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【鏡山城の戦い】
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仁義なき経久の戦後処理
一つは尼子経久の戦後処理でした。
経久は元就が計略を用いたことを嫌い、蔵田直信を処刑させた上、毛利家に恩賞を与えなかったのです。
これではタダ働きになってしまうわけで、当然、元就も毛利家の人々も尼子氏のやり方に納得いきません。
問題は尼子氏の評判だけでなく、「元就は約束を反故にする奴」と思われてしまえば、今後、調略が使えなくなる恐れもあります。
後に元就は尼子氏を見限って大内方へつくのですが、それも致し方ない経緯といえるでしょう。
どんなに力があっても、まともに評価してくれないような主君には従属することはできません。
そしてもう一つは、戦の直後に毛利幸松丸(こうまつまる)が亡くなったということ。

毛利幸松丸/wikipediaより引用
もともと体が弱かったからということに加え、その死に際しては以下のような説が残されているのです。
・鏡山城の戦いの後に行われた首実検で卒倒したのが原因
・毛利家の家臣たちが、嫌がる幸松丸を無理やり首実検の場に連れていった
前述の通り、幸松丸は当時数えで10歳(満8歳)です。
たとえ主君の立場にあるとしても、そんな幼子に無理やり生首など見せたら凄まじいストレスとなりましょう。
仮に心臓が弱い子だったら、ショックで相当なダメージを負うのが普通です。
これはあくまで毛利家内での話でしたが、いずれにせよ幸松丸には兄弟がいなかったので、これで毛利家の家督は元就が継がざるを得なくなりました。
そしてもう一つの事件に繋がってしまいます。
異母弟・相合元綱と家督争い
毛利家の家督について、実は「元就一択!」と、すんなり決まったわけではありませんでした。
異母弟である相合元綱(あいおう もとつな)を推す動きもあったのです。
能力の高さが見込まれたのでしょう。元就を推す重臣のほうが多かったので、当主の座に就くこととなりました。
しかし、元綱派は懲りずにその後も密かに謀反を企てます。
そして翌大永四年(1524年)4月、元就暗殺計画を実行しようとして、元綱ごと処分されて終わりました。
なんともドロドロした経過ですが、元綱の子である相合元範(あいおう もとのり)まで追いかけてみると、一応は丸く収まっています。
当時の元範は幼少だったため連座を免れ、子孫は後々まで長州藩士の家として存続しているのです。
「敵対していた弟の子供を助けた」という点は「織田信長が弟の織田信勝(信行)を誅殺するも、その子である津田信澄は助命した」展開と似ていますね。
なお、幸松丸は元就に暗殺されたのでは?
そんな疑問も頭に浮かんでくるかもしれませんが、以下の勢力図のように当時の毛利はまだまだ弱小の国衆であり、

元就が毛利を継いだ頃の勢力図(広島県HP参照)
一族の力が弱まってしまうようなリスクを元就ならば選ばないのでは?と感じます。
なんせ当時の乳幼児の死亡率は非常に高く、無事に成人するだけでも喜ばしいぐらいですので、幸松丸も病気などの自然死と考えるほうが妥当でしょう(以下に関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください)。
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長月 七紀・記
【参考】
森本繁『<毛利元就と戦国時代>知将・元就 版図拡大の軌跡を追う (歴史群像デジタルアーカイブス)』(→amazon)
小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術―――忍従の果て、ついに元就は決起した! (知的生きかた文庫)』(→amazon)
日本歴史地名大系
他