大河ドラマ『豊臣兄弟』で要潤さん演じる明智光秀。
そのキャリアを語るうえで、避けて通れない大きな転換点があります。
将軍・足利義昭から離れ、織田信長を唯一の主君として選んだ決断です。
ドラマでは、義昭が信長のもとへ光秀を送り込んだことになっていましたが、果たして実際はどうだったのか?

明智光秀/wikimedia commons
当時の光秀の行動を振り返ってみましょう。
越前で停滞する義昭
明智光秀の前半生は多くが謎に包まれています。
比較的確かなのが、越前・朝倉義景のもとへ身を寄せていたということ。

朝倉義景/wikimedia commons
一説には東大味(福井市)に屋敷を構えて暮らしていたところ、永禄九年(1566年)、一乗谷の朝倉家を頼って一人の人物が身を寄せました。
覚慶こと足利義昭です。
兄を暗殺され幕府再興を期す義昭の目的は上洛であり、義景に対して兵を出すよう幾度も要請していました。
しかし、越前の安定を優先する義景は、軍事行動には慎重で一向に話が進まない。
義景は教養豊かで、一乗谷に高度な文化を築いてはいましたが、決断力には欠けていたようで、その側にいた光秀も思うところがあったのでしょう。
いつしか光秀は、義昭の側近である細川藤孝に近づき、美濃を平定したばかりの織田信長へ接触するよう図りました。
信長と義昭に「両属」
永禄十一年(1568年)7月、明智光秀や細川藤孝らの働きもあって、足利義昭と織田信長が対面が実現しました。
実は両者の間では、永禄九年(1566年)8月にも上洛の話が浮上していたのですが、計画は流れています。
当時はまだ信長が美濃を平定する前であったこと。
三好三人衆の邪魔が入ったこと。
そうした障壁が信長の美濃攻略によって取り払われ、今度こそ上洛作戦は実行されるのでした。

織田信長/wikimedia commons
永禄十一年(1568年)9月、晴れて義昭と共に上洛を果たした光秀ですが、その後の立場は少々複雑なものになっていきました。
足利義昭の家臣であると同時に、織田信長にも仕えるような状況になったのです。
当時の言葉で「両属(りょうぞく)」と呼ばれ、翌永禄十二年(1569年)の頃は、京都の治安維持や訴訟の処理を行う政務担当者としての活動に勤しんでいます。
このとき同じ政務担当の中にいたのが豊臣秀吉や丹羽長秀など、織田家の中心にいた有力武将たち。
光秀は、自身が幕府と織田家のパイプ役を果たしながら、新しい統治の形を模索していたのでしょう。
しかし、現実は非情でした。
義昭と信長が対立!
足利義昭と織田信長の蜜月は、長くは続きませんでした。
いざ将軍に就任したものの、自分勝手な振る舞いをしたとされる足利義昭に対し、信長は『殿中御掟』などの指示書を送り、将軍の政治活動を制限し始めます。
権威を笠に着るような義昭に対し、合理的な統治を求める信長――大まかには、そうした構図だったのでしょう。
後世から見ると無力にも見える義昭ですが、当時は一定の権限を有しており、だからこそ信長もあれこれと口を挟むことになったのです。

足利義昭/wikimedia commons
元亀元年(1570年)1月には、信長から義昭に対して、将軍の専断を禁じる「五ヶ条の条書」を認めさせます。
このとき信長側の証人として署名していたのが光秀でした。
光秀としては、既にこの時点で義昭よりも信長の方へと大きく傾いていたのでしょう。
元亀二年(1571年)、浅井朝倉軍の肩を持ち軍事要塞化していた延暦寺に対し、信長が光秀らに命じて比叡山焼き討ちを強行すると、その功績が認められて近江国志賀郡が与えられました。
光秀は坂本城を築き、京都と近江をつなぐ要衝を守ります。
織田家中の城持ちとして確固たる地位を築いたのです。
一方、義昭は各地の大名に密書を送るなどして、信長包囲網を活発化させる画策を続けました。
将軍と信長のどちらを選ぶ――光秀に迷いはなかったのか?
後に光秀自身が記した『明智光秀家中軍法』とされる文書には、
「自分は石ころのような身分であったにもかかわらず、信長によって大抜擢され大軍を預けられ」
という文言があり、大きな恩義を感じていたのでしょう。
旧来の幕府秩序のもとでは決して得られない、そんな出世っぷりでした。
槇島城で決定的となった光秀の立場
元亀四年(1573年)七月、織田信長との「槇島城の戦い」に敗れた足利義昭は京都から追放されることになりました。
二百年以上続いた室町幕府は事実上の滅亡。
しかし、この最終局面において、光秀に躊躇した様子は見られません。
信長軍の主力として義昭の籠もる槙島城を攻め、かつての主君を追放する役割を担ったのです。
その後の光秀は、織田家の重臣として各地で重用されます。
例えば丹波の攻略がその一つ。
山々の連なる丹波は国としてまとまっているわけではありませんが、要所要所に赤井直正や波多野秀治などの手強い国衆がいて、一筋縄ではいきません。

波多野秀治/wikimedia commons
そんな赤井氏や波多野氏らの攻略を進めつつ、信長から要請があれば様々な場所へ参陣を果たす――。
軍事能力だけでなく、教養、行政手腕を高く評価された光秀は、信長によって重用され続けるのです。
その結末が「本能寺の変」というのはあまりにも哀しい最期ですが、一方で豊臣秀吉が台頭していく契機にもなり、明智光秀も信長とほぼ同時期に人生の幕を閉じるのでした。
なお、光秀と共に京都の政務を担当した秀吉については「なぜ秀吉は信長から北近江を任されたのか?」をご覧ください。
参考文献
柴裕之『図説 明智光秀』(2018年12月 戎光祥出版)
柴裕之『戦国武将列伝 別巻1 織田編』(2025年8月 戎光祥出版)
高橋成計『明智光秀の城郭と合戦』(2019年8月 戎光祥出版)
洋泉社編集部『明智光秀 ここまでわかった本能寺の変と明智光秀』(2014年2月 洋泉社)
藤井讓治『織豊期主要人物居所集成』(2024年8月 思文閣出版)
堀新『信長公記を読む』(2009年2月 吉川弘文館)
池上裕子『織田信長(人物叢書)』(2012年10月 吉川弘文館)
【TOP画像】足利義昭・織田信長・明智光秀の肖像画/wikimedia commons
