荒木村重

刀に刺した饅頭を織田信長に差し出され、それを食べる逸話の荒木村重(歌川国芳作)/wikipediaより引用

織田家

信長を裏切り妻子を捨てた荒木村重 “道糞”と蔑まれた生涯52年とは

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信長に従い義昭攻めに参戦す

天正元年(1573年)3月29日。

村重は逢坂で、岐阜から京都へ向かう途中の信長を出迎えました。

このときの上洛は、将軍・義昭を攻めるためのもの。村重には細川藤孝(細川幽斎)も同行しており、

「もう将軍様を見限り、信長様に仕えます」

と宣言したようなものです。

信長は殊勝に思い、二人に褒美を与えました。村重には、名工・郷義弘の刀が下賜されています。

実際のところ、この上洛で信長と義昭は一旦和議を結ぶに終わり、同年7月に再び対立。

槙島城へ逃げた義昭を信長が攻め、村重は信長軍の一員として戦いました。

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一方、形式上は村重の主だった池田知正は義昭方。

義昭が槇島城の戦いに敗れて追放され、知正も没落します。

これにより、池田氏は摂津での権力を完全に失い、三人いた守護のうち伊丹忠親だけが残りました。

信長はこの構図を利用し、村重に忠親を攻めさせて、摂津を一元支配しようと考えたようです。

村重に摂津の大部分における支配権を与えると、当人もよく働き、天正二年(1574年)11月には伊丹城を攻略。有岡城と改めて居城とします。

さらには天正三年(1575年)、有馬の有馬氏を滅ぼして、摂津の一元支配を確立しました。

それだけではありません。

他地域の戦である【越前一向一揆】の攻略や【石山本願寺攻め】【紀州征伐】にも参加して武功を挙げ、信長からの覚えも上々といったところ。

さらには播磨の国人たちとの仲介も務めていたようです。

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こうした八面六臂の活躍で、やっかみを買ったのでしょうか。

いつしか良からぬ噂が立ち始めました。

 

謀反の噂が流れ、そして謀反を起こす

噂とは主に次の通り。

「村重は信長に逆らおうとしている」

「村重のいとこ・中川清秀の家臣が、石山本願寺にこっそり米を売っている」

信長の耳にも届いていたらしく、明智光秀・松井友閑・万見重元らが糾問の使者として、村重の元を訪れます。

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彼らは

「安土城へ出向き、あなたが直接信長様に弁明したほうがいいでしょう」

と告げ、村重もそうしようとしました。

しかし、清秀が反対します。

「そんなことをすれば、そのまま処刑されるに決まっている。行かないほうがいい」

運命の分かれ道――村重は清秀の話を信じてしまったのか。おそらく処刑よりはマシだと考えたのでしょう。

そのまま反逆を実行します。

おそらくや信長も「ただの噂だろうし、潔白ならば出向いてくる」と考えており、この急展開には驚いたことでしょう。

旧知の仲である小寺孝高(黒田孝高・黒田官兵衛)も村重説得に向かいましたが、すっかり覚悟を決めてしまっていたようで聞く耳を持ちません。どころか官兵衛をそのまま伊丹城内に監禁してしまいました。

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この一件で、信長はさらにブチギレ!

官兵衛が監禁されていることなど知りませんので「ヤツも裏切ったか! ならば人質を殺すまでよ!」と、嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を秀吉に命じます。

しかし、この件に関しては竹中重治(竹中半兵衛)の機転で松寿丸は匿われ、事なきを得ています。

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それよりも問題は、残された村重の親類縁者たちでしょう。

大勢の者たちがムゴい殺され方をします。

 

清秀と右近は当初村重に味方をしたが……

村重がクーデターを起こしたとき。

近隣の中川清秀は自らが、高山右近は村重に人質を出していたため、当初2名は村重方につきました。

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しかし織田軍が攻め寄せてくると、二人ともあえなく降参。

厳密に言えば、右近は「信長に領地を返上する」という形で屈しています。

領地がなくては兵も兵糧も用意できません。ゆえに村重への攻め手に加わらずに済む。となると、村重を裏切ったわけではなくなるので、人質を処刑されるおそれもない……というわけです。

人質は、大義名分があってこそ意味があります。

裏切り者ではない武将からの人質を殺せば、他の大名や世間からの評判がダダ下がり。

いかに倫理観の緩い戦国時代でも、世間からの信用を蔑ろにすれば国力も支配力も弱まります。

武器を買うにも戦のために他国を行き来するにも、血縁以外の者の協力が不可欠であり、この後の村重は、信長の敵対勢力と結びついて、生き残る道を模索しようとしました。

例えば以下のような勢力がおりました。

・京を追放されながらも、正式には将軍の座を手放していない足利義昭

・信長最大の敵ともいえる、石山本願寺

・当時、織田家とぶつかり合い始めた毛利氏

そもそも村重の謀反自体が、上記いずれかの勢力による調略だったという説もあります。

2021年現在でも村重が謀反した正確な理由はわかっていませんが、全くの無関係というわけではないのでしょう。

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