曲亭馬琴

曲亭馬琴/国立国会図書館蔵

江戸時代 べらぼう

曲亭馬琴は頑固で偏屈 嫌われ者 そして江戸随一の大作家~日本エンタメの祖

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馬琴が語り、路が筆を執り、傑作が完結する

視力を失った馬琴にとって最大の試練となったのが、まだやり終えていない大仕事。

ライフワークである『南総里見八犬伝』を完結させることです。

亡き宗伯の妻である路は、夫を失ってからも実家に戻らず、馬琴の秘書のような役割を果たしていました。

この辛抱強い路が、馬琴の口述筆記をすることとなります。

馬琴とその家庭環境に耐え切れる人物となれば彼女くらいしかいません。

路が、馬琴の弟子「琴童」として口述筆記をすることで、この大作の執筆活動は続けられました。

路はそれなりの武士の娘であり、女性としては高い教育を受けた部類に入ります。

とはいえ、当時は男女の教育カリキュラムが、日本史上もっとも異なる時代です。

かな文字を用い、女性としての教養を身につけてきた路。そんな彼女相手に、馬琴は辛抱強く、男性向けの教養を教えていくしかないのです。

馬琴は、ちょっとしたミスも許せない性格であり、目が見える頃から執拗なまでの校正を繰り返して版元を苦しめてきました。

例えば、引用した故事やことわざが正しいのか――そこでも馬琴はきちんとした正解を求め、それを路に伝えて確認させねばなりません。

結果、たった数行を進めるだけでも、おそるべき苦難となりました。

延々と、いつ終わるともわからないほど、続けられる苦しい作業を二人は諦めず、ひたすら続けてゆく。

そして妻の百が没した天保12年(1841年)、ついに『南総里見八犬伝』は完成。

翌天保13年(1842年)に最終巻が刊行されます。

そのあとがき「回外剰筆」の中で、馬琴は己の失明を明かしました。

そして、本来は縫い物や煮炊きのために使う腕で、筆を持ち、この大長編を書き記した路への感謝もそこに続いたのでした。

馬琴の執筆活動は、その後も路の口述筆記により続けられます。

しかし『傾城水滸伝』や『近世説美少年録』はついに未完結のまま――それを思うと『南総里見八犬伝』の完結はやはり奇跡的なことに思えます。

嘉永元年(1848年)11月6日、馬琴は没しました。

享年82。

この翌嘉永2年(1849年)、葛飾北斎が90で大往生を遂げました。

馬琴が滝沢家を託した嫡孫・太郎は、父に似て病弱でした。

路が懸命な看病をするも、この歳に彼も夭折し、滝沢家は断絶するのでした。

 

馬琴の筆、天保生まれの魔星を育てる

路は夫、義父、長男の死後も生き続け、安政5年(1858年)にその生涯を終えます。

享年52。

明治維新に先立つこと10年、日本は欧米列強国と通商条約を立て続けに結んでいました。

この激動の時代、『南総里見八犬伝』が完結した天保年間に生まれた者たちが青年期を迎え、彼らはときに思想を、ときに剣をかかげ、国を変えると立ち上がります。

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8代・徳川吉宗は、明代の政策を参照にしつつ、各地に寺子屋を作らせました。親孝行を実施したものを顕彰し、庶民にまで儒教倫理を教え込もうとします。

武士が学ぶ教育機関として、各地の藩校、そして江戸の昌平坂学問所が作られ、教育向上がはかられます。

こうして徐々に浸透していった日本人の教育。

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江戸時代後期にあらわれた滝沢馬琴は、そんな江戸の啓蒙の総仕上げを成し遂げた一人かもしれません。

彼より少し前にあたる恋川春町大田南畝あたりから、武士出身の文人が漢籍教養を取り込んだ作品を世に送り出しました。

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馬琴は、そんな彼らをしのぐインプット量があり、さらには極め付けの堅物です。

漫画や映像になるとわかりにくく、抄訳でもカットされますが、馬琴の作品はお説教がともかく長い。くどい。

人気作家になると彼の思想が炸裂し、どんどんこれが深化してゆきます。

馬琴は、ただおもしろい作品を送り出すだけの作家ではありません。

作品を手に取る者が儒教倫理を身につけるようになって欲しい――エンタメを通じて、そんな啓蒙を大真面目に考えていたのです。

「長ぇ、また説教が始まったよ」

読者はそうぼやいたかもしれませんが、先は気になる。結果、読んでしまう。

そうして物語へのめり込んでいくうちに馬琴の術中にはまり、熱血と儒教倫理に開眼しても不思議はないかもしれません。

なにせ八犬士の玉に浮かび上がる文字はこう。

仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌――嫌でも儒教倫理を覚えてしまうことでしょう。

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そんな馬琴の最高傑作『南総里見八犬伝』は、日本版『水滸伝』として構想を練られたものでした。

果たして馬琴は知っていたのか――中国ではこんなことわざがあります。

「若者に『水滸伝』を読ませるな」

血の気が滾り、暴力的な世直しを始めてしまうから、そんな危険な本は遠ざけろという意味です。

幕末にたちあがった志士たちは、目的は違えど、やたらと熱血で、儒教倫理は身につけていたものでした。

馬琴がそんな未来を考えていたとはむろん思えませんが、彼の蒔いた種がかれらの血の中で芽吹いた感はあります。

慶応4年(1868年)、最後の将軍たる徳川慶喜が江戸へ逃げ戻ると、江戸っ子たちは大いに失望します。

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腰抜け将軍はもはや守る価値がなくとも、彼らには「義」があり、それを掲げる彰義隊の姿を、江戸っ子たちは心をこめて見送りました。

彼らの敗北後も、江戸っ子の誇りは「父や祖父が彰義隊に参加したこと」であり続けました。

上野で死闘を繰り広げる彰義隊士の姿は、かの歌川国芳の弟子である月岡芳年が錦絵に残します。

師匠と同輩と共に、八犬士を描いていた天保生まれの青年絵師です。

そんな彼は、いかなる運命の巡りあわせか、本物の血飛沫と勇士を描くこととなったのでした。

 

何度でも蘇る傑作『南総里見八犬伝』

曲亭馬琴が没してから約20年後、明治維新が訪れました。

西洋の文学を学ぶべきだとされる時代、日本文学は古臭いものとして批判の対象とされます。

特に、大ヒット作だった『南総里見八犬伝』はその対象としてわかりやすく、時代遅れの代表格とされました。

勧善懲悪だなんだと説教くせーなー。荒唐無稽だわ! と言われてしまったのです。

これは日本のみならず、中国でも直面した悲劇といえました。

日本に留学し、文学で祖国を変えることにめざめた魯迅は、苦々しく伝統文学の欠点を指摘しています。

三国志演義』の諸葛亮は、超人的すぎて不気味だ。劉備や『水滸伝』の宋江みたいなボンクラリーダーを崇めているから、我が国は駄目になったのではないかと。

作品としての出来だけでなく、根底にある儒教倫理もふくめ、批判対象とされたのです。

それは子が親の欠点を指摘するような、愛がある故の苦さのあるものでした。

とはいえ、庶民はこうした伝統的な娯楽を捨てることはできません。

中国では伝統を否定する【文化大革命】という大打撃まであったのに、伝統的なエンタメは何度でも甦り、今もドラマやゲームとなって親しまれています。

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日本でも『南総里見八犬伝』は消えてしまったのか?というと、しぶとく生き残っています。

それはなぜか?

とびきり格好のいい勇者がチームを結成し、悪と対峙する――そんな「勧善懲悪」フォーマットは、使い勝手がよいのです。

押川春浪の小説に、立川文庫、少年漫画……。

このフォーマットを使った作品は、数え切れぬほど世に送り出され、途切れたことはなく、その元祖の一つとして『南総里見八犬伝』は今でも生きています。

2024年公開の映画『八犬伝』は、そんな偉大なる作品製作秘話であるとともに、今日にまで通じる要素を思い出させてきます。

原作者の山田風太郎は、馬琴と同じく『水滸伝』の自己流日本版を描くことにしました。それが「忍法帖」シリーズです。

これまた日本フィクションの定番である異能力者同士が戦うフォーマット起源のひとつには、この「忍法帖」があります。

山田は歴史小説や時代小説というより「伝奇作家」に分類される。

日本の伝奇小説とは、江戸中期以降、中国白話小説の影響を受けてできたジャンルとされ、山田にとって馬琴は偉大なる先輩。

『八犬伝』という作品を通して描かれる作劇術は、馬琴のものでもあり、山田のものであるとも言えるでしょう。

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永遠に色褪せない作品となっている『南総里見八犬伝』。

馬琴の説教くささという欠点が色濃く出ているだけでなく、荒唐無稽でやたらと人が死ぬ――それでも物語のフォーマット、描き方の斬新さゆえに古びません。

時代にあわせて適宜変えてゆけば何度でも作りかえせるのです。

『南総里見八犬伝』が近年にとりあげられた作品として、2023年朝の連続テレビ小説『らんまん』があります。

このドラマでは、主人公である万太郎の妻・寿恵子が『南総里見八犬伝』の大ファンでした。

舞台となる明治時代前期ならば十分ありえることで、馬琴には女性ファンも多かった。

それだけでなく、これには深い意味があったと思えます。

万太郎のモデルとなった牧野富太郎の妻・寿衛子は『南総里見八犬伝』のファンであったわけではありません。

突拍子もない夫に苦労させられる彼女は、内助の功を発揮する苦労人とされてきました。

それがドラマでは、夫妻がともに手を繋ぎ、植物図鑑を作り出していったと描かれています。夫を馬琴に例え、共に冒険に出ると寿恵子は語ります。

この夫妻は、馬琴と路の姿を反映しているようにも思えます。

路も、従来は義父に従う素晴らしい嫁とされてきました。

しかし、山田風太郎『八犬伝』では、彼女は作品を生み出す創作の喜びをおぼえ、すすんで馬琴を励ましていたという描き方をされています。

支えるだけではない、ともに歩み作品を生み出す女性の姿という点で、彼女たちの描き方には共通するものがあるのです。

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儒教倫理に縛られたがゆえに、馬琴は男尊女卑から抜け出せないように思えます。

それが彼とともに歩んだ路ゆえに、女性をも照らす光となりました。

これが2020年代の『南総里見八犬伝』なのでしょう。

そして、これから先も何度でも、この傑作は姿を変えて人々の胸を熱くし続けることでしょう。

この作品を残した滝沢馬琴は、時代を超えた傑物といえるのではないでしょうか。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから(→link

【参考文献】
麻生磯次『滝沢馬琴 人物叢書』(→amazon
滝沢昌忠/滝澤昌忠『寂しい人 滝沢馬琴』(→amazon
崔香蘭『馬琴読本と中国古代小説』(→amazon
桐野作人/吉門裕『増補改訂 猫の日本史』(→amazon
八鍬友広『読み書きの日本史』(→amazon
平野多恵『おみくじの歴史』(→amazon

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