豊臣秀吉はいつから「天下」を狙っていたのか?
本能寺の変が起きると、すぐに引き返して明智光秀を討ち、清須会議では主導権を握って、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を撃破する――。
そんな劇的な展開を見ると、かなり早い段階から意識していたようにも思えますが、一方で「それは結果から逆算しただけでしょ」というツッコミも聞こえてきそうです。
いったい秀吉が天下人になろうとしたのはいつのことなのか。
天正十年(1582年)6月の本能寺の変から、翌天正十一年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いまで。
秀吉の事績を順に追いながら、考察してみましょう。
そもそも「天下」とは?
そもそも天下とは何なのか?
多くの方が思い浮かべるのが九州から東北までを制覇する全国統一かもしれません。
しかし、当時の天下は違う意味であり、例えば研究者の金子拓氏は『秀吉研究の最前線』の中で「畿内を中心とした信長の勢力範囲」という意味で用いています。
天下を掌握することと全国統一は別次元。
あくまで畿内を中心とした政治的秩序・支配圏であり、その他のエリア(全国統一)は含まれていないんですね。
ここで思い出していただきたいのが、以下の有名な句です。
織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川
【意訳】信長が始めた全国統一事業を秀吉が受け継ぎ、家康が完成させた
この句からは、いかにも「全国統一」と「天下餅」がイコールだという雰囲気が伝わってきます。

豊臣秀吉・織田信長・徳川家康/wikipediaより引用
しかし金子氏はこの天下餅史観がすでに古い見方だと指摘。
そもそも近年は、信長自身が「全国統一を目指していたとは限らないのでは?」という議論になっているほどです。
こうした前提を踏まえながら、秀吉の天下を振り返ってみましょう。
運にも恵まれていた秀吉
天正十年(1582年)6月3日、備中高松。
光秀謀反の報を受け取った羽柴秀吉は、信長の死を伏せたまま毛利方と交渉に入り、同日夜から4日にかけて講和を成立させました。
「いくらなんでも早すぎないか?」というスピード決着ですが、実はそれより一週間ほど前の5月25日ごろ、信長の出陣を懸念した毛利方から秀吉に対して講和の申し出があったのです。
すでにお膳立てはできていたんですね。
そこで秀吉は毛利との和睦を締結して、急いで姫路に戻ると、城内の金銀米銭をすべて将兵に分け与え、6月13日、山崎の戦いで明智光秀に勝利します。

絵・富永商太
秀吉にとっては運もあり、また実力もあり。
展開に恵まれた感は否めませんが、とにかく劇的な勝利に変わりはありません。
だからでしょう。本能寺の変後に黒田官兵衛が秀吉に向かって「もはや天下はあなたの意のままになりました」と言ったという話もありますが、これはあくまで創作。
江戸時代の書物『明良洪範』続篇に記されたものであり、研究者の金子氏は「秀吉に対するこうした見方が江戸時代からあったことを教えてくれる」と評しています。
清須会議は「秀吉の勝利」だった?
山崎の戦いから2週間後となる天正十年(1582年)6月27日。
尾張の清須城に織田家の四宿老が集います。
「清須会議」という呼び名は、明治時代に入ってから学者が名づけたもので、同時代の史料には出てきません。
秀吉自身は「宿老共が清洲にて談合した」と書き残しています(『金井文書』)。会議というより、寄り合いですね。

清須会議メンバーの肖像画/wikimedia commons
そこで何が決まったのか?
興福寺の僧侶・英俊が書き留めた『多聞院日記』には、こんな一節が残されています。
【意訳】だいたい秀吉の思いどおりに決まった
【原文】大旨ハシハカママ
出典『多聞院日記』
光秀を討った最大の功労者は秀吉ですから、その主導で話がまとまるのは自然な流れでしょう。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれましたように、清須会議は幼主・三法師の名代(みょうだい・当主代行)を決める場であり、その候補は織田信雄と織田信孝でした。
しかし、両者のどちらかで決着することはなく、宿老たちが三法師を支える「織田体制」での政権運営に決定。
この時点で秀吉は織田家を乗っ取ったと言えるのか? というと、当然、NOです。
会議を主導することと、天下人になることは全くの別物。
しかし、会議後に変化が生じ始めます。
公家が火をつけた可能性
清須会議を終えた秀吉は同年7月11日、京都の本圀寺へ入ります。
そこへ公家たちが相次いで訪問し、
信長の後継者であるかのように秀吉を扱った
というのです。

秀吉が名乗ったのではなく、周囲がそう扱い始めた。
いくらおべっかでも、天下人として扱われたら本人も悪い気はしなかったでしょうし、もしかしたらこれを境に内心では天下を意識し始めたかもしれません。
秀吉はその後、自分の所領となった山城の山崎に城を築くと、10月15日には京都の大徳寺で信長の葬儀を執り行いました。
研究者の藤井讓治氏は著書『天下人の時代』の中で、この行動が信長の後継者であることを見せつけたわかりやすい例であると指摘します。
当時の本人は、どこまでそれを意識していたのか。
全く考えてなかったとは言えない状況ですよね。
葬儀の前後に秀吉が書いた手紙
信長葬儀の前後、秀吉は織田信孝の家臣に宛てて、長文の書状を送っています。
10月14日付と、10月18日付。
内容は、勝家との和睦を持ちかけてきた信孝に対して、それを拒み、本能寺の変から葬儀に至るまでの自分の功績を延々と書き連ねたものでした。
いかに自分が織田家に尽くしてきたか。
そう切々に訴えており、研究者の高柳光寿氏は「秀吉が天下統一を夢みていたであろうことが推察される」と評し、山室氏は「おのれの正当性を天下にアピールする目的で作成された」と見ています。
要は自己宣伝の文書というわけですね。

豊臣秀吉/wikimedia commons
一方、金子氏は、これを以下のように読み取っています。
14日に書状を出したが葬儀に信孝が来なかったので、後日(18日)あらためて書状を記した。
自分がどれだけ織田家に忠誠を尽くしてきたか、なぜ主君の葬儀を営んだことで不満を持たれるのか。
そう書いているうちに感情が高ぶってあのような文面になり、そこから浮かび上がってくるのは「秀吉が信孝との決定的な決裂は避けたい」という心境である。
つまりこの時点での秀吉は織田体制を維持するつもりだったというのですね。
秀吉の右筆・大村由己が書いた『惟任退治記』も、10月25日付で同じような趣旨のことが記されています。
意外かもしれませんが、信長不在の織田家に対しても、秀吉は忠誠心を維持し続けていたことが読み取れます。
しかし現実に、織田体制は徐々に崩れていきます。
ではなぜ織田体制が壊れたのか
なぜ織田体制は崩れていったのか。
研究者の尾下成敏氏は、以下のように複数の要因を挙げています。
◆秀吉が山崎に城を築いたことを、柴田勝家が誓約違反だと非難
◆三法師の安土入城が遅れ、信孝が手放さなくなった
◆信雄と信孝のあいだで、尾張・美濃の激しい国境紛争が起きた
◆秀吉もまた、勝家を誓約違反だと糾弾している(お市との婚姻を巡るものと推察)
秀吉と勝家の一騎打ち、という単純な図式ではなく、対立軸が複数あり、しかも同時に火花を散らしていたんですね。
注目したいのは、勝家サイドも和睦を探っていたことです。

柴田勝家/wikipediaより引用
10月6日、柴田勝家から丹羽長秀に宛てた書状には、こう記されています。
【意訳】私はたいした人間ではないけれども、このたびは協力し合って、上様が苦労して治めてこられた分国を守っていこうとしていたのに。結局は共食いの果てに、他人の国にしてしまうつもりか
【原文】我人間柄悪候共、此般ハ入魂仕、近年上様以御苦労被相治、御分国仕置等、不及迄可相守之処、結句友喰ニテ相果シ、人之国ニナスヘキ哉
出典『南行雑録』
織田体制を守れ、と訴えています。
しかし10月28日、秀吉は丹羽長秀・池田恒興らと結び、三法師に代わる当主として織田信雄を擁立しました。
事実上のクーデターです。
ただしこの動きは、当初から予定されていたのではなく、和睦交渉が決裂した結果として下されたのでは?と指摘されています。
というのも、織田信孝は清須会議のあとも宿老主導の体制を無視して、自分の花押を入れた所領保証の判物を京都の寺社へ発給し、自らの権力を誇示し続けていたのです。
勝手な行動を止めない信孝を排除する――それが秀吉・長秀・恒興らの目的であり、秀吉の天下獲りの野望などとは言い切れません。
しかし秀吉は、次々と新たな手を打ち始めていきます。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用
賤ヶ岳前に全国へ書状
賤ヶ岳の戦いを前に、秀吉は驚くほど広い範囲へ手紙を出しました。
まず越後の上杉景勝には、天正十一年の早い時期に使者を送り、起請文を取り交わしています。
内容は、秀吉が勝家の領国である越前に攻め入ったら、同時に景勝も軍を動かす――つまり挟み撃ちの約束です。
結果的に景勝は約束を果たさず、秀吉が強く抗議したため、人質を出して詫びる事態になりました。この時点ですでに、両者の関係は秀吉優位で動いています。

上杉景勝/wikipediaより引用
西の毛利輝元については小早川隆景を介して連絡を取り合い、信孝・勝家方との戦況を報告していました。
備前の宇喜多秀家にも、同じように戦況を伝えています。
徳川家康に対しては、家臣の石川数正へ書状を送り、信頼関係の継続を確認しました。
一方、柴田勝家だって手をこまねいて見ているだけではありません。
輝元に書状を送って秀吉を討つための出馬を要請し、家康にも縮羅や鯛を贈ってよしみを結ぼうとしました。
結果、毛利家中はどちらが優位か見定めがたく、しばらく両天秤にかけて様子を見ることに決めています。

毛利輝元/wikipediaより引用
興味深いのは、秀吉と信長の違いでしょう。
織田信長も、北条氏や伊達氏などと友好関係を保っていましたが、それは軍事同盟ではありませんでした。
信長の関心は「天下」の領域内の秩序維持にあり、それを脅かす勢力は全力で排除するというもので、積極的な軍事的協力の要請は見られません。
一方秀吉は、織田体制から独立しようとしたその時点から、信長と敵対していた大名との軍事的同盟に動いていました。
上杉も毛利も、信長の時代には敵だった相手です。
その相手と手を組み、身内争いを有利に勝ち抜こうとしたんですね。
賤ヶ岳の勝利で何が変わったか
天正十一年(1583年)4月の賤ヶ岳。
戦いに敗れた柴田勝家は北ノ庄城でお市の方とともに自害しました。
その直後、秀吉が小早川隆景に宛てた書状が残っています。

小早川隆景/wikipediaより引用
【意訳】東国は北条氏政、北国は上杉景勝まで、この筑前守(秀吉)の思いのままになった。毛利輝元殿も私の考えに従ってくださるなら、日本の統治は頼朝の時代以上のものになるでしょう
【原文】東国は氏政、北国は景勝まて筑前覚悟にまかせ候、毛利右馬頭殿秀吉存分次第に御覚悟なされ候へば、日本の治、頼朝以来これにはいかでか増すべき
出典:小早川隆景宛秀吉書状(『毛利家文書』)
「頼朝以来」とは、なんとも大袈裟な言葉ですよね。
そのため従来は「秀吉一流の大ボラ」と評されてきましたが、異なる見方もあります。
勝家攻めに際して上杉景勝に背後を突くよう求め、それが実際に機能していたこと。
北条氏政については、信雄・家康との良好な関係を前提に、東国が戦のない状態にあったこと。
こうした状況から、ある程度は根拠のある自己申告とも言えるというわけです。
興味深いのが、矢部健太郎氏の研究です。
秀吉はのちに「武家清華家」という最高格の家柄を創出しますが、そこに選ばれた八家は、一族の羽柴家と旧主家の織田家を除いて賤ヶ岳の前後に秀吉と同盟関係にあった顔ぶれとなります。
羽柴・織田・徳川・宇喜多・上杉・毛利・前田・小早川
この枠組みが秀吉と織田体制との決別となった。
賤ヶ岳前後の外交が、その後の豊臣政権に強く影響していったのです。
まとめ
最後に、ここまでの流れを整理しておきましょう。
①本能寺直後……天下取りの意識を示す同時代史料はない
②清須会議……争点は「名代」であって家督ではなく、秀吉は宿老の一人
③信長の葬儀後……信孝への書状は、決裂を避けたい弁明とも読める
④織田体制の崩壊……複数の対立軸が同時進行し、信孝の行動がクーデターの契機となる
⑤賤ヶ岳前後……上杉・毛利・徳川らとの同盟に立脚(信長にはなかった発想)
本能寺から賤ヶ岳までの一年足らずで、秀吉の立ち位置は急激に変わっていきました。
では、いつ天下を意識したのか。
秀吉の心情だけに答えは明確にはなりづらく、研究者たちもまだ検討が必要だとしています。
個人的には「公家におだてられて火がついたのでは?」と考えてしまいますが、それではあまりに秀吉を侮りすぎですかね。
【参考文献】
- 金子拓「秀吉は、本能寺の変後から全国統一をめざしていたのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』所収 洋泉社・歴史新書y)
- 藤井讓治『天下人の時代』日本近世の歴史1(吉川弘文館)
- 堀新編『秀吉の虚像と実像』(2016年7月 笠間書院)
- 尾下成敏「清須会議後の政治過程 豊臣政権の始期をめぐって」(『愛知県史研究』10号 2006年3月 愛知県)
- 加藤益幹「天正十年九月三日付惟住(丹羽)長秀宛柴田勝家書状について」(『愛知県史研究』10号 2006年3月 愛知県)
- 『多聞院日記』『金井文書』『南行雑録』『毛利家文書』『歴代古案』『惟任退治記』『明良洪範』
