慶長5年(1600年)9月15日は関ヶ原の戦いが起きた日。
双方合わせて十数万もの大軍が一堂に介し、東西に分かれて決戦というあまりにも劇的な展開であり、これに勝利した徳川家康が江戸幕府を開いたのは説明するまでもないでしょう。
しかし、こんな大戦ながら、見落とされていることも多い気がしてなりません。
例えば、
・関ヶ原の戦い“本戦”に至るまでの経緯
・家康と三成の“本戦以外”に全国各地で行われていた合戦
こちらについては、きっちり把握されてない方もいらっしゃるのでは?
日本を真っ二つに分ける日本史上最大の合戦だけに、戦いは関ヶ原だけで起きていたわけではありません。
それこそ東北から九州まで。日本津々浦々で戦いは続き、そして東軍の勝利に従い、収束していきました。
本記事では、時系列に沿って
「準備」
↓
「本戦」
↓
「全国での戦い」
を振り返ってみたいと思います。
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秀吉没後
なぜ関ヶ原の戦いは勃発したのか?
それは、何と言っても慶長三年(1598年)8月に豊臣秀吉が病没したことでしょう。
長いこと跡継ぎに恵まれなかった秀吉。
甥の豊臣秀次に継がせようとしていたところで、実子とされる豊臣秀頼が生まれ、その後に秀次が切腹。
ブチ切れた秀吉は秀次の妻や側室、子供らを処刑し、ここで東北の雄である最上義光の娘・駒姫まで連座で殺してしまい、義光の家康派への参戦を決定的なものとしてしまっています。
※以下は駒姫の関連記事となります
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ともかくも秀吉が病没したとき、秀頼はわずか5歳でした。
当然、政治の主導などできず、秀吉はある遺言を残します。
豊臣政権を支えてきた五大老・五奉行に、秀頼が成人するまでの政治を任せると言い残したのです。
「五大老・五奉行という呼び名は後世使われるようになったもので、当時は制度化されていない」
そんな見方が強まっていますが、非常に便利な呼称ですので、本記事では利用させていただきます。
まずは、それぞれのメンバーと所領の大きさを確認しておきましょう。
この間に、両者の間をとりもつ「三中老」という役職もありました。
制度として明確に存在していたのか?こちらもハッキリしませんが、立場としてはあったと考えられます。
メンバーと所領は以下の通りです。
総勢13名で、この中で最も所領の多いのが徳川家康です。
当時は
所領の多さ
≒兵力の多さ
≒優秀な家臣の多さ
≒兵糧の潤沢さ
ですから、家康が最も豊かであり、軍事力にも優れていたことになる。
一応、五大老の他の四人がまとまれば数字としては対抗できますが、結束力の脆弱さと家康の老練さを考えれば、事はそう単純には測れない。
要は、家康の強さが抜きん出ていたわけです。
五大老・前田利家の死
秀吉亡き後の豊臣政権が脆弱だったのは、根無し草同然の身から一気に天下人へ上り詰めたため、経験豊富な直属家臣が乏しかったことが大きな影響を受けていたと考えられます。
それを熟知していたであろう家康は、念には念を入れ、豊臣家臣の切り崩しにかかりました。
と言っても「秀頼を裏切って徳川につけ」みたいなどストレートにアプローチはしません。
豊臣家臣の中枢にいる多くの人は、いわゆる“子飼い”。
小さいときから秀吉の膝下で育ち、肉親に抱くような親愛を豊臣家に抱いている者が多いため、損得勘定だけで動くものでもありません。
下手に誘って反発されたら、かえって豊臣恩顧の結束を強めてしまうでしょう。
家康は機が熟すのをジックリ待ちました。
そもそも家康は秀吉に心服していたわけではなく、ここまで忍耐を強いられたのですから、いよいよ土壇場に立って失敗はしたくなかったのでしょう。
では家康はいつまで待ったのか?
立場的にも所領的にも、家康の対抗馬になり得た前田利家が天寿を全うする日まで、と考えられそうです。
秀吉が亡くなってから野心を隠そうとしない家康に対し、利家は強く懸念を抱いていました。
慶長四年(1599年)2月には、お互いに誓書を交わし、いざこざが起きないように取り決めをしていたほどです。
しかし、程なくして利家は病気を悪化させてしまい、同年閏3月に逝去してしまいます。
利家を楔にして、どうにかこうにか保っていた豊臣政権。
その死後、次々に問題が噴出してきます。
まず、利家が亡くなった直後、石田三成が襲撃される事件が起きました。
しかも、事件の首謀者は徳川サイドの人間ではなく、三成にとっては幼い頃から同士であるはずの加藤清正や福島正則を含む7人の武将でした。
要は仲間割れですね。こんな調子じゃ、たとえ家康がいなかったとしても豊臣政権は分解していたことでしょう。
むろん、家康にとっては、またとないチャンスです。
家康はこの事件の仲裁に入り、三成に
「しばらく国許の佐和山に戻り、皆の頭が冷えるのを待ってはどうか?」
と勧めました。
三成も「佐和山ならば、すぐに戻ってこられる」と考えたのか、家康の意見を受け入れます。
家康はこの後、利家の跡を継いだ前田利長に国許の金沢へ帰るよう勧めたり、謀反の疑いがあるとして圧力をかけ、最大の敵になりうる前田氏の力を削ぎ落としました。
一応、弁護をしておきますと、他の大老や奉行らと共に、朝鮮出兵の後始末や帰国する諸将との連絡などもやっていました。
政権奪取の陰謀だけに注力していたわけではありません。
同じく慶長四年7月には上杉景勝が帰国。
宇喜多秀家や毛利輝元らも国許へ帰り、秀頼を直接後見しているのはほぼ家康だけ……という状態になります。
そして9月末に大坂城西の丸に入ると、そこから各地の有力大名に書状を送りまくる工作を図りました。
会津征伐と伏見城の戦い
上方で家康の存在感が強まる中、上杉景勝は国許で着々と軍備を進めます。
「景勝と家老の直江兼続は、家康を討つため石田三成と共謀し、徳川軍を挟み撃ちする計画を立てていた」
そんな指摘を聞くこともありますが、疑問はあります。
当時の通信事情を考えれば、いささか無理があるのではないでしょうか。
確かに、両者の中間あたりに所領を持っていた真田家は、三成やその親友・大谷吉継との姻戚関係があります。
真田家を通して日頃から密に書状のやり取りなどを取っていたとしたら、佐和山や上方~会津間も、この時代としては素早く連絡できたのかもしれません。
三成から真田昌幸に宛てた7月末の書状に、それらしきことが書かれていますが、確実なルートではなさそうです。
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家康は慶長五年(1600年)1月に景勝へ上洛を促していました。
しかし景勝は断り続け、あからさまに喧嘩を売るような態度を取ります。冬の間であれば雪を理由にすることもできましたが、雪解けの季節が来ても景勝は動きません。
「上杉家には謀反の疑いがある!」
家康は会津征伐を決めました。
ただし、上杉家を討つだけに没頭するのではなく、三成にも注意を払い、その出方をうかがっていたでしょう。
大坂から会津へ向けて出立するとき、上方の徳川軍を極端に減らしていたのは、三成を誘い出すためだったのでは?とも思うほど……要するに囮です。
その囮役になったのが、家康に幼少期から仕えてきた鳥居元忠でした。
一方、三成は親友・大谷吉継の助言を受け、総大将を毛利輝元に依頼。
五奉行の長束正家らに家康への弾劾状を作らせ、これを根拠として諸大名を味方につけようとします。
結果、毛利一門や秀吉の縁者でもある小早川秀秋、宇喜多秀家、長宗我部盛親、立花宗茂など、西国の主力大名が三成方につきました。
機は熟した――と言わんばかりに、三成ら西軍は挙兵し、7月19日、さっそく伏見城へ攻めかかります。
城将の鳥居元忠は圧倒的不利な兵力差にもかかわらず、10日以上の籠城戦を演じ、8月1日、激戦の末、討死。
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その戦いの凄まじさを物語るのが、かの有名な養源院(京都市東山区)の血天井です。
元忠の敗戦に対し、家康はどう動いたか?
というと、いったん江戸に入った後、7月21日に会津へ再度出発し、3日後の24日、下野の小山に着くと、ここで伏見城の件を知ったと思われます。
このあたりから各地の戦線が並行して進んでいくため、混乱しやすくなるのですが……時系列順にできるだけスッキリと話を進めていきたいと思います。
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