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【麒麟がくる16回】
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高政には無理でも道三には思いのままを告げられる
城では、朧な空気の中で伊呂波太夫がにっと微笑みを見せてきます。
尾野真千子さんがこの役でよかった。これぞ妖艶。こういう雰囲気を出せて、笑える。彼女の新たな魅力が引き出されています。
そんな意味ありげな微笑を残し彼女は消え、光秀は道三の元へ向かいます。
「殿、光秀でございます」
「戦支度もせず、何をしに参った」
光秀が、御出陣をお止めするために来たと言うと、道三は伊呂波太夫のことを言い出します。
「さきほど帰蝶が奇妙な女をよこした。隣国越前に話をつけ、逃げ道を用意したゆえ、ついてこられよと申すのじゃ。戦をしても勝てぬと申してな。わしはこの鎧を脱ぐ気はない。そう言って追い返した」
伊呂波太夫は流石ですね。おもしろい。本作の民間人キャラクターはキッチリと役割を果たしています。
彼らのことを「邪魔」だの「うざい」だの言う意見も散見しますが、それはご自身の本心からそう出てきたのか、疑問に感じるときがあります。SNSや掲示板、あるいはその意見を汲んだとするネットニュースから得た【共感】の産物ではないかな?と。
光秀は道三に、今は勝ち負けもない、戦となれば国衆同士の殺し合いになる、それだけはなんとしても避けたいと言い切ります。
ここも注意したいところです。
高政との会話で、光秀は領地替えをされる国衆の苦悩は言い返せなかった。温厚な叔父・明智光安すらああも怒ることなのに、その苦痛を言い出せない。
対高政と対道三、どちらが意見の通りがよいか……。
人の上に立つ者は、正直でなくてはならぬ
苦しげな道三。そう、彼だって苦しみを理解できないわけではない。
そして言葉を紡ぎます。
「わしも迷うた。それゆえ少し眠り、仏のお告げも聞いてみようと思うたが……仏は何も申されぬ。当てにならぬお方じゃ。高政はのう……わしがまことの父親だと分かっておる。されど土岐頼芸様が父だと言い触らし、己もそうありたいと思うてきた。高政は人を欺き、自らを飾ろうとしたのだ。十兵衛……人の上に立つ者は、正直でなくてはならぬ。偽りを申すものは必ず人を欺く。そして国を欺く。決して国は穏やかにならぬ。わしはケチだがそれをわしは隠したことはない。そうは思わぬか?」
「それは……そのとおりかと」
「そなたは正直者だ。それでよい」
道三はケチだの性格が悪いだの言われる。
けれども、正直ではありました。
マムシと呼ばれようが、ケチと言われようが、嫌いと言われようが、道三は受け止めて生きてきた。
傲慢なようで、性格が悪いようで、素直と言えばそうです。
これで思い出すのは、曹操のこと。彼は“乱世の奸雄(英雄)”と呼ばれて「悪党と呼ばれても開き直るムカつく奴!」とマイナス評価する意見もある。逆に、彼なりに戒めにしようとしたという解釈もできる。
道三と光秀の反応を見ていれば理解が深まるような気がします。
身の丈に合わぬほど褒められ、酔いしれ、「私スゴイ! グレート!!」と浮かれ回り、その名声に潰されるくらいならば――自分が性悪で、どうしようもなくて、ダメだから気を抜くなと自制する方が、よいのかもしれない……。
道三のようにメンタルがタフ、【自我】がバリバリにあってこそのことでしょうし、それはそれできつい。いっそ悪名ごと消えてしまいたい、そういう思いも去来しそうではあるけれども。
共鳴と反発
光秀が反論しようとすると、道三は体力的な弱さを見せます。少しよろめき、光秀に支えられるのです。
「わしはこれまで戦であまたの家臣を死なせてきた。毎夜眠りにつくとき、その者たちの名を唱えてみるのじゃ。それが近頃、その名が出てこぬ。わしの命を救うた家臣の名が何人も出てこぬようになった。忘れてしもうたのじゃ。わしは老いぼれた。もはやこれまでと……家督を譲ろうと思うたのじゃ。しかし譲る相手を間違えた。間違いは正さなくてはならぬ」
正直だからこそ、弱さも見せられる。記憶の衰えを自覚しています。
これも父子の残酷な対比だとは思えます。
信長も、村木砦で戦死した家臣たちの顔を見て衝撃を受けていました。
道三にせよ、信長にせよ、人の死を悼む気持ちはある。楽しいから人を殺す。そういう本物のあかんやつ、例えば『ゲーム・オブ・スローンズ』のジョフリーやラムジーとは違うのです。
一方で、思いやりがあって、飲みニケーションが得意で、リア充陽キャの高政が、国衆の心を踏みつけ軽んじている。
とことん似ていない親子である。
だからこそ、父は我が子が破滅しかねない、間違ったと噛み締めているのです。
道三は叫びます。
「皆の者集え! 城より打って出る! 皆に触れを出せ、これより鶴山へ向かう、鶴山に陣を張る!」
「おおー!」
そして道三は、最後の思いを光秀に託すのです。
「十兵衛、わしの父親は、山城国の油売りで、美濃で大を為した。美濃も尾張もない。皆一つになればよい。近江も、大和も。さすれば豊かな大きな国となり、誰も手出しはできぬ。わし一代でできなかったことを、お前がそれをやれと」
「わしも美濃一国で終わった……しかしあの信長という男は面白いぞ。あの男から目を離すな。信長となら、そなたやれるやもしれぬ。大きな国を作るのじゃ 誰も手出しのできぬ大きな国を。さらばじゃ」
殿、殿、殿!
光秀がそう叫ぶ中、道三は出陣してゆくのです。
残酷な決裂であります。
道三は、我が子の高政よりも、血縁関係にない信長の才能を見出した。そのことが高政との関係を断絶した。彼がもし【共感】のために目の前のことに目をつぶれるのであれば、こうはならないだろうに。
本作に関しては、父と子、母と子、血で繋がった者たちの情が絡み合う物語だという意見もある。
けれども、ここまで強い運命を感じる道三と信長には、血の繋がりはありません。光秀もそう。むしろ、思考回路の使い方が似ている者同士の、共鳴と反発ではないでしょうか。
だからこそ道三は、自分と共鳴する光秀に信長を見つめるという未来を託した。自分に未来がないことくらい、よくわかっている。
道三は人生そのものと、我が子との、決裂を選んだのです。
「叔父上の後を追う。鶴山へ! 敵は高政様!」
光秀が明智荘へ戻ると、人が動揺しています。
この騒ぎは何なのか?と藤田伝吾に尋ねると、光安が鶴山に向かったと告げられます。
藤田伝吾が光秀に託された順慶との交渉~信長を討った明智家の命運を握っていた
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大桑城から出た道三様の元に馳せ参じると、明智左馬助と足軽50を連れて向かったのです。
何故止めなかったのかと光秀が言うと、武士の意地とのこと。高政のもとにも国衆が集まっている。
「我らも十兵衛様の申し出次第。いかがなさりまする?」
「わしは行かん。道三様の陣にも、高政様の陣にも……」
そう返す光秀を、常、牧が迎えます。牧は帰宅を告げる我が子に、稲葉山城から使者が来たと告げます。
煕子は夫を出迎え、何かをお口に入れてからお発ちになるかと聞いてきます。
光秀はムスッとしている。苛立ちが顔と言動に出ています。
これぞ長谷川博己さんの本領発揮――あの朝ドラみたいに、短気でやたらとギャーギャー叫ぶことを「流石! ハセヒロの狂気ィ!」と褒めるつもりはございません。あんなものは、お湯をかけて数分待てばおいしく食べられるインスタントラーメンでしょう。
本作はもっとじっくり煮込んだ味だ。演技だ。
秘めようとしているようで、胸の奥の炎がチラチラと見えるような演技こそ、まさしく彼の力ではありませんか。
苛立った光秀は、煕子に返します。
「どこへ発つのじゃ?」
「皆、既に覚悟を。あとは十兵衛さまのお心のままに」
光秀はここでふりむいて鎧櫃を見ます。気迫を込めた目で、キッと睨みつけるのです。
そして彼は鉄砲を手にします。そしてその重さを確かめる。堺で鉄砲を見て来いと行ったのは、思えば道三だった。美濃もあのような豊かな街を持ちたいと思えた。
高政は、国を動かす時、力になって欲しいと言ってきた。
見よ、当たったぞ! 道三はそう鉄砲を当てて喜んでいた。
光秀は銃を構え、引き金を引きます。そしてこう言い切るのです。
「煕子!」
「はい」
「木助に鎧の用意をと! 戦じゃ、戦に参る!」
「十兵衛様、十兵衛様!」
彼のもとに家臣が集まってきます。
「みな、揃うたか」
「はっ! 行く先はいずこに?」
「叔父上の後を追う。鶴山へ! 敵は高政様!」
「はっ!」
光秀はそう決断を下します。自分自身と、明智一族と、家臣の命をかけた決断です。
その決断を、簡単にくだせたはずがないのです。
MVP:明智光安
道三と迷いましたが、道三だらけになりますので。
彼も大事だとは思う。
常人の我慢の限界、踏み越えてはならぬ一線を描き切りました。
キレて反抗する国衆といえば『真田丸』の真田昌幸が思い浮かびます。『おんな城主 直虎』の井伊家も素晴らしかった。真田はハズレ値で、井伊家も女性城主でしのげるだけの地力はあったのだと思えてきまして。
その点、明智光安は”普通“の国衆だとは思えます。鳥と戯れることが生きがいで、偉大で優秀な兄の後を継ぐことが大事。
そうやって、平凡な人生をしっかりと生きてきたのに。宴会で踊ってご機嫌とりをしてきたのに、落ち度がないのに、踏みつけられてしまう。
一体何をしたのだろう?
自分の人生って何だったのだろう?
心が踏まれて砕け散る。そんな瞬間に凄みを見ました。
総評
まずは、本作の放送中断や悪いニュースから。
「えー、麒麟が来なくなっちゃう!」
「そもそも光秀は主人公向きでないのでは?」
「もしかして呪い?」
そういう話は不要です。菊丸役の方の発言は、時代の変化でもあります。
おそらくや数年前ならばスルーされていた。それが問題視されるからには、時代の変化と併走するように走らねばなりません。
【赤の女王仮説】という概念もちゃんとありますので、こういう科学的思考法って、文系の歴史学だろうと大事です。理系だけの専売特許でもないんだな。
そもそも『麒麟がくる』というタイトルにせよ、そもそもが来るはずのないものの到来を招き寄せるように、世の中は理想を目指して進化しないといけないという、そういう願望由来のことです。
『麒麟がくる』で「来ない」と話題になった――そもそも「麒麟」とは何か問題
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放送中断と今後の大河枠そのもののことは、後日別記事で報告したいと思いまして。
考察:【共感】の時代は終わる
さて、今週はこのセリフが白眉でした。
「高政はのう……わしがまことの父親だと分かっておる。されど土岐頼芸様が父だと言い触らし、己もそうありたいと思うてきた。高政は人を欺き、自らを飾ろうとしたのだ。十兵衛……人の上に立つ者は、正直でなくてはならぬ。偽りを申すものは必ず人を欺く。そして国を欺く。決して国は穏やかにならぬ。わしはケチだがそれをわしは隠したことはない。そうは思わぬか?」
前半を通しての深いものがあると思えたものです。
高政もまたサイコパス呼ばわりされてきました。が、そもそもサイコパスの定義って何でしょう。
善悪正邪のうち、悪と邪に流れたということでよくありませんか。信長と高政は、悪と邪を為すにせよ、思考回路はかなり違います。
高政は、自らがそうなりたいという【虚像】を言い触らすことで、精神が崩れていくところが怖いとは思った。それというのも、その手の罠は溢れていると思えるのです。
当連載に、こういうキャッチコピーをつけたらどう思われます?
「読めば大河ドラマが10倍面白くなる!」
「読めばあなたも大河通に?」
書いただけで本人が爆笑してずっこけそうで、辛いもんがある。こんなもん読んだところで、ドラマが10倍面白くはならない。そもそも、基準がわからないからには何をどうすれば10倍になるのかもわからないわけです。
でも……ヘッダ画像にそういう文言があれば、そう思い込んじゃうかもしれない。あるいは経歴に、すごいことを捏造してでも書くとか。そうなれば、ぶっ叩かれなくなるお守り札になるんじゃないかと考えたことはある。やらんけど。肩書きは、クソレビュアーで十分だけど。
そう、高政のことを自分の立場にあてはめてみると。
彼はサイコパスでもなんでもない、賢くて普通の人だと納得できるのです。ああいうタイプは、割といるものでしょう。
あることに気づきました。
ドラマのハッシュタグを見る。アカウントのプロフィールを見る。アイコンなり、名前なり、プロフィールなりに、好きなドラマのことを書いている。あるいはアンチ文言も。
これは不思議でしょうがなかった。これまた高政心理を自分にまで引っ張るのですが、ある朝ドラを好きだと書き、その後の作品を嫌いだと書いた時。さんざん叩かれました。
趣旨はこうだ。
「私と同じドラマ評価にしなさい!」
「私と好きなドラマを褒めているから読んであげたのに、どうして私の意見に逆らうの!」
ご親切に、私が褒めていたドラマのアンチハッシュタグまで教えていただきました。
どんな嫌いなドラマだろうと、アンチハッシュタグはごめん被る。そこにある意見は、理詰めではなく、【共感】を求める愚痴のようなものが多く、正直、時間を浪費します。
いいから大河の話をしろって?
まあそれはそうですけど、ドラマの作り手だって言っておりますからね。
戦国時代だけではなく、現在にも通じるものと思って欲しい、と。
今週は、ひとつの時代の終わりを象徴するような、そんな気迫がある回でした。それこそ本作かもしれない。本作は光秀たちの若い頃から描いている。信長たちが戦国時代を変える前夜から描いています。
ゆえに、時代の変革とマッチしてしまい、怖いものがある。
じゃあ何が終わろうとしているのかというと、そこを考えたいと思います。
それは【共感】を求める時代です。
2011年の3.11以来、絆で繋がる【共感】で困難を乗り越えるという流れがあったと思えるのです。
スクラムを組んで、立ち向かって行こう!
楽しければいいじゃん!
そういう流れは、スポーツイベントに流れる空気でもあった。
ところが、現在は【ソーシャル・ディスタンス】。スクラムを組めなくなってきた。
むしろ【自我】がないと厳しい。一人孤独に耐えていく人間には、斎藤道三のこんな言葉があてはまるのです。
「力があれば、生き延びる。非力であれば、討ち果たされる。わしの力でどうにもできぬ。帰蝶も孫四郎もそう。わしはいずれ消えてなくなる。それも今日か明日かの違い」
無我夢中で、自分の力で生きていけ。道三はずっとそういうことを言う。
自分の目で見て確かめろ。
お守札に頼らず、自分の足で立って生きていけ。
【共感】の時代から【自我】の時代へ向かってゆく。
これは完全にクソレビュアー個人の意見だと断っておきますが。
#GratefulForTheHeroes絵 ハッシュタグを見て、モヤモヤした感覚がありました。そこを踏まえた記事もある。
◆働く人々を「ヒーロー扱い」 “応援”“感謝”“一致団結”で「気持ちよくなる」人の心理 #GratefulForTheHeroes絵 #文春オンライン
このハッシュタグを「被災地に贈られる千羽鶴だ」と喩えている方もいました。ただ匿名性の高い千羽鶴と比べると、#GratefulForTheHeroes絵にはどうしたって描く本人の個性、エゴみたいなものが内包されてしまう。「感動ポルノだ」という反発の根源は多分そうしたうっすら垣間見える「エゴ」なのでしょう。「同情するならカネをくれ」じゃないですが、実質的な待遇改善を求めているときに与えられる一方的な「感謝」は、悲しいことに感情の逆撫でにしかならない。
#GratefulForTheHeroes絵はほんの一端で、絶対やっちゃってますよ、私も。3.11とは全く異なる構造との戦い、つまり「感謝」の快感は既に終わりを告げていて、今私たちは無自覚な「気持ちよさ」との戦いを迫られている気がするのです。「応援」や「感謝」で気持ちよくなるのは自分で、しかしそれは誰かにとってとても気持ち悪いことかもしれない。明確な「被害者」ではなく、無自覚な「加害者」を生み続けてる、それがコロナウィルスの真の怖さのように思います。
これはまさに今週の高政かよ……という話。
高政は領地替えをして、美濃を変えていくことに快感を見出している。
飲みニケーションをして、「応援」や「感謝」の生み出すエネルギーから快感を得ているとわかるのです。
そのことそのものは悪いことでもないのですが、けれどもその快感によって「被害者」が生まれてしまう。宴会を冷たい目で見てしまう光秀は、そのことを体現するかのようでした。
光安は籠から鳥を逃す。自分の破滅には、この小さな命を巻き込みたくない。高政の傲慢さとの対比が、そこにはあると思えてしまった。
大河の感想で、なんでここまで考えてしまうのか。
それは自分自身に一番問い詰めたい話ではあるのです。
ハッシュタグの投稿、イラストが、どうにも変質してきたと思えるのは、奇しくも3.11の2011年前後だとは思えました。
大河のハッシュタグ絵の元祖のようである2012年『平清盛』は、低視聴率でありながらもこうした絵を奉納までした。まるでアリバイ利用されているように思えたものです。
朝ドラは2013年上半期『あまちゃん』。
関連書籍はじめ、ともかくファンの熱気が盛り上がれば最高! ドラマそのものではなくて、それそのものを楽しんでいる雰囲気は、どんどん濃くなったものでした。
スタッフが被った別ドラマの感想では、前置きに『あまちゃん』で盛り上がった過去の成功体験を語られることがあまりに多かったものです。
そしてこれはアンチの熱気でも、甚だしいものがあった。
大河は2015年と2018年。朝ドラは2018年上半期ですね。叩いていいものを見つけた熱狂がそこにはあった。大河については私も一端を担った自覚はあるのですが。
でもこれって、純粋に作品を楽しんでいるのかどうか?
意見が一致して「わかりみー!」と言い合える快感を共有しているのではないか?
ハッシュタグ投稿は悪くないし、ファンアートは楽しい。それはわかるのですが、ドラマそのものを楽しみたいのか、ファンであることをアピールしたいのか、自分の投稿が評価されてうれしいのか、その区切りがわからなくて、過剰に【共感】を求める流れに、正直ついていけなくなってきた。
だから私は、自分に賛同する意見は見た瞬間に忘れるくらいでいようと意識するようにしました。
貶される意見は、むしろプリントアウトしておきたいくらいではあるんですけどね。臥薪嘗胆ってやつ。自己鍛錬のためには、薪をベッドにして苦い肝を舐めないといかんのです。
なので、ドラマの感想を書きながら、何度も何度もこう自分に言い聞かせました。
褒められたら、それはドラマそのものがよいだけのこと、そういう【共感】をうまく刺激できただけ。
所詮は虚名、この仕事で得た金銭以外は、全部どこかへ捨てにいけ。素晴らしいのはあくまで作品、作る側。それに乗っかっていることを忘れるな。
貶されたら、吟味して判断すること。ただ、自分たちの【共感】を傷つけられたことに怒っているのであれば、それはそれでよし。
【共感】排除は楽しくないが、それも必要だったとは今にして思う……。
【共感】はよいこともたくさんあります。でも、弊害もある。
【自我】がなく【共感】に頼りすぎて生きることの危険性。【共感】欠如の破滅。どちらも、本作では描いてゆくと思えるのです。
どちらがなくてもよろしくない。どちらかしかなくてもいけない。
バランスが大事です。
そして現在、そのバランス配分を変えねばならない時が来たようです。
【自我】と【共感】は、何も適当に考えたわけでもない。
【理】と【情】でもよいかな。
何度も出している『スカーレット』では、ヒロインが「エゴ=自我」を貫いたことを最終回において反省していました。
そして、本作も本木雅弘さんがこう言っているわけです。
正直なところ、演じるうえで、道三のこだわりが「自我を貫くこと」にあるのか「未来への思い」なのかを決められませんでした・・・。
やはり、このあたりが重要だとは思える。
ドラマを見る上だけではなく、こんな時代を生きていくためにも、必要なことなのです。
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文:武者震之助
絵:小久ヒロ
【参考】
麒麟がくる/公式サイト