安政の大獄

井伊直弼/wikipediaより引用

幕末・維新

安政の大獄は井伊直弼が傲慢だから強行されたのか?誤解されがちなその理由

2024/09/06

歴史上「井伊の赤鬼」と呼ばれる人物が二人います。

一人は初代彦根藩主・井伊直政。

具足を全て赤色で揃えた軍・赤備えであること、士気がとても高く勇敢な将であったことからそう呼ばれました。

軍事だけでなく、関ヶ原の後は西軍側の大名との交渉を受け持ったり、若い頃は家康とアッー!な関係になるほど美形だった噂があるほど、とにかく色んな面でデキた人です。

今回の注目はもう一人の赤鬼。

幕末に悪名高い(そして必ず暗記させられる)【安政の大獄】を断行した井伊直弼(なおすけ)です。

おそらく大多数の方が

「あぁ、あの桜田門で暗殺された人ね。よほどワルだったんでしょ?」

と思っていることでしょう。

確かに安政の大獄は政治的暴挙でしたが、彼にも理由があります。

安政5年(1858年)9月7日、梅田雲浜の逮捕を皮切りに始まった、一連の出来事を順に追って参りましょう。

※9月5日に逮捕された近藤茂左衛門から始まりとの見方もあります

 


「安政の大獄」へと続くキッカケとは?

京都で梅田雲浜(あるいは近藤茂左衛門)を捕縛すると、その後、井伊直弼は、多くの攘夷派(開国反対派)志士も捕らえ【安政の大獄】が始まりました。

こうした一連の摘発は、ハリスが「ほかの港も開くよね、じゃないとどうなるかわかるよね(超訳)」とプレッシャーをかけてきたところまで遡るでしょう。

幕府としては、手紙や使者でなく、担当者が目の前に来ているわけですから、当然、返事を急がなくてはいけません。

しかし、度重なる災害や将軍の後継者問題でドタバタの連続。

正しい判断を即座に下せるような人物はいません。

しかも、鎌倉時代から600年以上も武家が政権運営してきたとはいえ、あくまで幕府は「天皇と朝廷から政治を任されている機関」です。

国の大事にあっては、朝廷の意見も聞かねば、という建前もありました。

この一番大事なポイントを疎かにしてしまいます。

一応、堀田正睦(ほったまさよし・老中の一人)が京都へ向かうものの、そう簡単に勅許(天皇直々の許可)が出るわけはありませんでした。

なんせ当時の天皇・孝明天皇(和宮のお兄さん)は大の外国嫌い。

そもそも海の見えない京都にいますから、貴族やそっち寄りの大名も右に倣って「開国なんぞしてたまるか!」という意見です。

ぶっちゃけ朝廷の海外知識など皆無に近く、幕府としても苛立つばかりだったでしょう。

ハリスの催促は一向に止みません。

こうした最悪の状況で、井伊直弼は大老の職に就きました。

 


朝廷無視の開国には反対していた

教科書では「新しく大老になった直弼は、一人で強引にハリスの求める条約を結びました」となっていますよね。

しかし、実は彼は最後の最後まで「朝廷の許可がないとやっぱりマズいですよ。事情を話して、もうちょっと待ってもらいましょうよ」と反対しています。

それを押し切って条約を結んだのは、直弼ではなく松平忠固(ただかた)でした。

ハリスからの「早くウチと条約結んで開国しないと、イギリスが攻めてきて無理やり植民地にされちゃうかもヨ? 清みたいになりたい?」なんて脅しを真に受けて、調印を決めてしまうのです。

一応「早く条約結んだほうが、こっちに有利になるかもしれない」と考えていたようですが、このとき結ばれた日米修好通商条約が不平等条約だったのはよく知られたところですね。

不平等だというと、

「やっぱり幕府は情けねーわ!」

となりそうで、実はそうではありません。

幕臣・岩瀬忠震のかなりタフな交渉術で、相手を感嘆させるほどだったのです。

そもそも、不平等条約となってしまうのも仕方ない一面があった――そんな見方があります。

というのも鎖国明けの日本は海外のお作法を全く知らず、通常の条約では成立しにくかった、というわけですね(詳しくは以下の記事にてご覧ください)。

実はアメリカを圧倒していた幕臣・岩瀬忠震の交渉術|日米修好通商条約の真実

続きを見る

ともかく井伊直弼としてはどうしようもなく、松平忠固と堀田正睦を免職にしました。

「朝廷の許可もらえなかったら、幕府が勝手に開国したことになるじゃねーか! 責任取れ!!」というわけです。

ここで済めばまだ内輪揉めで終わりだったでしょうが、いかんせん直弼にはあまりに味方がいません。

いつの間にか「勝手に開国したのは直弼だ」と責任を押し付けられてしまい、攘夷派の大名や学者たちに非難され始めたのです。

島津斉彬(なりあきら)など江戸まで兵を率いて来ようとしたほどです。

まぁ、計画途中で亡くなってしまい薩摩の上洛は頓挫するのですが、もし生きていたら江戸が戦場になっていたかもしれませんね。怖ッ!

しかし、事態はもっと悪い方向へと進んでしまいました。

 

責任を押し付けられて我慢は限界

事態の悪化とは他でもありません。

朝廷まで「悪いのは井伊だ」と信じ込んでしまい、孝明天皇から水戸藩に対して「お前、幕府のお目付けのくせに何やってんだ! 早く何とかしろ!」という密勅が出されるのです。

【戊午の密勅】と言います。

本来であれば、朝廷から正式に関白・九条尚忠の裁可を経て、幕府に命ずるのが筋です。

しかし、朝廷としては幕府を信用する気が失せ始めていたので、直接水戸藩へ話をつけたのでした。

水戸藩は、徳川家康の方針で「お前んとこは将軍になっちゃダメだけど、代わりに将軍に相応しい人物を選ぶ特権をやる」ということになっていたからです。

この時の命令には「何とかしろ」としか書いていませんが、最終目的としては「朝廷に忠実な新しい将軍を選んで、外国を追い払え!!」と言いたかったのでしょうね。

そりゃ幕府に内緒でやらないといかんわけです。

これを知った直弼、もはやここまでと覚悟を決めます。

「一度幕府を立て直すためには、攘夷派を片付けないとどうにもならん。大名や幕臣だけじゃなく、民衆を煽る学者どもも同罪じゃ」と考えます。

と言っても単純にうるさいヤツらを排除しろ、というワケでもなく、そもそもは13代将軍・徳川家定の次、14代将軍に誰を据えるか?という「将軍継嗣問題」も大きく絡んでいました。

 


一橋派と南紀派「将軍継嗣問題」がコトの本質

井伊直弼は、次の将軍候補として紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂・いえもち)を推しておりました。

彼らを南紀派と呼びます。

これに対抗して一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推したのが一橋派。

慶喜の実父である徳川斉昭をはじめ、島津斉彬阿部正弘が主要メンバーで、そこに薩摩藩の西郷隆盛や福井藩の橋本左内、後に西郷と入水自殺をする元清水寺の住職・月照、公家の近衛忠煕などがおります。

結局、斉彬や正弘が事前に亡くなってしまい、勝利を収めたのが南紀派。

井伊直弼は、こうした14代将軍・徳川家茂に反対する勢力(主に一橋派)の逮捕・処刑を実行しました。

後の政権運営をスムーズに進めるためで、マトメますと

・戊午の密勅
・将軍継嗣問題

この2つに絡んだ政治的弾圧が【安政の大獄】の本質ですね。

吉田松陰が処刑されているため、一見、攘夷派の排除が目的だと思われがちですが、井伊直弼としてはあくまで堅実な政権運営を目論んでのことでしょう。

そこで事態の解決を急ぎ過ぎたため、直弼は悪い意味で「赤鬼」と言われるようになってしまったのですね。

 

弾圧vsテロ

では、なぜ吉田松陰まで処刑されたのか?

と申しますと、梅田雲浜と付き合いがあり、幕府を中傷する文書の容疑をかけられたのですが、それだけなら死罪とはなりません。

松陰は、あろうことか「老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺計画」まで打ち明けてしまったのです。

井伊の赤鬼に対し、間部詮勝も「青鬼」と呼ばれた要人。

ただでさえピリピリしているこの時期に、老中の殺害計画を告白して無事に済むはずがありません。

松陰は伝馬町の牢獄に送られ、後日、斬首となりました。

松陰の教えの中に

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

【意訳】志が後世に残るんならいつ死んでもいいし、デカイことをやれるチャンスが残ってるなら生き延びろ

というものがありますので、死の直前は「あとは弟子達に任せた」なんて気でいたのかもしれません。

仮に【安政の大獄】が起きず、攘夷派がさらに跋扈したまま時代が進んだら?と考えると結構恐ろしくなります。

幕府が倒れるだけでなく、あっちこっちで下関戦争や薩英戦争のような対外戦争が起き、日本全体が侵略されて植民地になっていたかもしれません。

そう考えると、確かに直弼は強引ではありましたが、100%全て悪かったとも言いきれないのではないでしょうか。

「やってることは間違ってないんだけど、キミそのやり方はどうなの?」っていう人。

直弼はそういう不器用なタイプだったんじゃないか……というのはひいき目すぎますかねえ。

【桜田門外の変】については、直弼を殺害したのが意外な人物だったりするんですが。

以下の記事にまとまっておりますので、よろしければ併せてご覧ください。


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【参考】
国史大辞典
安政の大獄/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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