見目麗しき富士山――。
世界に誇るこの最高峰に【ドデカイ穴】が開いているのを皆さんご存知でしょうか?
宝永火口と言い、その名の通り宝永大噴火による火口。
宝永4年(1707年)11月23日に始まった噴火活動でできたものです。
上空から撮影した写真を別角度から見ますと、
ご覧の通り、ぽっかりと穴が開いており、右側には新しい山ができたかのようにも見えます(実際に宝永山と呼ばれる)。
にしても凄まじい大きさですよね。
火口というからには、ここから火山灰などが噴出したわけであり、そうなると宝永大噴火が一体どんな規模だったのか、想像するだけでも戦慄してしまいます。
本稿では、富士山の歴史的ポジションなども含め、宝永大噴火を振り返ってみましょう。
『常陸国風土記』にも『竹取物語』にも
富士山といえば誰もが知る日本の象徴です。
歴史的に見ても存在感は果てしなく大きく、遠く離れた『常陸国風土記』にも神話が出てきますし、『竹取物語』ではこんな伝説も残されているほどです。
「かぐや姫が残した不死の霊薬を、帝が『姫がいないなら無意味』として、富士の山頂で焼き捨てさせた。だから、富士の頂からは今も煙が立ち上っている」
他にも源頼朝が建久四年(1193年)、富士山の裾野で巻狩を行っていますね。
このとき曾我兄弟の仇討ちによって「頼朝暗殺」の誤報が鎌倉へ届き、その時の反応が原因で源範頼(頼朝の弟)が幽閉後に不審死を遂げる。

曾我兄弟(歌川国芳)/wikipediaより引用
また、室町時代には、室町幕府三代将軍・足利義満や、六代将軍・足利義教が武士や公家を率いて遊覧にやってきたことがありました。
「将軍の目は、京都から遠く離れた東国にも光っているぞ」
そんなイメージ戦略に利用されるほど、富士山の存在が大きかったということにもなりますね。
平安時代には修験者の山という立ち位置にもなっており、登山もたびたび行われるようになっていました。
普通は、噴煙が上っているような火山に立ち入ろうとは思わないものでしょうが、いかんせん富士山の場合は上記の竹取物語の逸話がデキすぎていることと、噴火の周期がものすごく長いため、あまり警戒されていなかったようです。
前後には列島で大地震も起きている
むろん富士山自体は、人類の歴史が始まる前から存在しています。
噴火も度々していたでしょう。
しかし、記録に残っているのはわずか18回。その中で特に被害が大きいといえるのは3回です。
東日本の記録は、ある程度時代が下らないと正確性に乏しいところがあるので、他の15回の中にも、深刻な被害が出ていた可能性は否めません。
その辺は今後の研究に期待するとして、上記の期間をそのまま受け取れば、富士山大噴火の周期は数十年~900年規模という、かなり予測不能な幅になります。
宝永大噴火の後、2024年現在まで大規模な噴火をしていません。
不規則なために周期で予測できない一因にもなっているんですね。
あるいは東日本大震災と同質だとみなされることもある貞観地震(869年)と貞観の大噴火(864~866年)が近いから、現代においても注意すべし、という声もあります。
この860年代は日本列島での地下の動きが活発化している【大変動期】に当たるという指摘があるのです。
確かに見過ごせはしないでしょう。
【大変動期】では、以下のように貞観の大噴火前後でかなり大きい地震が頻発しています。
850年 M7.0 出羽地震
856年 M6-6.5 京都地震
863年 越中越後地震
864年 貞観の大噴火
868年 M7.0 播磨山城地震
869年 M8.4 貞観地震
878年 M7.4 関東地震(神奈川や東京を中心に揺れる)
880年 M7.0 出雲地震
881年 M6.4 京都地震
これを東日本大震災と比較してみますと……。
2011年3月 M8.4 東日本大震災
2012年3月 M6.1 千葉県東方沖地震
2012年12月 M7.3 三陸沖地震
2013年4月 M6.3 淡路島地震
2014年11月 M6.7 長野県神城断層地震
2016年4月 M7.3 熊本地震
2016年10月 M6.6 鳥取県中部地震
2018年4月 M6.1 島根県西部地震
2018年6月 M6.1 大阪北部地震
2018年9月 M6.7 北海道胆振東部地震
あらためて恐ろしい数の大地震ですね。
かなりの規模の揺れが複数回に渡って発生しているのを皆さん身にしみていらっしゃるでしょう。
地震ごとの細かな関連性までは証明できないながら、列島全体が不安定になっている――それが大変動期であります。
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100km離れた江戸でも長く降灰が続く
宝永大噴火は旧暦11月23日(現在の暦では12月16日)に最初の噴火。
12月8日まで2週間以上にわたって続き、噴煙は上空20km前後にまで達します。
距離にして100km離れた江戸でも長く降灰が続き、季節も相まって「まるで雪のように次々と降ってきた」と伝わります。
例えば
・江戸 2~4cm
・横浜 8~16cm
の火山灰が降り積もったという記録があるほど(噴出物は7億立方メートルとも)。
現代でしたら、交通機関が麻痺する可能性は大いにあり得ます。詳しくは後述しますが、さほどに火山灰は厄介な存在です。
宝永大噴火は、種類としては「マグマ噴火」となります。
一口に噴火と言っても大きく分けて三種類あり、以下のように分類されるんですね。
「マグマ噴火」
「水蒸気噴火」
「マグマ水蒸気噴火」
マグマ噴火は、火山の地下に溜まっているマグマ(溶岩)が吹き出し流れ出すものです。一般的に「活火山」と聞いて思い浮かべるのはこれでしょう。
最近の例でいうと、ハワイ・オアフ島のキラウエア火山ですね。2018年にも大きな噴火があったばかりなので、ご記憶の方も多いはず。
この噴火では、流れたマグマが冷えて固まると、時に島同士を繋いだり、地形を大きく変えることがあります。
国内の例では、大正三年(1914年)の桜島噴火。
流れ出た溶岩によって鹿児島側と地続きになっています。

桜島大正噴火/内閣府HPより引用
厳密に言うと、マグマの粘土や火砕流の規模などで更に細かく分類されますが、ここでは割愛。
水蒸気噴火は聞き慣れないながら仕組みは結構シンプルです。
マグマが地下から噴き出そうとする際、途中で地下水などに接触、大量の水蒸気が噴煙となって吹き出します。
このときマグマが地表に出ずに水蒸気だけなら「水蒸気噴火」で、マグマ”も”地表に出てきたら「マグマ水蒸気噴火」となります。
例を挙げると、明治二十一年(1888年)の会津磐梯山噴火や、昭和四十八年(1973年)の西之島新島噴火が該当します。
宝永大噴火はというと、マグマ噴火の一種「プリニー式噴火」だと考えられています。一夜にして街を火山灰で埋め尽くしたというイタリアのポンペイなどと同じタイプですね。
成層圏にまで達する噴煙と、中規模な火砕流により、火山近辺だけでなく広範囲にわたって被害を及ぼしました。
江戸時代には、宝永大噴火の他にも天明三年(1783年)の浅間山がプリニー式噴火をしていました。
田沼意次失脚の遠因になったとされます。

田沼意次/wikipediaより引用
知るも知らぬも おほかたは咳
宝永大噴火ではマグマはさほど流出せず、火災の発生件数は少なめでした。
不幸中の幸いと言えますが、降灰だけでも尋常じゃない被害が出ております。
たとえば、火山灰があまりにも長く降り続いたため、その地域はずっと明かりを灯さねばならず、燃料の価格が高騰しました。
当時は「明かり=油」を使うものですから、これだけでもかなりの経済的打撃です。暗くなったら寝るのが当たり前の時代とはいえ、昼間まで暗いと何もできませんからね。
また、風で煽られた灰が細かな塵となって舞い散り、それを吸った人々の呼吸器官を痛めました。
当時の様子を描いた狂歌に、こんなものがあります。
「これやこの 行くも帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳」
行き交う人が知人だろうと知らない人だろうと、誰も彼もが咳き込んでいた
なんだかリアルな光景が目に浮かびますね。
おそらくは、詠んだ当人も咳をしていたのでしょう。
百人一首にもある、蝉丸の「これやこの 行くも帰るも 別れつつ しるもしらぬも あふさかの関」をもじったものです。
人だけでなく、農業への被害も深刻でした。
現代でも活火山の近くにお住まいの方はよくご存じかと思いますが、火山灰は一度降って終わり、ではありません。
大変なのは、むしろその後。
噴火が完全に収まるまでは灰が降り続いて日光を遮りますし、地面に灰が積もり、下手をすれば作物は全滅です。

宝永大噴火で大きく開いた宝永火口
しかも水を吸うと最悪です。
非常に重くなって、簡単には取り除けなくなります。
宝永大噴火では、火山灰が偏西風に乗って、主に富士山の東へ降っていきました。
そのため駿河国駿東郡北部(静岡県東部)から相模国西部(神奈川県西部)での被害は甚大なものとなりました。
では火山灰による被害の一例を見てみましょう。
噴火で酒匂川が氾濫とは?
火山灰の被害で、特に酷かったのが富士山の東から静岡・神奈川県へ流れる酒匂川(さかわがわ)流域。
堆積した火山灰などの噴出物によって水位が大幅に上がってしまい堤防が決壊、水没する村が多々あったと伝わります。
しかも、復興がなかなか進みませんでした。
雨が降ると大量の火山灰が流れ、たびたび氾濫したためです。
本格的に手が入れられるようになったのは、なんと享保十一年(1726年)のこと。
大岡忠相(“大岡越前”で有名なあの人)が抜擢した農政家・田中休愚(たなか きゅうぐ)が担当しました。
彼はそれ以前からも各地の治水工事で名を上げており、その評判が八代将軍・徳川吉宗にまで届いたほどの人物です。
吉宗の御前で直接諮問した後、酒匂川などを任されるようになりました。
休愚によると、
「幕府から復興工事を命じられた大名は、費用として集めた金を商人に渡すだけで一向に仕事をしない」(意訳)
という状況だったとか。
あまりに被害が大きすぎて、最初から諦めてしまう大名が多かったのかもしれません。
ただでさえ治水工事は難しいものですし、このときの酒匂川については、雨が降るたびに上流から新たな灰や砂が流れ込んできたのですから匙を投げてしまったのでしょう。
賽の河原の石を積む子供と、それを邪魔する鬼のような状態だったでしょうね。
以前の収穫量に戻すまで90年もの月日が
藩単位で見ると、特に深刻だったのが小田原藩です。
幕府に領地の半分を返してまで救済を求めたにもかかわらず、20年経っても復興できませんでした。
米の収穫量が、宝永大噴火以前の状態に戻るまでは、なんと90年近くかかったとか。
宝永四年(1707年)からの90年後は、寛政九年(1797年)ですから、松平定信が失脚した後ぐらいですね。
将軍でいえば十一代・徳川家斉の頃にあたります。
徳川綱吉時代の噴火が、六代後の将軍まで残っていたって、やっぱり凄まじい話ですね。
大正十二年(1923年)の関東大震災(大正関東地震)による被害が2021年現在まで残っているようなものです。
災害の恐ろしさ(と同時に復興技術の進歩)が分かりますね。
宝永大噴火は宝永四年(1707年)11月23日から12月8日まで続いています。
新暦では同年12月16日から31日の大晦日。期間の長さや季節も、物理的・心理的被害を増したでしょう。
11月26日あたりまではほぼ断続的に灰が降っていたとされ、その後一旦活動が穏やかになりながら、12月8日夜に再度激しく噴火。
さらにこの日の夜遅くにも爆発が観測され、ようやく宝永大噴火は収束していきます。
日本史上最大級の宝永地震は49日前
これほどの規模の噴火ですから、もちろん富士山自身にも大きな影響を残しました。
前述の通り、宝永大噴火によって、富士山には3つの火口ができています。
その横には「宝永山」も(側火山と言い、噴火などによって造られる山を指す)。
遠くから見ると、やはり頂上の第一火口が目立つので、よく見ないとわかりにくいのですが……これは、宝永山が斜面にあるため、角度によって見えにくくなるからです。
また、一般市民の心理にも大きな爪痕を残しました。
現代では「噴火は自然現象である」ということがわかっていますが、古来から神体ともされる富士山に、火口とはいえ「穴が空いた」のですから、当時の人々にとっては不吉以外の何物でもありません。
この時期は、綱吉治世の最終盤にあたります。
元禄文化華やかなりし時期でもあるものの、赤穂浪士の討ち入りや度重なる天災など不幸な出来事が相次いでいたため、「富士山の噴火は、綱吉の失策に対する天罰だ」といわれたわけです。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
しかも、です。
この噴火の49日前、M8.6~9クラスという【宝永地震】が起きていたのも拍車をかけました。
南海トラフ巨大地震のひとつで、日本史上でも最大級のものです。
※1707年前後の地震についても記事末にリストアップしておきます
時代が時代なので、推測にも限度がありますが
「遠州沖を震源とする東海地震と、紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生した可能性もある」
という見方もあります。
これに関する余震も長く、社会不安を増大させていました。
復興のため領地百石につき二両を負担
もちろん、綱吉の時代にも、幕府は被災地の復興を試みています。
全国の大名に「被災地復興のため、領地百石につき二両を負担すること」と命じ、関東郡代・伊奈忠順(いな ただのぶ)が相模国足柄下郡酒匂村(現・神奈川県小田原市)を拠点として、対応に当たりました。
しかし、役人だけで全ての作業をするのは不可能です。
集められた復興費から村の再建資金が出されたものの、火山灰や砂の除去は「自力でやるように」ということになりました。
いくらかは資金が出たようですが、この時代の農村でよそから人を雇うツテや余裕はなかったでしょう。
よそへ引っ越していく人、粘ろうとして飢餓に陥る人が絶えなかったといいます。
生き残った人々は、村の垣根を超えて幕府へ訴えを続けました。
その結果、享保年間(だいたい吉宗の時代)には、よそから人を雇うための費用が追加され、どうにか復興が本格的になりました。
★
現在、宝永山へは登山も可能なので、慣れている方は行ってみるといいかもしれません。
ルートの難易度は低めで、通称「プリンスルート」と呼ばれるコースと合流することもできるそうです。
家族連れやシニアの方でも、比較的挑戦しやすいとか。
とはいえ天候や体調には十二分にお気をつけてチャレンジくださいね。
宝永大噴火前後の地震は?
1697年 M6.5 相模武蔵地震
1698年 M6.0 豊後地震
1700年 M7.0 壱岐対馬地震
1703年 M6.5 豊後地震
1703年 M7.0-8.2 元禄地震(江戸時代の関東大震災・リンク先に詳細)
1704年 M7.0 羽後津軽地震
1707年 M8.6 宝永地震(日本史上最大級の一つ)
1707年 宝永大噴火
1710年 M6.5 磐城地震
1711年 M6.25 因幡伯耆地震
1714年 M6.25 信濃北西部地震
富士山の噴火は、マグマの噴出や火山灰の積もり方によっては物流に大ダメージを与え、近隣地域だけで済む問題ではありません。
震災と同様にいざというときの防災用備蓄が必須となります。
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【記事参考】
内閣府の防災情報ページ(→link)
国史大辞典
理科年表
元禄地震/wikipedia









