第四次川中島の戦い

武田・上杉家

第四次川中島の戦い1561年|一騎打ちがなくても最大の激戦になった理由

2024/09/08

戦国時代の頂上決戦と言えば、皆様、どの戦いを思い浮かべるでしょう?

【長篠の戦い】や【山崎の戦い】あるいは【小牧・長久手の戦い】に【関ヶ原の戦い】など。

日本史に影響を与えた歴史的意義を考えると、やはり三英傑(信長・秀吉・家康)の戦いが候補に挙がってきましょう。

しかし、戦国ロマンを重視して一つ挙げるとすれば?

【第四次川中島の戦い】も候補の一つに数えても良いのではないでしょうか。

永禄4年(1561年)9月9日から10日かけて戦闘が始まったとされますが、とにかくその特徴がアツい。

武田信玄と上杉謙信が真正面から激突

・計5回行われたという川中島の戦いの中で最も激しかった

・両軍の死傷者も相当な数にのぼる

・信玄にせよ謙信にせよ「城」をめぐって緻密な戦術が張り巡らされていた

「人は城、人は石垣、人は堀」なんて言葉があるせいか。

信玄は「城に興味がない」なんて思われたりしますが、そんなことは1ミリもなく、むしろ川中島の戦いは城の奪い合いと言えます。

というか【すべての合戦は城(領地)の奪い合い】が大前提にあり、一見、城とは関係のないように見える戦いでも、数多の城が密接に関わっているものです。

それは第一次~第三次川中島の戦いについても同様のことが当てはまり、以下の記事でご確認いただくとして、

第一次川中島の戦い
第一次川中島の戦い ポイントは塩田城~信玄も謙信も城を中心に動いていた

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川中島古戦場史跡公園の信玄謙信一騎討ちの像
第二次川中島の戦い1555年|たった1つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右した

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第三次川中島の戦い
第三次川中島の戦い1557年|真田の調略と信玄の緻密な攻城戦術に注目だ

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ともかく今回は第四次川中島の戦いを振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 


善光寺平の統治者として政治的支配を進める信玄

まずは【第三次川中島の戦い】から簡単におさらいさせてください。

信玄と謙信の戦いは、力が拮抗しており、両者、詰め将棋のような緻密な攻防を続けたため、派手さからは遠い展開となっておりました。

信玄が調略しまくる

謙信ガマン
↓↓
信玄調略しまくる

謙信キレる
↓↓
信玄逃げる

謙信全力で追う
↓↓
信玄全力で逃げる

謙信オトナの対応であきらめる
↓↓
信玄戻ってきてまたちょっかい出す

謙信待ち構えていて撃退
↓↓
信玄逃げる

そう簡単に全面戦争とはならないんですね。

ただし、双方、ヤル気がなかったワケじゃありません。

【第三次川中島の戦い】で信玄は、和睦の条件として、風前の灯火だった足利幕府に掛け合い【信濃守】の称号を購入……おっと、手に入れました。

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善光寺本堂。善光寺平の政治経済の中心地で、古くから善光寺の支配権を巡って多くの争いがありました

「自称も可能な名ばかりの役職」でおなじみの守護職ですが、「将軍様に信濃守護職頂いちゃいました~」と自慢してみたり、「信濃は俺様の領土!」とゴーマンかましてみたり。

北信濃の国人衆に対してだけでなく、国内外に広く宣伝しまくって「なんか武田さんちの信濃が上杉に侵略されてるらしいよ」というステマの垂れ流しに信濃守の称号を存分に活用していたのです。

このように武田信玄は善光寺平の新しい統治者としての政治的支配も着々と進めておりました。

では軍事的支配は、どのように発展させたのでしょうか?

 


第四次川中島の戦い 直前の様相は?

これまで武田家では「謙信の留守を狙え!」という大戦略を重視。

謙信が北からやってきたら、遥か南へ退却という戦略を取っていました。

ところが第三次川中島の戦いでは謙信の大掛かりな逆襲に遭ってしまい、北信濃の諸城に予想外の損害を受けてしまいます。

また、謙信が来たら退却という戦略も一部の武田方の武将にはいささか納得がいかなかったようで。

「士気が落ちる」

「戦わせろ!」

「それでも男ですか!軟弱者!」

「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」

おっと、いつのまにかガンダム名言集に……要は、戦いたくてウズウズしている武将がちらほら出てきたのです。

もちろん武田信玄自身は兵力の温存こそが最大の勝機であることは分かっています。

一方で少し下に見ていた上杉謙信が【関東管領】に就任し、「関東切り取り次第」というお墨付きを得たことに対しての焦りも徐々にでてきていました。

 

海津城はスターウォーズに出てきた巨大な球体だ

こうした情勢の中。

最前線支援の単なる補給地点という目的だけでなく、善光寺平の新しい政治的および軍事的統治のシンボルとして海津城が築城されます。

松代城址に残る海津城の碑

「政治的および軍事的統治のシンボル」

という要件を満たすには川中島の要衝に位置し、なおかつ恒久的なものでなくてはなりません。

海津城を名実ともに政治的拠点にするには、信玄に近い譜代の家臣を置き、武田家直轄の城にしなくてはならないんですね。

このような方針は、信玄にはすでに実績がありました。

現在の松本市一帯を支配下に入れたとき、深志城を築城していたのです。

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おなじみの松本城。この場所に「深志城」がありました

今では面影は残っておりませんが、現存の松本城の場所に築城され、町割りまで新たに施した「平城」だったようです。

平城は、織田、豊臣、徳川時代のものでもなければ、戦国後期のものでもなかったんですね。

すでにこの時代からありました。

 


松代地方そのものが天然の要塞だった

通常、政治的支配を目論むための城ならば、川中島を通る「北国街道」を押さえる場所か、善光寺付近に城を構えるのが適しているでしょう。

しかし依然として国境線は犀川であり、川中島のど真ん中に城を築く危険はおかせません。

そこで信玄が選んだ地は、北国街道の脇街道が通る松代方面の平野部でした。

犀川はよく氾濫したようで、脇街道といっても人や物資の往来は海津城築城以前からこの地方で頻繁に使われていたことが推察されます。

また、この地域には以前から東条氏、寺尾氏、清野氏、香坂氏など、複数の北信濃国人衆が館を構えていましたので、ある程度の町が既にあったでしょう。

城を築いて武田の政庁を置くにはうってつけの場所だったのです。

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海津城全景。松代地方は雨飾城や鞍骨城も含む巨大な複合城郭ともいえます/©2015Google,ZENRIN

そして今回の海津城も「平城」です。

しかし海津城周辺の地図を見れば、平城といっても一目瞭然の要害なのがお分かり頂けるでしょうか。

三方を高い山に囲まれて、しかも山々には雨飾城や鞍骨城といった堅城を外郭とし、開けた方面には千曲川が攻城側の行く手を遮るのです。

山に囲まれた平野部には町割りに適度な広さを得られます。

さらに裏山からの峠越えで、小県郡の真田本城方面につながる補給と後詰めのルートがあり、袋のネズミになる心配もありません。

このように海津城――というより松代地方そのものが天然の要塞であり、政治、ビジネス、人々の生活、そして軍事まですべてを備えた巨大な要塞、まさに「デス・スター」となっていたのです。

ちなみに戦時中も、この地に本土決戦の最後の拠点を建設しています。

興味のある方は【松代大本営跡】でググってみましょう。

 

海津城 名前の由来は山本勘助?

海津城は「海のような千曲川」に沿って築城されたことから「海津」と命名されたと言われています。

また山本勘助の築城図「甲斐図」から命名されたとも言われ、城名の由来には諸説あります。

いずれにしろ築城当時は千曲川の流れを海津城の堀として利用した川沿いの「平城」であったこと。

また築城には山本勘助が関わっていたことが分かります。

現在は江戸時代の真田家の松代藩時代を経て「松代城」として整備が進み、千曲川の流れも変わってしまって戦国時代の「海津城」の趣きは全くありません。

しかし山城ばかりの善光寺平の一角に平城がぽつりと立っている不自然さ、そし海津城を中心に町割りをして新都市を建設を目論んだ計画的な築城だったことに海津城の魅力があり、夢の新都市構想の妄想も広がるのです。

 

武田流築城術で重要な縄張り「丸馬出」

さて海津城の構造ですが、武田流築城術で重要な縄張りの一つ「丸馬出(まるうまだし)」の存在が確認されています。

丸馬出とは、前面で防衛しつつ両脇から攻撃も繰り出せるという、敵の優勢な攻撃が予想される地点に配置するには持ってこいの防御施設です。

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しかし、海津城はもっと大きな規模で見なくては城の本質を、そして諸説ありまくりな第四次川中島の戦いの行方さえも見誤ってしまいます。

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松前城の想像図。千曲川を背にした向きは海津城時代と同じです。手前に丸馬出の名残り「三日月堀(みかづきぼり)」が見えます

海津城築城当時は千曲川を天然の水堀として川に沿って築城しました。

ゆえに海津城の大手門は千曲川の反対側、川中島の平野に対して背を向けて築城されています。

後の松代城でも同じです。

つまり川中島方面に軍勢を出撃させるには城の脇をくるっと旋回させ、数カ所ある千曲川の渡しを通過して川中島に出ることになります。

これは新府城の丸馬出です。前面の三日月堀は廃墟になっても残っています

これは新府城の丸馬出です。前面の三日月堀は廃墟になっても残っています

勘のいい城マニアならもうお気づきでしょう。

そうです、海津城そのものが「馬出」の構造なのです。

山に囲まれた松代の町を一つの巨大な城塞と考えると海津城は一つの曲輪「馬出」でしかないのです。

真偽が未だ定まらない『甲陽軍鑑』において山本勘助が「馬出」について力説する場面があります。

海津城を設計したのは山本勘助とも言われていますが、これも諸説あります。

海津城は「香坂城」を改修しただけという説もあります。

いずれにせよ山本勘助が海津城という巨大な馬出しの考案に関わったことは間違いないでしょう。

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上杉の想定侵攻ルート(紫線)に対する海津城の支城ネットワーク(赤線)と後詰めルート(青線)/©2015Google,ZENRIN

 

海津城を本城とし複数の支城で防衛戦線

次に軍事戦略の観点から海津城を見てみましょう。

この海津城を本城として武田信玄は境目の城を支城としてそのネットワークに取り込みます。

川中島のはるか北東、千曲川西岸の長沼城を突出した最前線の橋頭堡として活用。

この長沼城は第三次川中島の戦いにも出てきましたが、千曲川の渡しを管理している城で、ここを通って野尻湖方面に向かうともうそこは越後です。

また飯山城方面への押さえとしても機能しました。

一方、依然として国境線である犀川の南部、川中島一帯には【第二次川中島の戦い】で信玄の本陣となった「大堀館」や「広田城」「横田城」という陣所レベルの小規模な城があります。

これらが犀川の最前線として、また塩崎城や南方の真田本城方面は後詰めのルートとして、海津城を取り囲むように機能していました。

このように信玄は犀川方面では北国街道を川中島の支城で押さえ、北国脇街道は長沼城から雨飾城にかけて複数の城で押さえます。

これらの本城、大規模な支援基地として海津城を新たに加えたのです。

 

桶狭間で今が義元が討たれ翌年、謙信が関東管領に

「海津城ができれば、ようやく両軍激突ですね! さっさとお願いしますよ!」

と進む前に、我々はこの戦いの直前に起こった戦国時代の2つのビッグイベントを知っておかなければなりません。

1つは永禄3年(1560年)5月の【桶狭間の戦い】。

武田信玄の盟友・今川義元が織田信長に討たれました。

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そしてもう1つが西暦永禄4年(1561年)閏3月、上杉謙信の関東管領就任です。

第四次川中島の戦いはその後の永禄4年(1561年)9月に起こります。

何が言いたいのか?

と申しますと、武田・上杉両雄の関心は、すでに北信濃にはなかったということです……って、えええっ!

武田信玄の信濃戦略は、三国同盟によって南の駿河と東の関東地方を安全圏にして北上していきました。

ところが今川義元が討たれたことにより、今川家とその領国である駿河、遠江、三河の3カ国が不安定になってしまいます。

他人様の家の不安定が何より大好き!

それをエサに北信濃を調略しまくった我らが信玄公が、駿遠三(静岡~愛知)の動揺に無関心でいられるはずがありません。

「これはイケる!」と判断したのは間違いないでしょう。

もちろん、その後、今川家から独立した松平元康(家康)が尾張の織田信長と同盟を結んだ事実もつかんでいます。

これは三河の松平が西側の尾張ではなく、反転して「(東側の)遠江を狙狙っちゃうよ!」と宣言しているようなものです。

 

北信濃での存在感は「目的」から「手段」に変遷していった

このボーナスステージに乗り遅れてたまるかと考えるのが我らが信玄公です。

「俺様って実は寒いのニガテなのよ」と言ったかどうかは分かりませんが、この時期に武田家の積極侵攻策を北から南に方針転換をしたのは間違いありません。

つまりもうこれ以上、越後を目指して北進する理由もなければ野望もなくなったのです。

今回の海津城を中心とした支城ネットワークをもう一度ご覧ください。

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上杉の想定侵攻ルート(紫線)に対する海津城の支城ネットワーク(赤線)と後詰めルート(青線)/©2015Google,ZENRIN

長沼城を突出させて越後方面の橋頭堡にしていますが、これはむしろ千曲川渡河の管理に重きを置いていて、いざというとき籠城戦が可能な山城でもありません。

第二次川中島の戦いで旭山城を奪取したように、敵地のいやらしいところに橋頭堡を築く「攻めの姿勢」は見せておらず、今回の信玄は完全に守りに入っているのです。

一方、上杉謙信にも転機が訪れます。

北条氏康に追われ、かねてより越後で庇護していた上杉憲政から関東管領の職を譲り受けます。

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これはイコール関東の統治を足利幕府によって許された、すなわち「直ちに関東を平定せよ。YOU、北条を討っちゃいなYO!」ということでもあります。

上杉謙信も既に関心は関東平野へと傾いていたのです。

このような状況で北信濃の戦略変更は両雄にとって必然でした。

善光寺平への関心は、敵を排除して支配下に置くという当初の「目的」から、主戦略の目的(武田=駿河/上杉=関東)を早期に達成するための「手段」の一つ。すなわちお互いに「自陣の後背地を固める」戦略に変わっていきます。

信玄は侵入者を排除してこの地域に武田家の政治的安定をもたらすこと。

そして謙信は相手に手痛い一撃を与えて越後侵入の代償が高くつくことを思い知らせることです。

 

第四次川中島の戦いは割ヶ嶽城での攻城戦から

上杉謙信は幕府から関東管領の内示をもらい、上杉憲政を担いで関東に出兵して行きます。

北条氏康配下の関東諸城を攻略しつつ、関東の国人衆が次々と謙信の下へ加わり、軍勢は10万まで膨らんだと言われています。しまいには相模まで侵入して小田原城を包囲。もう完全に祭り状態です。

最大の目的は鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀式だったようですが、北条氏康もたまらず、今川家と武田家に加勢を求めます。

さすがの武田信玄も謙信の大軍勢に焦りを覚えたか、上野国方面(群馬県)に兵を出して北条氏康に加勢、同時に川中島から越後の春日山城方面へ伺う動きを見せて遠征先で祭り状態の上杉謙信に揺さぶりを掛けました。

前年の今川義元に続き、ここで北条氏康までも亡き者になってしまっては信玄の戦略は根本的に崩れてしまいます。

守りに入りかけた信玄は謙信を関東より撤退させるため、全力で越後国境を脅かす動きを見せます。

それが割ケ嶽城(わりがだけじょう)の攻城です。

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割ケ嶽城は野尻湖方面と飯山城方面を結ぶ要衝に位置する山城です。この割ケ嶽城を奪われると飯山城が孤立するばかりか、野尻湖方面から一直線に春日山城まで侵攻できます/©2015Google,ZENRIN

この割ケ嶽城を武田方が陥落させます。詳しい記録は残っていませんが、そこまでして欲しかったかというほどの激戦だったようです。

これで今回も越後国中に警戒警報が鳴り響きます。

上杉謙信は関心が関東に行ってしまったとはいえ、前回果たせなかった武田信玄との決戦の必要性を感じざるを得なかったでしょう。

祭り状態から覚めた謙信は越後に戻り、川中島での戦の準備に取り掛かります。

最近では上杉謙信の妻女山布陣や啄木鳥の戦法、武田信玄の茶臼山布陣や一騎打ちなどが否定され、予期しなかった遭遇戦だったとも言われて、もう何を頼りにしていいのか分からないのが第四次川中島の戦いを取り巻く現状です。

私の妄想も振り回されっぱなしです。

ただ武田家の副将ともいうべき武田信繁や重臣の諸角豊後守など。

これまでにない譜代クラスの武将が戦死しているのは事実で、両軍の激戦があったことだけは間違いないでしょう。

まとめるのに非常に困るのですが、ここは城を中心に考察していきましょう。

城取り合戦はそのまま領土の奪い合いに直結しますので、攻城戦のセオリーから追ってみると、武田・上杉両軍の狙いもかなり見えてきます。

 

上杉軍の妻女山布陣 実はセオリー通りだった!?

上杉謙信の「妻女山(斎場山)布陣」説によると、越後を出陣した謙信は割ケ嶽城を奪取後、善光寺方面、横山城や旭山城に予備兵を割きつつ、陥落させた長沼城付近で千曲川を渡ります。

どうも北国街道の脇街道を進軍したようです。

そしてそのまま南下して雨飾城の脇の峠を越えて松代方面に侵入し、海津城の大手門をかすめるように通過して妻女山に向かったとされています。

海津城代の高坂弾正昌信は上杉の大軍を見て反撃よりも海津城籠城を選びます。

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上杉謙信侵攻ルート(妻女山布陣説)/©2015Google,ZENRIN

謙信の妻女山布陣については

「敵地奥深くに、しかも妻女山というたいして高くない山に本陣を構えるなんて血迷っている」

「あったとしても謙信の天才的なひらめきがなんちゃら~」

とちょっとあり得ないとか、クレイジーな天才肌のように言われています。

しかし、海津城の位置やその他の支城や補給のネットワークを考えれば、妻女山布陣は、血迷ったどころか、天才的ひらめきでもなく、一般的な攻城戦術の一つ「付け城」戦術に該当します。

ただし理にかなっているとはいえ、妻女山という敵地のど真ん中に布陣するほどの大胆な計画と勇気ある実行力は、やはり上杉謙信でなればできなかったでしょう。

 

妻女山に布陣すれば後詰めの武田本隊が来る

上杉謙信の戦いの目的は武田本隊との決戦です。

その決戦を導くために海津城を兵糧攻め(の体で布陣)したというのは戦術的には十分あり得る布陣です。

今までの城郭戦では上杉謙信がやって来ると武田本隊は右翼も左翼も撤退し、後詰めの気配は一切見せませんでした。

しかし、今回この海津城には武田の直臣にして元カレ……おっと、高坂弾正昌信(春日虎綱)が城代で入っています。

武田信玄の能力が抜群のため、つい忘れられがちですが、戦国時代の大名家は武田家も上杉家も、評定で親戚衆や譜代家臣の同意がなければ何もできません。

武田家を共に運営する家老格の一人を見捨てて後詰めしないなんてことは、この時代の政治的にも戦略的にも常識的にありえません。

妻女山に布陣していれば、必ず後詰めの武田本隊がやってきます。

上杉謙信はそれを叩けばいいのです。

一見、完璧に見える海津城を中心とした巨大要塞の欠点はこの「武田家直轄の城」という城の性格にあったのです。

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謙信は海津城をスルー!後ろの山は雨飾城

実際、謙信は海津城の正面まで来て、攻撃も仕掛けずに城の正面を通過して妻女山に向かっていっています。

おそらく海津城を本気で叩きたければ、武田の後詰めが来る前に攻城戦に移るほうが得策ですし、兵力差から行ってもできたでしょう。

しかし謙信は後詰めのルートを押さえる方を選びました。

後詰めのルートは塩崎城方面と峠越えの真田本城方面の2つが考えられますが、この2つのルートを見渡せて、かつ攻撃を仕掛けられる最良の場所がこの妻女山なのです。

また犀川の北部の旭山城には数千の兵を入れていたと言われています。

これで武田方が善光寺方面に押し出してきても、旭山城を陥落させない限り、それより北には向かえません。

旭山城は第二次川中島の戦いで武田方が見せたように攻めにくい城です。これを上杉方が抑えている限り、善光寺方面は安泰なのです。

圧力を加えたものは必ず元に戻そうという力が働きます。

この「元に戻そう」という力は確実に予測でき、極端な圧力は予測不能な相手の動きを予測可能な動きにすることができます。

これに備えるのが戦略だと昔の偉い戦略家が言っていますね。

ある戦略に敵を落とし込むにはまず極端な圧力をかけることが重要です。

そういった意味で、上杉謙信が敵のど真ん中、妻女山に橋頭堡を築くという極端な行為は、元に戻そうとする力が働き、すなわち後詰めが動く、と容易に予測できます。

謙信はこれを叩く策だけを考えればいいのです。

そう考えると武田本隊と決戦を挑みたい謙信が妻女山に布陣することは捨てがたい一手だと思います。

 

妻女山に布陣はない説で考察してみると

では「妻女山布陣はなかった」説で考えるとどうでしょうか。

越後からやってきた上杉謙信はおそらくいつものように犀川を最前線にして、善光寺の横山城か旭山城に布陣したことでしょう。

そして武田の本隊が川中島に現れなければ、第三次川中島の戦いのように川中島の南部までほぼ抵抗を受けることなく自由に行き来することが可能です。

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正面から激突! 図だけを見ると、誰得?な展開でもあります/©2015Google,ZENRIN

しかし、以前であれば自由に行き来できたはずが、今回は迅速な後詰めが可能な海津城という武田直轄の基地があります。

「妻女山布陣はなかった」説というのは、

①川中島中心部の「大堀館」や「広田城」で予想外の抵抗を受け

②さらに海津城からの援軍が参加し

③最終的に塩崎城や海津城の奥から遅れてやってきた武田の本隊が加わって激戦になった

という内容ですが、実はその流れも戦いの経過から考えて一理あります。

あやしげな信玄の茶臼山布陣や啄木鳥の戦法を否定しつつ、武田の分隊が遅れた理由にも説明がつきます。

最前線の大堀館などに対しては海津城が後詰せねばならないという責任があったはずで、上杉謙信は支城ネットワークに打撃を加えることで海津城兵のみならず武田本隊をおびき寄せることも可能と考えたでしょう。

しかし一方で、この大堀館がどこまで機能していたかは誰にも分かりません。

上杉謙信の戦略はあくまで武田本隊との決戦です。

支城ネットワークを破壊して、海津城を攻めるにしても、先ほど海津城の縄張りをみてきた通り、川中島方面からでは、千曲川が邪魔をして攻城戦にもなりません。

どこかで千曲川を渡河しなければならず、渡河中に攻撃を受けない場所を考えると、北方の長沼城付近が最も安全でしょう。

そうなると渡河すべきは千曲川で、犀川をわざわざ渡河する理由がちょっと分かりませんね。

結果的に武田本隊との決戦に持ち込めたとはいえ、やや偶然の要素が強すぎる気がします。

まぁ、戦国時代とはいえこの死傷者の多さから偶発的な衝突であったことも否定できませんが。

 

茶臼山に信玄の本陣があると見せかけていただけかも

『武田信玄は茶臼山に布陣したのか?』

これも真偽が定まらないナゾの一つです。

あんな標高の高い場所に万に及ぶ兵を駐屯できるわけがないと言うのはおっしゃる通りですが、後詰めでやってきた武田信玄は、謙信の妻女山布陣を聞いて、この茶臼山に陣を構築したと云われています。

理由は、海津城後詰めルートをすべて遮断されたからです。

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善光寺方面をけん制したければ旭山城を奪うか大堀館に布陣すべきで、茶臼山である必要はないですね/©2015Google,ZENRIN

塩崎城から海津城へ向かうルートは最短ですが、妻女山のふもとを通過しなくてはいけないので即、却下です。

また、真田の小県方面から峠越えで入るルートも妻女山方面から簡単に側面を突くことができ安全は保障できません。

そうなると「妻女山布陣」説であれば、信玄の後詰めルートは川中島を横断して海津城北部の渡しから千曲川を渡河するしかない。

その最短ルートかつ支城ネットワークに守られたルートが茶臼山方面からの横断です。

実際は塩崎城から向かう途中に茶臼山のふもとを通過しただけかもしれません。

茶臼山に信玄の本陣があるとみせかけて本人は移動していた可能性もあります。

今でもはっきりしたことが分からないということに、むしろ総大将の居場所は極秘中の極秘だったことが分かりますね。何の答えにもなっていませんが。

 

後詰を成功させれば勝ち! 典型例は前田利家の末森城

この信玄の川中島横断には、妻女山を千曲川の対岸で包囲するように武田諸将の部隊を配置して上杉謙信の強襲に備えたと云われています。

謙信としては千載一遇のチャンスですが、千曲川を挟んだ武田方の防備が完璧でした。

結局、信玄は海津城に無事、入城し後詰め成功となります。

城郭戦のセオリーとして、後詰めが成功した時点で戦は終わりです。

単純に勝敗をつけるのは難しいですが、目的を達した方を「勝ち」とするならば、この後詰め戦は信玄の勝利です。

後年の【末森城の戦い】が分かりやすい例なのですが、前田利家が末森城の後詰めを成功させた時点で、佐々成政は城の包囲を解いて富山城に帰国。その後、降伏しています。

末森城の戦い
末森城の戦い1584年|前田家にとっての「桶狭間」利家は成政から城を守れるか

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今回も武田信玄が海津城の後詰めに成功した時点で、謙信は荷物をまとめて帰国しなくてはなりません。

しかし謙信はそれから10日間も妻女山より軍を動かしませんでした。

ここで慌てないところがさすが謙信といったところでしょうか。

というか「あっさり後詰め許してんじゃねえよ」という謙信のお茶目な側面も垣間見れますね。

 

さすがに啄木鳥の戦法はない 別働隊の目的は別

ここで妻女山布陣説、なかった説のどちらの説であっても、明確に否定できるのが武田方の

【啄木鳥(きつつき)の戦法】

です。

山本勘助の献策によるものとされていて、この辺からもちょっと怪しげな雰囲気をかもし出していますが、それだけで否定するつもりはありません。

すでに様々なところで指摘されているように、本隊よりも多い1万人規模の兵士を夜陰とはいえ切り立った崖のような山の尾根を伝わらせて妻女山を攻撃させることは物理的に困難です。

また、こういう奇策は劣勢側が少数精鋭でやるものです。

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謙信が川中島のどのルートで撤退したか分かっていませんが、武田の支城ネットワークを避けて進んだことは考えられます/©2015Google,ZENRIN

しかし武田の別働隊が、啄木鳥の戦法という奇襲目的ではなかったと考えると、少し現実味を帯びてきます。

信玄の海津城後詰めが成功したこの時点で、次に「謙信はどのルートから撤退するか?」もしくは「撤退させたいか?」ということに関心が移ります。

それが分かれば撤退中の上杉方を捕捉せん滅、もしくは妻女山を包囲という戦略も立てられます。

予測できる謙信の撤退ルートは川中島を縦断する北国街道か、松代方面、海津城の正面を通過する北国脇街道のどちらかです。

このうち絶対に通らせたくないのが松代方面の脇街道を抜けるルートでした。

 

武田軍は妻女山付近に付け城を設置せねばならない事情

第三次川中島の戦いの時は、海津城の前身・香坂城に対して謙信が城下の街ごと放火しています。

仮に謙信が脇街道を通るようであれば、同じような被害を受けることは十分予想される。

ですので、その防衛のため妻女山付近に軍勢を送り出し、付け城戦術を行う必要があります。

妻女山布陣といっても謙信は野宿をしているわけではありません。

本陣を構える際は、周辺に堀や土塁を構築し、櫓や小屋も建てます。妻女山も長い滞陣の結果、既に城郭化されています。

これに対して、武田方が鞍骨城やその山のふもと、北国脇街道に通じる道に軍を布陣させるのは当然の戦術。

おそらくこれらの防衛部隊が、いつのまにか「啄木鳥の戦法」という荒唐無稽な戦法にすり替わってしまったのではないでしょうか。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20150208-13

啄木鳥というより、松代防衛部隊が千曲川渡河に手間取っただけ?/©2015Google,ZENRIN

もしくは妻女山から降りて北国街道に向かった上杉謙信を追って、急いで海津城を出陣した部隊の一部、妻女山付近の渡しから渡河した部隊を啄木鳥部隊とした可能性もあります。

海津城から川中島方面に出るにはどこかで千曲川を渡らなければいけません。万を超える軍勢を一ヶ所の渡しから渡河させるには非効率です。

海津城そのものが「馬出」だと言いましたが、城から出る軍勢を「馬出」から軍勢を出すように二手に分け、数カ所ある渡しから渡河させれば最も効率良く川中島方面に軍を出撃させることができます。

海津城より出陣した一方の部隊、南側より「十二ヶ瀬(じゅうにかせ)」の渡しに向かった部隊こそが「啄木鳥隊」だった可能性があります。

そして十二ヶ瀬で上杉の殿軍(しんがり)による待ち伏せ攻撃(甘粕近江守の部隊)が予想外に強力で、川中島での合流に遅れてしまったと考えると、かなり現実的です。

このように武田信玄ほどの戦上手が決戦を前に優勢な軍勢を二手に分けるという愚策をおかしてしまったことに何らかの理由があるとすれば、そもそも海津城から千曲川を渡るには大部隊が1か所で短時間に渡河させるのは困難だということを忘れてはいけません。

この海津城の致命的な欠点が認識されたためか。

第4回の激戦以降、武田信玄は半ば海津城を捨てて、より北方の長沼城の大規模な増改築に力を入れ、北信濃の中心的な城にしています。

やはり海津城は大きいだけのポンコツであり、局地的な戦闘には全く不向きな「デス・スター」だったのでしょう。

 

謙信は信玄が出陣するのを知ってから移動した?

上杉謙信は海津城から炊煙が上がるのを見て、奇襲を察知したとされています。

しかし、これも怪しいですね。

後詰めを成功されてしまった謙信が、その時点で考えるべき戦略は「最小限の損害で撤退」です。

敵地で24時間いつでも攻撃される状況で10日間も過ごし、相手の奇襲に限らず正攻法の攻撃や包囲に常に警戒している状況なので、むしろ相手がゆるんだ隙、最も撤退しやすい時期を狙っていたとする方が現実的ではないでしょうか。

武田方にしてみれば、毎日でも炊煙を上げて相手にプレッシャーを与え続けた方がいいくらいです。

しかし、謙信はなんだかんだで妻女山からの撤退に成功しています。

夜中に妻女山を降り、千曲川を渡って北国街道方面へ進軍。

通常、弱点とされる自陣の右翼を武田方に見せながらの撤退ですので、かなり警戒していたことでしょう。

武田本隊と遭遇した時に、既に上杉方は陣形が整っていたと云われていますが、武田の支城ネットワークのすき間を抜けるように敵地を撤退中と考えれば、ひたすら警戒していますので、整っているのはむしろ当然のことです。

また、上杉謙信の感状が少ないので激戦はなかったんじゃないかという説もありますが、上杉家の戦法には「敵に一撃を与えて素早く退く」というのがあります。

その際は敵の首を取らないというルールも定めています。

この川中島の激戦でも、同様の戦術から敵の首を取らずに戦っていたので激戦の割には上杉方の感状が少なかったと考えられます。

 

むしろ武田軍が監視していたと考える方が自然

ではなぜ、武田軍は川中島へ出陣していったのでしょうか。

これも考えれば考えるほどナゾなのですが、撤退中の上杉謙信を犀川渡河あたりで捕捉して手痛い一撃を加えるといった狙いがあったことが考えられます。

ただし、これには上杉謙信の撤退時期とルートを事前にキャッチしていなければできません。

そうなると謙信の妻女山撤退をかなり早い時間につかんでいたと考えられます。

広く伝えられているような「謙信が炊煙を見て武田方の動きを察知した」とは全く逆で、鞍骨城や妻女山方面に包囲部隊を配置していれば、むしろ武田方が謙信撤退の動きを察知して動いたと考える方が自然です。

しかしなぜ武田信玄が城から打って出てきたのか分かりません。

血気にはやる家臣団との評定が決戦に傾いてしまったのでしょうか。

謙信が兵糧尽きてボロボロになって善光寺に退却してるというガセをつかまされてしまったのでしょうか。

いずれか不明ですが、武田信玄は、海津城に残っている部隊で謙信の撤退をせん滅までは行かないまでも、右側面から、いやらしく邪魔しようと企てたのは間違いありません。

しかし、準備が整う前に謙信の部隊に遭遇するというアンラッキーに見舞われてしまいます。

慣れないことはしない――これに限りますね。

 

激戦は偶然か、狙い通りか?

一方の上杉謙信は、思い描いた作戦通りに武田本隊を補足し、決戦を挑むことに成功したのでしょうか。

前回から決戦を望んでいた上杉謙信にとって撤退中であっても武田本隊を捕捉できればしめたものです。

多少の陣形は崩してでも戦いは挑んだことでしょう。

しかし「謙信の留守を狙え」でお馴染みの武田信玄にとっては、できれば正面衝突は避けたかった一戦だったでしょう。

結果だけを見れば、上杉謙信は激戦の中、退路を断たれ、犀川を渡って善光寺方面に逃げ帰るのも必死。

読み通りの万全の態勢でなかったことが分かります。

上杉側からみてもこの戦闘は、戦略的におびき出したのではなく偶発的な衝突だったことは間違いないでしょう。

 

結局どっちが勝ったの?勝因は?え?海津城??

武田方は前半に多数の将兵のみならず譜代クラスの武将が討ち死にしたものの、結果的に川中島の防衛に成功しています。

この成功には海津城築城が大いに影響しています。

え? 城マニアだからって無理やり城をねじ込もうとしてるって? さっきまでポンコツだと言ってたのに!

すみません。ポンコツは言い過ぎました。

実際、海津城築城にあたって、千曲川や犀川周辺の土地の検分、また渡河地点の確認など念入りにやっています。

これは犀川渡河で善光寺方面に逃げ帰る上杉方に対して、春日虎綱が犀川の渡しにいち早く回り込んで上杉方を包囲できた要因にもなっています。

また長時間にも及ぶ激闘を戦い抜くには武器や物資の補充も必要です。

武田の分隊が間に合ったというのが最大の勝因ではあるでしょうが、後続部隊が間に合ったのは戦が始まって2時間後のことです。

両軍はそれからさらに2時間以上の激戦を続けています。

このような長時間の合戦では背後に巨大な基地を持つ方が物理的にも心理的にも優位です。

大きいだけのポンコツとまで言ってしまいましたが、海津城から次々と繰り出す補給があってこそ長時間の戦も可能でした。

上杉謙信にとって長期戦が不利なのは分かっていたでしょうが、後続隊が来るまでに短期決戦で叩いて退くことができなかったのが最大の誤算だったのかもしれません。

こうして第四次川中島の合戦は双方に多数の死傷者を出しながらも武田信玄が川中島を死守。

そしてその後の政治的支配を磐石のものとしていきます。

これはもう海津城築城の勝利という他はありませんね。

築城バンザイ!!

お城バンザイ!!

「諸説」バンザイ!!

「そんなことより駿河がほしい」by信玄

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お城野郎!

2012年11月11日に開催された『第一回城郭検定』で最上位に合格(当時は2級)。 現存十二天守からフェイクな城まで、お城記事を中心に合戦の分析までこなす。 特技は妄想力を発動することにより脳内に城郭を再現できること。

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