こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【江戸城天守閣】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
口だけではない 国民の復興が第一
さて、この血筋・性格・官職と三拍子揃ったスーパーマンの正之がどうして江戸城の天守を建て直さなかったのか。
そもそも天守がなくなってしまった原因は「振袖火事」ともいわれる明暦の大火。
江戸はもともと火事の多いところでしたが、このときの延焼面積・死者は特にひどいものでした。
戦争や地震を除けば、明暦の大火の被害は日本史上最大とまでいわれています。
明暦の大火(振袖火事)は日本史上最大 3~10万人が亡くなり城も焼失
続きを見る
生き残った市民達も食うや食わずで、新しく住む場所にも困る状態。焼けた面積が広かったため、各大名屋敷やお寺、神社なども同じ悲劇を味わいました。
そこで、それまで江戸城周辺にぎっちり密集していた建物を、少しずつ区画整理すると共に郊外へ移していくことになります。
加えて、二度と同じような火事の起こることがないよう、延焼を防ぐための広小路や川の拡張なども行われました。
ちなみに駅の名前にもなっている「上野広小路」もあれです。
上野公園から南へ妙に道が広いのも彼の手がけたもの。関東大震災でもこの広小路のおかげでたくさんの命が救われたそうです。
現代江戸城に天守閣が復活する!?
これらの公共事業には、当然莫大なお金がかかります。
人手だって充分とはいえません。
そこで正之はティン!ときました。
「天守を諦めれば、他にお金がまわるしいいんじゃないか?」
そして町や江戸城の復興にある程度目処がついた頃、会議の席で正之は提案します。
「もう戦もないし、幕府も安定しているのだから、わざわざ天守を作って威圧するようなことはしなくてもいいでしょう。町の復興に全力を尽くすべきではありませんか」
重臣達は将軍縁者の正之がこんなことを言い出すのに加え、その意見のあまりのまともさに感服。
こうして、江戸城に天守が建つことは二度となかったのでした。
現在、江戸城址は皇居になっていますが、あの石垣は正之の決断の跡でもあるんですね。
一方で「天守閣をもう一度建てようじゃないか!」という話もちらちら出ているようです。
最近はお城ファンも多く、楽しみにしている方も多い反面、当時の天守閣を再現するのか、全く新しい現代風のモノができるのか、気を揉む方も多そうですね。
あわせて読みたい関連記事
秀忠の側室で保科正之の母だったお静の方(浄光院)が辿った数奇な運命とは?
続きを見る
嫉妬に狂った於万の方(保科正之継室)が毒殺を決行!予定が狂って実の娘が犠牲に
続きを見る
収入75%減(120万石→30万石)という地獄の大減封!上杉家はどう対処した?
続きを見る
なぜ徳川秀忠が二代目将軍に選ばれたのか 関ヶ原の遅刻は問題なし?
続きを見る
武田信玄は本当に戦国最強の大名と言えるのか 戦歴や人物像に迫る53年の生涯
続きを見る
三代将軍家光の弟・徳川忠長 ワケあって自刃す~その真相は闇の中
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
保科正之/wikipedia