後です。
戦後の鳥取城を任されたのが宮部継潤でした。
まずは治安の回復を進め、戦功を挙げた武士に褒美や所領を与えると、やはり税負担や諸役の整理・減免を進めます。
同時に地域の主要産業である漁業権などにも着目。
まさに地に足ついた実務能力は秀吉から高く評価され、血塗られた土地を着実に復興させていくのでした。
本能寺の変後は秀吉の背後を守り
天正十年(1582年)6月に本能寺の変が勃発。
毛利軍と対峙していた秀吉が巧みな交渉から「中国大返し」で京都へ戻り、直後の「山崎の戦い」で明智光秀を破ったことはよく知られています。
秀吉の名が一気に浮上してくる瞬間です。

絵・富永商太
その一方で、ほとんど注目されないのが宮部継潤の存在でしょう。
なぜ毛利軍は秀吉の後を追わなかったのか?
中国大返しの話題となると、毛利軍の動きが不可解だとされがちですが、宮部継潤はそのまま残り、秀吉の背後を守っていたのです。
もしも毛利軍が追撃に出ていたら、継潤の名は飛躍的に高まった可能性がありますね。
その後も天正十五年(1587年)九州征伐や天正十八年(1590年)小田原征伐に従軍しながら、その都度秀吉の評価は高まっていき、天正十七年(1589年)には因幡・但馬で5万石を与えられます。
文禄元年(1592年)文禄・慶長の役の際には、継潤自ら渡海を申し出ますが、許可は下りず、息子の宮部長煕(長房)が渡海しました。
秀吉は、明の征服後に天皇や豊臣家・各大名らを配置することを想定した「三国国割構想」を持っており、朝鮮の留守居役として継潤の名を挙げています。
危険が及ぶことを避けたのか。
あるいは秀吉が近くにおいておきたかったか。
継潤は慶長元年(1596年)12月頃に家督を譲ると、晩年には秀吉の“御伽衆(話し相手)”となりました。

豊臣秀吉/wikimedia commons
慶長四年(1599年)3月25日、宮部継潤は亡くなります。
前田利家が亡くなる7日前のことであり、時代の変遷を象徴するようなタイミングとも言えますね。
跡を継いだ宮部長煕は、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易され、その後は南部利直に預けられています。
長煕の次男・宮部長邑の家系が後に赦免されて南部藩に仕え、血を繋げました。
※三木城と鳥取城の攻防が気になる方は別記事「鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し」をご覧ください
参考文献
宮島敬一『浅井氏三代』(2008年2月 吉川弘文館)
平山優『豊臣秀長 秀吉を支えた生涯』(2026年1月 株式会社サンニチ印刷)
黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人』(2025年10月 KADOKAWA)
河内将芳『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(2025年5月 戎光祥出版)
柴裕之『図説 豊臣秀吉』(2020年7月 戎光祥出版)
黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(2016年11月 KADOKAWA)
長浜市長浜城歴史博物館 編『戦国大名浅井氏と北近江―浅井三代から三姉妹へ―』(2008年8月 市立長浜城歴史博物館)
