関ヶ原の戦いとは?
そんな風に問われたら、多くの方が美濃国関ヶ原(現・岐阜県不破郡関ヶ原町)で行われた石田三成と徳川家康による東西両軍の激戦を思い浮かべることでしょう。
日時は、慶長5年9月15日(1600年10月21日)のこと。
もちろんそれで間違いではありませんが、完全な正解か?と問われたら即答し難いところでもありまして……。
この天下を奪い合う戦いは、実際のところ全国各地で勃発していました。
例えば東北では上杉家と最上家&伊達家が慶長出羽合戦でぶつかりましたし、九州では黒田官兵衛が石垣原の戦いで大友義統と激突。
西軍のエース武将とも言える立花宗茂は大津城の京極高次攻略に出向いて、関ヶ原本戦には参加できていませんでしたし、それを言うなら徳川秀忠も真田昌幸に足止めを喰らっていましたね。
要は、関ヶ原の戦いとは
・不破郡での戦い=関ヶ原の戦い本戦
・全国各地の戦い=全国東西に分かれた争い
という見方で捉えたほうが、より正確と言えると思います。

徳川家康と石田三成/wikipediaより引用
そこで本記事では、時系列に沿って
「準備」
↓
「本戦」
↓
「全国での戦い」
という順で振り返ってみたいと思います。
※主な武将たちの石高はどう推移したか?記事末に追記しました
秀吉没後
なぜ関ヶ原の戦いは勃発したのか?
それは、何と言っても慶長三年(1598年)8月に豊臣秀吉が病没したことでしょう。
長いこと跡継ぎに恵まれなかった秀吉。
甥の豊臣秀次に継がせようとしていたところで、実子とされる豊臣秀頼が生まれ、その後に秀次が切腹。
ブチ切れた秀吉は秀次の妻や側室、子供らを処刑し、ここで東北の雄である最上義光の娘・駒姫まで連座で殺してしまい、義光の家康派への参戦を決定的なものとしてしまっています。

長谷堂合戦で直江兼続を追撃する最上義光『長谷堂合戦図屏風』/wikipediaより引用
ともかくも秀吉が病没したとき、秀頼はわずか5歳でした。
当然、政治の主導などできず、秀吉はある遺言を残します。
豊臣政権を支えてきた五大老・五奉行に、秀頼が成人するまでの政治を任せると言い残したのです。
「五大老・五奉行という呼び名は後世使われるようになったもので、当時は制度化されていない」
そんな見方が強まっていますが、非常に便利な呼称ですので、本記事では利用させていただきます。
まずは、それぞれのメンバーと所領の大きさを確認しておきましょう。
【五大老】
徳川家康(関東255万石)
毛利輝元(中国112万石)
上杉景勝(会津他120万石)
前田利家→利長(北陸83万石)
宇喜多秀家(備前他57万石)
【五奉行】
浅野長政(甲府22万石)
前田玄以(丹波亀山5万石)
石田三成(佐和山19万石)
長束正家(水口5万石)
増田長盛(大和郡山22万石)
この間に、両者の間をとりもつ「三中老」という役職もありました。
制度として明確に存在していたのか?こちらもハッキリしませんが、立場としてはあったと考えられます。
メンバーと所領は以下の通りです。
【三中老】
生駒親正(讃岐高松17万石)
堀尾吉晴(遠江浜松12万石)
中村一氏(駿河府中14万石)
総勢13名で、この中で最も所領の多いのが徳川家康です。
当時は
所領の多さ
≒兵力の多さ
≒優秀な家臣の多さ
≒兵糧の潤沢さ
ですから、家康が最も豊かであり、軍事力にも優れていたことになる。
一応、五大老の他の四人がまとまれば数字としては対抗できますが、結束力の脆弱さと家康の老練さを考えれば、事はそう単純には測れない。
要は、家康の強さが抜きん出ていたわけです。

絵・富永商太
五大老・前田利家の死
秀吉亡き後の豊臣政権が脆弱だったのは、根無し草同然の身から一気に天下人へ上り詰めたため、経験豊富な直属家臣が乏しかったことが大きな影響を受けていたと考えられます。
それを熟知していたであろう家康は、念には念を入れ、豊臣家臣の切り崩しにかかりました。
と言っても「秀頼を裏切って徳川につけ」みたいなどストレートにアプローチはしません。
豊臣家臣の中枢にいる多くの人は、いわゆる“子飼い”。
小さいときから秀吉の膝下で育ち、肉親に抱くような親愛を豊臣家に抱いている者が多いため、損得勘定だけで動くものでもありません。
下手に誘って反発されたら、かえって豊臣恩顧の結束を強めてしまうでしょう。
家康は機が熟すのをジックリ待ちました。
そもそも家康は秀吉に心服していたわけではなく、ここまで忍耐を強いられたのですから、いよいよ土壇場に立って失敗はしたくなかったのでしょう。
では家康はいつまで待ったのか?
立場的にも所領的にも、家康の対抗馬になり得た前田利家が天寿を全うする日まで、と考えられそうです。

前田利家/wikipediaより引用
秀吉が亡くなってから野心を隠そうとしない家康に対し、利家は強く懸念を抱いていました。
慶長四年(1599年)2月には、お互いに誓書を交わし、いざこざが起きないように取り決めをしていたほどです。
しかし、程なくして利家は病気を悪化させてしまい、同年閏3月に逝去してしまいます。
利家を楔にして、どうにかこうにか保っていた豊臣政権。
その死後、次々に問題が噴出してきます。
まず、利家が亡くなった直後、石田三成が襲撃される事件が起きました。
しかも、事件の首謀者は徳川サイドの人間ではなく、三成にとっては幼い頃から同士であるはずの加藤清正や福島正則を含む7人の武将でした。
要は仲間割れですね。こんな調子じゃ、たとえ家康がいなかったとしても豊臣政権は分解していたことでしょう。
むろん、家康にとっては、またとないチャンスです。
家康はこの事件の仲裁に入り、三成に
「しばらく国許の佐和山に戻り、皆の頭が冷えるのを待ってはどうか?」
と勧めました。
三成も「佐和山ならば、すぐに戻ってこられる」と考えたのか、家康の意見を受け入れます。
家康はこの後、利家の跡を継いだ前田利長に国許の金沢へ帰るよう勧めたり、謀反の疑いがあるとして圧力をかけ、最大の敵になりうる前田氏の力を削ぎ落としました。
一応、弁護をしておきますと、他の大老や奉行らと共に、朝鮮出兵の後始末や帰国する諸将との連絡などもやっていました。
政権奪取の陰謀だけに注力していたわけではありません。
同じく慶長四年7月には上杉景勝が帰国。
宇喜多秀家や毛利輝元らも国許へ帰り、秀頼を直接後見しているのはほぼ家康だけ……という状態になります。
そして9月末に大坂城西の丸に入ると、そこから各地の有力大名に書状を送りまくる工作を図りました。
会津征伐と伏見城の戦い
上方で家康の存在感が強まる中、上杉景勝は国許で着々と軍備を進めます。
「景勝と家老の直江兼続は、家康を討つため石田三成と共謀し、徳川軍を挟み撃ちする計画を立てていた」
そんな指摘を聞くこともありますが、疑問はあります。
当時の通信事情を考えれば、いささか無理があるのではないでしょうか。
確かに、両者の中間あたりに所領を持っていた真田家は、三成やその親友・大谷吉継との姻戚関係があります。
真田家を通して日頃から密に書状のやり取りなどを取っていたとしたら、佐和山や上方~会津間も、この時代としては素早く連絡できたのかもしれません。
三成から真田昌幸に宛てた7月末の書状に、それらしきことが書かれていますが、確実なルートではなさそうです。

真田昌幸/wikipediaより引用
家康は慶長五年(1600年)1月に景勝へ上洛を促していました。
しかし景勝は断り続け、あからさまに喧嘩を売るような態度を取ります。冬の間であれば雪を理由にすることもできましたが、雪解けの季節が来ても景勝は動きません。
「上杉家には謀反の疑いがある!」
家康は会津征伐を決めました。
ただし、上杉家を討つだけに没頭するのではなく、三成にも注意を払い、その出方をうかがっていたでしょう。
大坂から会津へ向けて出立するとき、上方の徳川軍を極端に減らしていたのは、三成を誘い出すためだったのでは?とも思うほど……要するに囮です。
その囮役になったのが、家康に幼少期から仕えてきた鳥居元忠でした。

鳥居元忠/wikipediaより引用
一方、三成は親友・大谷吉継の助言を受け、総大将を毛利輝元に依頼。
五奉行の長束正家らに家康への弾劾状を作らせ、これを根拠として諸大名を味方につけようとします。
結果、毛利一門や秀吉の縁者でもある小早川秀秋、宇喜多秀家、長宗我部盛親、立花宗茂など、西国の主力大名が三成方につきました。
機は熟した――と言わんばかりに、三成ら西軍は挙兵し、7月19日、さっそく伏見城へ攻めかかります。
城将の鳥居元忠は圧倒的不利な兵力差にもかかわらず、10日以上の籠城戦を演じ、8月1日、激戦の末、討死。
※以下は「伏見城の戦い」関連記事となります
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伏見城の戦い1600年|元忠が命と引換えに三河武士の意地を見せた関ヶ原前哨戦
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その戦いの凄まじさを物語るのが、かの有名な養源院(京都市東山区)の血天井です。
元忠の敗戦に対し、家康はどう動いたか?
というと、いったん江戸に入った後、7月21日に会津へ再度出発し、3日後の24日、下野の小山に着くと、ここで伏見城の件を知ったと思われます。
このあたりから各地の戦線が並行して進んでいくため、混乱しやすくなるのですが……時系列順にできるだけスッキリと話を進めていきたいと思います。
東軍・幽斎の守る丹後田辺城
まずは慶長5年(1600年)7月の中頃。
西軍は、伏見城を攻略しつつ、細川藤孝(幽斎)の守る丹後田辺城(舞鶴市)にも攻めかかっていました。

細川藤孝/wikipediaより引用
兵力では西軍のほうが圧倒的でしたが、攻め手の中には幽斎を和歌の師としている者も多く、なかなか士気が上がりきらずに膠着します。
しかも幽斎は、朝廷や皇室にとっても失いたくない存在でした。
歌道の奥義である古今伝授の伝道者が幽斎しかおらず、もしも討ち死にとなれば永遠に失われてしまうからです。
そんなわけで、これまた幽斎の弟子だった智仁親王からも降伏を勧める使者が立ちました。
しかし幽斎は降伏を拒絶。
古今伝授や和歌の奥義書などを智仁親王に贈り、自身の覚悟を示します。
田辺城についてはもうしばらく後で結末を迎えるので、ここはいったん時間を進めましょう。
西軍・織田秀信の守る岐阜城
三成らは岐阜城の織田秀信(信長の孫・三法師)を味方につけると、8月11日に大垣へ到着。
順調に東へ向かっていました。
一方、家康もその頃、小山で上方の戦況を聞いていました。さらにそれを会津征伐に同行していた諸将に知らせ、各自の去就を選ぶよう伝えます。
と、ここで豊臣恩顧の筆頭ともされる福島正則が、真っ先に家康方につくことを宣言。

福島正則/wikipediaより引用
それに釣られるような形で、多くの大名・武将が同じように家康に味方することを決めました。
同じく秀吉に恩のある遠江掛川城主・山内一豊も、家康に以下のような協力を提案。
「進軍が早くなるよう、東海道に城や土地を有する者は家康殿に差し出してはどうか」
自ら真っ先に城を差し出したこともあり、小山にいた武将たちは軒並み家康に従うこととなりました。
こうして、東軍は一致団結。
対上杉家として伊達家などの東北諸将を残し、大部分が西へ。
家康はいったん江戸に戻ると、福島正則と池田輝政らが先鋒隊として西へ進みます。
彼らは尾張・清須付近に集結すると、8月22日、織田秀信の守る岐阜城へ攻め込みました。
岐阜城は翌日に降伏します。
これだけのスピード決着となったのは、かつて岐阜城の城主だった池田輝政が現地を知り尽くしていたことも大きかったと考えられます。

池田輝政/wikipediaより引用
岐阜城は、かつて稲葉山城と呼ばれた堅城です。
しかし、稲葉山城時代にも、同城を知り尽くしていた竹中半兵衛(重治)にわずか数名で乗っ取られたこともありました。
守る城方が有利になるのが籠城戦のセオリーですが、攻め手に構造を熟知されていたら、そうも言ってられないんですね。
もちろん秀信もただ籠もって負けたわけではなく、犬山城に援軍を求めつつ、各所に守将を置いてよく守っていました。
福島正則に「さすがは信長公の孫」と賞されるほどです。
なお、秀信が降伏後に出家すると、それでも処刑を求める声があり、正則が自らの戦功と引き換えに助命嘆願したとされます。
正則が嘆願に動いたのは、小牧・長久手の戦いの後、織田家を離れて福島家に仕えた者が多数いたという理由もあるようです。
その後の秀信については以下の記事をご覧ください。
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三法師こと織田秀信の生涯|信長の嫡孫は清洲会議後をどう生きたのか
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なお、秀信が援軍を求めていた犬山城(犬山市)も、東軍の手に落ちています。
犬山城には稲葉良通(一鉄)の子・稲葉貞通や、竹中重治(半兵衛)の子・竹中重門なども入っていましたが、彼らは井伊直政と密かに連絡を取り、東軍へ鞍替えしていたのでした。
そんな状態では、秀信への援軍など来ないのも仕方ない話ですね。
東北方面
この頃、三成らは沢渡まで到着していましたが、入れ違いに東軍が上方へ向かってはたまらない。
ということで、慌てて大垣に戻り、対策を考えます。
西軍・東軍それぞれの本隊以外の戦線を北から順番に見てみましょう。
家康が去った後の会津・出羽を中心とした東北の戦・慶長出羽合戦についてはかなり大規模なものだったため、以下の記事をご覧ください。
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慶長出羽合戦(北の関ヶ原)では上杉・最上・伊達の東西両軍が激突!その結果は?
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北陸方面
次は北陸です。
ここでは東軍方の前田利長と、西軍方の山口宗永がぶつかる……かに見えました。
利長はそのまま越前を経て上方方面へ向かおうと考えていたのですが、弟・前田利正に反対されて金沢に戻っています。
これにより本戦にも間に合わず、前田家は戦後も一段下の立場になりました。

前田利長(利家の長男)/wikipediaより引用
伊勢方面
続いては伊勢方面。
伊勢上野城の分部光嘉(わけべ みつよし)は「この城では支えきれない」と判断。
近隣の安濃津城に入って城主・富田信高とともに戦いました。
一日程度で開城していますが、これは高野山の仲介によるもので、完全敗北というわけでもありません。
安濃津城の兵は1700程度で、攻め寄せたのは毛利秀元や長束正家、長宗我部盛親などなど西軍の名だたる大名たちでしたから、致し方ないところでしょう。
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戦場に現れた「美しい若武者」は俺の嫁?富田信高と安濃津城の戦いと後日譚に天晴!
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西軍の勢いを見た松坂城の古田重勝も、前後して降伏を選んでいます。
やはり彼我の兵力差を考えて「対抗し切るのは不可能」と判断してのことでした。
安濃津城に少ないながらも兵を送っているため、最初から戦うつもりがなかったというわけではないようです。
余談ですが、彼は漫画『へうげもの』の主人公で知られる古田重然(織部)と混同されることが多く、重勝が関ヶ原本戦に参加したかのように書かれたこともあります。
両者の関係は悪くなかったようで、織部の茶会に重勝が招かれたこともあるため、余計に混同されたのでしょう。
近畿方面
さらに続いて、近畿の情勢を見てみましょう。
少々トリッキーな動きをしたのが、大津城(大津市)の京極高次です。

京極高次/wikipediaより引用
彼は当初、西軍に従って北陸へ向かおうとしていましたが、裏でひっそり家康と連絡を取り、9月4日に大津へ戻りました。
当然西軍にバレ、三成は大津攻略に立花宗茂や小早川秀包などを差し向けました。
三成としては大軍を送ってさっさとカタをつけたかったのかもしれませんが、結果としてかなりの兵力が釘付けにされてしまいます。
高次は9月12日から15日の朝まで粘り、関ヶ原の戦い当日の西軍を大きく削ることに成功しました。
この功績により、戦後家康から恩賞を与えられています。
前述した田辺城も、幽斎が粘っていました。驚くべき意地です。
自分では説得しきれないと悟った八条宮は、ついに兄の後陽成天皇へ勅命講和を願い出ます。
結果、勅使が立ち、9月12日に講和が成立。関ヶ原本戦の直前でした。
ちなみに、大津城と田辺城を攻めていた西軍を合計すると、おおよそ3万になります。
本戦当日の兵数については諸説ありますが、仮に西軍が8万ほどだった場合、大津城と田辺城に向かった兵力を本番で使えていれば、単純計算で11万もの大軍になっていたわけです。
東軍の兵力は8万~11万という推測値があります。
西軍に3万増えていたらどうなっていたか?
こうなると本当に結果がわからなくなってきますが、そもそも城へ向かわせた兵力の配分が間違っていたとしたら、それも三成の力量というわけです。
家康と比してあまりにも少ない実戦経験の差が如実に出ているようにも見えます。
大津城や田辺城を攻略するのではなく、高次や幽斎を城から出さないことを目的とすれば、これほど多くの兵は必要なかったのでは?というのは後世ならではの見方ですかね。
本戦直前
家康や三成の動きに視点を戻しましょう。
まず家康は、福島正則や池田輝政などの東軍先鋒の戦果を見極めた後、9月1日に江戸を出発しました。

イラスト・富永商太
そして9日に岡崎、10日に熱田、11日に清須へ到着。
清須はかつて信長と家康が同盟を組んだ場所とされていますから、家康の胸中には感慨深いものがあったでしょうか。
一方、三成は、いよいよ家康との決戦が見えてきたということで、景気付けの一戦を試みます。
9月14日に三成の腹心・島左近清興らが杭瀬川沿いに駐屯していた中村一栄・有馬豊氏らに挑み、中村家の家老・野一色助義を討ち取るのです。
家康との対戦前に士気は上々といったところでしょう。
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杭瀬川の戦い1600年|西軍の勝利だった関ヶ原前哨戦 家康も三成もガクブル
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その後、西軍は「家康が三成の本拠・佐和山城を攻めようとしている」という情報を入手。
三成は大垣城にごく一部の兵力を残し、雨の中、佐和山への中間にある関ヶ原を目指して急ぎました。
家康はこの報告を受けて、東軍諸将に同じく関ヶ原を目指すよう命じます。
ちなみに佐和山城までは現在の道路で約29kmほど。三成からすれば、ここで食い止めなければ自分の本拠が危ういわけです。
一応、父や兄、親族を留守居に残していましたが……。
関ヶ原の戦い本戦
さて、いよいよ関ヶ原の戦い本戦です。
布陣の様子や戦闘の経過については諸説あり、今後、新たな説がメジャーになる可能性もありますが、おおまかに把握するということで。
まず現地の地理的条件は、山の間に線状の狭い平地が点在し、中央付近に少し平野が広がっているという感じです。
そこへ、慶長5年(1600年)9月15日、東軍の先鋒が明け方に到着。
家康も続き、関ヶ原の東南にある桃配山に本陣を置きました。

徳川家康/wikipediaより引用
対する西軍は?
関ヶ原の西側に布陣していた人々を北から挙げていくとこうなります。
この他に、東軍の東側にあった南宮山に毛利秀元と吉川広家が布陣していました。
次に角度を変えて西軍・東軍の配置を東西から見てみましょう。
←西 東→
三成たち>東軍諸将・家康本陣<毛利秀元たち
高所の多くを西軍が確保しておりますが、布陣の時点で有利とまで断言できたかどうかは不明です。
戦闘が始まったのは午前7時過ぎ。
まず家康の四男・松平忠吉と、その舅で後見役の井伊直政が口火を切りました。
家康から正式に先陣を命じられていたのは福島正則だったのですが、この戦が初陣だった忠吉が功を焦ったものと思われます。
しかし相手が家康の息子となると、強く苦情を言うこともできなかったでしょう。
忠吉隊は宇喜多秀家の部隊に攻めかかり、近隣に布陣していた福島正則隊も宇喜多隊へ鉄砲を撃ちかけました。
これを受けて、藤堂高虎・京極高知・寺沢広高らが大谷吉継を攻め、忠吉・直政らは本多忠勝隊と共に小西行長との戦闘を開始。
石田三成隊には、黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・田中吉政・金森長近らの部隊が襲いかかりました。
しかし三成隊の士気も高く、そう簡単には抜けません。
他にも、
福島隊vs宇喜多隊
藤堂隊・京極隊らvs大谷隊
といった戦線で、激しい激闘が繰り広げられていました。
三成はここで、主戦場から離れている松尾山の小早川秀秋、そして南宮山の毛利秀元・吉川広家に進軍の合図を送ります。
いずれも兵数の多い部隊でしたので、東軍に攻めかかることができれば戦況を変えることも不可能ではありません。
しかし、小早川隊も毛利・吉川隊も動きません。
ご存知、両者とも事前に家康と通じていたのです。
関ヶ原の決着は第二の裏切りから
家康としても余裕などなかったことでしょう。
何より戦況が膠着するのを恐れていたはず。
確かにこの時点では「秀頼や朝廷の後任を受けて会津征伐に向かった家康」を「公的な許可もなく私情で討とうとしている三成」という構図ではあります。
建前的には、家康のほうが圧倒的に有利かもしれません。
しかし、戦に負けてしまえば、そんなことは関係なくなる。
東軍が敗れれば、人柱同然になった鳥居元忠らの奮闘も、本能寺の変から18年も忍耐を重ねてきた家康の艱難辛苦もすべて水の泡。
手段など選んではいられません。
と、そこで小早川隊がついに動きます。
家康が鉄砲を撃って小早川秀秋の裏切りを促したというエピソードについては、現在、疑問視されています。

小早川秀秋/wikipediaより引用
裏切ったタイミングも定かではありませんが、ともかく小早川隊が松尾山を一気に下って西軍の大谷吉継へ攻めかかったのは事実。
小早川隊の動きを不審に感じていた吉継も、その動きに備えていたため、当初は持ちこたえるかに見えました。
しかし、思わぬことが起きます。
周辺に布陣していた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保までもが東軍に寝返り、壊滅へ追い込まれます。
吉継は病気で崩れてしまっていた顔を晒すまいと後退し、戦線から少し離れた場所で自害した後、家臣に首を埋めさせた……とされています。
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大谷吉継の生涯|家康にも信頼された三成の盟友は関ヶ原に散る
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続いて小西隊や宇喜多隊も崩れ、石田隊も防ぎきれず壊滅。
三成は伊吹山へ逃れ、関ヶ原の戦いは東軍の勝利となりました。
島津の退き口
敗戦が確定した西軍で、思いもよらぬ活躍を全国に披露したのが島津義弘隊でしょう。
島津隊は、あろうことか敵陣である東軍の真っ只中を突っ切って、戦線離脱を図ったのです。
【島津の退き口】として今なお戦国ファンにはお馴染みですね。

島津義弘/wikipediaより引用
実は島津隊、関ヶ原の本戦では、ほとんど戦闘をしていませんでした。
その理由は諸説あり、講談などによって脚色されたものも多いので判然としませんが……三成ら西軍の中心人物が、”鬼島津”とまで呼ばれた義弘を活かしきれなかったのは悲しい事実でしょう。
皮肉にも、この一件で島津の名はさらに高まります。
「捨て奸(がまり)」という壮絶な戦術を用いて、関ヶ原からの撤退を成功させてしまうのです。
捨て奸とは
・少数の部隊に鉄砲を持たせて、追撃してくる敵を足止めし
・その部隊は全滅するまで踏みとどまって戦い
・繰り返す
という凄まじいものでした。
要は、死を覚悟した味方に時間を稼いでもらい、その間に脱出するという戦法ですね。
数千人いた島津隊のうち、生きて戦線を離脱したのは、義弘を含むたった数十名。
犠牲になった者の中には、義弘の甥・島津豊久などもいました。
討手となった東軍もタダでは済みません。
兵卒はもちろんのこと、井伊直政は、この追撃戦で負った傷がもととなって翌々年に亡くなったとされています。
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三成の本拠地・佐和山城攻めがエグい
西軍の敗戦により、小西行長や安国寺恵瓊なども戦線から逃亡。
家康は、三成はじめ、西軍諸将の生き残りを探し出すよう厳命します。
と、その一環で東軍は9月17日、三成の本拠である佐和山城を攻め落としました。
このとき小早川秀秋などの寝返り組を先鋒に立たせて、三成の親族を攻撃させたのですから、仕方ないこととはいえ家康もやることがエグい。
三成の父・石田正継、兄・石田正澄は逃げ延びた後、自刃したといわれています。
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その後、家康は大坂城にいた毛利輝元を退去させ、秀頼に事の次第を報告。
戦闘でも政治的にも、家康が勝利を収めたのでした。
戦後処理
慶長5年(1600年)9月21日、逃亡していた石田三成が捕縛されました。
前後して小西行長・安国寺恵瓊も捕らえられ、同年10月1日、京都・六条河原で三人とも処刑されています。

左から小西行長・安国寺恵瓊・石田三成/wikipediaより引用
他に、宇喜多家や毛利家、そして遠方で西軍の立場だった上杉家・佐竹家などに対しても大減封を行いました。
西軍サイドから召し上げた領地は、そのまま徳川家臣や東軍大名たちへ恩賞として分配しています。
ただし、恩賞を得られた人々もただ単に加増されたわけではなく、転封を強いられた者も多くいました。
わかりやすいところでいうと、細川忠興(細川藤孝の嫡男)が丹後12万石から豊前中津・約33万石になっています。
栄転とも取れますが、これは家康が外様大名を警戒していたからのこと。
武家の人々は、同じ土地に長くいればいるほど団結力は増すものです。謀反を起こされるリスクも高まります。
むろん単に引っ越しさせるわけにもいきませんので、加増と同時に行い、バランスを取ったのでしょう。
家が大きくなれば新たな家臣を召し抱える必要が出てきますし、それによる雑務やトラブル処理に時間がかかれば、家中統制に足を取られます。
その間は江戸や徳川家は安泰になる可能性が高いわけです。
豊臣家に近い者たちも、一枚岩になるどころではない。
このあたりは家康が鎌倉~室町あたりの歴史から学び、想定しうるトラブルをできるだけ回避しようとした故の処置かと思われます。
家康もこの時点で還暦が見えてきた年齢ですから、自分が死んだ直後に徳川政権が最も揺らぐであろうことを見越していたはずですしね。
政治的にも戦略的にも、関が原の戦いは家康のこれまでの経験と学習が遺憾なく発揮された戦でした。
家康の能力や性格が最も出ていると言っても過言ではないでしょう。
戦後の各武将 石高はどう推移した?
関ヶ原の戦いで石高はどう推移したか?
東軍と西軍における主な武将たちの推移をまとめました。
小数点以下の数値は省略して表記しております。
【東軍】
福島正則:清須24万石→安芸49万石
加藤清正:肥後熊本25万石→肥後熊本52万石
小早川秀秋:筑前名島35万石→備前岡山51万石
黒田長政:豊前中津18万石→筑前名島52万石
細川忠興:丹後宮津18万石→豊前小倉40万石
京極高次:近江大津6万石→若狭小浜9万2千石
前田利長:加賀金沢84万石→加賀金沢120万石
田中吉政:三河岡崎10万石→筑後柳河32万石
堀尾忠氏:遠江浜松12万石→出雲松江24万石
真田信之:上野沼田3万石→信濃上田10万石
浅野幸長:甲斐甲府23万石→紀伊和歌山38万石
池田輝政:三河吉田15万石→播磨姫路52万石
稲葉道通:伊勢岩手3万石→伊勢田丸5万石
伊達政宗:陸奥岩出山58万石→陸奥岩出山60万石
最上義光:出羽山形24万石→出羽山形57万石
藤堂高虎:伊予板島8万石→伊予今治20万石
中村忠一(中村一氏息子):駿河府中15万石→伯耆米子18万石
富田信高:伊勢安濃津5万石→伊勢安濃津7万石
【注目枠※小早川秀秋に続いて西軍を裏切った者たち】
脇坂安治:淡路洲本3万石→安堵(開戦前から家康に通知)
赤座直保:越前今庄1万石→改易
小川祐忠:伊予今治7万石→改易
朽木元綱:近江朽木谷2万石→1万石
【西軍】
石田三成:近江佐和山19万石→改易
大谷吉継:越前敦賀5万石→改易
宇喜多秀家:備前岡山57万石→改易
小西行長:肥後宇土20万石→改易
長束正家:近江水口5万石→改易
安国寺恵瓊:伊予6万石→改易
長宗我部盛親:土佐浦戸22万石→改易
毛利輝元:安芸広島120万石→長門萩30万石
上杉景勝:陸奥会津120万石→出羽米沢30万石
佐竹義宣:常陸水戸55万石→21万石
立花宗茂:筑後柳河13万石→改易後に陸奥棚倉で大名復帰→さらに柳川11万石へ加増
丹羽長重(丹羽長秀の息子):加賀小松13万石→改易後に常陸古渡で大名復帰→さらに陸奥白河11万石へ加増
小早川秀包:筑後久留米13万石→改易
糟屋武則:播磨加古川1万石→改易
青木一矩:越前北之庄21万石→改易
蘆名義広:常陸江戸崎5万石→改易
島津忠恒(家久):薩摩鹿児島61万石→薩摩鹿児島61万石
平塚為広:美濃垂井1万石→改易
追記(2025年9月14日)
慶長5年9月15日(1600年10月21日)は関ヶ原の戦いが勃発した日――ということで関連画像を本文中に6枚追加しました。
また、戦後の石高推移についても各武将毎にまとめました。
・2025年9月14日:合戦が勃発した日に合わせて関連画像の追加ならびに、戦後の各武将における石高推移もまとめました。
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参考文献
- 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(戦争の日本史17, 吉川弘文館, 2016年, ISBN: 978-4642066365)
出版社: 吉川弘文館 |
Amazon: 商品ページ - 戦国合戦史研究会(編)『戦国合戦大事典 岐阜県・滋賀県・福井県』(新人物往来社, 1989年, ISBN: 978-4404016429)
出版社: 国立国会図書館 書誌データ |
Amazon: 商品ページ - 本郷和人『壬申の乱と関ヶ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか』(文春新書1073, 文藝春秋, 2016年, ISBN: 978-4166610731)
版元ドットコム: 文藝春秋 |
Amazon: 商品ページ














