井伊直弼/wikipediaより引用

幕末・維新

井伊直弼は生まれたときから波乱万丈~桜田門外に散るまで46年の生涯まとめ

戦国初期は、今川家の国衆に過ぎなかった井伊家。

そんな小さな家から、徳川家康の天下取りを支え、大出世を遂げた人物が井伊直政です。

彼らの苦難を描いた大河ドラマが2017年『おんな城主 井伊直虎』だったことはよくご存知のことでしょう。

しかし、井伊家が大河の主役を飾ったのは、実は昨年が二度目のことであります。

栄えある第一作『花の生涯』。

その主人公こそ【安政の大獄【や【桜田門外の変】で知られる井伊直弼でした。

 

大河ドラマの主役らしい主役とは?

本題の前に、井伊直弼とも関係の深い大河ドラマの話からさせていただきます。

現在の大河において、欠点としてあげられやすいのが以下の条件です。

・主人公が女
・主人公が敗者
・脚本家が女性
・若い視聴者狙いでイケメンやアイドル女優が出演
・架空のキャラクターが出てくる

主なキーワードとしては「女性」や「敗者」、「ミーハー」というところでしょうか。

こうした点を踏まえますと、逆に

・主人公が男
・主人公が勝者
・脚本家が男性
・若い視聴者狙いのキャスティングはしない
・架空のキャラクターは出さない

といった条件が望ましいとなります。いわゆる「古き良き大河ドラマ」ですね。

ところが、です。
実は、この法則は、大河ドラマ草創期においてもあてはまりません。

今から50年前、明治維新100周をふまえて作られた第5作目の大河ドラマ『三姉妹』の主役は、幕臣旗本の娘たちでした(NHK)。

この作品では

・女性主人公
・架空人物
・幕臣という負け組

という、ダメダメの法則が三拍子で揃っております。

当時、話題作りとしてイケメンやアイドルのような女優を出すことはアリでした。あくまで基本は、脚本や演出、演技等の実力勝負という意識が強かったのでしょう。

2016年『真田丸』で人気を博した草刈正雄さんも、1976年『風と雲と虹と』に初出演した当時は、旬の美男若手俳優でした。

1987年『独眼竜政宗』の秋吉久美子さんも、当時はセクシーなアイドル。それを反映してか、政宗との入浴シーンまでありました。

放映当時「トレンディ大河」と揶揄された1991年の『太平記』では、男性の北畠親房を、美少女アイドルとして人気のあった後藤久美子さんが演じています。今では考えられないほど、斬新な試みです。

そして、負け組のドラマなんて見たくもない、という批判。これにつきましては、そもそも一作目の主人公が井伊直弼という時点で、何を言っているのか、という話です。

それでも気になる方も多いとは思います。

井伊直弼で一年間も持たせることができたの?

「安政の大獄」と「桜田門外の変」だけでは?

答えは、むろん、イエス。どうしても幕末の動乱期ばかりが注目を集める直弼ですが、実は生まれた時から波乱の人生を送ってきました。

十分ドラマになる人物なのです。

 

彦根藩主の庶子として

井伊直弼は文化12年(1815年)、近江の彦根藩第11代当主・井伊直中(なおなか)の14男として生まれました。

母は側室のお富。

直中と富の間には既に二人の男子(11男・直元、13男・直与)がおり、直弼は富にとって三番目の子ということになります。

母の富は、美貌と知性で寵愛を受けましたが、実家は浪人でした。

しかも直中はこのころ既に隠居しており、直弼は晩年の子になります。

我が子というよりは孫のような感覚でしょう。彦根藩の江戸屋敷で、直弼は父母に可愛がられて育ちました。

5才の時に母、17才で父を亡くすという不幸はあったものの、当時は彦根藩の藩政も比較的安定しており、直弼は穏やかな暮らしを送ることができました。

 

「埋もれ木」の生活

父の死後、直弼は彦根城内の屋敷に移ります。

18才で元服もしますが、出自は庶子で、兄もかなり多い。

直弼は世捨て人のような境遇に置かれました。

名門井伊家の子でも、さすがに14番目の男子となりますと、養子になれる道もありません。300俵の部屋住みとして、ほとんど未来のない日々を送ることになるのです。

かくして32歳までの15年間。

300俵の部屋住みとして過ごした直弼は、自邸を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けました。部屋住みの身として、花咲くことのない我が身を、埋もれ木にたとえたのです。

後に、直弼の住まいは、「埋木舎」から「柳和舎」、「柳王舎」へと移ります。

柳は直弼の好んだ木でした。

直弼が暮らしていた埋木舎/photo by 663highland Wikipediaより引用

もちろん、ただ漫然と過ごしていたわけではありません。直弼は井伊家の男子らしく、武芸学問に励んでいます。

武芸は、剣術、鑓術、馬術、居合術。居合術については一派を創設したほどです。

学問は、兵学、古典文学、和歌、俳諧、狂歌。

その他にも能、茶道、禅、和楽器をこなし、いずれの道においても、卓越した才能を見せます。

そうした修養の日々を送りながら、直弼はやはり己の境遇に虚しさを感じてしまいます。

仕方のないことでしょう。いくら才能があっても持て余すだけなのですから。

井伊家の庶子は、仏門に入ることがありました。直弼の叔父も、そうでした。

この俗世にいても埋もれ木なのであれば、いっそ仏門に入った方がよいのではないか――そんな思いから、直弼は禅にも傾倒していきます。

天保14年(1842年)頃、直弼は、後の行動をともにする長野主膳義言という人物と知り合った、とされています。

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出会った頃の二人は和歌について関心を持っておりました。そのうち国学を習うようになり、直弼はその方面も造詣を深めることになります。

 

井伊家の世子として

ずっと燻っていた直弼に、急な転機が訪れたのは32才のときです。

弘化3年(1846年)、兄・直元が急死。江戸出府を命じられ、12代藩主・直亮の世子、次期藩主とされたのです。

17才から15年、およそ人生の半分を埋もれ木として過ごしてきた直弼にとって、予想外のことでした。

直弼自身も、戸惑いを隠せません。なんせ、埋もれ木という境遇が終わり、名門井伊家の世子となることは、大変なプレッシャーです。

跡継ぎとそれ以外の教育、暮らし、覚悟というのは、まったく違う。

しかも、30を過ぎてからの激変では、直弼でなくても相当なストレスと疲労を感じたことでしょう。

直弼からみると、養父となった直亮はどうにも自分勝手で、言うことを聞く家臣ばかりを重用しているように思えました。直亮も、直弼に対して良い感情を抱いていなかったようです。

井伊直亮/Wikipediaより引用

直亮は、蘭学に興味関心があり、西洋の文物を積極的に取り入れようとしていました。

しかし当時の彦根藩は財政が悪化しており、そのような開発事業に予算を割いてもよいかどうか、難しい局面。

直弼と直亮の対立は、薩摩藩で言えば島津斉興島津斉彬の対立に似たような部分があったのでしょう。

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直弼は、直亮との対立に悩みながらも、井伊家世子としての意識を高めてゆきました。なんせ彼らは、将軍家との関係において特別な間柄です。

井伊家は、将軍家にとって常に先鋒でなくてはならない――直弼はそう意識しています。

要は、ただ単に家を継ぐだけではなく、将軍家の危難に際して真っ先に動く家ではくてはならないと決意していたのです。
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