織田信長の家臣には、様々な出自の人がいました。
代々織田家に仕えてきた家の人もいれば、室町幕府から鞍替えした人、戦に敗れた人。
あるいは元の主君を見限って信長についた人もいて、尾張から美濃へ侵攻した際、織田家に従ったのが”西美濃三人衆”と呼ばれる人々です。
信長に従ったのはほぼ同時期で、かつその最期でも何かと縁のあった三人。
今回は安藤守就に着目してみましょう。
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安藤守就・出自は藤原秀郷の子孫?
安藤守就は文亀三年(1503年)~永正五年(1508年)頃に誕生したといわれています。
出自は平安時代の武将・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を祖先とする美濃の一族。
当初は美濃守護・土岐頼芸(ときよりあき)の家臣でしたが、斎藤道三が下剋上を起こして美濃の実質的な主になった頃から、道三に仕えるようになります。
先述の通り、他の斎藤氏の家臣である稲葉良通や氏家直元と並んで”西美濃三人衆”と呼ばれ、実力者とみなされていました。
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実は守就は、織田信長の生涯を記した『信長公記』にも、度々登場しています。
例えば、道三の娘・濃姫が信長の正室となったことにより、那古野城の留守を預かったことがあります(信長公記14話)。
信長がまだ尾張国内の統一に奔走していた天文二十三年(1554年)、信長からの依頼を受けた道三が、守就を那古野城へ派遣させたのです。
そのときの詳細は以下の記事にございますのでよろしければ併せて御覧ください(本稿末にも記事リンクがございます)。
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娘婿にあの半兵衛 乗っ取り事件に協力
婿の城の留守を守らせるほどですから、守就は道三からの信頼も上々だったのでしょう。
しかし、弘治二年(1556年)【長良川の戦い】において、道三が息子の斎藤義龍と対決したときは義龍サイドについていたようです。
理由は不明ですが、下の息子たちを贔屓し始めた道三に愛想が尽きたのでしょうか……。
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義龍が永禄四年(1561年)に亡くなると、その子・斎藤龍興に仕えました。
しかし龍興は守就を含む西美濃三人衆などを遠ざけたり、守就の娘婿である竹中半兵衛(重治)を罵倒した齋藤飛騨守を寵愛するなど、好ましくない行動が目立つようになります。
守就らが諫言しても聞き入れられず、半兵衛が一計を案じました。
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半兵衛には重矩(しげのり)という弟がいて、人質として斎藤氏の本拠である稲葉山城に入っていました。
永禄七年(1564年)2月、半兵衛は弟の病気見舞いと称して城に入り、斎藤飛騨守などを討ち取って城を乗っ取ったのです。
【稲葉山城乗っ取り事件】として有名ですが、このとき守就も兵2,000を率いて協力したとか。守就の娘が竹中半兵衛に嫁いでいた縁から、そうした行動に出たのでしょう。
同年7月下旬頃までは半兵衛らによる稲葉山城の占拠が続いたようですが、結局は龍興へ返しています。
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これは半兵衛の美談として語られることが多いのですが、近年では
「半年近く経っても斎藤氏の他の家臣が味方にならなかったので、講和の条件としての返還だったのではないか」
ともいわれています。
隠密裏に動いたからこそ乗っ取り自体は成功しましたが、その後の根回しが足りなかったのかもしれません。
上洛戦をはじめ姉川の合戦にも
城に戻った龍興は信長との戦いを続けました。
局地的に勝利を収めることもありました。
が、当人の行状は収まらず、家臣たちの心は離れる一方。信長は調略などを用いて本格的な美濃攻略を推し進め、それに応じる者も増えていきます。
守就を含めた西美濃三人衆も、永禄十年(1567年)に内応し、織田家へ。
その後、信長が龍興を美濃から追放すると、守就は、織田家の主だった戦にほとんど参加しました。
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まずは永禄十一年(1568年)の上洛戦。
将軍就任を望む足利義昭を奉じて京都に進軍したものですね。
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お次は元亀元年(1570年)【姉川の戦い】です。
信長を裏切った浅井長政とのリベンジを期して挑んだ一戦であり、一応、織田方の勝利となっておりますが決定的な結果でもなく、以降、浅井朝倉連合軍との苦しい戦いが続きます。
姉川の戦いにおける守就の戦功としては、浅井氏の拠点だった横山城を押さえ、徳川軍が浅井氏の側面を突いた頃合いに呼応したことが伝わっています。そして……。
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