皆さま「理想の上司像」っておありですか?
・優しい
・仕事がデキる
・気前がいい
人それぞれに挙げる長所はことなるかもしれませんが、中でも「公私混同をしない」という点は人気が高いのではないでしょうか。
本日はその点で参考になる……かもしれない、徳川家のとある家臣に注目。
寛永十二年(1635年)5月13日は、安藤直次が亡くなった日です。
いわゆる三河武士の一人で、若い頃から徳川家康に仕えていました。
徳川四天王ほどのネームバリューはありませんが、徳川二十八神将に数えられており、実際、その功績も素晴らしいものがあるのです。

安藤直次/wikipediaより引用
本稿では安藤直次の生涯を追ってみましょう。
一日で敵の大将を二人も討ち取った安藤直次
直次は元の身分が低かったようで、正確な生年はわかっていません。
元亀元年(1570年)【姉川の戦い】から戦に加わるようになったとされ、このころ16~17才ぐらいと考えられています。
それから14年後の天正十二年(1584年)、他に例を見ないほどの大功を挙げました。
徳川家康が、豊臣秀吉と全面対決した【小牧・長久手の戦い】で敵方の池田恒興や森長可を討ち取ったのです。

池田恒興(左)と森長可/wikipediaより引用
池田恒興は織田信長の乳兄弟として知られた元織田家の重臣であり、森長可は「鬼武蔵」と恐れられたこれまた元織田家の重臣です。
森長可は「人間無骨」という槍の持ち主としても戦国ファンには有名ですね(人間無骨……人の骨が無いと思うほど切れ味の良い槍という意味です)。
実際、これが彼の生涯で一番の手柄であり、徳川家康もさすがにべた褒めしております。
「武勇が抜群だけでなく、一日で敵の大将二人を討つなんて凄まじいことだ!」
そして家康は、褒美として自身の愛弓を渡しました。
森長可は水野勝成の部隊に射殺されたという話もありますが、家康から褒美を渡された直次の武功が輝かしいものだったことは間違いないでしょう。
家康が可愛がった頼宣の付家老となる
しかし、です。肝心の領地はさほど貰っておらず、天正十八年(1590年)に家康が関東に移ったとき、1000石だけでした。
江戸時代に入ってからも2300石で、大名の基準である1万石に到達したのは元和三年(1617年)のことです。
輝かしい功績に比して実利が少ないような気がしますが、もしかしたらこれは安藤直次が慶長10年(1605年)から家康の側近となったからかもしれません。

徳川家康/wikipediaより引用
直次は、本多正純や成瀬正成などと共に江戸幕府の政治に参加しておりました。
家康の側近として、その忠義を信頼されています。
少し時間を戻しますと【関ヶ原の戦い(1600年)】では家康の使番をやったり、家康が征夷大将軍に任じられたとき(1603年)も側で仕えていたり、戦場における活躍より、官吏として厚く信頼されてたのですね。
その立場で大幅な石高UPがあれば妬みの対象となってしまうかもしれない。そんな気遣いもあったのかもしれません。
直次が信頼されていた証拠としてもう一つ挙げられるのが、慶長十五年(1610年)の人事でしょう。
家康直々の命により徳川頼宣(当時8歳)の付家老に任じられたのです。
頼宣は、家康の晩年の息子たちの中でも特に気に入られていた人で、後に御三家の一つ・紀州藩の藩祖となる方ですね。
その教育係にも等しい付家老に任じられたということは、やはり直次への信頼の厚さがうかがえます。
しばらくは頼宣も家康とともに駿河にいて、いわゆる大御所政治も支えておりました。
その直次に、自らの死よりも辛い場面が訪れたのが【大坂夏の陣(1615年)】です。
大坂の陣~息子の遺体を見て「犬にでも食わせとけ!」
大坂夏の陣では、まだ幼少の頼宣の代わりに、徳川頼宣軍の指揮を取りました。
家康からも相談を受けながら、豊臣方と戦うのですが。
このとき、嫡子である安藤重能(しげよし)が討ち死にしてしまい、その遺体を見た直次は
「犬にでも食わせとけ!」
と激怒したといわれています。
なんて冷たいヤツなんだ! と、そうではありません。
「指揮官の嫡子が討ち死に」というのは、軍に多大な精神的ダメージをもたらします。
直次は立場上、軍の統率を優先せねばならないために、心を鬼にしたのです。おかげで軍は平静を取り戻した……とされています。
実はこれより前、重能は主君である頼宣の茶器を割ってしまったことがありました。

徳川頼宣/Wikipediaより引用
それは家康から贈られたものだったため、直次も重能もただでは済まないと思い、親子揃って謝罪に行っています。
しかし頼宣は笑って「あれは確かに父上から頂いた名物だが、茶器が戦で役に立つわけでもあるまい。壊れたのなら適当に修理しておけ」と許したとか。
重能は、もしかしたら頼宣のために死ねる場所を求めていたのかもしれません。
当時、討ち死には名誉なことでしたし、豊臣家を倒せば戦がなくなるであろうことも気付いていたでしょう。
人目を避けて泣いていた……
大坂夏の陣は、主に豊臣方の【武士の意地】が伝えられがちです。
彼らの最期は、以下の記事にもありますように鮮烈で物語性にも富んでいます。
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大坂夏の陣はドコでどんな戦いが起きていた?幸村や又兵衛など個々の戦いに注目
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しかし合戦である以上、勝者にも敗者にも犠牲者がいて、直次だって息子の死に何も感じなかったワケはないでしょう。
彼については、人目につかない時間帯になってから、あるいは大坂の陣が終わってから、深く嘆いていたという言い伝えもあります。「厠で大泣きしていた」という説も……。
いずれにせよ、直次が公私をきっちりと分ける性格であったことがうかがえる逸話です。
その後は亡くなるまで、頼宣を時に厳しく諌めながら、付家老の役目を果たしました。
さすがに石高も大幅に加増されており、最終的には38,800石になっています。

紀州藩の居城である和歌山城(天守閣と御橋廊)
頼宣は後に「自分が大名をやっていられるのは、直次がいてくれたからだ」とまで言っていたとも伝わります。
いかにも「三河武士」といった気骨のある安藤直次も寛永12年(1635年)に死去。
当人が自らの功績を語ることを控えていたため、世間にはあまり知られておりませんが、徳川家の天下が彼らのような忠臣に支えられて成り立っていたことは明白でしょう。
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【参考】
国史大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(→amazon)
峰岸純夫片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
安藤直次/wikipedia





