大河ドラマ『豊臣兄弟』で話題となった荒木村重の裏切り。
劇中では、配下の中川清秀と高山右近が毛利方へ引き込んだことになっていましたが、史実では両者とも早い段階で織田方への帰参を許されます。
織田方の武将・古田織部(古田重然)が中川清秀を引き戻したのです。
この織部、もしもドラマに登場すれば非常に目立つ存在になっていたでしょう。
戦国ファンにはお馴染み、漫画『へうげもの』の主人公であり、千利休の高弟7名を示す「利休七哲」にも数えられるほどの「茶人」であり「数寄者」でした。
慶長二十年6月11日(1615年7月6日)はそんな古田織部の命日。

古田重然(古田織部)/wikimedia commons
最期は嫌疑にかけられ自害という謎を残した、織部の生涯を振り返ってみましょう。
永禄期から信長に仕えていた
古田織部の生まれは天文十二年(1543年)、もしくは天文十三年(1544年)とされます。
同年代の武将ですと、徳川家康と同年か一つ下。
元々は美濃の出身で青少年期のことはほとんど伝わっていませんが、永禄十年(1567年)に織田信長が美濃へ攻め込んだときには既に織田家に仕えていたようです。

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
伯父が美濃山口城の城主であり、それなりに身分のある家の出でした。
織部の父である古田重定も茶の道に通じ、重然もその薫陶を受けて育った……と言いたいところですが、この辺は諸説入り乱れてハッキリしません。
なぜなら織部が茶会に参加した最古の記録が天正十一年(1583年)、つまり本能寺の変の翌年なのです。
若い頃から茶道に親しんでいたのなら、もっと早くからそれらしき記録があってもよさそうだけど、それがない。
ゆえに何歳のときに茶道と出会ったのかは不明です。
あくまで想像ながら織田家に来てから茶道のことを知り、何かしらのツテで本格的に学び始めたのではないでしょうか。
主君の織田信長が上洛後の永禄十二年(1569年)に名物茶器の蒐集、いわゆる「名物狩り」を進めていましたので、感化されていてもおかしくないでしょう。
義兄の清秀が村重と共に離反すると
古田織部は天正六年(1578年)、摂津茨木城主・中川清秀の妹と結婚しました。
しかし同年10月、清秀は荒木村重と共に織田家に対して反旗を翻します。

荒木村重/wikimedia commons
すると翌11月、織田軍はすぐさま清秀の茨木城を包囲。
そもそも村重に謀反をそそのかしたのは清秀とされ、その詳細は以下の記事に譲りますが、
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摂津の戦国武将・中川清秀の生涯42年|秀吉の義兄弟は賤ヶ岳の戦場に散った
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ここで出番となったのが織部でした。
妹の夫である織部の説得により、清秀は織田家へ帰参するのです。
実際は織田方の武将四名で出向いておりますが、少なくとも織部と清秀の関係性は悪くなかったのでしょう。そのまま城に籠り、追い詰められた村重にしてみれば「オレに謀反させといて、アイツなんなんだよ!」となりかねない場面ですが……。
しかし、その清秀も天正十一年(1583年)「賤ヶ岳の戦い」で討死したため、織部は清秀嫡男・中川秀政の後見役を務めています。
話が前後してしまいますが、天正十年(1582年)本能寺の変以降、織部は一貫して秀吉についていました。
山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、紀州攻め、四国征伐、九州征伐、小田原征伐など、主だった合戦に参加。
山崎の戦い後には千利休の付き合いも始まっていたと考えられ、この直前に茶道への関心を持ち始めた可能性も指摘されています。
「織部」の通称は、天正十三年(1585年)に従五位下・織部正に任じられたことから来ています。
秀吉時代には山城西岡で三万五千石程度を有していたとの見方もあり、武将としても決して小身ではありませんでした。
小田原征伐で優雅な茶と歌
天正十八年(1590年)の小田原征伐では、興味深い記録も残されています。
北条を相手にした武功ではなく、茶道の師匠である千利休との手紙です。
特に6月20日付け『武蔵鐙の文』と呼ばれるものが知られています。
むさしあぶみ さすがに道の 遠ければ とはぬもゆかし とふもうれしゝ
この古田織部の歌に対し、利休は以下のように返歌したとされます。
御音信 とだえとだえす むさしあぶみ さすがに遠き 道ぞとおもへば
織部はこのころ関東各地を転戦中であり、利休は陣中の無聊を慰めるため小田原の秀吉本陣にいました。

小田原征伐の陣図 photo by R.FUJISE(お城野郎)
戦の最中にしてはノンビリしたやり取りに見えますが、勝利が前提の戦いだったからこその余裕だったのでしょう。
6月20日というのは、小田原城内で重臣・松田憲秀の内通未遂が起きて数日後のこと。
織部はおそらく騒動を知らなかったでしょうが、利休の耳に入っていてもおかしくありません。
7月9日には利休から織部へ「口切りの茶を差し上げたい」という手紙が出されています。
口切りの茶とは、その年の新茶を茶壺に封じ、立冬ごろに封を開けて点てること。
つまり
「遅くとも、秋には茶を楽しむ余裕ができているでしょう」=「凱旋の日も近いでしょう」
と暗喩したことになります。風流な言い方ですね。
千利休の死
翌天正十九年(1591年)、古田織部にとって大事件が起きます。
千利休が突如として豊臣秀吉の勘気を蒙り、堺に蟄居させられてしまったのです。

長谷川等伯が描いた千利休像/wikimedia commons
事件の真相は未だ謎に包まれていますが、蟄居させられた時点で非常に厄介な情勢だったのは間違いないでしょう。
もしも利休の肩をもてば、自身も破滅へ追い込まれかねない。
そんな危険な状況の中で織部は、細川忠興と共に旅立つ利休を淀で見送ったとされます。
ちなみに織部と忠興では茶道に対する考え方が全く異なっていました。
「利休の茶をそのまま伝えるべき」とした忠興に対し、織部は「人と違うことをする」=「相手が師匠であってもそれは変わらない」という考えでした。
さすがに見送りの場で対立はしなかったでしょうけど、師匠の利休としては懸念点ではあったかもしれません。
「利休七哲の残り五人はどうした?」
そんな疑問も湧いてきますが、呼称自体が後世につけられたものですので、全員が揃っておらずとも仕方ないでしょう。
ただし、「七哲」の筆頭とされる蒲生氏郷は、見送りに行かなかったことを悔やみ、一時期、利休の息子を匿っています。

蒲生氏郷/wikipediaより引用
また、他の七哲である高山右近は、キリシタンだったことを主因として改易され、前田家の預かりになっていましたので、見送りに行きたくても行けない状況でした。
他の弟子たちも、少なからず後悔したのではないでしょうか。
利休との逸話
千利休は、蒲生氏郷を茶道の弟子として絶賛し、古田織部(重然)については美的センスを褒めていました。
織部が花を入れる籠を直に置くのを見て、利休はこんなことを言ったとされます。
「これいいね! 皆、籠を薄板の上に置くけど、何かしっくりこなかったんだ……私も今度からこうするよ!」(超訳)
一般人には不思議な話ですが、感性が磨かれるとその意味が飲み込めるんですかね。
また、利休は厳格な精神を持っている一方、「一風変わったものを好む」という独自の価値観がありました。
例えば、細川忠興への形見として残したものの中に「ゆがみ」という名の茶杓があります。

細川忠興/wikimedia commons
名前の通り意図的に歪ませた形の茶杓なのですが、おそらく「曲がったものは良くないとされるが、それはそれで美しさがある」という意図が含まれていたのでしょう。
一方、利休から織部には「泪(なみだ)」という名前のまっすぐな茶杓を残しています(参照:文化遺産オンライン)。
「君の創意工夫やひねくれ具合は素晴らしいが、たまには涙をこぼすくらいの素直さや、まっすぐな気持ちを忘れるな」
そんな教えだったのかもしれません。
漫画『へうげもの』での織部は「ホヒョン」とか「はにゃあ」など独特のオノマトペで芸術に対する愛着が表現されていて、茶杓のエピソードもさもありなんと思わされてしまいますね。
関ヶ原の戦い前後
千利休の死後も古田織部は豊臣秀吉に仕えています。
文禄・慶長の役では半島へ渡海せず、名護屋城(現・佐賀県唐津市)で秀吉の警護役。

豊臣秀吉/wikimedia commons
その死後は、息子の古田重広に領地を譲って隠居し、伏見で茶道三昧の日々を送っていたようです。
関ヶ原の戦いでは、きっちり東軍についています。
織部は、茶を通じて朝廷や寺社、商人など、ありとあらゆる人々と繋がっていたので、その辺からも情報を得ていたのでしょう。
戦後に家康から近江7000石を与えられています。
織部は隠居の身ながら、一万石の大名となりました。
しかし、領地にはさして興味がなかったと思われ、関ヶ原後は茶道の師匠としての面が強くなっていきます。
慶長八年(1603年)から小堀遠州に茶の湯を教え、さらに慶長十五年(1610年)になると江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の指南役も務めました。
この間、慶長十三年(1608年)には、大坂城で織田有楽斎(信長の弟)と共に豊臣秀頼に献茶したこともあるほどです。
徳川と豊臣の関係はなかなかデリケートになっていましたが、だからこそ茶道で通じることを良しとしたのかもしれません。
しかし、そう甘くはいかないのが当時の情勢でした。
突然の死罪とその後
慶長二十年(1615年)に大坂夏の陣が勃発。
以前から豊臣方とも親しかった古田織部に嫌疑がかけられてしまいます。
「城方と通じ、放火しようとした」
「ドサクサに紛れて秀忠を暗殺しようとした」
そんな疑いをかけられ、息子の古田重広と共に罪に問われます。

徳川秀忠/wikipediaより引用
しかし、その経緯については今なお謎が多く「最終的には同年6月11日に織部は伏見の自邸で切腹した」ということしか確定していません。
不思議なのは、織部が嫌疑に対して一言も反論しなかったことでしょうか。
その理由も不明です。
いくら言い訳しても通じないと判断したのか。
本当に計画があり、証拠でも握られていたのか。
以前から幕府側に疑念を抱かせる要素があったのかもしれませんが、判断に悩むところです。
結果、息子たちや家臣にも処罰が及びました。
なぜ「へうげもの」と呼ばれたか?
こうして大名・茶人としての古田家は途絶えてしまいましたが、茶道の教えは現在まで続いていますので、その精神は残っていると言えますね。
「茶道式正織部流」といい、16代目の方が千葉県市川市国府台にお住まいだった縁で、同地では「織部桔梗会」という会が継承しているようです。
千葉県の無形文化財にも指定されています。
他にも茶室の作り方や茶器の中に「織部好み」と分類されるものがあり、やはり茶道の世界で今なお存在感を発揮。
家は断絶しながらも名を残し、さらには漫画『へうげもの』で大いに注目され、

『へうげもの』1巻(→amazon)
今頃は天国で「はにゃあ」となっているかもしれません。
しかし、なぜ『へうげもの』なのか、気になる方もいらっしゃるでしょう。
この言葉、実は漫画でゼロから作られた言葉ではありません。
慶長四年(1599年)に博多の豪商茶人・神屋宗湛が、織部の茶会に出席した際、薄茶に用いられた瀬戸茶碗を見て「ヘウケモノ」と記していたのです。
「ひずんでいる」
「ひしゃげている」
そんな意味があり、織部の茶は理路整然としたものではなく、歪みや破調、意外性をも面白がる美だったのです。
それが「ひょうきんな者」「おどけた者」「とんでもないことをする者」という語感も重なり、後世の古田織部像を象徴する言葉となりました。
戦国武将としてはかなり奇抜な「数寄者」だった古田織部。
ドラマや映画などでもっと注目されても良さそうです。
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摂津の戦国武将・中川清秀の生涯42年|秀吉の義兄弟は賤ヶ岳の戦場に散った
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参考文献
諏訪勝則『古田織部 美の革命を起こした武家茶人』(2016年1月 中央公論新社)
村井康彦『千利休 (講談社学術文庫)』(2004年2月 講談社)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
日本人名大辞典
デジタル大辞泉
古田織部(古田重然)/wikimedia commons

