寛永9年(1632年)1月24日は徳川秀忠の命日です。
ご存知、徳川家康の息子であり、江戸幕府の第2代将軍として知られますよね。
家康には松平信康という嫡男がいましたが、母の築山殿(瀬名)と共に自害へ追い込まれたのは、大河ドラマ『どうする家康』でも描かれていた通り。
しかし、他にも数多いた男児の中で、なぜ三男の徳川秀忠が跡継ぎに選ばれたのか。

徳川秀忠/Wikipediaより引用
秀忠と言えば、信州上田で真田昌幸との戦いに敗れ、関ヶ原の戦いに遅参するなど、何かと冴えない印象もある。
にも関わらず、結局、二代将軍に選ばれた、秀忠の生涯を振り返ってみましょう。
生まれた年に信康が自害していた
徳川秀忠は天正7年(1579年)4月7日、徳川家康の三男として生まれました。
母は西郷局(さいごうのつぼね)。
彼女は東三河の有力一族であった西郷氏の出身で、その名から「お愛の方」とも呼ばれたりします。

西郷局/Wikipediaより引用
問題は、秀忠が生まれた天正7年(1579年)という年でしょう。
実は同年9月の家康は、長男の松平信康がトラブルに見舞われ、自害へと追い込まれているのです。
事件の詳細は以下の記事にお譲りするとして、
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松平信康の生涯|なぜ家康の長男は自害に追い込まれたのか?諸説を考察
続きを見る
ここで注目しておきたいのが後継者であります。
このとき家康の年齢は、数えで37才。
信玄亡き後とはいえ、強大な武田家としのぎを削る日々であり、万が一のことを考えると、一刻でも早く跡取りを決めておきたい状況です。
そこで話題となるのが、秀忠が徳川家の跡継ぎに選ばれた理由です。
家康の息子リスト~長男から十男まで
数ある兄弟の中から、なぜ徳川秀忠が二代目将軍に選ばれたか?
というと、どれだけ家康の跡取り候補がいたのか、気になるところではあります。
ざっと男児だけ見ておきましょう。
長男:松平信康(1559)
次男:結城秀康(1574)
三男:徳川秀忠(1579)
四男:松平忠吉(1580)
五男:武田信吉(1583)
六男:松平忠輝(1592)
七男:松平松千代(1593)
八男:松平仙千代(1595)
九男:徳川義直(1601)
十男:徳川頼宣(1603)
十一男:徳川頼房(1610)
(カッコ)内は生年です。
前述の通り長男・信康は既に亡くなっており、

松平信康/wikipediaより引用
秀忠の他に候補者がいるとすれば五男の武田信吉ぐらいまででしょうか。
では上記の中で、実際に将軍候補になり得たのはいったい誰なのか?
大久保忠隣が秀忠を推挙?
家康の跡継ぎに関しては、注目される逸話があります。
以下、ざっくりと物語風に語りますので、ご承知おきください。
慶長5年(1600年)9月、徳川家康は腹心たちに問うた。
「ワシの次は、誰に天下国家を任せたらよいか? おのおの忌憚なく述べよ」
そこで本多正信が
「信康様亡き後、知略武勇を兼ね備えた三河守(結城秀康)様がよろしいかと存じます」
と答えると、次に続いたのが井伊直政。
「松平忠吉様こそ然るべし」
そして徳川秀忠を推挙したのが大久保忠隣であった。
「国が治まった今こそ文徳が必要。中納言(秀忠)様こそ相応しき御方」
家康は後日、「忠隣こそ我が意を得たり」と話し、秀忠に決めた。

徳川家康/wikipediaより引用
この話は江戸幕府の正史とされる『御実紀(ごじっき)』(通称・徳川実紀)に掲載されたもので、なんだか、いかにも創作っぽい雰囲気ですよね。
しかし、跡継ぎが秀忠だと決まるのは、さほど難しい話でも無かったようです。なぜなら……。
【次男】結城秀康(1574)
→母の身分が低く(正室・築山殿の侍女だった)結城家へ
【三男】徳川秀忠(1579)
→家康の後継者
【四男】松平忠吉(1580)
→母は秀忠と同じだが、松平家へ
【五男】武田信吉(1583)
→母が武田家臣・秋山虎康の娘で、武田家の家名を継ぐ
というように、同世代の兄弟の中では、ほとんど最初から秀忠が嫡男の既定路線でした。
例えば天正18年(1590年)に徳川家から豊臣秀吉の下へ差し出された人質にも秀忠が選ばれ、秀吉から偏諱を受けているほどです。
官位も秀忠が最も高く、六男の松平忠輝(1592年生まれ)以降の考慮は不要でしょう。
でも不思議ではありませんか?
最初から徳川秀忠と決まっているなら、そもそも跡継ぎ問題など話題にはならないはず。
逆に言えば、徳川秀忠を二代目にするには何かと不安があったから、わざわざ『御実紀(ごじっき)』に、「忠隣こそ我が意を得たりと家康が言った」なんてエピソードを盛り込んだのでしょう。
要は必要以上に強調しているんですね。
では、その不安な「何か」とはなんだったのでしょう?
関ヶ原の遅刻~将軍就任への影響は?
徳川秀忠にとっての不安要素。
それは不名誉でお馴染みのエピソード【関ヶ原の遅参(遅刻)】です。
順を追って見ていきますと……慶長五年(1600年)7月、徳川軍とそれに従う豊臣恩顧の武将も会津へ進軍しておりました。
目的は上杉征伐。
五大老の一人でもあった上杉景勝が軍備を増強し、かつその腹心・直江兼続が『直江状』という手紙を家康に出して、徳川家に喧嘩を売っていたのです。

上杉景勝と直江兼続/wikipediaより引用
徳川軍としてもこれを捨て置くことはできず、会津へ。
するとそのタイミングで石田三成が上方で挙兵しました(西軍)。
会津へ進軍していた徳川軍(東軍)は、途中で上杉征伐を取り止め、西へと反転。
家康や豊臣恩顧の武将らは東海道を進み、徳川軍の主力を率いた徳川秀忠が中山道を選びます。
◆東海道
→家康本隊と豊臣恩顧の武将(福島正則や山内一豊など)
◆中山道
→徳川秀忠と徳川軍主力
大事なのは途中にある上田城
徳川秀忠の主力部隊(約3万8千)と、家康の本隊は、近江や美濃で合流する予定だったとされます。
その際、秀忠が通ったルートが、ざっと以下の地図のようなイメージでした。
小山評定の小山(栃木県小山市)を出て京都まで、現在距離で約430kmの大移動。
大事なのは途中にある上田城です。
徳川に反目した真田昌幸と真田信繁(真田幸村)が籠もる信州の要衝であり、これを大軍で奪い取ろうとしました。
しかし、結果は皆さんご承知の通り、真田昌幸の戦術に振り回され、犠牲者を出しただけで退散。
いわゆる【第二次上田合戦】に敗れ、そこから慌てて関ヶ原を目指したものの、戦いには間に合わず家康にこっぴどく叱られた!というものです。

上田城西櫓
要点は二つ。
◆少数の真田を相手に大軍で負けたこと
◆おまけに天下分け目の戦いに遅刻したこと
この二つの不幸が重なり、秀忠は後世にまで凡将扱いされるのですが……結果から言うと、
「秀忠は何も悪くない」
と見るほうが自然な気がします。
というのも、秀忠率いる徳川軍主力は、中山道(特に真田)を押さえることが第一の目的とされていたのです。
それが、東海道を進んだ豊臣恩顧の武将らの進軍が思った以上に早く、あっという間に岐阜城まで落城してしまったため、途中から方針を変更。
家康も秀忠に向かって「すぐに美濃へ来るように!」と連絡をしたのですが、その連絡係が悪天候に阻まれて遅れ、さらに徳川軍も中山道の狭い道に進軍を阻まれ、結局、関ヶ原の本戦に間に合わなかった。
遅参でも秀忠後継者に変わりはない
真田に苦戦したのは事実です。
予定よりも大幅に早かった関ヶ原の戦いについては、すべて徳川秀忠の責任とは言えないでしょう。
しかし結果として、関ヶ原の本戦で活躍した豊臣恩顧の武将らには恩賞(領地)を振る舞わなくてはならず、家康がご立腹となるのも無理はありません。
井伊直政と共に参戦した秀忠の弟・松平忠吉はバッチリ戦功を挙げているのです。

松平忠吉/wikipediaより引用
それと比べると秀忠の印象たるや哀しいものがありますが、この失態で後継者から外されることはありませんでした。
そもそも家康が激怒していた――というのも、ある種のパフォーマンスのような気すらします。
天下分け目の大事な戦いに参加してない者が次の将軍になっては、海千山千の戦国大名に舐められる。
そこで家康が「アイツはダメだ!」とブチギレまくり、“遅刻した秀忠”ではなく“激怒する家康”に目を向けさせたんですね。
漫画『センゴク』でお馴染みの仙石秀久などが秀忠擁護の役目を得て、ちゃっかり気に入られたりしています。

仙石秀久/Wikipediaより引用
実際、関ヶ原合戦の後に準備した島津征伐軍では総大将となっておりますし、他の重要事項でも秀忠の意見が優先されたりしています。
それは政治体制についても同様のことが言え、多くの有力者がその脇を固めるようになります。
ざっと挙げておきますと……。
・本多正信
・土井利勝
・酒井忠世
・大久保忠隣
・安藤重信
上記のような有力メンバーが補佐して、慶長10年(1605年)に将軍就任。
その後も家康の大御所政治が続きながら、徳川秀忠の治世が始まるのです。
側近の中でもとりわけ重要だったのが土井利勝でしょう。
41名もの大名が改易に処される
土井利勝と徳川秀忠は、幼い頃から交流がありました。
徳川秀忠が生まれてすぐに土井利勝が近臣として側につくようになったのです。

土井利勝/wikipediaより引用
この土井利勝は「家康の子供ではないか?」という説も根強いですが、土井家の人間として秀忠の家臣となったことが重要であり、利勝もまた秀忠だけでなく家康や家光ら江戸幕府のため働き続けました。
特に家康の死後は活躍めざましく、黒衣の宰相として知られる金地院崇伝が
「今は誰もが大炊殿(利勝のこと)に話を持っていく。利勝は人の話をじっくりと聞くのである」
と日記に記すほど。
では具体的に、秀忠の治世ではどんなことが行われたか?
当時はまだ武断政治と呼ばれ強硬姿勢で大名の処遇などが決められました。
例えば福島正則といった豊臣恩顧の武将だけでなく、本多正純なども含め、実に41名の大名が改易に処されるなどしております。

福島正則/Wikipediaより引用
元和9年(1623年)に徳川家光に将軍職を譲ってからも江戸城西の丸にあって大御所政治を実行。
紫衣事件(寛永4年=1627年)が起きるなど公家に対しても取締をすすめ、さらには家康時代から続くキリスト教の弾圧や、外国船の来航なども長崎平戸に限定しました。
真新しいことは無い代わりに家康路線を厳格に継続した――ということが見て取れますね。
家光と忠長
最後に。
徳川秀忠自身は将軍就任に際して大きな障壁はありませんでした。
しかし、自身の息子である三代目将軍・徳川家光と徳川忠長については一悶着起きております。
家光が嫡男でありながら、忠長の方が優れているから将軍になる――そんな噂が広まり、春日局が家康に訴えたことにより結局家光で収まったというドタバタがあったんですね。

徳川家光(右)と徳川忠長/wikipediaより引用
しかもその後、忠長がご乱心(輿の中から担ぎ手を刺殺するなど)を起こし、御家は改易、本人は自害へと追い込まれるのですからシャレにならない。
家光も、忠長も、母親は浅井三姉妹の江(ごう)とされています。
しかし、そこに問題がありました。
忠長は確実に江の息子だとしても、家光は実子ではないのでは?という見方があるのです。
母体の出産ペースなどから考えて、家光が側室などの子である可能性を否定しきれないんですね。
ただ、だからといって一度嫡男にした人間をそう簡単に廃嫡にはできません。
たとえ側室の子でも、ひとたび正室(ここでは江)が自身の子供だと認めれば、嫡男として育てられるもの――それが基本的なルールであり、家光はあくまで嫡男でした。
なお、恐妻家で、女性は妻だけだったとされる秀忠ですが、実際は幾人か側室の子がおりました。
そのうちの一人が保科正之であり、会津松平家へと繋がっていくのですから、なんだか不思議ですよね。
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【参考】
国史大辞典
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