安政の大獄

井伊直弼/wikipediaより引用

幕末・維新

安政の大獄はなぜ実行されたか?誤解されがちな井伊の赤鬼とその理由

歴史上「井伊の赤鬼」と呼ばれる人物が二人います。

一人は初代彦根藩主・井伊直政

具足を全て赤色で揃えた軍・赤備えであること、士気がとても高く勇敢な将であったことからそう呼ばれました。

※以下は井伊直政の事績をまとめた記事です

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軍事だけでなく、関ヶ原の後は西軍側の大名との交渉を受け持ったり、若い頃は家康とアッー!な関係になるほど美形だった噂があるほど、とにかく色んな面でデキた人です。

今回の注目はもう一人の赤鬼。

幕末に悪名高い(そして必ず暗記させられる)【安政の大獄】を断行した井伊直弼(なおすけ)です。

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おそらく大多数の方が

「あぁ、あの桜田門で暗殺された人ね。よほどワルだったんでしょ?」

と思っていることでしょう。

確かに安政の大獄は政治的暴挙でしたが、彼にも一応事情があります。

安政5年(1858年)9月7日、梅田雲浜の逮捕を皮切りに始まった、一連の出来事を順に追って参りましょう。

※9月5日に逮捕された近藤茂左衛門から始まりとの見方もございます

 


「安政の大獄」へと続くキッカケとは?

京都で梅田雲浜(あるいは近藤茂左衛門)を捕縛すると、その後、井伊直弼は、多くの攘夷派(開国反対派)志士も捕らえ【安政の大獄】が始まりました。

こうした一連の摘発は、ハリスが「ほかの港も開くよね、じゃないとどうなるかわかるよね(超訳)」とプレッシャーをかけてきたところまで遡るでしょう。

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幕府としては、手紙や使者でなく、担当者が目の前に来ているわけですから、当然、返事を急がなくてはいけません。

しかし、度重なる災害や将軍の後継者問題でドタバタの連続。

正しい判断を即座に下せるような人物はいません。

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しかも、鎌倉時代から600年以上も武家が政権運営してきたとはいえ、あくまで幕府は「天皇と朝廷から政治を任されている機関」です。

国の大事にあっては、朝廷の意見も聞かねば、という建前もありました。

この一番大事なポイントを疎かにしてしまいます。

一応、堀田正睦(ほったまさよし・老中の一人)が京都へ向かうものの、そう簡単に勅許(天皇直々の許可)が出るわけはありませんでした。

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なんせ当時の天皇・孝明天皇和宮のお兄さん)は大の外国嫌い。

そもそも海の見えない京都にいますから、貴族やそっち寄りの大名も右に倣って「開国なんぞしてたまるか!」という意見です。

ぶっちゃけ朝廷の海外知識など皆無に近く、幕府としても苛立つばかりだったでしょう。

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ハリスの催促は一向に止みません。

こうした最悪の状況で、井伊直弼は大老の職に就きました。

 


朝廷無視の開国には反対していた

教科書では「新しく大老になった直弼は、一人で強引にハリスの求める条約を結びました」となっていますよね。

しかし、実は彼は最後の最後まで「朝廷の許可がないとやっぱりマズいですよ。事情を話して、もうちょっと待ってもらいましょうよ」と反対しています。

それを押し切って条約を結んだのは、直弼ではなく松平忠固(ただかた)でした。

ハリスからの「早くウチと条約結んで開国しないと、イギリスが攻めてきて無理やり植民地にされちゃうかもヨ? 清みたいになりたい?」なんて脅しを真に受けて、調印を決めてしまうのです。

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一応「早く条約結んだほうが、こっちに有利になるかもしれない」と考えていたようですが、このとき結ばれた日米修好通商条約が不平等条約だったのはよく知られたところですね。

不平等だというと、

「やっぱり幕府は情けねーわ!」

となりそうで、実はそうではありません。

幕臣・岩瀬忠震のかなりタフな交渉術で、相手を感嘆させるほどだったのです。

そもそも、不平等条約となってしまうのも仕方ない一面があった――そんな見方があります。

というのも鎖国明けの日本は海外のお作法を全く知らず、通常の条約では成立しにくかった、というわけですね(詳しくは以下の記事にてご覧ください)。

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ともかく井伊直弼としてはどうしようもなく、松平忠固と堀田正睦を免職にしました。

「朝廷の許可もらえなかったら、幕府が勝手に開国したことになるじゃねーか! 責任取れ!!」というわけです。

ここで済めばまだ内輪揉めで終わりだったでしょうが、いかんせん直弼にはあまりに味方がいません。

いつの間にか「勝手に開国したのは直弼だ」と責任を押し付けられてしまい、攘夷派の大名や学者たちに非難され始めたのです。

島津斉彬(なりあきら)など江戸まで兵を率いて来ようとしたほどです。

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まぁ、計画途中で亡くなってしまい薩摩の上洛は頓挫するのですが、もし生きていたら江戸が戦場になっていたかもしれませんね。怖ッ!

しかし、事態はもっと悪い方向へと進んでしまいました。

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