上総広常

上総広常の錦絵(歌川芳虎・作)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

なぜ上総広常は殺されたのか 頼朝を支えた千葉の大物武士が不憫な最期

2024/12/19

寿永2年(1184年)12月20日は上総広常の命日です。

以前でしたら『いったい誰?』となるこの御方、今ならすぐにピンと来られる方も多いでしょう。

そうです、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で佐藤浩市さんが演じられた坂東の有力武士です。

劇中では、ぶっきらぼうながらも性格は悪くない好人物で、その振る舞いには「このオッサン、いい人だな」と心奪われた方も少なくないはず。

それだけに、その最期はあまりに苦しいものでした。

源頼朝に危険視され、双六の最中、梶原景時に突然背中を斬られる――しかも心を通わせていたはずの北条義時には見て見ぬフリをされる。

とにかくもう「酷すぎるだろ!」としか言いようのない展開。

いったい史実ではどんな人物で、いかなる最期を迎えたのか?

上総広常の生涯を振り返ってみましょう。

上総広常/wikipediaより引用

 


上総広常は“房総平氏”

上総広常は“房総平氏”という、房総半島の豪族でした。

桓武平氏の中で、上総・下総に根付いたとされる一族を指します。

「これは自称に過ぎず、桓武平氏とは関係ない地元の一族だ」という説もありますが、その真偽については今後の研究を待つとしましょう。

広常の生年は不明です。

保元元年(1156年)に勃発した【保元の乱】で「源頼朝の父・源義朝に従って戦った」とされていますので、この時期には少なくとも元服を済ませていたはず。

となると、おそらく1130年代後半~1140年代中頃あたりの生まれではないでしょうか。

続く【平治の乱】では、源義朝の長子・悪源太義平に従い、義平十七騎に数えられ、その後は平家に従っていました。

平治の乱で敗走する源義朝/wikipediaより引用

しかし、父の上総常澄が亡くなると、広常と庶兄の上総常景・上総常茂との間で、上総氏の家督を巡る内紛が勃発。

いったんは年の順に常景が継いだものの、次兄の常茂が常景を殺害。

常茂は京都大番役を務めるなどして名実ともに当主となりました。

広常はそれに不満を抱き続けていたようで……。

 


平家ではなく源氏の力を借りよう

治承三年(1179年)11月、平家の有力家人・伊藤(藤原)忠清が上総介に任じられました。

これは上総氏にとっては侮辱ともいえる仕打ち。

さらに平家姻戚の藤原親政が下総・匝瑳(そうさ)郡に所領を持つなど、じわじわと脅威が迫ってくると、上総広常はこう考えるようになります。

「平家ではなく源氏の力を借りて力を強めよう」

そんな状況の最中、治承四年(1180年)8月に源頼朝が挙兵。

石橋山の戦いに敗れると、頼朝らは海を渡って房総半島へ落ち延びましたが、当然諦めてはいません。

後に続いて安房へやってきた三浦氏などと合流し、頼朝は房総半島や関東の豪族たちに協力を求めます。

このタイミングで、広常は同族の千葉常胤らとともに頼朝へ味方しました。

千葉常胤/wikipediaより引用

上総常茂の息子たちも父を見限って広常と共に頼朝軍へ加わったと言われています。

孤立化しつつある常茂は、その後も平家軍の一員として源頼朝・上総広常と敵対し続けました。

そして両者は【富士川の戦い】で激突!

結果、広常たちは勝利をおさめ、ようやく上総氏はまとまりを見せ始めました。

富士川の戦いで勝利を収めた後、すぐに上洛を考えていた頼朝に対し、広常らは進言します。

「常陸の佐竹氏が脅威になりえるので、これを討ち果たしてからのほうが良いでしょう」

前述の経緯を考えると、兄方の生き残りが息を吹き返す前に、しっかりと地元を固めておきたかったのでしょう。

当時は佐竹氏の当主・佐竹隆義が在京中で、息子の佐竹義政・佐竹秀義が留守を預かっている状態ですので、頼朝たちが素早く行動すれば、切り崩すことのできる絶好のチャンスだったのです。

 

橋の上で佐竹を斬る!

上総広常は源頼朝に申し出て一計を案じました。

広常と佐竹氏が姻戚関係にあったので、それを利用し、佐竹義政・佐竹秀義兄弟に会見を申し入れたのです。

弟の秀義は何かを予感したものか、会見を断りました。

兄の義政だけが会見場にやってくると、広常は「二人だけで話したいことがある」と言い、自分も家来を遠ざけて橋の上に義政を呼びだします。

そして義政が応じて橋の上に一人きりでやって来たところを、すかさず広常が殺害――。

遠目に見ていた佐竹氏の家臣たちは、またたく間に大混乱となり、頼朝軍に寝返る者、逃げ去って行方知れずになる者など、散々な有様になります。

知らせを受けた佐竹秀義は、金砂城(常陸太田市)で籠城戦を試みました。

この城は断崖絶壁に面していて守りが堅く、正攻法ではなかなか落ちません。

そこで広常は、もう一度頼朝へ謀略を献じます。

城に入っていなかった佐竹秀義の叔父・佐竹義季を味方に引き入れて、城の弱点となる場所に案内させたのです。

と、作戦はドンピシャ的中。

金砂城は落ち、佐竹氏は上総氏や千葉氏の脅威ではなくなりました。

 


頼朝や御家人に対して無礼だった?

冒頭で申し上げましたように、上総広常が武辺一辺倒ではなく、なかなかの頭脳を持ち合わせていたことがご理解いただけたでしょうか。

平安末期の武士としては、珍しいタイプ。

ただし、そうした特異な才覚が災いしたのか、同時代の歴史書『吾妻鏡』の中では、あまり良く書かれていません。

「頼朝に対して無礼だった」

「他の御家人に対しても横暴・横柄であった」

といった具合で、粗暴な人物像として評されています。

しかし、その割に家中でのトラブルは伝わっていませんし、暴力沙汰の類も残されていません。

「身内にだけ丁寧なタイプだった」という可能性もありますけれども、肝心の頼朝にしてみると、広常は中々好印象を持たれていたように思えます。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

例えば寿永元年(1182年)8月に頼朝の息子・源頼家が誕生したとき、引目役や五夜の儀式の監督などを務めています。

「引目役」というのは、貴人が出産する際に鏑矢(犬追物などにも使う威力を弱めた矢)を振って音を立て、魔除けをする役。

五夜の儀式は読んで字の如く、誕生から五日目にあたるお祝いのこと。

ちなみに三日目のお祝いは小山朝政、七日め目のお祝い(お七夜)は千葉常胤が行いました。

ところが、です。

寿永二年(1183年)12月20日。

頼朝は「謀反を企てた」として、上総広常を誅殺させてしまいました。

いったい何が起きていたのか?

 

景時が広常を刺し殺す

それは上総広常が梶原景時と双六に興じている最中のことでした。

頼朝から命じられた景時が、隠し持っていた刀で広常をズブッ!

双六に興じている隙を狙い刺殺したのです。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用

まるで漫画や映画のような展開ですが、これを知った広常の嫡男・上総能常は反乱の兵を挙げる……のではなく自害。

上総氏は所領を没収され、その土地は千葉氏や三浦氏などに分けられています。

他の上総氏の者達も罪人扱いされ、広常の又従兄弟である千葉常胤に預けられました。

しかし、それからわずかひと月程度の後のこと。

元暦元年(1184年)正月に「広常が上総国一宮に、頼朝の祈願成就の願文を捧げていた」ことが発覚します。

広常の謀反は完全に冤罪だったのです。

頼朝は誅殺したことを後悔し、千葉氏に預けられていた上総氏の一族を許したそうですが……なんとも後味の悪い話です。

願文が見つかった程度で後悔するのならば、殺す前に真偽を正すなり、それこそ広常本人をしばらく常胤に預けるべきでしたでしょう。

後に、弟の源範頼を幽閉したときにも共通するのですが、頼朝という人は政治的には非常に有能なはずなのに、「謀反」の二文字が出てくると、途端に盲目になる悪癖があるようにも見えます。

 

なぜ朝廷に気を遣う必要があるんだ?

しかし源頼朝にとっては、家臣が実際に謀反を計画しようとそうでなかろうと、あまり関係なかったのかもしれません。

鎌倉幕府は初めてできた武家政権。

体制をより盤石なものとするためには、幕府サイドに権力を集中させる必要があります。

その点、関東における上総広常の兵力は、あまりに大きなものでした。

当時の記録は、武家の軍勢を十万とか二十万と平気で記すなど、ムチャな誇張をすることで知られますが、それでも強大だったことに間違いはないでしょう。

慈円の記した『愚管抄』では、「頼朝が後白河法皇に語った話」として、次のようなものがあります。

後に源頼朝から「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用

【源頼朝→後白河法皇】

広常は常々言っていました。

『なぜ朝廷に見苦しいほど気を遣うのか?』

『我々はこうして坂東で活動しているのだから、朝廷など関係ないではありませんか?』

と。広常は、平家討伐より関東での独立を望んでいたのです。

ゆえに、けしからぬと思い、誅殺しました。

死人に口なし――果たしてどこまで本当だったのか。

真実は頼朝しか知り得ませんが、実際問題、坂東武士の上総広常が独立独歩の気風を抱いていたとしても何ら不思議でもありません。

だとしたら確かに危険ですよね。

 

最も得したのは千葉氏か……

頼朝の思想を理解できないままでは、いずれ反乱計画が建てられ、実行に移される可能性も否定できない。

特に、多くの兵を抱えている広常が本当に謀反を起こした場合、平家討伐どころではなくなってしまいます。

ですので「当時、謀反を計画していたから問題だった」のではなく、

「謀反を起こす可能性が否定できず、実際に起こされた場合、非常に面倒だから先に潰しておいた」

という方が正しいのではないでしょうか。

そういった人物を即座に切り捨てられる冷徹さが頼朝の特徴であり、優秀さかもしれません。

だったら事前調査をしっかりしてくれよ、とも思ってしまうんですけどね。

ちなみに、この後、房総平氏の嫡流は千葉氏へ。

「広常の死によって最も得をしたのは常胤」ともいえるわけですが……はてさて。

広常が誅殺された時期は【木曽義仲の討伐】と【一ノ谷の戦い】の間、寿永三年(1184年)2月にあたります。

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平家との全面対決に参加できなかったのは、本人としても非常に無念だったことでしょう。


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【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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