大河ドラマ『豊臣兄弟』の第17回放送は、三方ヶ原の戦いから足利義昭の追放まで、一気に話が進みます。
その中で最も驚きの描写だったのが、武田信玄の死でしょう。
織田が仕込んだ毒オニギリをギリギリで回避したかと思ったら、その後「餅を喉に詰まらせて死ぬ」という突然すぎる展開。
果たして武田ファンは「面白い描写だ!」と喜んだのか、それとも眉をひそめていたのか。
さっそくレビューへと進みましょう!
足利義昭はどうやって甲斐まで?
子供たちと餅つきを楽しむ武田信玄。
なぜこんなシーンから始まったのか?というと、上述したように信玄が餅を喉に詰まらせて死ぬからでしょう。
「まさか餅つきがフラグとは思わなかったでしょ?」
制作陣がそんな風に思っていたら、さすがにイヤな感じですね。
そこへ現れたのが幕府奉公衆の一人で足利義昭の側近である三淵藤英でした。
三淵藤英は信玄に上洛をお願いしつつ、わかりやすくアッサリ引き下がる――またもや「実は従者のほうが足利義昭でした~!」という“二度目のサプライズ”。

さすがに今回は無理があるのでは?
まず足利義昭の立場が違い過ぎます。
前回は流浪の身で、越前から美濃という隣国への移動でした。
今回の義昭はれっきとした将軍で、しかも京都から甲斐への道のりは現在の最短距離で約400km程もある。隣国とはわけが違います。
しかも織田信長にバレてはいけない隠密行動となると、近江や美濃ルートは避けたいはずで、とても最短距離など通れない。
摂津から駿河への海路?
だとしても、そもそも織田軍監視のもとでは、京都を抜け出すだけで至難の業ではないでしょうか。
義昭は、覚慶時代に興福寺から逃げ出すことに成功していますが、そのときは松永久秀の手助けがあったからで、今回は織田軍の監視がついているはず。
信長との関係も悪化している義昭では、その監視から逃れることなど到底不可能というか……もはやこの足利義昭は尾上右近さんの演技力だけで存在が保たれていますね。
尾上右近さんの登場を楽しみにされている視聴者さんも多そうです。
まぁ、細かいことを気にしても仕方ありませんね。
竹中半兵衛がたった一人で菩提山城への抜け道を作っていたように、本作は時間・距離・人の能力のバランスがどこかおかしい作品です。
現在では「普通の進軍だった」と指摘される「中国大返し」が、この先どう表現されるのか、興味深くなっています。
三方ヶ原で家康大敗
本来であれば、武田信玄の西上作戦には、本願寺の顕如も大きく関わっていたでしょう。
しかし、本願寺そのものが存在しない本作。
足利義昭が直々に出向いたのが効いたようで、元亀三年(1572年)10月、武田信玄は総勢2万5000の軍勢で遠江へ侵攻し、12月に徳川織田連合軍と真っ向からぶつかりました。

ご存知、三方ヶ原の戦いです。
信玄という強敵を相手に無謀にも勝負を挑んでしまった家康――そんな構図で描かれ、石川数正に向かって「今後、間違った判断をしそうになったら指摘してくれ」と急に主君らしいことを言い出します。
今まで、どちゃくそ性格が歪んでいたのに、どうした家康!
三方ヶ原の敗戦が人を変えたのか。あるいは、単に、家康の「しかみ像」の伝承を盛り込むためか。

“しかみ像”としてお馴染み『徳川家康三方ヶ原戦役画像』/wikipediaより引用
※「三方ヶ原の敗戦を忘れられないように描かれた」という家康しかみ像ですが、現在、同説は否定されています
武田軍、徳川に快勝!
その一報を聞いた足利義昭が二条御所で挙兵し、信長は劣勢に追い込まれていきます。
いわゆる「第二次信長包囲網」のクライマックスですね。
浅井、朝倉、本願寺、三好、六角などの反信長勢力に、足利義昭や武田信玄も加わる形で、織田軍はいよいよ窮地に追い込まれました。
その詳細は以下の記事をご覧いただくとして、
-

武田信玄 迫る!第二次信長包囲網|信長はどうやって“最大の窮地”を脱したか
続きを見る
ドラマで話題となったシーンがこの直後ですね。
そう、武田信玄が喉に餅を詰まらせて死んだのです。

信玄餅か 笛の音か
武田信玄の死は、病没が通説となっています。
重病の身を押してまで西上作戦を繰り出したところに、信玄の意地というか未練というか、無念の感情を彷彿とさせて上杉謙信とは異なる人間性を感じさせるものです。
それが「餅を喉に詰まらせる」とは……。
つまり、餅を食ってなければ、信長との直接対決もあり得たんかい!
何より脚本家さんに聞いてみたいのは、なぜ「餅を選んだのか?」ということです。
例えば信玄の有名な死のシーンとして
「笛の音に惹かれて城へ近づいたところ、鉄砲に撃たれて亡くなった」
というものがあります。

武田信玄の最期を描いた月岡芳年の浮世絵/wikipediaより引用
創作です。しかし、優しい音色につられて、つい城へと近づいてしまうというのが、なんともオシャレじゃないですか。
戦場の英雄の中にも「そんな心があるんだよな」と和みますよね。
そんな大事な場面での「お餅」です。
ホッコリします?
地元、山梨県の方たちは信玄公をそんな風に描かれて嬉しいですか?
もしも本作の脚本家さんが「信玄餅」から今回のシーンを着想していたんだとしたら、げにおそろしきことです。

桔梗屋の信玄餅も今や(→amazon)で買えちゃうんですよね
信長「怨みに恩で応えるのだ」
元亀四年(1573年)春、武田軍が甲斐へ引き上げました。
武田信玄の死を知っているのは、当初の時点で2人だけ。そのうちの1人が山県昌景であり、もう1人は信玄の小姓なのか、あっという間に殺されてしまいます(ドラマの中での話です)。
そして舞台は七月へ。
二条御所を制圧した信長は、敵対し続ける足利義昭逃げ込んだ槇島城に足を踏み入れました。
「お命を取るつもりはありませぬ。京を離れていただきます」
義昭に一言発すると、小栗旬さんは颯爽とその場から去っていきますが、実は『信長公記』での織田信長は、こんなセリフを残しています。
いかがでしょう?
「後世の人々に任せよう」なんて信長から言われたら震えそうになりません?
まぁ、単純にカッコイイですよね。
一方、ストレスマックスだったのが、二条御所を壊していた明智光秀です。
将軍が切りかかっていた藤戸石を前にして、自らも刀を振り下ろす光秀。義昭に対する思いを断ち切ったという意味なのでしょう。
確かに、尾上右近さんは非常に魅力的だったので、ここでの退場となってしまうならば、惜しいものがありますね。
義昭は京を追放され、事実上、室町幕府は潰れたようにも見えますが、その後も文書(御内書)を出し続けるなどして活動を続け、将軍職も解かれておりません。つまり、将軍を続けたのです。
では、室町幕府はいつ終わったのか?
というと、豊臣秀吉の関白就任が有力説の一つとなっています。
名実ともに秀吉が政権トップに立ったからで、既に義昭から権力欲などは消え去っていたとされます。
いや、今までの権力欲が高すぎたんだろ、ともツッコミたくなりますが……。
まごうことなき愚将!
武田信玄が死亡し、足利義昭は京都から追放され、最も強敵だった本願寺はそもそもこの世界線には存在しない。
そんな織田軍にとって次なる敵は……やはり浅井朝倉でしょう。
元亀から天正へと改元された同年8月、虎御前山に陣を構えた信長が小谷城攻めに取り掛かると、朝倉義景も援軍を率いて小谷城背後に陣を置き、一見、やる気満々です。
しかしこれが、なんともクソな爺ィでして。
この期に及んで「一乗谷から出たくなかった」とグダグダとのたまい、浅井が先に織田軍と戦うのを待っていたところ、大嶽砦が信長の手に落ちたという知らせが入り、即座にこう告げます。
「引き揚げるぞ!」

撤退だけは誰よりも早い!
神速の決断力だな!
義景は一乗谷への引き揚げを決意します。
しかし、信長の神眼はそれを上回っており、朝倉軍の撤退を予測して夜通し監視していると、本当に朝倉軍が撤退を始めたために背後から追いかけ、一斉に襲いかかりました。
俗に「刀根坂の戦い」と呼ばれ、朝倉軍で殿(しんがり)を務める斎藤龍興も必死に戦っています。愚かな大将に仕えることの不幸を自身と重ねているかのようで……。
結局、朝倉軍は織田軍の勢いに押されて壊滅。
どうにか一乗谷まで逃げ延びた義景は、愛する一乗谷が織田の手に渡るぐらいなら自らの手で滅ぼそうと考え、城下に火を放つよう朝倉景鏡に命じます。
しかし、これを良しとしない景鏡に首を取られ、ついに越前の名門・朝倉氏は滅亡となるのでした。
すぐに介錯してあげて!
朝倉の援軍を失った浅井は、もはや小谷城に籠城して抵抗を続けながら滅びるのを待つしかありません。
どれだけ城が堅くても、助けに来てくれる外部勢力がいなければ、籠城などは無意味。
すぐに開城するか、逆に最後まで決死の覚悟で戦うしかありません。
実際、浅井も少しずつ防御力を削られ、長政の父・浅井久政が自害したという一報が届くと、残るは浅井長政の本丸だけとなりました。
そこでようやく説得に向かう豊臣秀長と秀吉。
相撲を取って、2人ともぶん投げられ、あっけなく浅井長政の死は決まります。
不思議だったのは、長政を介錯する家臣すらいなかったことでしょう。
お市の方や娘たちを豊臣兄弟に託し、1人きりで切腹を強行する長政。

いくら腹を切っても簡単に死ねるわけではなく、場合によっては相当苦しむことになります。
その理由は、後ほど別記事「切腹のルールと現実」をご参照いただくとして、誰か早く殺してあげてよぉおおおおお!
と悶々としていたら妻・お市の方が長政のもとへ戻り、自ら介錯するという展開になっていました。
ぎこちない動きで刀を振り下ろすお市の方――。
こうなると実際の長政はどんな風に亡くなったのか、気になる方もいらっしゃるかもしれませんので、よろしければ別記事「浅井 長政の最期は史実ではどうだった?」をご覧ください。
参考文献
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』(2017年2月 中央公論新社)
池上裕子『織田信長』(1996年1月 吉川弘文館)
堀新『信長公記を読む』(2011年2月 吉川弘文館)
今谷明『戦国時代の貴族―『言継卿記』が描く京都』(1980年1月 大学教育社/2016年 講談社学術文庫)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(2014年11月 洋泉社)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
洋泉社編集部編『明智光秀 歴史REAL』(2019年8月 洋泉社)


