橋本左内

橋本左内肖像画(島田墨仙作)/wikipediaより引用

幕末・維新

西郷の心に居続けた橋本左内|福井藩の天才が迎えた哀しき最期 26年の生涯

2024/10/06

西郷隆盛の生涯に影響を与えた人物は誰か?

そう問われたら、多くの方が以下の人物あたりから候補者を挙げるでしょう。

・島津斉彬

・勝海舟

・大久保利通

坂本龍馬

では、もう一つ質問です。

西郷隆盛が死の直前まで大切に持っていた「手紙」の送り主は誰か?

それは齢26にして【安政の大獄】の犠牲者となった、福井藩の天才。

橋本左内――安政6年(1859年)10月7日が命日となります。

橋本左内肖像画(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵/wikipediaより引用

 


福井藩の神童

橋本左内(本稿はこの名で統一)は天保5年(1834年)、福井藩奥外科医・橋本長綱の長男として誕生しました。

幼いころから聡明だったことで知られた左内は、15才にして『啓発録』を執筆。

その骨子は、以下の五項目からなっておりました。

『啓発録』

1. 13~14才になったら大人に頼るような子供っぽさは捨てる

2. 士気を鼓舞してゆく

3. 志を立てる

4. 勉学に励む

5. よりよい人付き合いを目指す

これだけのことを、きっちり文章にして記すとなれば、やはり神童ということでしょう。

『啓発録』は現代語訳(→amazon)も出版されており、今なお学生やビジネスマンの間で人気があるほどです。

啓発録

『啓発録』(→amazon

 


優れた頭脳は「池中の蛟竜」と称される

神童として知られた橋本左内。

『啓発録』を著した翌年、16才にして緒方洪庵に弟子入りしてからも、その才能に尽きることはありません。

緒方洪庵/wikipediaより引用

適塾で医師を育成した緒方も、左内の頭脳には舌を巻き、彼をこう呼びました。

「池中の蛟竜」

出典元は『三国志』の呉志・周瑜伝ですね。

これから世に出るのを待っている――そんな大きな才能という意味が込められておりました。

左内の、ちょっと変わった性格を表すエピソードとして、こんな話があります。

あるとき、友人が負傷しました。それを見て、左内はその傷をあろうことか焼こうとします。

「火傷なら治療法を知っているから」

かような理屈でした。

合理的というか、何というか。常人の発想から離れたところにいる――我々凡人は、唖然とするばかりでしょう。

 

西洋化と藩政改革に抜擢

左内の秀才ぶりは、更に広く知れ渡り、交際範囲は広まります。

西郷隆盛藤田東湖、梅田雲浜、横井小楠

島津斉彬に付き従い、江戸に出向いていた西郷は、彼らと接する機会を得たのでした。

そして西郷は、同年代の優秀な思想家として、左内の名を挙げるほど高く買っていました。

西郷隆盛/wikipediaより引用

もちろん、さほどに若く優秀な左内を、世間も放ってはおきません。

藩主・松平春嶽(松平慶永)に取り立てられ、書院番、侍読(秘書)、御手元御用掛と順調に出世。それだけ仕事が出来たのでしょう。

藩校・明道館の蘭学係にも就任し、洋書習学所を開設しました。

積極的に西洋の学問や技術を取り入れ、藩政改革や開発に取り組んだのです。

藩政改革にも尽力しました。

これが20代前半までのことというのですから、まさに早熟の天才というほかありません。

列強の脅威を感じ、いかにして日本もそこから学ぶか? その点についても、左内は若くして構想を抱いていました。その内容は……。

 


左内の国家構想とは?

時代は幕末。外国からの圧力が強くなるに従い、日本全土で様々な動きが起きておりました。

薩摩藩も西郷も大きく関わったのが、将軍継嗣問題です。

13代将軍・徳川家定の後釜には、誰を据えるか?

そこで水戸藩主・徳川斉昭の息子にして一橋家にいた一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推したのが薩摩もいる一橋派。

これと真っ向から対立したのが井伊直弼などの南紀派です。

井伊直弼/Wikipediaより引用

左内は、一橋派である主君・松平春嶽の右腕として活躍します。

英明な慶喜を将軍として、その下で幕藩体制を維持したまま、西洋の技術を導入して列強に対抗する――それが橋本の構想であり、どんな内容か? ざっとマトメておきますと。

将軍:一橋慶喜

国内事務宰相:松平春嶽・徳川斉昭島津斉彬

外国事務宰相:鍋島閑叟

その他官僚:川路聖謨・永井尚志・岩瀬忠震

彼はこのような構想を抱きます。

外交面では、ロシアと手を結び、イギリス等の各国に対抗する案も抱くほどでした。

 

忍び寄る安政の大獄

【安政の大獄】とは?

一般に思われがちな「倒幕派への弾圧」が本質ではありません。

井伊直弼など南紀派による一橋派の粛清が第一であり、どちらの派にも様々な政治思想の人が含まれておりました。

この安政の大獄によって取り調べを受けた左内は、終始こう主張します。

「私の行動は全て幕府のためにしたことです」

間違いはないでしょう。

左内は、あくまで幕府の体制を強化することを目指していました。そのために必要な条件として考えていたのが、聡明な慶喜を将軍にすることだったのです。

しかし、そんな言い分が認められるわけもなく……。

「強情な奴だ。自分のしたことをあくまで主命と言い張りおって、罪を主君になすりつけるとは不届き者め」と、かえって心証を悪くしてしまうのでした。

左内の主君・松平春嶽は蟄居謹慎処分。

そして橋本は、伝馬町牢屋敷斬首となりました。

松平春嶽(松平慶永)/wikipediaより引用

 

西郷最期のときまでその書状を持つほどの仲

安政6年(1859年)10月7日。

彼が斬首へと引き出されるとき、牢名主は涙を拭いながらこう言いました。

「あなたのように、若く、優秀な方が処刑されるとは、惜しいことです。あなたの身代わりに私が死ねたらよいのに」

そう思った者は、この牢名主一人ではなかったことでしょう。

享年26。あまりに短い生涯でした。

時は流れて明治10年(1877年)。自刃した西郷隆盛の手文庫の中から、左内の書状が出てきました。

「将軍継嗣問題」の頃にやりとりしたもの。最期のときまで手紙を手元に置くほどに、二人は親しかったのです。

もしも橋本が生きていたら、西郷と志を共にして明治を生きていたのだろうか――。

歴史IFを楽しむと、そんな風に考えてしまうかもしれません。

しかし、個人的にはそれは難しいものだったのでは?と感じてしまいます。

左内の考えた「幕藩体制を維持したうえでの国家構想」は、倒幕とはむしろ方向性が逆。

彼と考えが同じであった徳川慶喜、川路聖謨がその後どういう道を歩んだかを考えれば、左内もまた新政府にスンナリ参加したとは思えないのです。

幕臣・福沢諭吉のように、政府外から学者として近代化に尽くす、そんな道だったのではないでしょうか。

若き日の福沢諭吉/wikipediaより引用

先進的な考えを抱き、開明的で、優秀だった左内。

しかし、倒幕派ではない。

それでも若くして命を落としてしまう。

彼もまた、幕末維新の動乱期に、理不尽な運命に翻弄されてしまった一人でした。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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