信長には、20人以上の子供がいたといわれています(一説には11男11女)。
享年が49。
しかも超多忙であったことを考えればかなり多いほうですが、子供たちの中で歴史に足跡を残せたのはほんの一握り。
長男・信忠をはじめ、次男・信雄、そして三男の織田信孝(おだのぶたか)です。
今回は、天正十一年(1583年)5月2日に自刃したとされる、織田信孝の生涯を追ってみましょう。
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織田信孝は次男信雄とほぼ同じ日に生まれ
織田信孝は、どうにも「あと一歩で」という貧乏くじを引くタイプの人だったようで、いくつかそんな話が残されています。
実は生誕からしてそう。すぐ上の兄・織田信雄とは、生まれた順が逆だという説があるのです。
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「生母の身分が低かったから信孝が三男にされた」とか「信長への報告が遅れたから」とも言われてますが、今のところ決定打になる記録はないようです。
ちなみに幼名は「3月7日生まれだから幼名が三七丸になった」という俗説があり、記録上では4月4日が誕生日となっています(新暦で4月22日)。
すると色々と生まれ順の認識がおかしくなってくるのですが、この話はおしまいにして先へ進みましょう。
信長は三男坊を優遇も冷遇もせずに扱いました。
10歳のとき、信長が平定した伊勢の神戸(かんべ)家に半ば無理やり養子入りさせ、「神戸信孝」と呼ばれることもあります。
次男の信雄も北畠に入れられた流れですので、特に信孝だけがどうこうはないと思います。
織田信長も、元服前の子供を他家に出すのは心配だったのか。補佐の傅役(いわゆる“じいや”)やその他の家臣もキッチリつけております。
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烏帽子親はあの鬼柴田
家臣たちの助力と信長の七光りもあって、信孝は順調に伊勢を治めることができました。
検地をやったり、楽市楽座など父親が広めた制度を自国内でも採用したり。
さらには伊勢神宮への参拝客が来る宿場のメリットを存分に活かして、国を富ませます。
元服は長兄・織田信忠&次兄・織田信雄と同時の元亀三年(1572年)のこと。儀式は岐阜城で行われました。
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このとき信忠は17歳、信雄と信孝は14歳です。信忠はやや遅めですが、他の二人はちょうど適齢という年頃ですね。
信孝の加冠(烏帽子を被せること)の役目は、あの柴田勝家が務めたといわれています。
「鬼柴田」ともいわれる勝家ですが、幼いころから知っている主君の息子が成長した姿を見て、まぶたなり胸なりを熱くしていたかもしれませんね。
信長だとそういう場面を想像しにくいですが……。
天皇や宣教師からの印象も良く
その後、長島一向一揆で初陣を果たし、信長の主だった戦に次々と参戦。
他にも22歳で調停との交渉役を任されたり、信長が本願寺と和解する際には先に大阪へ来て下準備をしたり、信頼度は上々だったようです。
正親町天皇からも杉原紙(和紙の一種)や練香(香木などを練って固めたお香)などをたびたび賜っており、覚えがめでたいといってもいい雰囲気といえるでしょう。
信雄が勝手に伊賀へ攻撃を仕掛けて大敗を喫し、信長から
「お前、次にヘマしたら俺との親子の縁を切るからな」(意訳)
とキツく叱られたことがあるのと比較すると、信孝の評価は上々だったと思われます。
イエズス会の宣教師らとも親しかったようで、次のような記録も残っています。
「彼はキリスト教の宗旨をよく理解し、改宗しようとしているが、父の勘気を恐れて時期を見計らっている」
また、並行して本拠・神戸城の拡張工事を進め、五層の天守や多数の櫓を持つ近世城郭に大改造していました。
要は、内政能力も問題なかったといえましょう。
おそらく順調に行けば、北畠家に入っていた信雄と神戸家の信孝で「毛利両川」ならぬ「織田両川」のような状態になっていたと思われます。
しかし、皆さんご存知の通り、そうはいきませんでした。
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