尾高長七郎

幕末・維新

北武蔵の天狗と呼ばれた剣士・尾高長七郎|渋沢栄一の従兄弟で義兄だった

2024/11/17

幕末の剣士といえば?

真っ先に思い浮かべるのは薩摩と新選組の二大派閥かもしれませんが、もちろん他にいないわけでもありません。

大河ドラマ『青天を衝け』においても満島真之介さん演じる剣士が登場しました。

その名も尾高長七郎(おだかちょうしちろう)――。

主人公・渋沢栄一の従兄弟にして義兄(妻ちよの兄)であり、その剣術は「北武蔵の天狗」とも評されるほどの人物です。

政治的にも栄一に強い影響を与えた存在であり、明治元年(1868年)11月18日はその命日。

そんな尾高長七郎は、史実においてはどんな人物だったか?

生涯を追ってみましょう。

 


尾高長七郎は天保九年に生誕

長七郎は天保9年(1838年)、武蔵国榛沢郡下手計村(現在の埼玉県深谷市下手計)で生まれました。

父は同地域の名主である尾高勝五郎。

兄に初代富岡製糸場長の尾高惇忠がいて、妹・ちよは渋沢栄一の妻になっています。

渋沢千代/wikipediaより引用

そもそも栄一と長七郎は従兄弟の関係ですが、ちよの結婚後に義理の兄という立場にもなりますね。

尾高家と渋沢家には深いつながりがありました。

栄一は幼い頃より勉学に優れ、当初は父の手で漢文を教えられています。

しかし、父は自身の教育に満足せず、隣村で「立派な先生」として噂されていた惇忠に栄一を習わせました。

まだ7~8歳に過ぎなかった幼い栄一は、毎朝自宅から7~8町(1町は約109メートル)の道を歩いて尾高の家へ通ったと語っています。

この家で出会ったのが、惇忠の弟・尾高長七郎だったんですね。

栄一は自伝において彼のことをこう評しております。

「二つ年上で、大柄で腕力があり、かつまた剣術においては非凡な力量を身に着けた人だった」

剣術に心得のある栄一から見ても確かな才能をもった人物だったようです。

 


江戸に赴いて剣術を学ぶ

長七郎は、豪農の家に生まれて家業を離れられない兄に代わり、江戸へ出ました。

剣術を学ぶと同時に多くの人物と交友。

村に帰ると「天下の様子」を栄一らに語りかけたとされます。

長七郎・惇忠・栄一の三名は、幕末志士らに強い影響を与えた学問「水戸学」に傾倒しました。

となれば当然のごとく尊王攘夷・倒幕の思想が強化されていく。

特に長七郎は影響力が強かったようで、栄一本人に『このまま田舎で百姓などしていられない』という覚悟を抱かせるに至ります。

若き日の渋沢栄一/wikipediaより引用

彼は長七郎を頼りに、反対する父を半ば強引に説得して2カ月ほど江戸で遊学。

当時、長七郎がいた下谷練塀小路(現在の東京都千代田区神田練塀町)にて、海保漁村という人物が開く塾で漢学を学びました。

わずかな滞在の期間でしたが、栄一の「百姓なんかやってられねえよ!」という思いは強まるばかり。

もちろん長七郎とその周囲にいた人々が大きな影響を与えたことは言うまでもありません。

しかし文久2年(1863年)、江戸で大事件が勃発します。

 

襲撃事件で嫌疑をかけられ

大事件とは他でもありません。老中として公武合体政策を進めていた安藤信正が、水戸の志士に襲撃されたのです。

坂下門外の変】と呼ばれ、長七郎も嫌疑をかけられました。

安藤信正

安藤信正/Wikipediaより引用

実行犯ではなかったのですが、首謀者の一人・大橋訥庵(とつあん)が捕縛されたため、付き合いがあった長七郎も計画に関与したと疑われたのですね。

当時、長七郎は地元へ戻っていたのですが、自分が疑われているとは知らずに江戸へと出発。

その直後、長七郎に疑惑の目を向けられていると知った栄一は、江戸行きを食い止めるべく彼を追いかけました。

追いついたのは熊谷宿でした。

栄一はすぐさま長七郎を説得しました。

「兄さんは知らないだろうが、坂下門に関わった連中はその場にいなかったとしても捕らえられている。だから、この田舎ですら安全ではない。嫌疑をかけられている兄さんが、江戸に出るなど自殺するようなものだ。ここはひとつ、京都にでも行って身を潜めてはどうか」

幸い長七郎もすぐに話を理解してくれたようで、栄一のアドバイスに従い、京都を目指すことにします。

義兄の長七郎を遠路はるばる追いかけ、説得に成功した栄一。

非常に人の好い一面を見せる一方で、したたかな計算もありました。

「京都行きを勧めたのは、攘夷派の本拠である京都の情勢を兄から仕入れるのも理由の一つだった」

双方に利益があった話とはいえ、単に人助けで終わらない栄一の次善策には、才覚の一端が見え隠れしますね。

 


高崎城乗っ取り計画

攘夷への思いを抑えられなくなった栄一は、文久3年(1863年)に惇忠・渋沢喜作(栄一の従兄)らとともに「天下の耳目を驚かすような大騒動」を引き起こそうと、壮大な計画を立案します。

彼らはこんな無茶な計画を立案しました。

高崎城を乗っ取る!

兵備を整えたら、鎌倉街道を通って横浜を襲撃。

一挙に焼き討ちを行い、外国人を見かければ片っ端から切り捨てよう!

血気盛んな志士らしい暴挙。

後に栄一自身が認めているように「ずいぶん乱暴千万な話」であり、「実行していたら死んでいる」のは間違いなかったでしょう。

しかし、当時の彼らは大マジメでした。

計画を練り、秘密裏に装備やメンバーを増強。

いざ実行!という意思を固めた栄一は、父に「これからは天下に出て、時世を知らなければならない」と語りかけ、彼に勘当してもらう(実家に迷惑をかけないようにするため)ことを目指しました。

そして長い問答の末、「高崎城を乗っ取る」という目的は伏せたまま、勘当の約束を取り付けることに成功します。

高崎城/wikipediaより引用

いよいよ計画が固まると、栄一は京都にいた長七郎に「こういう計画がある。役に立ちそうな人を京都から連れてきてくれ」と協力を願い出ました。

ところが、その数日後のこと。

突如、長七郎が栄一らのもとへ帰還したのです。

 

「お前を殺してでも実行はさせない!」

長七郎は、計画の拙さを知って猛反対しました。

そのときの言葉を要約しますと

・そんな百名程度の寄せ集めの兵力では何もできない

・高崎城を取ったとしても、横浜に攻めるのは無理。百姓一揆と変わらない

・だいいち、同じように決起した他の志士たちでも100点満点の謀反例はないではないか

全くもって正論ばかり。

しかし、栄一もまだ若く、長七郎に食ってかかります。

「確かに兵力は足りないが、それが十分になるまで待っていては先延ばしになってしまう! 中国でも決起の礎となったのは小さな反乱で、たとえ我々が敗れたとしても同じ志を持つ者が奮起するはずだ!」

いかにも攘夷に燃えた若い志士らしい熱い思いをぶつけ、二人は徹夜で論争。

両者一歩も引かずついにはこんな言葉まで出ます。

長七郎「お前を殺してでも実行はさせない!」

栄一「従兄を刺し殺してでも実行する」

こうなったら無理にでも計画は実行され……と思われましたが、そこは若いといえども渋沢栄一

いったん立ち止まって考え「確かに長七郎の言うことも一理ある」と納得するようになります。

結果、栄一はアッサリと計画を中止。

「情報が漏れれば身が危ない」として、逃げるように地元を去っていきました。

栄一はそのときの感謝をこう綴っています。

「今考えると、長七郎の言っていることはもっとも。自分たちの決心はとんでもない無謀であった。本当に長七郎が命を救ってくれたといってもよい」

渋沢栄一/wikipediaより引用

 

飛脚を殺した罪に問われ獄中へ

決行を諦めた栄一は渋沢喜作と共に京都へ。

長七郎は「すぐに帰っては面白くないだろう」ということで、地元で剣術指南をしていました。

二人はいずれ合流するのだろう――と思われたところで事態は思わぬ方向へ転がっていきます。

それは元治元年(1864年)のこと。

長七郎は江戸に出る途中、戸田が原(埼玉県戸田市)で「飛脚を斬った罪」に問われ、捕まってしまったのです。

獄中から無実を訴える手紙を読んだ栄一と喜作は「一読愕然」の思い。

「これならば、いっそ決起したうえで国のために果てたほうがマシだったではないか!」

そんな愚痴がこぼれるほどでした。

栄一と喜作の二人は、長七郎の罪を弁明するため、危険を顧みず江戸への帰還を考えます。

しかし、彼らは目下逃亡中の身。

しかも長七郎は、「尊王攘夷思想」を綴った栄一の手紙を懐に忍ばせたまま捕まっていました。

「あの手紙があるいうことは、自分たちまで捕まってしまう」

思いは逡巡し、結論がまとまらないまま一晩を明かす栄一と喜作。

翌日、彼らは旧知の仲である幕臣・平岡円四郎に呼び出され「先の手紙」についてそれとなく聞かれます。

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円四郎は幕臣ながら倒幕思想に理解のある人物だったため、彼は「長七郎の捕縛と手紙の内容」について打ち明けました。

最終的に「栄一が困窮し、進退窮まっている」と知った円四郎は、思い切った結論を出します。

倒幕とは真逆で慶喜のいる「一橋家への仕官」を提案したのです。

後がない栄一もこれを了承。一転して幕臣となったのでした。

徳川慶喜/wikipediaより引用

 

栄一のフランス渡航中に……

栄一は幕臣になってからも彼を救おうと奔走します。

しかし、長七郎は大勢の前で人斬りに及んだ現行犯であったことから、そう易々と釈放を勝ち取ることはできません。

そうこうしているうちに、栄一は出世。

やがて彼は長七郎の罪を消せぬままフランスへと旅立ちました。

結果、長七郎は慶応4年(1868年)夏に出獄したものの、病によって亡くなります。享年33。

帰国した栄一は、倒幕と戊辰戦争によって親戚たちがみな悲惨な境遇に追いやられていることを知ったのでした。


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【参考文献】
宮崎十三八/安岡昭男編『幕末維新人名事典』(→amazon
渋沢栄一記念財団編『渋沢栄一を知る事典』(→amazon
渋沢栄一/守屋淳『現代語訳渋沢栄一自伝:「論語と算盤」を道標として』(→amazon
土屋喬雄『渋沢栄一(人物叢書)』(→amazon
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon

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とーじん(齊藤颯人)

上智大学文学部史学科卒。 在学中から歴史ライターおよびブログ運営者として活動し、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」や古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 各メディアで記事執筆を行うほか、映画・アニメなどエンタメ分野の歴史分析も手がける。専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広い関心を持つ。 2023年にはサンクチュアリ出版より『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』を刊行。元Workship MAGAZINE 3代目編集長。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032655935

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