戦国史を現代風に大胆アレンジして楽しむマンガ『戦国ブギウギNEO』の第22話。
今回は武田信玄の西上作戦に注目!
一言坂の戦いから三方ヶ原の戦いへと進む中、両軍が誇る戦場無傷の武将たちはどんな活躍をするのか。
本多忠勝そして馬場信房にスポットを当てながら、本マンガで確認してまいりましょう!
戦場無傷対決

◆元亀三年(1573年)10月、武田信玄は軍を分けて三河と遠江、そして美濃へ侵攻。
徳川方の拠点を次々に落としていたところ、偵察に向かったとされる徳川軍と遭遇します。
武田軍には戦場での無傷伝説を誇る馬場信房(信春)がいて、徳川軍にも同じく本多忠勝がいる。果たして両雄は?
一言坂の戦い

◆武田軍の猛攻から家康を逃すため、本多忠勝が立ち塞がったのが一言坂の戦い。
馬場だけでなく赤備えの山県昌景がいたという武田軍最強の部隊を前に、忠勝は必死に食い止め、後に武田軍の小松右近助(漫画では小杉左近)から以下のような狂歌で称えられたとされます。
戦国最強ともされる武田軍の言葉ですから重みがあります。
しかも平山優氏の著書『新説 家康と三方原合戦: 生涯唯一の大敗を読み解く』によると、この狂歌は細川忠興の書状でも見られ、実際に詠まれたものではないかと指摘されています。
てっきり創作かと思いき、史実って凄いすね!
三方ヶ原の戦い

◆元亀3年12月22日(1573年1月25日)、浜松城を素通りしようとした武田軍に襲いかかった家康。
三方ヶ原を進軍しているところで、武田の大軍にも隙ができる――そう踏んでいたようですが、実際は待ち伏せされておりました。
もしも自分が同じ目に遭ったらどう思われます?
もう命からがら逃げるしかなく、恐怖で顔も全身もひきつって、ウ◯コ漏らしちゃいません?
そんな逸話が残されたのが家康の焼き味噌伝説です。
城も臭って、武田軍は入って来れずですが……さすがにこちらは創作でしょう。
信玄の死

◆三方ヶ原の戦いで家康を完膚なきまでに叩き、さらに西上作戦を続ける武田信玄。
突如、不可解な動きをします。
織田信長の領国である尾張を目指すのかと思いきや、帰路についてしまった。
そう、本当は病没したと考えられていて、ひっそりと撤退したのです。
元亀四年(1573年)4月、戦国最強と恐れられた信玄は西上作戦の途上で没するのでした。
敵に塩を送る

◆武田信玄が駿河侵攻を強行すると、娘を酷い目に遭わされた北条氏康は「塩留(しおどめ)」を強行します。
甲斐へ塩を送らせないようにしたんですね。
しかし、越後からは問題なく送られ続けた――と、これは上杉謙信が“義の武将”だったからではなく、実際は北条のように輸出禁止としなかっただけと考えられています。
それが巡り巡って「敵に塩を送る」という言葉となり、現代にも伝わっているんですね。
なお、当時は信長と昵懇の仲だった謙信も、後に織田家と対立することとなり、今後も見逃せない展開となっております。
※著者・アニィたかはしの『大河ブギウギ豊臣兄弟編Youtube』はこちらから👇️
文:五十嵐利休

