小早川隆景

小早川隆景/wikipediaより引用

毛利家

小早川隆景(元就の三男)はキレ者ぞ~王佐の才は毛利や秀吉に重宝され

戦国ファンにとって、毛利家の伝説「三本の矢」は常識かもしれません。

ただし、その矢の一本ずつが誰なのか? 具体的にどんな活躍をしていたのか?

となると、スラスラ即答できる方は意外と少ないかもしれません。

一本目から三本目まで、

上記のように並び、特に下の二人は現代まで勇名を馳せる武将ですが、今回はそのうち三本目に注目してみたいと思います。

慶長二年(1597年)6月12日は、毛利元就の三男であり、毛利両川の片方である小早川隆景(こばやかわたかかげ)の命日です。

波乱に満ちたその生涯、あらためて振り返ってみましょう。

 

厳島で大活躍! 毛利水軍の要にもなった

隆景は元就の三男であり、最初の正室の子供としては末っ子。

父の死後は毛利家の実務と責任(と胃痛)を一身に引き受けることになります。

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まあ、若い頃から父・元就の作戦に従って小早川家へ婿養子入りしたり、元就最大の作戦【厳島の戦い】でも見事に敵を追い詰めたり、色々と高いレベルでこなしていたので、周囲からは信頼されていたでしょう。

一応、小早川家のほうは穏便に世代交代しています。

奥さんとの仲も円満でしたし、小早川家の家臣達ともうまくやっていたようです。

当時の小早川家は二系統あり、本家筋のほうの当主が病気で視力を失ってしまい、家臣達から「もうちょっと頼れる当主様がほしい;」と思っていたからかもしれません。

その後、厳島の戦いが起きたのですが、婿養子に入ってからわずか三年後だと懐うと、改めてスゴイ統率力ですよね。

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小早川家は元々水軍を持っていましたので、必然的に隆景が入ってからは毛利水軍の要になっていきます。

厳島の戦いの後も、父・元就の存命中は尼子氏攻めや四国・九州出兵に従って進軍。

全てがうまくいったわけではありませんが、大きなトラブルは起きていないので、これは時の運の範疇でしょう。

そんなわけで、父の存命中も大活躍だった隆景ですが、元就の死後その才能はより輝いていきます。

長兄の隆元が早くに亡くなっており、その長男・毛利輝元がまだまだ子供だったからです。

隆景にとっては甥っ子ですね。

隆景は序列をとても大切にする人だったので、甥っ子だからといってナメてかかることはありませんでしたが、しつけと教育はしっかりやっていました。

輝元がごねるときには容赦なく折檻したそうです。こええ。

小早川隆景/wikipediaより引用

 

石山本願寺を助け、信長の西進を食い止める

さて、元就が亡くなって数年後から、毛利家は新たに巨大な敵と戦うことになります。

織田信長です。

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室町幕府最後の将軍・足利義昭が毛利家の領内に落ちてきたあとは、義昭の要請もあって織田家と戦わざるを得なくなりました。

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隆景は、信長包囲網の一角となり、織田軍を度々苦しめていくことになります。

特に石山本願寺とは深く結びつき、小早川家と村上水軍の活躍で信長を大いにてこずらせました。

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これに対抗するために作らせたといわれているのが信長が考案したという”鉄甲船”です。

船体を鉄で覆い、装甲を頑強にした船で、当時の技術力からして真偽の程は怪しいながら、ともかく両者はぶつかりました。

ある意味、隆景vs信長という構図でもあったんですね。

これに勝利したのは信長。

そして信長包囲網も諸々の理由で破れていくことになります。

上杉謙信が急死してまず北の一角が崩れ、さらに朝廷の勅命で本願寺が和解。

毛利家も織田家と積極的にやりあう必要はなくなってきます。

元就の遺言にも「天下を望むな」という一節がありました。

 

秀吉の強力な城攻めに対し三万の兵を率いるも

毛利としても織田との全面対決は避けたい――。

ところが「天下布武」をモットーとする信長ですから、そうは問屋が卸しません。

包囲網に参加していた各地の大名へ軍を差し向けます。もちろん毛利家も例外ではありません。

当時、羽柴姓だった豊臣秀吉に「お前が毛利を担当な!」(超訳)と命じたのです。

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こうして秀吉vs毛利家という構図ができ、その中には「三木の干し殺し」や「鳥取の飢え殺し」、そして清水宗治の「備中高松城水攻め」がありました。

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備中高松城の水攻めに対し、毛利家では三万の兵を率いて救援を試みています。

しかし、同時期に信長本軍は武田家を滅ぼしており、準備が整い次第、中国へやってくることも見えていました。

そのため隆景は従軍しつつ、安国寺恵瓊あんこくじえけいに命じて和睦の道を探っています。

既に二つの城を悲惨な手段で落とされていますから、これ以上の犠牲を出せば、たとえ勝ったとしても民心が離れ、自国が危うくなると考えたのでしょう。

それにこの段階で、毛利の国力は疲弊しきっており、合戦を続ける余力はほとんどありませんでした。

ところがところが、です……。

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