平宗盛

平宗盛/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

平宗盛(清盛の三男)は平家を滅ぼした愚将?『平家物語』ではボロクソ

2025/06/20

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の平清盛を覚えていらっしゃいますか?

有無を言わせない松平健さんの眼力、凄まじい迫力でした。

周囲にいる者たちは、右往左往しながら命令を聞くしかありませんでしたが、本稿で注目したいのは、その中にいた一人。

元暦2年(1185年)6月21日に亡くなった平家の跡取り――ドラマでは小泉孝太郎さんが演じていた平宗盛です。

史実においては清盛の継室(後妻)の長男で、実力が抜けていたワケではなく、兄の重盛が亡くなったから嫡男の座が回ってくるような微妙なポジの方でして。

その後、平家が滅亡に追い込まれるからなのか、『平家物語』でも酷い言われようだったりします。

いったい平宗盛とはどんな武士だったのか。

生涯を振り返ってみましょう。

平宗盛/Wikipediaより引用

 


平重盛とは割と仲良くやっていた

久安三年(1147年)。

平宗盛は、清盛の継室(後妻)の長男というビミョーな立場に生まれました。

清盛にとっては最初の正室の子である長兄・重盛の出来が良かったので、嫡男ともいいきれず、かといって十把ひとからげにするにも体裁が悪いという立ち位置だったのです。

とはいえ、重盛とは10歳離れていたので、あまりぶつかり合うことはありませんでした。

平重盛/wikipediaより引用

もっと歳が近かったら血で血を洗うような状況になっていたかもしれませんね。

若い頃は重盛と代わりばんこのような形で出世していき、仁安二年(1167年)、清盛が太政大臣の位を降りて隠居してからは、跡を継いだ重盛の次に宗盛が位置します。

また、宗盛は母・時子の異母妹である滋子(後白河法皇妃・建春門院)に仕えていたので朝廷とのパイプもあり、滋子の同母妹・清子を妻に迎えていました。

これまたヘタに能力がある人だったら野心を抱きそうな構図ですね。

 


清盛のクーデターの後始末を……

相変わらず重盛との密かな官位競争は続いていながら、重盛が清盛の後継者であることが明確になったため、感情的な面で二人の関係が悪化することはなかったようです。

しかし、このタイミングで滋子が亡くなったため、清盛と後白河法皇の関係が悪化。

後白河法皇/Wikipediaより引用

平宗盛は上記の通り、滋子に仕えていたこともあって、後白河法皇と比較的良い関係を保っており、重盛と共に仲裁に努めた事もありました。

この辺から宗盛が貧乏くじを引き続けているような気がします。

まず、後白河法皇の子・高倉天皇に嫁いでいた妹・徳子が懐妊したとき、宗盛の妻・清子が乳母に選ばれたのですが、その後、清子が急死してしまいました。

夫婦に特別なエピソードはないものの、宗盛は自ら辞職するほど悲しんだそうですから、よほど仲の良い関係だったのでしょう。

宗盛はこれ以降、自分からは政治に関わろうとはしなくなります。

しかし、そうも言ってられなくなりました。

長兄の重盛が清盛よりも先に亡くなってしまったのです。

おまけに重盛の領地を後白河法皇が強引に召し上げたことが発端となり、清盛は法皇に対しクーデターを敢行。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用

朝廷のお偉いさんを平家と親しい人ばかりに入れ替え、後白河法皇を幽閉して福原に引き上げるという暴挙を働きました。

このときの後始末を押し付けられたのが宗盛さん……。

しかしまだ政治経験が豊富とはいえない状態でやらされたので、結局は清盛が再び処置をしています。二度手間じゃねーか。

 

政治からは離れたものの軍事面ではまだまだ活躍

これに懲りたのか。

清盛の孫であり、平宗盛にとっては甥の安徳天皇が即位したときも、積極的に政治へ関わろうとはしていません。

代わりに?軍事職には就いています。

後白河法皇の第三皇子・以仁王が挙兵した時には、宗盛を含めた平家軍がこれを討ち取り、その褒美として宗盛の息子・清宗が叙爵を受けていますので、武働きをするのは嫌ではなかったようです。

以仁王/wikipediaより引用

まぁ、そのくらいはしないと今度は自分が粛清されてしまいますからね。

しかし、ここまでのやりたい放題で既に民心は平家から離れており、源頼朝をはじめとした平家討伐の軍が起こります。

こうなるとやはり宗盛も黙ってはおれず、【富士川の戦い】で平家軍が逃げ帰ってきたとき、宗盛は清盛と激しい口論を繰り広げたといわれています。

元々従順だった上、しばらく政治から遠ざかっていた宗盛までもが清盛に反対したということは、平家の行く末を暗に示していたとも言えましょう。

ここで安徳天皇の父・高倉上皇が崩御し、後白河法皇が院政を再開することになりました。

この時点でも宗盛はまだ朝廷とのパイプを持っていたらしく、高倉上皇の遺命として、近畿一帯の軍事指揮権を与えられています。

宗盛は準備を整えて関東へ攻め込む気でいたようでしたが、このタイミングで清盛が病気になったため、延期せざるを得ませんでした。

源氏はその間に勢いを増してしまっています。

そして清盛が死去。

当時の人も「もう嫌な予感しかしない」と思っていたかもしれません。

高熱にうなされ亡くなっていった平清盛/wikipediaより引用

 


墨俣川の戦いで勝利→調子こいて大ポカをやらかし

清盛の死後、棟梁になった平宗盛は、まず後白河法皇に恭順する姿勢を見せました。

その一方で、父の遺言に従って源氏追討を主張することも忘れませんでした。

ただし、墨俣川の戦いで勝って美濃・尾張を掌握してしまったがために、「いったん東国から目を離し、兵を西国へ向かわせる」という、どでかいミスをやらかします。

その間に、平家の地盤があった北陸を含め、東国はあっという間に源氏+αの優勢となってしまいました。あーあ。

「東西や南北といった両サイドに敵がいるときは、どちらかを完全に倒さない限り転進してはいけない」というのが戦のセオリーですよね。

そもそもそういった状況に陥るのを防ぐものですが。

ちなみに西国は西国で平家に対する反乱が起きていたので手こずりまくり、さらに兵糧にも困るというグダグダぶりでした。

もうどうあがいても勝てる気がしません。

そして10万騎ともされる大軍(実際は数千から1~2万か)を送った北陸では、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲にボロ負けしてしまい、平家一門揃って京都から逃げ出します。

木曽義仲/wikipediaより引用

安徳天皇や建礼門院も一緒でした。

どう見ても人質にしか見えませんが、既に求心力ゼロどころかマイナスになっていた平家に付き従う貴族はおらず、ますます悪あがきっぷりが際立ってしまいました。

 

平家物語でボロクソに書かれてしまう

平宗盛としては大宰府で体勢を立て直すつもりでいました。

大宰府正殿跡(都府楼跡石碑)/wikipediaより引用

しかし、これも失敗。

後白河法皇も「もうあいつら知らん」とさじを投げ、木曽義仲に平家追討を命じます。

ここでビミョーに運の良いことに、源氏内で仲間割れが起きたため、瀬戸内海の屋島・彦島で足固めをすることができました。

義仲と宗盛の間で一時和平案も出されました。

しかし、お互いに信頼しきることができず、実現しないままに終了。

ここで和平を取り付けられていたら、平家の血筋は残り、義仲も大手を振って源氏で重きを成すことができたのでしょうね。

現実には皆さんご存知の通り、義仲は範頼・義経兄弟に打たれ、平家は

を経て滅びてしまっています。

ここからが平家物語で宗盛をボロクソに書いている部分です。

壇ノ浦の戦いで平家の主だった人物が海に身を投げたとき、宗盛は命を惜しんで逃げ回っていたので、呆れた味方が突き落とした。

しかし宗盛は泳ぎがうまかったので助かってしまった」

なんじゃ、そりゃ!という話ですね。

実にみっともなく描かれております……。

 

皆の前で命乞い!って、そりゃ嘲笑されるやろ

平宗盛は、息子・清宗とともに義経によって鎌倉へ護送され、頼朝の前に引き出されました。

このとき源頼朝は御簾の内側にいて、息子・頼家の舅である比企能員(ひきよしかず)を通して会話したといいますから、かなりの屈辱を感じたことでしょう。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

しかも周りにはかつて平家に仕えていた者も集まっており、その前で宗盛は命乞いをしたため、周りから嘲笑されたといわれています。

確かにみっともないといえばみっともない話ですが、既に末路が見えている人に対してよってたかってヒドイ。

似たような話として、関ヶ原の後に捕らえられた石田三成への反応がありますね。

しかし、宗盛は鎌倉では死んでいません。

清宗と一緒に、再び京都へ送り返されています。

「かつて源義朝が家来に裏切られて殺された、尾張内海で処刑されるのだろう」と思っていたそうですが、そこを通り過ぎたので、わずかな期待を抱いていたとも言われています。

この時点では(も?)息子のほうが冷静で、清宗は「そんなわけはない。もう夏だから、もっと京に近づいてから斬られて、首をさらされるに違いない」と思っていました。

しかし、父が少し明るい顔になったところへそんなことを言ったら、追い討ちをかけることになってしまいます。

ですから、清宗は黙っていました。

 

斬首された首が京へ送られ、市中引き回し

果たして清宗の予想通り、近江篠原というところで平宗盛は息子と引き離されます。

そこで宗盛もさすがに悟り、「これまで恥をさらしてきたのも、息子のことが気にかかって仕方なかったからだというのに、あんまりな話だ。たとえ首を打たれても、体は同じむしろに横たわろうと約束していたのに」と嘆きました。

時既に遅し。

まず宗盛が首を落とされ、その様子を聞いた後で清宗も同様に処刑されました。

二人の首は京都に送られ、市中を引き回されたといいます。

それは前例のないことでした。

生きてからも死んでからもこのような屈辱を味合わされたとなると、壇ノ浦で果てていたほうがよかったかもしれません。

妻や息子に対する情の深さからして、もしもっと平家が安定していた状態で家を継いでいたら、宗盛への評価は違ったものになっていたのではないかと思います。

将としての能力がイマイチだったことはともかく、家庭人として良い人だったことは間違いないですし……甘すぎますかね?


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【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
平宗盛/Wikipedia
日本古典文学摘(平家物語)(→link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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