「太平の世」というイメージが強い江戸期――自然災害の観点からすると、むしろ非常に厳しい時代でした。
14~19世紀にかけては【小氷期】と呼ばれるほど地球全体が寒く、さらに日本においては大飢饉や富士山の噴火、大地震など、呪われていたかのように災害に見舞われたのです。
特に幕末はM7~8クラスの大地震が毎年のように頻発。
人心を寒からしめたことは確実で、倒幕の社会的要因になったことは否定できないでしょう。
安政2年(1855年)10月2日は、その中でも被害の大きかった安政江戸地震が起きた日です。
これと合わせて他にどんな災害が起きていたか。
当時を振り返ってみましょう。
ジャガイモ飢饉でアメリカに渡る人続出
まずは、どれぐらい寒かったのか、同時期の世界をちょっと見てみますと……。
【1840年代=天保の改革の頃】アイルランドでじゃがいも飢饉が頻発し、人口の2割が亡くなった上に2割が国外脱出
【1780年=独立戦争の頃】アメリカではニューヨーク湾が凍り、マンハッタンから対岸のスタテンまで歩いて渡れた
これで「小」氷期なのかと疑いたくなるほどです。
昨今は温暖化が叫ばれていますが、まるで寒冷化の反動のようで、極寒より暑いほうがまだマシなのか?と思わなくもありません。
世界中で大寒波に見舞われる最中、江戸幕府も懸命に対処をしていたのですが、それをあざ笑うかのように今度は地中で恐ろしい災害が起きました。
そんな安政2年(1855年)の10月2日、安政の大地震が江戸を襲いました。
後世から見れば江戸幕府終了のわずか12年前。
恐ろしいことに、当時の大地震はこれ一回では終わっていません。
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寒波と連動するかのように列島で大地震が頻発
江戸に限らず、主だったものだけでもこんなにあります。
ざっと表にまとめてみましょう。
| 発生年 | 地震名 | 推定震源地 |
|---|---|---|
| 1847年 | 善光寺地震M7.4 | 長野県 |
| 1853年 | 小田原地震M6.7 | 神奈川県 |
| 1854年 | 伊賀上野地震M7.25 | 三重県 |
| 1854年 | 安政東海地震M8.4 | 東海道沖 |
| 1854年 | 安政南海地震M8.4 | 南海道沖 |
| 1855年 | 安政江戸地震M7.0 | 江戸直下 |
| 1856年 | 安政八戸沖地震M7.5 | 八戸沖 |
| 1858年 | 飛越地震M7.0 | 富山と岐阜の県境 |
「地震」の二文字がゲシュタルト崩壊しそうなほどの集中ぶりですね。実は上記の期間中、他にもM7クラスの地震が数回起きていますが割愛したほどです。
ちょっと前には天保の大飢饉も起きてます。神様、幕府いじめすぎ……。
しかも、です。恐ろしいことに1854年に連続している大地震は、南海トラフ巨大地震であり、ここは震源地が3つのエリアに渡っていて一度に3ヶ所の震源域で発動したり、年をずらして発生したり、非常にややこしくなっています。
こうした地震や飢饉のたびにお金や米を供出していたのですから、そりゃ幕府も藩も貧乏になるわけですよね。
金欠の理由は、無駄遣いとかではなく、生きるための災害コストも莫大でした。
ちなみにこの連続大地震の間隙を縫うかのように、ペリーが来て強引に開国&条約の締結も進んでいます。
ハリスなんて八戸沖地震の2日前に来日してました。
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天守閣再建してなくてよかった
話は戻りまして、安政江戸地震です。
どれぐらいの被害があったのか?
二次災害となったエリアを一つ例に見てみましょう。
まずは首都圏の路線図を開いてほしいのですが……。
真ん中に山手線が丸く走っていて、その直径をぶった切るように総武線の黄色い線がありますよね。
東側(右側)で交わるところが秋葉原です。
秋葉原から右方向を見ていくと、「亀戸」という駅があります。
さらに右へ右へと辿っていくと、千葉県に入ったあたりに「市川」という駅があります。
この亀戸から市川まで。
今なら路線の長さで9km、電車なら10分そこらの距離で、あたり一面が焼け野原になりました……え?( ゚д゚)
地震が起きたのは夜の10時ごろだったといいますから、あっちこっちで火を使うような時刻でもありません。
にもかかわらず、火災が発生してしまい、なおかつこれだけ拡大したのですから、これがもし昼間だったらと思うと背筋がゾッとしますよね。
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そして、その「もし」は約70年後の関東大震災で起きてしまうのですが……。
倒壊事例は枚挙にいとまナシ
しかも、これはあくまで「火災で焼失した」面積です。
他に倒壊した家屋や地形が変わってしまったところも数え切れないほどあったということです。
一例を挙げると……。
・現在の日比谷から神田神保町あたりまでにあった大名屋敷が全壊
・文京区小石川にあった水戸藩邸で、藩主の側近戸田忠太夫と藤田東湖が圧死
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・旗本や御家人(直接幕府に仕える武士)の80%家を失くして路頭に迷う
・「こち亀」の舞台、亀有周辺で田んぼや畑が隆起するわ沼になるわで農民の収入がピンチ
・江戸城の櫓(やぐら)や門、石垣などが崩れる
などなど、枚挙に暇がありません。
江戸城の天守は大丈夫だったの?
と思われるかもしれませんが、実は、過去に大火事が起きて焼け落ちた時、保科正之さんの判断により再建を取りやめていたのですね。
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この時が一番感謝されたんじゃないでしょうか。
まさか外国と交渉中に、ボロボロの天守なんて見せられませんから。
というわけで大名屋敷も多く焼けてしまい、気になるのがトップたる将軍の安否です。
揺れが収まるなり、家臣や使用人たちに屋敷を任せ、江戸城へ走る大名が多かったそうで。
幕府には斜陽の兆しが見えて久しい頃の話ですが、「地震加藤」(※)がたくさんいたのは将軍にとって心強かったかもしれませんね。
たとえそれが、後継者争いの一因だったとしても……。
ともかく、将軍・徳川家定(篤姫の旦那さん)は無事でした。良かった良かった。
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※地震加藤とは……加藤清正が石田三成とのケンカが原因で謹慎をくらっていた頃、伏見大地震が起き、処罰覚悟で秀吉の下に駆けつけたところ許されたという話。実は清正より早く駆けつけたのが細川だったけど、身一つで来たのであんまり役に立たなかったとか……
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地震が明治維新を起こした?
江戸全体での人的被害はいかなるものだったか?
というと、当時の戸籍は今ほどしっかりしたものではないので、なんとも言えないのですが、犠牲者は数千人とも1万人前後ともいわれています。
甚大な被害があったことには変わりませんね。
まさに内憂外患ここに極まれりといったところですが、幕府は最後の力を振り絞って復興に当たります。
復興=荒稼ぎできるぜ!と目論む大工・職人に「ふっかけるんじゃないよ!」と命じたり(高値禁令)、炊き出しや備蓄米の供給などを行いました。
高値禁令のほうは効果が薄かったようで、
「だからふんだくるな!!」
とばかりに何度も出されています。
相次ぐ地震で各藩も疲弊していましたが、それぞれ工夫をこらします。
ただし、当時の天災は『お上の悪政のせいだ』と考えられたりしました。
ゆえに討幕軍の主体が薩摩や長州になったのも、こうした大地震の影響が少なかったのもありそうですね。
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【参考】
国史大辞典
国立天文台『理科年表』(→amazon)










