今なおイングランド海軍の英雄であるフランシス・ドレーク。
世界史がお好きな方や学生さんだったら「ああ、アルマダの海戦の人ね」と連想されるかもしれません。
教科書的にはその一点しか取り上げられませんが、実はアルマダ(スペイン海軍)とフランシスには並々ならぬ因縁がありました。
それは一体どんなものだったのか?
1596年1月28日はフランシス・ドレークの命日。生涯と共に振り返ってみましょう。

フランシス・ドレーク/wikipediaより引用
海賊の生い立ち
フランシスは1540~1545年頃に生まれたとされています。
祖父の代は小作農の家で、父・エドマンドがプリマスへ出て船員となると、仕事で立ち寄った外国の港でプロテスタントの信徒になり……といった遍歴で、フランシスもプロテスタントになったようです。
しかし、1549年に起こったカトリックの反乱を見てエドマンドは身の危険を感じ、親戚のウィリアム・ホーキンズを頼りにプリマスへ逃げました。
エドマンドはここでイングランド水兵相手に神の教えを説く聖職者になり、なんとか身の安全と生計を確保したとされます。
なんせドレーク一家は、両親+フランシスを含めた兄弟12人=合計14人という超大所帯です。
父親が働くのは当然として、幼いフランシスも10歳ごろから近所の人の船で下働きをし、家計を助けるようになりました。
当時は合法というか児童労働という概念がないので、両親は頼みにしていたでしょう。
周囲の人々も「家の役に立って感心な子」と思っていたのではないでしょうか。
10代前半で船に乗るというのも、当時は珍しいことではなかったようです。
フランシスが働き始めたかどうか……といった頃合いの1554年7月、イギリス海峡にスペインの大艦隊が到来するという出来事がありました。
物騒な目的で来たものではなく、ときのイングランド女王メアリー1世と結婚したスペイン王太子・フェリペを送り届けるための船団です。

メアリー1世/wikipediaより引用
この夫婦はカトリックであり、特にメアリー1世はプロテスタントを積極的に迫害・処刑したことで知られています。
それによって、またしてもエドマンドは職を失ったそうです。このトーチャンも相当に運の波が激しい人ですね。
苦しい家計を支えていたフランシスが「カトリックのせいでうちはこんな目に遭うんだ!」と憎らしく思ったとしても、無理のないことでしょう。
奴隷貿易の道へ
時が流れ、1558年にメアリーが崩御。
異母妹のエリザベス1世が即位すると、エドマンドは再び牧師の職を得てまともに生活できるようになります。

エリザベス1世/wikipediaより引用
その間はフランシスが大黒柱となり、朝に夕に働いていたそうです。
彼の雇い主だった船長はその勤勉さを称え、亡くなる前に自分の船をフランシスに与えてくれました。やったぜ。
しかしフランシスは物に愛着がないタイプだったようで『この船を売ってお金を作り、もっと儲かる仕事の原資にしよう』と思い立ちます。
この頃、いとこのジョン・ホーキンズが西インド諸島で奴隷を仕入れ、スペインの植民地に売って莫大な利益を上げている……と聞いたから。
現代人からすると非人道的にも程がありますが、当時は合法の商いでした。
「スペインやポルトガルが、植民地での労働力にする奴隷を高く買っている」
ジョンはそんな話を聞きつけて、アフリカで顔なじみになっていた黒人の首長に話を持ちかけ、安く奴隷を仕入れていたのです。
なんでも、その部族では犯罪者や戦争の捕虜を奴隷にする習慣があったのだとか。
顔をしかめる方も多いかもしれませんが、戦国時代の日本も同じようなもので、合戦が起きるたびに奴隷売買が行われていました。
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ちなみに売るときは
「嵐に遭って漂流し、食料が不足しているので、奴隷を処分したい。安い値段でいいので買ってくれませんか」
と西インド諸島サント・ドミンゴのスペイン人総督に願い出ていたそうです。ったく、ゲスすぎますね。
しかしスペインでは「外国の船と勝手に商売をしてはならない」という決まりがあり、この件がバレた時にスペインからイギリスにクレームが入りました。
エリザベス1世も当然これを耳にします。
「あら、スペインの植民地はそんなことになってるのね。だったら国がこれを援助して、もっとウチの国民に稼いでもらいましょう」
かくしてイングランドは、議会の承認つきでジョンのスポンサーとなります。
これまたえげつない話ですが、当時のイングランドは女王の父や姉時代のすったもんだのせいでお金がなく、金儲けの手段を選んでいられなかったのです。
女王のお墨付き
ということで、ジョン二度目の航海には、イングランドの軍艦ジーザス・オブ・リューベックが加わりました。

ジーザス・オブ・リューベック/wikipediaより引用
女王様、堂々と支援し過ぎ。
ジョンは、前回同様にアフリカで奴隷を仕入れ、南米のボルブラータやリオ・デ・ラ・アチャで売り、ついでにカリブ海の測量と海図を作りながら北上して帰国――という、素晴らしく手際の良い航海を済ませます。
結果、ジョンは莫大な利益を上げます。
しかし、コケにされたスペインが黙っていません。
イングランドも表面を取り繕うため、枢密院(女王の側近たち)がジョンをロンドンへ呼び出し、取引とも言えるような措置を取ります。
「もうあんなことをしないように! しかし保証金を払えば、身の自由は保証してやろう」
かくして500ポンドの支払いを命じられたジョンは、その後、一時は大人しく過ごします。
しかし彼の船団はジョン・ロベルという人物によって出港し、またも商売を始めました。この三回目の航海が1566年で、フランシスが参加したのもこのときのことです。
ロベルは短気な人物だったのか、商売が下手だったのか、今度の航海では様々な失敗を重ねてしまいます。
例えば、黒人を集める際にポルトガル人と争って数人殺してしまったり、売り先のリオ・デ・ラ・アチャではスペイン人に騙されて奴隷を奪われたり。
最終的にロベルやフランシスも殺される寸前で逃げる羽目に陥ってます。
ポルトガルもスペインもカトリック国だったため、プロテスタントのフランシスは信仰上の理由もあって、両国に深く恨みを抱いたようです。
幼い頃の苦労も影響したでしょうね。
ケチはついたものの、三回目の航海も利益を上げていたため、再度スペインからイングランドにクレームが入りました。
エリザベス1世は国際的な建前上、なんらかの処分をしなければなりません。
しかし最終的には四回目の航海にもGOサインを出します。
いやぁ、強気というか、舐め腐っているというか、さすが英国というか。
スペイン大使が本国への手紙の中で「この女王の中には10万の悪魔がいる」と評したことがありますが、それもむべなるかなという感じですね。
サン・ファン・デ・ウルアで予期せぬ戦闘
ジョンの船団にとって四回目の航海は1567年10月から始まりました。
この航海もトラブルが続きますが、長いのでダイジェストにしますと……。
・途中で決闘騒ぎが起きて、ジョンが大岡裁きのような名采配をしたり
・黒人集めが難航したため現地での戦争の片棒を担ぐことになり、勝ったはいいものの味方の黒人による食人が始まって「こんなんじゃそのうち奴隷にする黒人がいなくなるのでは」と別方向の心配をしたり
・リオ・デ・ラ・アチャに着いたら着いたで、総督がフランシスの船に発砲し、お返しにフランシスの船から総督の屋敷へ砲弾が打ち込まれ、一時はイギリス側が町を占拠したり
・帰り道で立て続けに嵐に見舞われ、修理と補給のために立ち寄ったメキシコ湾の港サン・ファン・デ・ウルアで、メキシコ副王率いるスペイン艦隊に遭遇して戦闘となり、火船をジーザス・オブ・リューベックにぶち込まれて置いていかざるを得なくなったり
なかなかハードな局面に遭遇、特に最後のサン・ファン・デ・ウルアの一件は深刻だったようです。
たまたま港の出入り口の方に船を泊めていたフランシスは逃げられましたが、ジョンは補給もろくにできないまま200人もの船員を抱えて脱出せざるを得ず、途中で100人を置いていくことに……。
フランシスも「ジョンはもう助からないだろう」と諦めていたそうですから、状況の激しさがうかがえます。
結果、ジョンの船はメキシコ湾を脱してからも食糧不足や病に苦しむ者が多発し、最終的にたった15人しか生きて帰れなかったとか。
また、この間にジョンの船団に関するニュースがイングランド国内に流れ、スペインへの憎悪がかきたてられていきます。
女王から預かったジーザス・オブ・リューベックを連れ帰れなかったことで責められてもおかしくない状況。
しかし、ジョンやフランシスが持ち帰った金銀財宝が1万3500ポンドもの大金になったことで、お目溢ししてもらえたようです。
今も昔も、何事もカネで解決するんですな。
ちなみに1万3500ポンドにはどれほどの価値があったのか?
というと、現在の英ポンドとは大きく異なり、当時の物価ですと、1万4000人が1年食べる小麦が買える程度の値段だったようです。
後述するアルマダの海戦におけるスペイン軍の主戦力が1万8000人とされています。
つまりは
「大船団の兵士たちを一年食べさせられるくらいの食料になるお金を、ジョンやフランシスが一度の航海で稼いだ」
というと、いかに大きな金額だったか、ご理解いただけるかもしれません。
船の場合は兵士の他に船員がいますので多少ズレますが……まぁイメージということで。
自前の艦隊を準備
フランシスやジョンが逃げてくるまでの間、イギリスとスペインの相互感情は最悪の状況となっていました。
両国の近辺で活動していた海賊たちにより、財産を巡るトラブルが多発していたためです。
他にも国内の問題は多く、この時点では戦争できる状態ではありません。
ジョンは帰国した後もできるだけ平和に商売をしたいと考えていたようですが、国際事情的に見て断念。
海軍はロンドンを流れるテムズ川の河口を基地としており、プリマスには艦隊がなかったので、ジョンは地元と商売を守るために自前の艦隊を作り始めます。
あれだけボロボロになって、再起できる根性と財産があるのがスゴイですね。
しかも彼はスペイン語に堪能だったことを利用して、メアリー・スチュアートやスペイン大使が絡んだエリザベス1世の暗殺計画を察知し、未然に防ぐことに成功。

スコットランド女王メアリー・スチュアート/wikipediaより引用
さらに妻の父であるベンジャミン・ゴンソンが海軍関係者だったことから、海軍や政治家とのツテを得て大出世していきました。
一方フランシスは、帰国した半年後の1569年7月に結婚します。
相手は、航海で一緒に行動していたハリー・ニューマンの妹メアリー。
かといって家庭に落ち着いたわけではなく、ジョンにもらったスワンという名の小型船で再び大西洋を超え、パナマ近辺でスペインが新大陸で集めた金銀の保管場所や、総督の屋敷の場所を調べ上げます。
そして”ポート・フェザント”と名付けた小さな入江にいくらかの物資を置き、次回来たときの拠点に定め、帰国すると、この情報をジョンに報告した上で準備を進めるのです。
1572年5月24日、フランシスは弟のジョンとジョーゼフを連れて、たった二隻の船と食料・武器・物資と船員と共に出港しました。
このとき彼は「パナマにあるスペインのお宝を奪いに行くぞ!」と言って船員たちを鼓舞し、大いに士気を上げたそうです。
まさに”一攫千金”ですね。
残念ながらポート・フェザントの物資はスペイン人に奪われていましたが、そのことをかつての同僚ジョン・ギャレットがメモにして残してくれたため、フランシスは状況を把握。
周辺を調べた結果、すぐに戦闘になることはなさそうだと判断し、積んできた物資を使って船を三隻組み立て、襲撃の準備を進めます。
さらにその間、知人のジェームズ・ランスが船でこの地を訪れ、共に行動することとなりました。
こうして100人を超えたフランシスの船団――7月20日にポート・フェザントを出発すると、道中で船員をよりすぐった上で作戦説明や戦闘訓練をし、29日未明、スペインの拠点であるノンブレ・デ・ディオスへ襲撃をしかけました。
結果は成功……でしたが、フランシスが傷を負ってひどく出血したため撤退せざるを得ない、というなんとも悔しい結果に終わります。
ジェームズ・ランスはスペイン側の報復を懸念してここで別れましたが、予期せぬ戦力を得られていたのですから、フランシスに不満はなかったでしょう。
スペインの植民地を襲い続ける
療養の後、フランシスは8月7日にカルタヘナという町を次の標的に定め、改めて出発。
8月13日にカルタヘナ港に到着した数隻の船を襲撃し、自分の船団に加えました。
その船を使って、9月5日から周辺のスペイン人居住地で積荷や食料を奪い続けます。
その代わり……と言っていいのかどうかビミョーですが、帰路につく際は捕虜や船を解放していたとか。
かつて黒人同士の戦闘で凄まじい光景を見ていたことから「自分はあんな奴らとは違う」と思いたくてやったのかもしれませんね。
また、この航海では弟・ジョンが戦死する他、同行していたもう一人の弟ジョーゼフと船員9名が病死など、失ったものも多々ありました。
そこから気を取り直し、1573年2月から3月にかけて複数箇所の町で略奪を行い、多額の利益を上げています。
不屈の精神こそ、フランシスの最大の武器だったかもしれません。
フランシスは1573年8月、プリマスへ堂々と寄港します。
エリザベス1世はまだ戦争に至る時期ではないと判断し、国内の戦意をなんとか抑えようとしているところ。
スペイン大使からも「ヤツを死刑にするか、こちらに引き渡すか選んでいただきたい!」という、当然のクレームが入っていました。
これを女王が密かに知らせたのか、友人知人の計らいによるものか、フランシスはこの後三年ほど姿をくらませています。
その後、1577年春にエリザベス1世と謁見したときに
「スペインへの報復は可能か?」
と尋ねられたフランシスは
「フェリペ2世を攻撃することは無理ですが、植民地を襲って苦しめることはできます」
と答えます。

フェリペ2世(スペイン)/wikipediaより引用
これに対し、女王はイングランドの原状などを説明した上で、
「もしも失敗したときは、あなたを見捨てる他ありません。それでもやってくれますか」
と再度問いました。
女王が腹の中を明かしてくれたことに感激したフランシスは、より一層の忠誠を誓って襲撃の準備を進めたそうです。
内容は実にえげつないんですが、お互いへの信頼関係がカッコいいですね。
そして天候を待って同年12月に出港したフランシス艦隊は、大西洋を南へぐるっと回って太平洋に入り、スペインの植民地を襲い続けるという壮大な計画を実行に移します。
何があろうと諦めない
航海は、南米大陸南端のマゼラン海峡を通るものでした。
しかし、発見者のフェルディナンド・マゼランらが通った後、この海峡の位置はわからなくなっており、太平洋に出るルートも確立されていない状況。
植民地襲撃だけでも相当な冒険ですが、ルートを再発見せねばならないのもかなりの博打ですよね。
しかも「失敗したら見捨てる」と女王直々に言われているのですから、並の人であればプレッシャーやストレスで何も実行できずに終わりそうです。
実際、航海は過酷を極めました。道中で様々な困難に見舞われても、フランシスは不撓不屈の闘志を発揮します。
・嵐に遭って積荷を捨てざるを得なくなっても
・ゴーストタウンに着いてしまって収穫がなくても
・裏切り者が出て処刑せざるを得なくなっても
船員たちを鼓舞して、ひとつひとつ事態を解決していきました。
そしてついにマゼラン海峡を再発見すると、南米大陸西岸沖の北上に成功。
後年「ドレーク海峡」と呼ばれることになる別の海峡を、その道中に発見しています。まさしく怪我の功名ですね。
太平洋側へ出たフランシス一行は、さっそく現代のチリ沿岸にあったスペイン植民地を複数襲撃しました。
中には、当時のスペインにとって最も重要だったポトシ銀山の銀を積み出す港・アリカも含まれており、
「すでに銀を積んだ船がカヤオに向かっている」
という情報を手に入れると、急いでカヤオへ向かいます。
カヤオはペルー副王のいる大都市であり、ここの襲撃に成功すれば、フェリペ2世の顔にべったりと泥を塗ることができます。
結果として銀を奪うことには失敗するのですが、スペイン側に恥をかかせることには成功しました。
その後は少し離れた海域でスペイン船を捕獲し、大きなエメラルドや金銀を大量に獲得し、収穫に満足したフランシスは、この海域を離れて太平洋を渡ろうと考えました。
道中でメキシコの植民地も襲い、それがスペイン本国に伝えられ、またしてもイングランドへのクレームになっています。
エリザベス1世にしてみれば「戦果は上々!」の報告にしかならなかったでしょうね。笑いを堪えるのも大変そうです。
その頃フランシスは、苦難とはまた違うアクシデントに遭遇していました。
奴隷貿易の時代というと、売り先の白人植民地はともかく、南北アメリカや東南アジアの現地住民との軋轢が想像されますよね。
しかし、フランシス一行の場合はアメリカ西海岸やインドネシアの一部などで歓迎されたそうなのです。
白人を神と勘違いして歓迎した部族もいれば、ポルトガル人などに反感を持つがゆえにイギリス人を歓迎する部族もおり、その理由は様々でした。
「敵の敵は味方」というのは古今東西どこでも変わらないようですね。
フランシスが”基本的には”人殺しを避けていたことも、関係あるかもしれません。
こうしてスペインの植民地を暴れ回ったフランシス艦隊。
帰路は東南アジアから喜望峰を経由して北上し、プリマスへ帰りつきました。
1580年9月26日のことです。
海賊、ナイトになる
帰港直後、フランシスは女王に帰国を報告する手紙を書いて急使に持たせると、宮廷ではスペインからの抗議にどのような対処をすべきか議論しているところでした。
エリザベス1世はフランシスに「戦利品の見本を持ってただちに来るように」と伝えると、フランシスは命に従ってロンドンへ参上。
するとスペイン大使がさすがに抗議をしました。
「なぜあの海賊を捕らえないのですか!」
「まだ調べてもいないのに、そんな乱暴なことおっしゃらないで」
のらりくらりとかわしています。
抗議している側とすれば、これほど腹の立つこともないでしょう。
実際のところ、エリザベス1世はフランシスを罰する気など最初からなかったと思われます。
謁見したフランシスに対し、航海のルートや戦利品の説明をさせただけで、処罰云々の話をしなかったからです。
その上、戦利品のうち1万ポンドをフランシス、同じく1万ポンドを部下に配分することを許し、その残りをロンドン塔へ収めさせました。
全体の利益が60万ポンドだったとされているため、この程度は全く問題にならないどころか、取り分としては安すぎるくらいです。
これによってイングランドは対外負債の精算や戦費の調達、レバントという貿易会社への投資などを可能にしました。
そして1581年4月4日、エリザベス1世がフランシスの船ゴールデン・ハインドを視察に訪れます。

ゴールデン・ハインド/wikipediaより引用
このとき女王はフランシスの肩に剣を当て「スペイン王は彼の首を欲しがっている」とつぶやき、ナイトに叙任したそうで。
フランス使節が同行していたため、国際的に
「イングランドはフランシス・ドレークを罰さないし、これからも重用する」
と示したことになります。
随分と大胆なケンカの売り方で、この日スペイン大使は招かれていなかったものの、耳に入るのは時間の問題。
エリザベス1世は既に、時期を見てスペインと戦うことを視野に入れていたのでしょう。実際にはもう少し先になりましたが。
政治家と海賊を兼業
フランシスはその後プリマス市長や海軍の造船監督官に任じられ、さらには下院議員にも選ばれて多忙な日々を送ります。
一方で、私生活では1582年1月に妻メアリーと死別。
別の女性と再婚したものの、子供には恵まれませんでした。
まあ、この後も海に出ている時期が長いので、子作りしている時間もあんまりなかったでしょうね。
次の航海は1585年のこと。
イングランドの北米植民計画が同時に計画されており、その煽りを受けてフランシスの出港が遅れるなど、幸先の悪いスタートでした。
9月14日に出港し、途中で嵐や熱病に見舞われながらも、イスパニョーラ島サント・ドミンゴ(現在のドミニカ首都)を占拠します。
厳重な防備の島で、フランシスは現地の元解放奴隷に渡りをつけて協力してもらいながら、襲撃を成功させたそうです。
このときサント・ドミンゴ側では、総督の姪の結婚を祝って大宴会が開かれていたそうですから、なんとも嫌らしいタイミングを狙ったものです。
フランシスはカノン砲250門(!)や多額の賠償金を得た後、ガレー船の漕手にされていた奴隷たちを解放し、自分の船団で連れ帰りました。
ガレー船の漕ぎ手は、鎖で繋がれて船の動力にされるという過酷な環境でしたので、それを解放することは当人たちの好感を買いつつ、スペイン側の労働力を削り、フランシスは新たな労働力を得られる一石三鳥の方法。
自分が船の下働きから成り上がってきただけあって、フランシスはそういったことにも目端が利いたのでしょうね。
天候の影響などによって、この航海では大きな収穫は得られませんでしたが、スペインへ打撃を与えることには成功しました。
当然、スペインとしてはイングランドへの反感を強め、密かに海戦の準備を始めます。
これにはエリザベス1世も少々がっかりしたようで、フランシスを一時遠ざけました。
しかしフランシスは「スペイン艦隊が準備を終える前に叩くべきです!」と主張し、女王の了解を取り付けるのです。
1586年4月に再びプリマスを出港。
目的はスペイン軍艦が本隊に合流するのを防ぐこと、そして植民地や交易先から帰ってくる船の捕獲でした。
途中で「カディス港にスペインの船が多数おり、出港準備をしている」と聞くと、さっそく襲撃へ。
問答無用で砲撃をぶっ放し、略奪を強行すると、用が済んだスペイン船には火を放つなど暴れまくります。
当時のポルトガルはスペインに併合されていたため、イベリア半島の西岸各地にも襲いかかり、スペイン艦隊へ補給されるであろう食料や物資の供給元に打撃を与えました。
かなり積極的な兵糧攻めですね。
そして「インドから帰ってくるスペインの大型船がアゾレス諸島近辺にやってくる」という情報を手に入れると、急いでそちらへ向かいました。
「スペイン王の顎髭を焦がしただけ」
アゾレス諸島は大西洋に浮かぶ小さな島々であり、フランシスからすれば慣れた状況といえます。
襲撃した大型船には香料や絹織物、陶磁器、宝石、黄金といった財宝と実用品がたっぷり積み込まれており、11万4000ポンドもの収穫を得ました。
ときのスペイン王と同じ名前の船からの略奪に成功しており、フランシスや部下たちの気分を大いに上げたことでしょう。
もちろん、やられたスペイン側は真逆の感情を爆発させたはずです。
フランシスはこの航海から凱旋した後、「スペイン王の顎髭を焦がしただけ」と言っていたそうなので、満足してはいなさそうですが。
ちなみにこのセリフは、かつてレパントの海戦で敗北したオスマン帝国のスルタンが
「余のひげを焦がされただけ」
と言っていたのを引用したものとされています。
ちなみにそのスルタンは同時に
「余がキプロスを攻め取ったときは、奴らの片腕を切り落とした」
とも自賛していました。
フランシスが後者を知っていたかどうかはわかりませんが、スペイン海軍がそれなりの警戒や対策をしてくるであろうことはわかっていたでしょうね。
しかし、スペインでは別の問題が発生していました。
フェリペ2世が頼みにしていた名だたる総督たちが世を去っていたのです。
いかに良い船や兵力を揃えたところで、指揮官が有能でなければ戦争には勝てません。
そこでフェリペ2世が登用したのが、メディナ・シドニャという”陸軍の”将軍でした。船酔いがひどい体質だったそうですが……もしかしてイジメじゃないよね???
もちろんメディナは辞退しようとするも、フェリペ2世が許してくれません。
実に気の毒というか、フェリペ2世は作戦についてまで事細かにメディナに指示していたといいますから、どう考えても罰ゲーム的なやつで……。
当時、ネーデルラント(現代のオランダ近辺)はスペインの領地になっており、そこにも多くの船団がいたので、彼らとの合流を厳命したのでした。
海上の戦いを避け、一気に上陸し勝利を狙いたかったようです。
これを知ったエリザベス1世も早速動きます。
「実際の指揮はともかく、建前上は名門貴族の提督を据えなければならない」
そう考えて海軍長官のチャールズ・ハワードにその任を与えるのです。
フランシスは自分がトップになれないことを残念がったようですが、チャールズは艦船に詳しく、いとこのジョンとも親しかったため、気を取り直して協力したそうです。
また、女王は戦場での行動についてはチャールズやフランシスたちに一任していました。
君主の方針もイングランドとスペインでは正反対だったといえましょう。
迫りくるスペイン無敵艦隊
スペイン艦隊は1588年4月29日に出港。
風に恵まれず北上が遅れ、食料や水が不足、かつ赤痢や壊血病などが蔓延し、戦う前から士気がガタ落ちしていました。
メディナは見るに見かねて、フェリペ2世へ作戦の延期を願い出る使者を立てましたが、聞き入れられず……もうこの時点で勝敗が見えてきますよね。
引けなくなったメディナは、スペイン北岸のラ・コルニャで船の修理や物資の補給、病人の治療などを行って体制を整え、7月12日に再び北上を始めました。
一方、イングランド艦隊は、5月23日にチャールズがプリマスに到着。
フランシスは、悪天候や食料の準備に手間取り、遅れてしまいます。
7月7日にいったん出港するのですが、風向きが変わってスペイン艦隊に有利となってしまったため一時戻り、イギリス艦隊がプリマスへ帰港したのは、奇しくも7月12日だったとか。
こうして両軍ともにアレコレあった後の7月19日、スペイン艦隊がブリテン島の南西に姿を表します。
この知らせを受けたとき、チャールズやフランシスは陸地でボーリングを楽しんでいたとか。のんきか。
もちろんチャールズは慌てましたが、フランシスは
「ゲームを終わらせる時間はあります。その後でスペイン軍を相手しましょう」
とジョークを飛ばし、長官や他の船長たちを落ち着かせたそうです。
ピンチのときこそユーモアって大事ですよね。
実は、このときプリマスを直接狙って上陸すれば、スペイン艦隊のほうが有利になる可能性もありましたが、フェリペ2世の命令を忠実に守ったメディナはネーデルラントへ向かおうとします。
命令に逆らったとしても、結果として勝利すれば後で罰されることはなかったんじゃないでしょうか……。
この動きを見たイングランド艦隊も7月21日に行動を開始すると、スペイン艦隊と付かず離れずの距離を保って追跡。
ちなみに、フランシスが乗っていた船は「リベンジ号」という名前だったそうです。
命名の経緯まではわかっていませんが、積年の恨みのこもりようがわかりますね。
ちなみにフランシスをライバル視していたマーティン・フロビッシャーは「トライアンフ」(Triumph/勝利、成功)、ジョン・ホーキンズは「ビクトリー」(Victory/戦勝)という船でした。
軍艦に勇ましい名前をつけるのはよくありますが、フランシスら庶民出身者の殺る気がうかがえます。
チャールズがフランシスに先導を命じると、さっそくスペイン艦隊からはぐれた船を二隻を捕まえました。
そして7月23日のポートランド沖海戦、7月25日のワイト島沖海戦と戦闘が続き、いずれも決定打に欠けたまま戦況が進み、両軍とも東へ進み続け、7月27日にはカレー沖へ。
ここまでくると、ネーデルラントにいるスペイン艦隊の合流も現実的になってきます。
しかし、実際はそうなりません。
同時期のネーデルラントでは住民による反乱が起きており、「ゼーゴイゼン」と呼ばれていた海賊たちがスペイン艦隊の行動を妨害し、思ったように合流できなかったのです。
状況を悟ったメディナは、仕方なくカレー沖に投錨して補給を急がせました。
ファイヤー!!! 火船突撃→大勝利
一方、緒戦でのイングランド艦隊優位を伝え聞いた志願兵が多く駆けつけると、フランシスたちは士気を大いに高めていました。
スペイン艦隊が補給中であることに気づいたチャールズは、とどめを刺すべく火船の準備を急ぎます。
フランシスがかつてスペインの植民地を攻撃したのと同じ戦法を、もっと大規模にしたものです。
本当はこのための船を新たに用意するつもりでしたが、手配が遅れ、艦隊の中から適当な船を八隻選出すると、火薬やタール、布類、バターなどの可燃物を山積みにして火をつけ、停泊中のスペイン艦隊に突っ込ませました。
戦術自体は以前からあるものでした。
しかし、このときイングランドが使った船は、それまでの火船よりもずっとデカイ船。
積載できる可燃物も多く、ついでに「船が燃えたらその火で発射する」という仕掛けを施した砲台まで用意していました。怖っ!
スペイン艦隊側も一応防御していましたが、狭い海域に多数の船が泊まっていたこともまずかったようです。
結果、火船をかわすことができずに大炎上!
イングランド艦隊も驚くほどの戦果となります。
火船はあくまで出鼻をくじくためのものであって、その後、決戦を挑むつもりだったのです。
かろうじて逃げたメディナたちは対抗しますが、やはり押し切られて逃げざるを得ません。
カレーはかつてイングランド領だったこともあり、そもそもこの地域とブリテン島は数十kmしか離れていません。
ついでにいえば電灯のない時代ですから、カレーの対岸にあるドーバーからは間違いなく戦火が見えたでしょうし、そこからロンドンへ向けて報告が飛んだことでしょう。
7月29日には最後の戦闘としてグラーベリーヌの海戦が行われ、このときは互いに砲撃を浴びせあいました。
途中で天候が崩れ、両軍ともに隊列が乱れたり、沈没、挫傷する船が相次いで戦闘は強制終了。
メディナも敗北を認めざるを得ず、そのまま帰国を決意します。
天候の悪化をいち早く察知していたフランシスは、途中で戦線を離脱したのであまり被害を受けません。
敵前逃亡と勘違いされて、マーティンに後から文句を言われたそうですけれども、仕方ないですよね。
天候が回復した後、イングランド艦隊はスペイン艦隊を追跡しましたが、距離が開いたことと弾薬・食糧不足のため引き上げました。
本土へ戻ったのは8月8日頃だったそうです。
こうしてスペイン艦隊の撃破に成功したフランシスは、まだまだ物足りなかったらしく、1589年、スペイン艦隊の母港ともいえるリスボンを目指します。
リスボンといえば現代のポルトガル首都です。前述の通り、当時はスペインに併合されていたため狙われたのですね。
ただ、思ったような成果は得られず、女王からも少々お咎めを受けてしまいます。
手ぶらでは帰れないと考えたフランシスは「せめてスペインに持ち込まれる物資や財宝を奪おう」と考え、今度はアゾレス諸島へ向かいますが、再び悪天候と病気の蔓延により断念し、帰国せざるを得ません。
結果としてこの航海は完全に赤字になってしまい、女王や兵たちの不満が高まります。
まだ冷めぬ闘志 しかし病に勝てず
フランシスは陸にとどまり、行政の仕事に専念します。
プリマス市内に用水路を作ったり、近隣の島に要塞を築いて国防に貢献したり、下院議員として演説したり、ありあまるパワーを政治で発揮したのです。
その間、他の私掠船がフランシスの後任のようになった形で、スペインに打撃を与え続けていました。
しかしスペインが、足が早くて武装も備えている”ガリサブラ”というタイプの新しい船を作ると、思うように行かなくなってしまいます。
そこで再び求められたのがフランシスの海賊的な能力でした。
彼はジョンに相談し、1595年1月、カリブ海への侵略をエリザベス1世に進言します。
しかし、今度はなかなか承認がおりません。
この頃になると、エリザベス1世の気持ちが侵攻よりも防衛に傾いていたためです。
最終的には許可は出るものの、スケジュールが非常にシビアでした。
当時の船や航海技術では、スケジュールを守るというのは至難の業。
しかし折よく「プエルト・リコ島のサン・ファンに金銀を満載した船団が来ている」という情報を手に入れ、フランシスとジョンは現地へ急行します。
ただし、情報が古く、しかもスペイン漏れていたためうまくいきません。
そうこうしているうちにジョンが赤痢で病死してしまうと、否が応でもイングランド艦隊の士気は下がり、撤退せざるを得なくなりました。
かつてのようにパナマ近辺で別の町を襲撃する計画もあったのですが、この頃になるとかつて協力してくれていたシマローンたちがスペインに鎮圧されていて、搦め手を突くこともできません。
全く成果を得られない状況にフランシスは苛立っていると、ジョンと同じく赤痢に体を蝕まれ、それどころではなくなってしまいました。
1596年1月27日、妻や末弟・トーマスへ遺言を書くと、高熱の影響なのか、フランシスは錯乱状態に陥ります。
武人としての意地だったのでしょうか。甲冑を持ってこさせて身につけようとしていたそうで。
一人では着られるようなものではないため、さぞ近臣が困ったことでしょう。
そして翌28日の早朝、フランシスはこの世を去り、29日にはフランシスの遺体は鉛の棺に収められてカリブ海へ沈められました。
残った船はスペイン艦隊の妨害を受けつつもなんとか帰国し、エリザベス1世の定めた期限にも間に合ったといいます。
今もイギリスを守り続けている!?
フランシスの遺言と遺品には、こんな伝説があります。
彼は航海の際に用いていた自分の紋章つきの太鼓を、妻エリザベスの元へ届けるよう頼んでいました。
「その太鼓を鳴らしてくれれば、いつでも国を守るためにあの世から帰ってくる」
そう言い残し、現代に至るまで三度鳴ったというものです。
オランダとの戦争、ナポレオン戦争、第一次世界大戦――フランシスがそのときどきの提督に姿を変えて現れ、イギリスに勝利をもたらしたとされています。
日本でいうところの「神風」みたいなものでしょうかね。
それだけフランシス・ドレークという人間が国家的な英雄と見られ、信じられているということです。
これからもイングランドにとっては英雄、スペインにとっては海賊の代名詞として彼の名が語り継がれることでしょう。
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【参考】
杉浦昭典『海賊キャプテン・ドレーク イギリスを救った海の英雄 (講談社学術文庫)』(→amazon)
君塚直隆『物語 イギリスの歴史(上) 古代ブリテン島からエリザベス1世まで (中公新書)』(→amazon)
青木道彦『エリザベス一世 (講談社現代新書)』(→amazon)
THE NATIONAL ARCHIVES(→link)





