果たしてそれは事実でしょうか。
おそらくや――幕末は荒ぶる魂を持った男の時代――というバイアスのせいではないでしょうか。
実のところ、幕末だって女性は活躍しています。ただし、表舞台に出る機会が少ないため、あまり人に知れることがないのです。
大奥や閨房(けいぼう)で、彼女らは活動していました。
そしてそのために、憎しみを買い、危険にさらされることもありました。
明治9年(1876年)9月30日はその命日です。
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京都三条河原にとある女の姿が浮かび上がる
ときはペリー来航から数年が経過した文久2年(1862年)11月15日。
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夜が白々と明けるにつれ、京都三条河原に、とある女の姿が浮かび上がってきました。
「なんや、あの女。高札立てられとるで」
「また天誅かいな。おお怖っ……」
周囲の人々は好奇心から彼女の姿をジロジロと眺めました。
その姿に唾棄し、石をぶつけるような者はいません。
哀れ――されど、誰も彼女を助けようとはしません。
女の名は、村山かず江。
年の頃はもう50ほどではありましたが、美貌の面影が残り、色香すら漂わせた女性でした。
「この女は井伊直弼の懐刀・長野主膳の愛妾」
傍らの高札には、こう書かれておりました。
「この女は井伊直弼の懐刀・長野主膳の愛妾であり、大胆不敵な行動でその奸計を助けていた」
さらには「死をもって償うべきところを、罪一等減じて晒しているのだ」ともあります。
こんな調子では、誰だって恐ろしくて声をかける気にもなれないでしょう。
彼女が晒された翌日、息子の帯刀(たてわき)が、人斬りで知られた岡田以蔵らによって殺害、斬首され、さらし首となりました。
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彼女の姿は、素足に着物一枚だけを身につけ、切られた髪には頰かぶり。縛り付けた縄がその身にくいこんでいます。
このままでは長くは持たない――。
三日三晩ののち、彼女はやっと老尼に助けられ命を拾ったのでした。
美しい少女は京都で芸妓となり鉄三郎に出会ってしまう
村山かず江、またの名は村山たか。以下、本稿では、たかと記します。
なぜこれほどまでに彼女は憎まれたのか。一体何をしたのか。
文化6年(1809年)、たかは近江国犬上郡多賀で生まれました。
父は多賀大社尊勝院の長老・尊賀。母の素性は不明。尊
賀は妻帯しなかったため、寺侍村山家の養女となりました。
たかはやがて美しい少女に育ちました。三味線や茶道・華道も得意としていました。
そんな才色兼備の女性であったためか、20才で彦根藩主・井伊直亮の侍女となります。
その後、21才頃には京都祇園下河原で芸妓となりました。かず江という名は、この頃名乗るようになったとされています。
下河原の芸妓は、身を売るよりも芸を売るという、精進を怠らないプロ意識を持った女性たちでした。
美しく聡明なたかは、上流階級の人々とも交流を持ちます。
鹿苑寺金閣の住職・北潤承学はたかに惚れ込み、二人の間には男児が生まれました。
男児はたかに引き取られ、母子は彦根に戻ります。
このころ、彦根藩主・井伊直中(なおなか)の十四男・直弼は部屋住みの身でした。彼は「埋木舎」で、趣味にあけくれる日々を過ごしていました。
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天保10年(1839)頃、たかは医師の仲介によって鉄三郎(井伊直弼の幼名)と出会います。
たかの美貌と才知に見せられた直弼は、やがて彼女を愛妾としたのでした。
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