慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原の戦いが勃発。
そのわずか2日後の9月17日、東軍に攻め込まれたのが近江の佐和山城です。
佐和山城とは、石田三成の居城。
つまり、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、三成の息の根を完全に止めるため、その本拠地へ襲いかかったワケです。
【佐和山城の戦い】などとも呼ばれたりしますが、徳川軍が直接攻めたワケではありません。
攻略を命じられたのは、関ヶ原で「裏切り者」たちと呼ばれた武将たち。
三成に苦汁を舐めさせた張本人たちです。

石田三成/wikipediaより引用
彼ら裏切り者たちも忠誠心を試されるのですから必死であり、最終的に色々と切ない悲劇へと収束していきました。
さっそく振り返ってみましょう。
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関ヶ原で敗北した石田三成は、まず背後にあった伊吹山に逃れ、その後、右往左往しながら逃走を続けました。
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西軍の正式な総大将は毛利輝元(毛利元就の孫)です。
彼は結局、大坂城にステイしていたので、逆に言えばまだ兵力を温存しているということにもなります。
なんといっても毛利家は西国随一の大大名。単独でも3万程度の兵は動員できるはずでした。
さらには、西軍最強の武将とよばれる立花宗茂も無傷であります。
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三成はこれを諦めきれず、再戦しようとしていたのでしょう。
そのためにはまず居城の佐和山へ戻り、支度をしてから大坂へ向かう必要があります。
しかし、その間に、佐和山城と家族が大変なことになったのです。
佐和山城の戦いに参戦したのは小早川秀秋たち
留守の佐和山城を守っていたのは、三成のお父さん・石田正継や、お兄さん・石田正澄など、石田一族が中心。
ほとんどの兵は関ヶ原へ出払っており、残っていたのは2,800人ほどで、しかも、老兵や女性などしかいなかったともいわれています。
兵としてカウントできたのは1,000ほどだったとか。
対する東軍はといえば、損耗はしているもののまだまだ兵力には余裕がありました。
先鋒は、日本史上最大の裏切り者の名をほしいままにする小早川秀秋。
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実は最初から東軍だと思われていたという見方が有力ですが、このとき同行していたのが、朽木元綱や小川祐忠、脇坂安治、赤座直保だったのです。
朽木、小川、脇坂、赤座の4名は、関ヶ原の当日に裏切りが判明し、大谷吉継や平塚為広らの軍を壊滅に追い込み、関ヶ原の動向を思いっきり左右した人物でありました。
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家康はそんな彼らに佐和山城攻めを命じたのです。
なお、搦め手(裏門)からの攻略部隊は、近江出身かつ豊臣恩顧の武将だった田中吉政を配置。
万全とも言える態勢でした(実際、この田中吉政の部隊が後に石田三成を捕縛します)。
家康自身は、佐和山の南方にある平山に陣取り、戦いの行方を眺めることにしました。
「女郎墜」という怖い地名
佐和山城は昔から近江(現滋賀県)の要所といわれていました。
ただ、城自体はそう大規模なものではありません。
石田一家と城兵たちは一昼夜、大軍の猛攻を防ぎきり、健闘します。
しかし、ここでまたしても裏切りにあってしまいます。
共に篭城していた三成の近臣・長谷川宇兵衛守知(もりとも)という武将が手引して、城内へ敵を引き入れ陥落させたのです。
この長谷川守知という武将、もともと東軍側から送り込まれた間者であったとも囁かれています。城外の小早川隊と連絡を取っていたんですね。
一方、内通者がいるなんて予想もしていなかった石田家。
15,000という大軍に攻め込まれては為す術もなく、三成の帰還までもたずに翌18日、一族揃って天守にのぼって自害を余儀なくされます。
なお、このとき石田方の土田東雲斎という者が櫓から金銀をぶん投げ、自害の時間を稼いだとも伝わっております。
小早川秀秋は「不届き者たちよ」と嘆いたそうですが、まぁ、雑兵たちだったら仕方のない話ですよね。
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石田正継や石田正澄らは逃げ延びて自刃したとされ、そのほか多くの者も自害して、城には火がつけられました。
『慶長記』には「天守の上の重より火見え候」と書かれています。
女性たちは敵に辱められるのを恐れ、本丸直下にある谷に身を投じた――そんな噂話から、この谷は今でも
「女郎墜(じょろうおち)」
「女郎ヶ谷」
などと呼ばれているんだそうです。ひえぇぇぇぇ。
源義経や楠木正成のように、ブッ飛んだ戦法を思いつける人が城にいたら、多少は展開も違ったのかもしれません。
しかし、そんなIFを妄想しても仕方なく、結局、佐和山落城により、西軍が盛り返すチャンスは完全に消えてしまったのでした。
彦根城から見える佐和山城跡の悲哀
この佐和山城が具体的にどこにあったのか?
実は、ゆるキャラ「ひこにゃん」で有名な彦根城の目の前、直線距離にして数キロ程度のところです。
※琵琶湖のほとりにあり、すぐ近くには安土城も
黄→佐和山城
赤→彦根城
紫→安土城
三成は人付き合いは下手だったと思われる一方、内政は得意だったので領民からは慕われていました。
しかし、徳川が勝ったからにはいつまでも三成を懐かしまれていては困る……ということで、佐和山城は徹底的に破壊されてしまいます。
今はごくわずかに城の痕跡が残るのみで、建物らしい部分はほとんど残っていません。
彦根城は井伊直政や、後の藩主・井伊直弼ゆかりの城としても知られますね。
ちなみにこれで無事家康の機嫌を取れたかと思われた小早川秀秋は、2年後に20歳で死亡。
三成の祟りだとか大谷吉継の呪いだとかいろいろ言われています。
なお、佐和山城の陥落直前に「金銀がばら撒かれた」とあり、財宝の派手な様子を想像された方もおられるかもしれませんが、城内は極めて質素であり、三成が私腹を肥やすようなことがまるで無かったことが見てとれます。
まさに忠臣と呼ぶに相応しい――そんな三成の生涯が以下の記事にまとまっておりますので、よろしければ関ヶ原の戦い記事と併せてご覧ください。
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【参考】
澤宮優『戦国廃城紀行 敗者の城を探る』(→amazon)
三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』(→amazon)











