「徳川家臣団」と聞いて、まず思い浮かぶのは?
おそらく酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の徳川四天王となりそうですが、家康を支えた家臣は当然彼らだけではありません。
天正十八年(1590年)に徳川家が関東へ移った際、1万石以上の領地を得た主要な家臣は40人。
最も多くの石高を得たのは12万石の井伊直政で、一方、家康の参謀として知られる本多正信は1万石でした。
なぜ、これほどの差がついたのか。

徳川家康/wikimedia commons
石高の大小に加え、それぞれが任された土地や役割にも目を向けながら、徳川家臣団40人の顔ぶれを整理してみましょう。
関東入国で1万石以上を得た40人とは
天正十八年(1590年)7月に小田原合戦で北条氏が降伏。
豊臣秀吉は家康に対して、その旧領である伊豆・相模・武蔵・上総・下総と上野・下野の一部、約250万石もの領地を与えることにしました。
これにより徳川家は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃という慣れ親しんだ5ヶ国から関東へ。
同年8月1日に江戸へ入った家康は、新たな領地を家臣たちに割り振っていきます。
菊地浩之氏の『徳川家臣団の系図』によると、関東入国時に1万石以上を得た主要な家臣は40人であり、そのうち三河出身者は29人で、全体の約73%を占めていました。
◆関東入国時に1万石以上を得た40人の出身
・三河譜代:16人
・松平一族:6人
・三河国衆:7人
・今川旧臣:4人
・武田旧臣:6人
・北条旧臣:1人
【参考】菊地浩之『徳川家臣団の系図』
ご覧のとおり、たしかに三河が中心ですが、同時に今川・武田・北条の旧臣も11人。
例えば、小田原合戦で豊臣・徳川勢と戦ったばかりの北条一族(北条氏勝・北条綱成の孫)も名を連ねていました。
ここであらためて断っておきますと、本記事の40人は「関東入国時に1万石以上を得た主要な家臣」を基準としており、1万石以上の領主すべてではありません。
また、伊賀越えで知られる服部半蔵正成や、武蔵比企で3000石を得た「槍半蔵」こと渡辺守綱は、一覧には登場していません。

渡辺守綱/wikipediaより引用
後世の知名度と、当時の石高は必ずしも一致しないためです。
ということで、まずは10万石以上の中心武将を見て参りましょう!
10万石以上:直政・忠勝・康政の3人
10万石以上の武将は3人だけで、なおかつ皆さま納得の人物だと思われます。
◆10万石以上(3人)
井伊直政:上野箕輪12万石
本多忠勝:上総大多喜10万石
榊原康政:上野館林10万石
筆頭の井伊直政は遠江の国衆出身。
ご存知『おんな城主 直虎』の井伊家御曹司であり、家康に仕えたのは天正三年(1575年)、三河譜代の忠勝や康政よりも後に家臣団へ加わりました。

井伊直政/wikipediaより引用
野田浩子氏は『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』で、直政が天正十六年(1588年)に従五位下侍従へ叙任され、他の家臣より高い格式にあったことが、12万石という石高に反映されたと指摘しています。
直政は天正十年(1582年)末から、武田旧臣の同心衆を加えた「井伊の赤備え」を率いて、格式だけでなく軍団の規模も大きい。
しかも、箕輪への配置には、秀吉の意向も働いていました。
直政に宛てた朱印状では、箕輪への入城に満足の意を示し、城の普請も指示しています。
一方、本多忠勝の領地は「上総大多喜10万石」として知られますが、関東入国当初に入ったのは同じ上総の万喜(まんぎ)城でした。

本多忠勝/wikimedia commons
研究者の柴裕之氏は著書『徳川家康 境界の領主から天下人へ』の中で、忠勝の万喜入城には秀吉の承諾が必要だったと説明しています。
なぜか?
というと、上総を取り上げられた安房里見氏への備えと、江戸湾の制海権を確保する狙いがあったのです。
忠勝が大多喜城へ移るのは、上総の引き渡しと整備が済んだ翌年のことでした。
榊原康政が入った館林は、下野につながる統治拠点。
箕輪と同じく、北関東から奥羽へ通じる東山道沿いに位置しています。
直政と康政は徳川の領国を守るだけでなく、豊臣政権の一員として東山道を押さえる役目も担っていたと考えられています。

榊原康政/wikipediaより引用
ひょっとして秀吉は四天王のことを殊更意識していた?
と思ってしまうかもしれませんが、それはまんざら見当違いでもなく、以下の記事のように
-

秀吉に「徳川四天王を遣わせい!」と叱られた家康|徳川内と世間の家格ギャップよ
続きを見る
重要視していたことがわかります。
では次に中堅どころを見て参りましょう!
3万〜4万5000石:主要な城を任された8人
上位3人に続くのは、3万〜4万5000石を得た8人です。
◆3万〜4万5000石(8人)
大久保忠世:相模小田原4万5000石|関東の西の守り
鳥居元忠:下総矢作4万石|東北方面の最前線
平岩親吉:上野厩橋3万3000石|もと甲府城代
酒井家次:下総臼井3万石|酒井忠次の嫡男
大須賀松平忠政:上総久留里3万石|榊原康政の長男
小笠原秀政:下総古河3万石|もと信濃松本城主
依田松平康真:上野藤岡3万石|佐久を平定した依田信蕃の子
奥平信昌:上野小幡3万石|長篠城の守将で家康の娘婿
4位の大久保忠世は4万5000石で、3位の榊原康政とは5万5000石もの差があり、秀吉も重視した上位3人が突出していたことがわかりますね。
菊地氏は『徳川十六将 伝説と実態』で、この差を小牧・長久手の戦いでの働きと結びつけて分析。
大久保・鳥居・平岩の3人は、二俣城や甲府などの守りに就き、同合戦には加わりませんでした。
戦場で秀吉に強い印象を残した直政・忠勝・康政とは、その点で違いがあったというのです。

大久保忠世/wikipediaより引用
ただし、大久保家は忠世だけでなく、嫡男の忠隣が2万石、弟の忠佐が5000石を別に得ていて、一族を合わせた領地はなかなか広大なものとなります。
鳥居元忠は、甲斐の郡内で徳川領国の東側の最前線を任されていた人物であり、後の関ヶ原で伏見城に散ったことで知られますね。
関東では、その経験を生かす形で下総矢作に置かれていました。
四天王の酒井忠次ではなく、嫡男の酒井家次が名を連ねているのは、忠次が天正十六年(1588年)に家督を譲っていたためです。

酒井忠次/wikipediaより引用
煎本増夫氏は『徳川家康家臣団の事典』で、この石高は5カ国時代の論功行賞を基準とし、忠次引退後の酒井家の位置づけを示していると指摘。
家次が臼井に配置されたのは、穴山武田家を継いだ家康の五男・武田信吉を後見させる狙いもあったようです。
家次は穴山家と縁戚関係にありました。
また、榊原康政の長男である大須賀忠政は、大須賀康高の養子となっていた人物で、関東入国時はまだ10歳でしたが、上総久留里で3万石を得ています。
血筋だけで考えると実は榊原康政は13万石となりますね!
まぁ、武家は当主だけでなく一家単位で考えるものですから、あまり当てにはならない見方ですが。

大須賀康高/wikipediaより引用
小笠原秀政には、天正十三年(1585年)、石川数正の出奔に同行して秀吉のもとへ移った経歴があります。
その後、秀吉の命で家康の孫娘(信康の娘)を妻に迎え、関東入国では3万石を与えられました。
華麗なる出戻りと言えましょうか。
奥平信昌は長篠城を守り抜いた三河の国衆で、家康の長女・亀姫の夫として、あるいは鳥居強右衛門の主君として有名です。
そんな信昌の石高は資料により見解が異なっており、2万石あるいは3万石とされます。
長篠の戦いにおける働きや、家康の婿という立場を考えると、いささか少ない印象かもしれません。

奥平信昌/wikimedia commons
では次に2万石クラスの武将たちを見て参りましょう。
9人います。
2万石:軍事と領国経営を担った9人
2万石を得た9人にも、一門や譜代、各地の国衆が並びます。
◆2万石(9人)
久松松平康元:下総関宿|家康の異父弟
石川康通:上総鳴戸|石川家成の嫡男
本多康重:上野白井|田原城主だった本多広孝の子
松井松平康重:武蔵騎西|三枚橋城主だった松井松平康親の子
高力清長:武蔵岩槻|三河三奉行の一人
大久保忠隣:武蔵羽生|大久保忠世の嫡男
内藤家長:上総佐貫|三河譜代
牧野康成:上野大胡|東三河・牛久保の国衆
菅沼定利:上野吉井|信濃伊那を任された国衆
久松松平康元は、家康の母・於大の方が再婚した久松俊勝との間に生まれた子で、家康の異父弟にあたりますね。
それだけに江戸へつながる水運の要地・関宿に配置されたのでしょう。

於大の方/wikipediaより引用
高力清長(こうりき きよなが)は、本多重次・天野康景とともに「三河三奉行」に数えられた人物。
三河一向一揆の後、仏像や経巻を拾い集めて持ち主に返したことから「仏高力」と呼ばれます。
なかなか興味深い異名ですが、本人の肖像画がないのが残念。
大久保忠隣は、前述の通り、父・忠世とは別に武蔵羽生で2万石を獲得しています。
父子合わせて6万5000石ですから、徳川家臣の中ではかなりの高待遇でしょう。
内藤家長は、石川数正の出奔後、その配下の騎馬80騎を預けられた重臣であり、関東では江戸湾の対岸にあたる上総佐貫を任されました。
本多康重は、父の本多広孝が三河譜代でありながら、田原城を本拠とする国衆的な存在とされています。
関東入国では隠居料として1万2500石を得ていましたので、康重の2万石と合わせると本多広孝家は3万石余りを領していたことになります。
牧野康成と菅沼定利も、三河に根を張っていた国衆の家です。
家康はこうした国衆の者たちも家臣団に組み込み、関東では信濃国衆と共に上野の要地へ配置しました。
では次に残る20人、1万〜1万3000石の層を見て参りましょう。
1万〜1万3000石:本多正信や伊奈忠次も
1万石の層には、家康の側近として知られる有名武将も含まれます。
◆1万〜1万3000石(20人)
久野宗能:下総国内1万3000石(1万石とも)
諏訪頼水:武蔵奈良梨1万2000石
岡部長盛:下総山崎1万2000石
酒井重忠:武蔵川越1万石
本多正信:相模甘縄1万石
内藤信成:伊豆韮山1万石
伊奈忠次:武蔵鴻巣1万石
三浦義次:下総佐倉1万石
竹谷松平家清:武蔵八幡山1万石
長沢松平康直:武蔵深谷1万石
桜井松平家広:武蔵松山1万石
深溝松平家忠:武蔵忍1万石
大給松平家乗:上野那波1万石
戸田松平康長:武蔵東方1万石
菅沼定盈:上野阿保1万石
菅沼定政:下総守谷1万石
小笠原信嶺:武蔵本庄1万石
保科正光:下総多古1万石
木曾義利:下総蘆戸1万石
北条氏勝:下総岩富1万石
最も名を知られるのが、やはり本多正信でしょう。

本多正信/wikimedia commons
三河一向一揆で家康に背き、一時は諸国を流浪。
帰参後は統治や外交の実務を担う、家康の側近となりました。
本能寺の変後の甲斐・信濃攻略では、奉行として武田旧臣への知行宛行状を数十通も発給し、長宗我部氏や里見氏への外交文書も手がけているほどです。
大河ドラマでも家康にアドバイスをする存在ながら、関東入国で得たのは相模甘縄(玉縄)の1万石でしかなく、井伊直政の12万石と比べて大きな開きがありますよね。
なぜか?
確かに甘縄は、北条氏勝の一族が代々守ってきた重要な拠点でした。
北条綱成の孫にあたる氏勝は、小田原合戦で山中城を守った後、甘縄城へ戻り、本多忠勝の仲介で家康に降伏。
その氏勝も、下総岩富では本多正信と同じ1万石を得ており、なんだかバランスがおかしいようにも感じてしまいそうですね。
伊奈忠次も、石高だけでは働きを測れない人物です。
柴氏によれば、忠次は大久保長安らとともに「代官頭」に取り立てられ、江戸へと流れる大河川の工事という一大事業を請け負っていました。
その割に1万石だけ?
と拍子抜けしそうですが、実際は武蔵小室の陣屋を拠点に、家康直轄領の検地や蔵入地の支配、家臣への知行割を担っています。
1万石の領主でありながら、関東支配の実務を広く任されていたのであり、石高だけでは計れない実力を評価されていたのでしょう。
内藤信成の伊豆韮山は、西から関東へ入る玄関口。
長篠の戦いで織田信長にも武勇を激賞された信成が、その守りに置かれています。
深溝松平家忠は、同時代の記録として重視される『家忠日記』を書き残した人物であり、関東では武蔵忍に1万石を与えられました。
若い一族も名を連ねます。
家康の甥にあたる桜井松平家広は、14歳で武蔵松山1万石を獲得。
また、諏訪頼水・小笠原信嶺・保科正光・木曽義利ら信濃の名門も、故郷を離れ、関東各地へ1万石前後で配置されています。
石高だけでは家康の評価はわからない
40人の領地と配置を見てどんな印象を抱かれたでしょうか?
関東移封の知行割が、単なる功績順の順位表ではないことが浮かんでくると思います。
従来の家格や軍団の規模、城や交通路の重要性、さらには秀吉の関東・奥羽統治構想も関わっていました。

豊臣秀吉/wikimedia commons
10万石以上を得た直政・忠勝・康政は、大きな軍団を率い、領国の外縁や主要な交通路を押さえています。
一門や縁戚も各地に配置され、酒井家のように当主の代替わりが領地の配分を左右する例もあります。
一方、本多正信や伊奈忠次は1万石でも、行政や外交の重要な役割を担いました。
正信はのちに徳川秀忠に付けられ、息子の正純と共に政権の中枢で働くことになります。
石高は家臣の立場を知る重要な数字ですが、それだけで家康からの信頼や政治的な影響力を測ることはできません。
井伊直政の12万石と本多正信の1万石――その差は「どちらが高く評価されたか」だけでなく、「何が任されていたか」を考えると徳川家臣団の姿が浮かんでくるのではないでしょうか。
なお、関ヶ原の戦いによってまた石高は動き、例えば四天王については以下の記事に詳細がございますのでよろしければ併せてご覧ください。
-

徳川四天王で最も家康に評価されたのは誰だ?関ヶ原後に18万石を得た男
続きを見る
本多正信と伊奈忠次、奥平信昌の生涯も、以下に関連記事がございます。
-

本多正信の生涯|家康が頼りにした側近は頭脳明晰で敗者に優しい平凡武将
続きを見る
-

伊奈忠次の生涯|家康に江戸の街作りを託され大規模な治水事業に挑む
続きを見る
-

奥平信昌の生涯|武田と徳川に挟まれた国衆が長篠の勝利を引き寄せ大名へ出世
続きを見る
参考文献
- 菊地浩之『徳川家臣団の系図』(2020年1月 KADOKAWA)
- 菊地浩之『徳川十六将 伝説と実態』(2022年12月 KADOKAWA)
- 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(2015年1月 東京堂出版)
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)
- 野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(2017年9月 戎光祥出版)





