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ゴールデンカムイ特集

南樺太の歴史~戦前の日本経済に貢献した過去をゴールデンカムイから知ろうではないか

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日露戦争直後の北海道を舞台にした大人気作品『ゴールデンカムイ』。

 

14巻終盤から本作の舞台は樺太へと移動し、本日2018年9月19日発売の15巻からは、この土地を旅する杉元ら先遣隊の足跡を追うことになります。

日露戦争後に日本領となったこの地は、北海道と似ているようで、異なる場所でした。

北海道より降雪が早い。
ヒグマだけではなくクズリという猛獣が存在する。
住民は、日本人だけではなく、樺太アイヌ、ロシア人らが含まれる。
特産品はフレップワイン。

猛者である杉元すら「樺太やばいな」と連呼する“未知の場所”でした。

現在はロシア領となった樺太ですが、明治時代初期までは日本の領土。
日露戦争後は南のみ日本領に復帰するものの、太平洋戦争の最中に奪われていきました。

では日本領であったころ、樺太の人々はどんな暮らしをしていたのでしょうか。
よろしければ樺太の歴史と合わせてご覧ください。

【関連記事】樺太の歴史

 

日露戦争で取り戻した南樺太

そもそも江戸幕府が樺太を意識し始めたのは、いつ頃なのか?
ロシアが進出してきた江戸時代の後期頃からでした(以下、関連記事)。

江戸~明治の日露関係史はアイヌを見落としがち!ゴールデンカムイを機に振り返る

当時の幕府は、ロシアとの交渉をとにかく先延ばしにする外交方針。
煮え切らないその対応に苛立ったロシアは、クシュンコタン(のちの豊原・現在のユジノサハリンスク)を襲撃します。

ロシアにとって樺太は“不凍港”を持つ魅力ある島でした。

こうした動きを警戒し、警備に当たったのが会津藩や仙台藩など奥羽の有力諸藩です。
間宮林蔵に探険を行わせたのも、このあとのことでした。

黒船来港以来の幕末期にも、北蝦夷と呼ばれた樺太最南端の警備を奥羽諸藩が担当していましたが、戊辰戦争により、奥羽諸藩はそれどころではなくなってしまいます。

そして明治新政府の発足。
蝦夷地は北海道となり、開拓が始まりました。

樺太も開拓すべきという意見があったのですがが、明治3年(1870年)、イギリスが強引に干渉してくるのです。

「樺太なんて、古船一艘の価値もない土地です。ロシアにくれてやればいい」

西郷隆盛や、幕臣出身でアイヌとも交流のあった官吏がこれに反発。
しかし新政府は押し切られてしまいました(以下、関連記事)。

樺太(からふと)の歴史は“無関心”の歴史 ゴールデンカムイの舞台に今こそ刮目せよ

こうしてロシア領にされた樺太。
日露戦争で日本軍が樺太に攻め込み、快勝をおさめます。

ロシアは樺太を占領していたものの「囚人の島」と呼ばれたほどの扱い。
革命前夜であり、政情は不安定でした(以下、関連記事)。

帝政ロシア・ロマノフ朝が滅亡しロシア革命が起きるまで! 漫画ゴールデンカムイのお供に

樺太を死守する気はさらさらないロシアと、奪還に意欲を燃やす日本。
モチベーションの時点で、かなりの差があったのです(以下、関連記事)。

日露戦争の最終戦「樺太の戦い」 樺太(サハリン)の地図が南北にすっぱり切れている理由

しかし日露戦争は、日本の勝利とはいえ、実態は薄氷を踏むようなものであり、賠償金も領土も、日清戦争より少なく、国内には不満が渦巻きました(以下、関連記事)。

日露戦争は勝利に非ず!? ゴールデンカムイの帰還兵たちが翳を背負っているのはナゼなのか

そんな中、なんとか得られた南樺太です。
実に貴重な獲得領土でした。

銭湯の客「兄ちゃんたちが戦ってくれたから 日本は南樺太を取り返せた おかげでこの港町はこれからもっともっと栄えるだろう 本当にご苦労様でした」
杉元「……儲かるのは商人だけだろ」
(『ゴールデンカムイ』1巻3話)

マンガ『ゴールデンカムイ』の中で、杉元は銭湯で客とこんな会話を交わしますが、それは、こうした状況を踏まえたものです。

このときまさか、自分が樺太に行くとは思いもしなかったでしょう。
杉元一行がたどり着いた南樺太。
そこは、古船一艘どころではありません。
商人以外もたんまり利益を得ることのできる、豊かな島でした。

杉元が訪れた頃は、樺太民政署が樺太庁に変わった頃と同時期と推察されます。
日本による統治が、進んでいった時期でした。

 

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魚介類が豊富! ニシンが取れる

『ゴールデンカムイ』4巻収録。
37話から登場する辺見和雄は「ヤン衆」の一人です。

「ヤン衆」とは、北海道で盛んだったニシン猟に従事する、季節労働者のことです。

東北地方出身者が多く、辺見のようなおたずね者でも紛れ込みやすい労働現場でした。

ニシン漁で財を成し、立てられた「鰊御殿」内部・ヤン衆が寝泊まりした場所/photo by タクナワン  wikipediaより引用

当時の北海道でニシンは、猫でもまたぐ「猫またぎ」と呼ばれたほど。
魚が好きな猫すら食べないほど、ニシンが大量に捕獲されたという意味がこめられています。

あまりの量の多さから、食料ではなく燃料として用いられたほどでした。
※そういえば江戸時代にはマグロの大トロも“猫またぎ”と呼ばれたという話がありますね

辺見のようなヤン衆が向かった先は、北海道だけではありません。
南樺太が日本領となると、まず注目を集めたのはその豊富な漁獲量であったのです。

南樺太が日本領となる前の明治20年代(1890年代)頃から、日本人漁業者が樺太へ進出。
ロシア側でも、彼らに漁場を開放することが利益につながると考えるようになります。

漁獲されたニシンは、辺見の妄想でもおなじみの圧搾機「角胴」で肥料「鰊粕」にされ、日本に向けて送られます。

圧搾機「角胴」/photo by タクナワン wikipediaより引用

また、当時の昆布は、清国向けの輸出品として重視されておりました。

こうした漁業は「薩哈嗹島漁業(サハリン島漁業)」、短縮して「薩島漁業」。
彼らは日本とロシア政府の狭間にありながら巧みに立ち回ります。

そんな状況ですから、南樺太が日本領となり、「薩島漁業」から「樺太漁業」に転換したことは、非常に喜ばしいことでした。

故郷でじっとしているよりも、漁業で発展する北海道や樺太で稼ぐ方がよい――。
東北地方の人々は、こうしてヤン衆となったわけです。

 

樺太漁業の行き詰まり

「樺太に行けば、鮭が食い放題で金もごっそり稼げるぞ」

ヤン衆の中には、そんな業者の甘言に釣られ、親の目を盗み実印を押す若者もいたのだとか。
『ゴールデンカムイ』12巻収録第114話では、アイヌのコタン(村落)が飛蝗(こうがい・バッタなどによる災害)により大打撃を受けます。結果、コタンに住むアイヌのキラウシは、和人の元で出稼ぎをすることになりました。

当時は、北海道のみならず樺太でも、アイヌやニヴフといった原住民たちが漁場で出稼ぎをしていたのです。

ただし、出稼ぎ労働者しての生活はバラ色ではありません。
劣悪な条件と寒冷な環境で酷使され、脱走を起こす労働者もおりました。

不衛生で医師もいない労働現場では、病人も続出。
あまりに劣悪な食事のため、彼らの間では脚気が蔓延し、集団逃走がしばしば起こったほどです。

時代が降ると、彼らは逃走とは別の手段で訴え出ます。
雇用主に訴え出たのです。

「こんな劣悪な労働環境じゃ働けない!」
「何の実入りもないようなもんだ!」

訴えるだけではなく、事務所を破壊することも。
こうした労働者の蜂起以外にも、問題がありました。

北海道のニシン漁は、あまりの乱獲が祟り、昭和を迎えた頃から急激に数が減っていきます。当時の北海道や樺太でも、さすがにこれはやり過ぎではないか、と不安視する声があったのです。

さらに杉元らが樺太に渡った明治40年(1907年)頃ともなると、肥料業界に変動が起こり始めました。

満州鉄道を用いて、満州から安価な豆粕が輸入され始めたのです。
化学肥料も増加しています。

肥料としての鰊粕は、重要性が低下してゆきました。

・出稼ぎ労働者の反発
・ニシンの枯渇警戒
・肥料としての鰊粕の地位低下

こうした条件が重なり、南樺太では“次の産業”が求められることになりました。

 

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パルプ生産一大地

杉元らは旅の途中、樺太の森林を通ります。

ヒグマのみならず、クズリにまで襲われてしまう一行。
あの描写を読んでいると、樺太やべえ、森怖え、と思ってしまいます。

しかし、この森林こそ樺太の資源でした。

樺太の原住民は森林と共生して過ごしておりました。
ロシアによる支配中も、せいぜい燃料にする程度しか、森林は伐採されてません。

そのため日本が南樺太を手にしたとき、広大な森林が残されておりました。

樺太庁は明治43年(1910年)に「林産物大口売払内規」、翌明治44年(1911年)には「樺太森林原野産物特別処分令」が施工されます。
樺太で森林を伐採し、パルプ生産を開始するということです。

当時は、時代の状況もこれを後押しします。

ヨーロッパを巻き込んだ第一次世界大戦による輸出増加。
関東大震災の復興需要。

時代の要請に応えたのが、樺太のパルプです。
王子製紙の工場は9カ所に及び、現代でも7カ所の跡地が確認できるほどの隆盛となりました。

王子製紙豊原工場/wikipediaより引用

なお、こうした林業等に従事する季節による出稼ぎ労働者は「ジャコジカ」とか「ジャコ」と呼ばれました。
アシリパの父・ウィルクも、かつてそう呼ばれていたことがのちに判明します。

シベリアジャコウジカ/photo by Moschustier wikipediaより引用

皆さんのご想像どおり、こうした林業は、環境破壊をもたらしかねないもの。
伐採すれば、それまで覆われていた地面が露出し、どうしたって環境に影響を与えてしいまいます。

かくしてパルプ産業が始まってから、大規模な森林を枯らしてしまう虫害が発生。
山林火災も起こりました。
樺太庁は森林保護対策を取りましたが、それでも盗伐、誤伐といった計画外の森林消費は防ぎきれません。

林業は、樺太経済の大動脈となりました。
環境保護が大事といえども、こうなってしまっては中々セーブが利かないものです。

長いこと人の手が入らなかった、樺太の森林や、その環境は、日本領となることで大きく変化してしまったのです。

またパルプ工場は、大量の電力も消費しました。
そうなると必要とされるものが、発電所とその燃料です。

大正2年(1913年)、パルプ生産と並行して、樺太での炭坑が開封。
それまで樺太の石炭は保護のため封鎖されていたのですが、パルプ工場の発展は、樺太での炭坑だけでなく鉄道網整備も進めることになりました。




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魚を捕り、森林を伐採していた樺太の生活風景が一変し、鋼業と工業へと変貌していったのです。

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