2022年9月8日、エリザベス女王(エリザベス2世)が静かに息を引き取りました。
実に96歳。
跡取りは長男のチャールズ皇太子であり、国王に即位しましたが、彼女の喪失は英国民にとって非常に大きなものだったでしょう。
国民に慕われながら、巨大な大英帝国の終焉を見守った女王として、在位は70年にも及びました。
では、その治世は如何なるものだったか?
日本人にはあまり馴染みがない若き頃の活躍も含め、エリザベス女王2世の生涯をたどってみましょう。
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祖父・ジョージ5世に可愛がられ
1926年4月21日深夜、イギリス・ロンドンで一人の女児が誕生――。
ヨーク公アルバートと妻エリザベスの長女はエリザベス・アレキサンドラ・メアリと名づけられ、家族からは愛称の“リリベット”と呼ばれました。
彼女はまさしくイギリスの歴史を背負って生まれてきた存在と言えます。
「こんなにも幼いのに、気品と威厳があるとは……」
当時2歳のエリザベスと接したチャーチルは驚いたとされ、幼稚園児にあたる1932年からはマリオン・クロフォードというガヴァネス(女性家庭教師)がつけられ、英才教育を仕込まれました。
威風堂々たるイギリスのプリンセスとしての人生は、かくして始まったのです。
特に幼いリリベットを可愛がったのは、祖父・ジョージ5世でした。イギリス史上最多の犠牲者を出した第一次世界大戦時の英国王です。
そんな王の二男“バーティ”ことヨーク公アルバート王子は、海軍士官でもありました。
K級潜水艦の事故で危うい目にあったこともあります。
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母・エリザベスは、スコットランド貴族ストラスモア伯爵家の孫。大戦中、彼女は病院として開放された親族の伯爵家で、第一次世界大戦戦傷者の治療に携りました。
夫妻ともに第一次世界大戦を目撃していたのです。
そんなウインザー朝の王子と、スチュアート朝につながるスコットランド貴族の血を引く貴族令嬢の結婚は、連合王国の血による結びつきと言えました。
とはいえ、アルバートあくまで王の二男。エリザベスは王族の血を引く王女に過ぎませんでした。
第一次世界大戦
第一次世界大戦は、イギリスの歴史において大きな変化をもたらしました。
劇中でこの大戦を挟む『ダウントン・アビー』は、どうしてあの時代設定なのか。それというのも、王侯貴族の特権が奪われてゆく激動の時代であったからなのです。
・イギリス海軍力の限界が証明される
→トラファルガーの戦いで頂点を極めた英国海軍は、この大戦で艦隊決戦主義の限界を見ることになります。
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・第一次世界大戦で、貴族の子弟に戦死者が相次ぐ
→貴族本人、その後継者が死亡することにより、断絶する貴族が相次ぎました。
・経済の限界
→ヨーロッパ全体が大きな傷を負った大戦。科学技術力、経済力……そうした点において、大英帝国の破綻が見えてきました。
『ダウントン・アビー』のグランサム伯爵家は、経済面での援助を得るため、アメリカから妻を迎えています。
妻の側から見れば、イギリスの貴族としての地位。夫の側から見れば、経済力。どちらも得をする関係がありました。
しかしこれは、アメリカからの援助がなければイギリスの貴族制度は成立しない――そんな皮肉の証明でもあります。ウィンストン・チャーチルも、こうした夫妻の子です。
そうした貴族のさらに上に立つ王族もまた、アメリカの影響と、歴史の変化にさらされていました。
貴族ではアメリカ人との結婚は成立しても、国王となれば難しい。ましてやそれが既婚者であれば、尚更のことです。
それが証明したのは、皮肉にもエリザベスにとっては伯父にあたるエドワード8世となります。彼はアメリカ人であるシンプソン夫人と結婚するため、王冠を捨てたのです。
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ロマンチックなロマンスに思えるものの、弟であるアルバートの家族にとっては大迷惑でした。
アルバート本人は、皇太子として教育を受けていないと困惑。吃音の克服も重大な課題となりました。
アルバートの妻であるエリザベスは、病弱な夫の命を縮めかねないと大激怒し、義兄夫妻へ抱いた強い怒りを生涯消せませんでした。
娘のエリザベスにとっても、人生が大変貌してしまいました。伯父の退位とは、彼女が次期国王となることなのです。
伯父の退位を受け、一家揃ってバッキンガム宮殿に引っ越すことになると、エリザベスはあまりのことにこう嘆くのでした。
「伯父様が退位しなければ……」
10歳で、次の王冠を受け継ぐことが決められてしまい、どれほどの衝撃があったことでしょうか。
ここでトリビアでも。
英国王の太子は「プリンス・オブ・ウェールズ」と呼ばれます。
それではエリザベスは「プリンセス・オブ・ウェールズ」であったのかというと、これがそうではありません。
「プリンセス・オブ・ウェールズ」は、皇太子夫人の称号です。チャールズ皇太子であったダイアナは該当しても、エリザベス2世はそうではありません。
ややこしいことに、チャールズ皇太子の再婚相手であるカミラも名乗らず、コーンウォール公爵夫人(スコットランドにおいてはロスシー公爵夫人)が称号とされます。
称号はさておき、彼女は女性であり、かつ王位継承順位一位となったのでした。
軍隊では軍用トラックの運転が得意だった
第一次世界大戦後、エリザベス誕生の6年前の1920年、国際連盟が発足します。二度と世界大戦を起こしてはならないという政治の産物でした。
しかし、はかなくも崩れてゆきます。
エリザベスが王位継承の修行をしている青春時代、ナチスドイツが台頭。イギリスはチェンバレンの元、宥和政策を取ったのです。
結果的にこの政策は失敗でした。1940年、ドイツがヨーロッパを席巻するようになると、国王夫妻とエリザベス、そして妹のマーガレットは別居することとなりました。
国王夫妻は、緊迫する中で家庭を振り返る間もなく、常に政治に気を配らねばならない戦時に突入したのです。
即位前はさほど目立つこともなかったジョージ6世ですが、即位後はその生真面目な人柄により敬愛を集めました。その傍らには、聡明でこれまた人気抜群の王妃エリザベスの姿がありました。
ヒトラーをして「あれこそヨーロッパで最も危険な女だ……」と言わしめたほど、王妃は度胸があり大胆で、周囲と国民を勇気づけていたのです。
エリザベスにも役目がありました。
普及し始めたBBCラジオに出演し、親と接することのできないイギリスの子ども代表として、勇気づけるスピーチをしたのです。
ラジオ、テレビ、そしてインターネット――エリザベスの人生は、変わりゆくメディアとその発信ともにありました。
まだ幼いながらも、エリザベスは落ち着きのある声で語りかけ、ラジオ時代にふさわしい風格がありました。
父・ジョージ6世は吃音に苦しみ、その克服は『英国王のスピーチ』として映画化されました。王族にとってスピーチの才能は、メディアの発達とともにますます求められるものとなっていたのです。
王族ともなれば、戦時の役割はそれだけではありません。
ノブレス・オブリージュの伝統がある王室では、軍隊への入隊が求められます。エリザベスの子孫たちも、軍務経験があるものです。
1942年に15歳となったエリザベスはまず近衛兵第一連隊連隊長に任命されました。
1944年に18歳となると、国事行為臨時代行の一人に選出します。
ロンドンも空襲をされる時代です。父王に何かあった場合、彼女が代行しなければなりません。
そして1945年、イギリス陸軍婦人部隊・補助地方義勇軍(ATS)に准大尉として入隊。20世紀ともなれば、女性でも軍人にならねばなりません。
ソヴィエト連邦のように狙撃兵や戦闘機パイロットにまではなれないものの、軍需物資の輸送には参加できたのです。
軍用トラックのハンドルを握ることになった彼女は、大型車両の整備、修理、運転を習得します。運転技術はなかなかのもので、即位後でも高速運転をしていたという証言もあります。
士官候補生との初恋から……
1945年5月8日、ついに第二次世界大戦は終わりました。
バッキンガム宮殿で手を振る国王夫妻とチャーチルの横では、エリザベスとメアリの二人も歓喜の笑顔を浮かべていました。
この時の写真と映像は、歴史が変わる瞬間をとらえたものとして有名です。
このあと父の許しを得て、エリザベスとメアリの王女姉妹はお忍びでロンドンに繰り出し、勝利に浮かれるロンドンの夜を過ごしたのでした。
二人の様子は『ロイヤル・ナイト』として映画化されています。
生真面目な生活を送ってきたエリザベス。そんな彼女の初恋は甘く、ロマンチックなものでした。
1939年、国王一家はダートマスの海軍兵学校で、背が高くハンサムなフィリップという士官候補生から案内を受けました。
この士官候補生は国王一家が立ち去る時、手漕ぎボートで追いかけて来たのです。父である国王は呆れ返っておりましたが、13歳の王女は18歳のこの士官候補生に胸がときめかせました。
このフィリップとは、ギリシャ王子アンドレアスを父とする高貴な青年でした。
1943年、戦争中にこの二人は再会し、手紙のやり取りをするようになります。しかし、フィリップはドイツの血が濃く、ドイツと戦うイギリス王女のロマンス相手としては不適切ではありました。
それでもエリザベスは、この恋の相手と結婚したくてたまりません。
戦後の1946年、フィリップはエリザベスに求婚。思いの強さに父王も折れ、ロイヤルウェディングを迎えたのです。
戦争後の暗い世相の中、結ばれたエリザベスとフィリップ。二人はまるで別世界から現れたような、まばゆいばかりの美男美女でした。
「ああ、お二人の美しさ! まるで神話から出て来た神のようでした……」
新婚まもないこの夫婦の姿を見た使用人は、うっとりとそう証言しているほど。
このディズニー実写版のような夫婦は、結婚後様々な困難にぶつかり、フィリップの無茶苦茶な言動はしばしば話題となりますが……結婚当時は輝く二人でした。
1948年には夫妻の長男であり、未来の国王であるチャールズも誕生。王室は安泰であると受け止められる、うれしいニュースでした。
“ラ・ベル・プランセス”(美しき王女)
そんな若き夫妻は、世界中から注目を浴びるようになります。
ただでさえ病弱で、しかも第二次世界大戦で疲れ果てた父王に代わり、外交の舞台に立つのはエリザベスでした。
革命で王制を廃止したフランスでも、イギリスの王から独立をしたアメリカでも、彼女は大歓迎を受けるのです。
フランスでは“ラ・ベル・プランセス”(美しき王女)という見出しが新聞を飾ります。
アメリカのトルーマン大統領はうっとりとしながら、こう語ったほど。
「子どもの頃、妖精の王女様の話を読んだものですがね。それが今、その本物が目の前にいるんですよ!」
若きエリザベスは、神話やおとぎ話から抜け出たような、魅力的で美しい存在であったのです。
これは重大な転換点でもありました。
アメリカ独立戦争とフランス革命は、18世紀の出来事です。それから百年以上の歳月とにどの世界大戦を経て、世界の秩序は変わりつつありました。かつて敵であり、憎悪すら浴びせられていたイギリス王室は、愛される存在となりました。
ただし、よいことだけでもありません。
いくら王女が美しかろうと、権力があればおそれられるもの。イギリス王室は、愛される偶像としての存在感を持つようになっていたのです。
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