正長の土一揆

徳政碑文が刻まれた疱瘡地蔵/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

正長の土一揆で借金チャラ|農民・地侍・馬借の蜂起で徳政令ブームへ

2024/08/30

正長元年(1428年)8月から永享元年(1429年)7月にかけて、正長の土一揆が発生しました。

畿内や近江にかけて起きた「借金チャラ!」を要求する大規模な一揆であり、このときの様子は『大乗院日記目録』に

「天下の土民蜂起(中略)日本開白(闢)以来土民蜂起これ初なり」

と記されるほど、都ではインパクトがあった出来事とされます。

それまで歴史の表舞台に立つことがほとんどなかった庶民が躍り出たという点でも意義深いものがあり、以降、その数は増えていきます。

そこで本稿では、室町時代から始まった、ちょっと物騒な解決方法

【土一揆】

に注目。

「どいっき」とも読まれますが、史料には「つちいっき」という仮名があり、受験生の方は「つちいっき」で覚えておいた方が無難でしょう。

今回は

・正長の土一揆

・播磨の土一揆

・嘉吉の土一揆

と併せて見て参りましょう。

 

 


「土地を返してくれ」がなぜか通る時代

あらためまして土一揆とは、農民や地侍、馬借など、比較的身分の低い一般人が起こした一揆(暴動)のことです。

”暴動”というといかにも穏やかならぬ雰囲気ですが、必ずしもそうでないケースもあります。

室町時代の中期以降、庶民の自治・連帯意識が強まり、何かあったときに団結して抗議活動が行われるようになりました。

現代に置き換えると「一般のサラリーマンや主婦、学生などが、地域ごとにまとまってデモを起こした」みたいな感じですかね。

一揆の場合は、近隣の国に波及して数カ国規模になることもありました。

土一揆の目的は、ほとんどが支配者層に徳政(借金チャラ)を求めることです。

これは当時の社会通念が絡んでいます。

この時代は「土地を売買した後でも、元の所有者の権利は失われない」とか「機会があれば元の持ち主に返すべきだ」という概念がありました。

現代では「売った後は買い手のものだから、買い手がどうしようと問題ない」ですから、なんとも奇妙な感じがしますね。

どこからそういう考えが出てきたのかよくわかりませんが、もしかしたら奈良時代の墾田永年私財法(743年)などの影響なのかもしれません。

先祖代々同じ土地を受け継いできた家であれば、

「俺の家の土地は大昔にお偉いさんからもらったんだから、(お偉いさんより身分が低い)売り主はいつか俺に返すのが当たり前」

という考えが出てきてもおかしくはない……ですかね。

そういうわけで、生活苦の他に、天皇や将軍の代替わりなどの慶事に際して「このめでたい日に、俺らの土地も返してくれてもいいんじゃない?^^」みたいなノリで土一揆が起きることがありました。

そのうちスパンが短くなり、年間行事みたいになっていったのは、為政者からすれば勘弁して……という話でしょう。

多少なりとも死傷者は出たでしょうから、物騒な話です。

本筋とは関係ない話ですけれども、戦国時代あたりの日本人(庶民)は「戦闘民族かよ」と言いたくなるような事件が度々あります。

※以下は「戦国時代の百姓」の関連記事です

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幕府「1割納めれば後は知らんよ」

室町幕府も土一揆を取り締まろうとはしました。

しかし、幕府自体の力も衰えており、スムーズな鎮圧は難しい状態。

取締りを命じられた守護大名家にしたって、長年の京都滞在で生活費に困っていた下級武士が多く、中には一揆側につく者もいたほどです。

【応仁の乱】直前には、そういった兵によって蔵が荒らされ「私徳政」とのたまう者もいたといいます。

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幕府でも力で押さえつけられないことを悟ってか。

時代が進むと「分一徳政令」という法律を作って一揆をなだめようとしています。

これは、紛争の元となった債権の”一”割を幕府に納めれば、残りの九割を当事者の自由にして良いというものです。

逆側から見ると、「幕府はもう一揆が起きたら収拾しないよ!」と宣言したようなもの、ともとれまして……。

困ったのは、寺院や土倉(質屋)のように、一揆で襲われる側。

自衛のため、彼らは自ら兵を雇うようになりました。無論、その前から武装してるところもありますけれど。

ちなみに土一揆の「土」は、当時、農民・百姓のことを「土民」と呼んでいたことに由来します。

地侍や馬借の立場はどうなの?という感じですが、主軸が農民・百姓だったからでしょう。

人口比率的にも多かったでしょうし。

もしくは、朝廷で身分の低い者=御殿に上がれない者のことを「地下人(じげにん)」や「地下(じげ)」と呼ぶので、「土に近い場所で暮らしている者ども」という意味でひっくるめられたのかもしれません。

 

正長の土一揆 正長元年(1428年)

そうした土一揆の中で、一番最初に起きたのが【正長の土一揆】でした。

時は、正長元年(1428年)8月から永享元年(1429年)7月にかけて。

当時の社会情勢としてはこんな感じです。

状況其の一 足利将軍家の事情

五代将軍の足利義量(よしかず)が早世し、出家していた父の四代将軍・足利義持が復帰して仕事をしていました。

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しかし、この年の1月に義持も体調を崩し、年齢的にも40代で当時の寿命が見え始め、「次はどうするんだ」という空気が漂います。

それでも義持は「どうせ俺が死んだら遺言なんて無視するんだろ。ケッ」(※イメージです)という理由で後継者を決めておらず、管領以下の幕臣たちは困惑しておりました。

権力を手放さないまま責任を放り投げるとかマジ勘弁。

そんな頃です。

状況其の二 天候と社会現象

前年から天候不順の凶作で農家の収入が減っていた上に、「三日病(みっかやみ・おそらくインフルエンザか風疹)」の流行などで働き手が減り、かなり厳しい状況に追い込まれていました。

どちらも自然現象ですから、仕方のないことではあります。

しかし、近現代まで、こうした天災の類は

「お偉方の政治が良くないから、天罰が下されているんだ! 俺らにとっては迷惑なんだから、お偉方が責任を取るべき!」

と受け止められることがほとんどです。

 


近江の馬借から始まり、コワモテ興福寺すらも認める

こうした中でまず8月に、近江坂本や大津の馬借(馬を用いた運送業者)が徳政を求め、それが京都・奈良に広まりました。

洛中では借書を焼き捨てるわ、質に出した物を取り返しにくるわで、かなりの混乱。

似たようなものに江戸時代の「打ちこわし」がありますが、やってることはだいたい同じです。

打ちこわしは都市部の住民が庄屋相手に起こす場合が多いなど、細かな違いはありますけれども。

室町幕府は管領・畠山満家や、侍所所司・赤松満祐に命じて兵を出させ、一揆を収拾しようとしました。

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残念ながら武力による収拾はできず、一揆勢も幕府から徳政令をもぎ取ることができなかったので、このときは双方痛み分けというところでしょうか。そして……。

実際には借書の破棄と質を取り返した一揆勢の勝ちであり、他の地域へも広がっていきました。

京都以外の近江・大和・河内・摂津・播磨では、国内を対象とした徳政令が出されています。

特に大和では、国内のほぼ全てを荘園化していた興福寺が徳政令を認めており、着目すべきでしょう。

興福寺五重塔

興福寺といえば、延暦寺と同じくらい朝廷に対して強訴(神木や神輿を担いで無理に自分たちの主張を押し通す)をしていたお寺です。

歴史や伝統もあるんですけれども、悪い事のほうが印象に残るのは仕方ありません(´・ω・`)

「朝廷には強気に出られるのに、土一揆には下手になった」というのが興味深いですね。

公家が武力で押してくることはほとんどありませんが、民衆は何をするかわからないからかもしれません。

僧兵が民衆をブッコロしてしまったら、お布施の出処を失うことにもなりますものね。

また、前述の通り、正長の土一揆については興福寺の門跡寺院・大乗院の記録『大乗院日記目録』に

「このたび民衆が蜂起した。これは日本の国が始まって以来初めてのことである」(意訳)

と記されていることも見逃せません。

もしもこれが本当ならば、それまでの日本人は相当温厚というか、世界的に見て大人しすぎる民族と言えるかもしれません。

中国の歴代王朝末期には、だいたい民衆を含めた大乱が起きていますし、朝鮮半島でも元寇がらみで農民の反乱が起きています。

日本の農民たちはそれまでの社会的地位が低すぎて「団結して行動する」という概念がなかったのでしょうか。

盗賊の記録はこれ以前からちょくちょく見られますので、全ての日本人が善良だったとはいえません。

何はともあれ、こうして日本史上初の民衆蜂起である「正長の土一揆」は、一揆勢にとっておおむね成功といっていい成果を得ました。

徳政碑文が刻まれた柳生の疱瘡地蔵/photo by Degueulasse wikipediaより引用

そして、この結果を受けて、各地で土一揆が頻発するようになっていきます。

代表的なものをあと二つご紹介しましょう。

 

播磨の土―揆 正長二年(1429年)

国一揆(地元の有力者=国人が起こした一揆)とされることも多いのですが、こまけえこたあいいんだよということで。

播磨の住民が、赤松満祐(後に【嘉吉の変】で六代将軍・足利義教を暗殺する)軍の退去と、荘園代官の排除を求めて起こしたものです。

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播磨は赤松氏の本拠でもあり、一揆が起きたというのは不名誉なことでした。

そもそも満祐と四代将軍・足利義持は仲が悪すぎて、一触即発の状態になったとき、戦に備えようとした満祐が地元で大量に兵糧をぶんどったのが原因だとされています。

つまり身から出た錆(ノ∀`)アチャー

上記の通り、満祐は正長の土一揆の鎮圧にあたったことがありましたので、急遽地元に帰ってこれを収めています。

それ以外のエピソードが伝わっていないので、播磨の一揆勢はさほどの力がなかったのかもしれません。

ここでもし満祐の首まで取れていたら、室町時代中期以降の歴史は大分変わっていたでしょう。

 

嘉吉の土―揆 嘉吉元年(1441年)

「嘉吉の徳政一揆」とも呼ばれます。

【嘉吉の変】で六代将軍・義教が暗殺されたため、

「将軍が代替わりするのはめでたいことなんだから、徳政をするべき!」

と考えた京や近江の馬借・農民・地侍が起こした一揆でした。

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地侍が一揆勢を取りまとめ、余計な略奪をしないよう、ある程度の規律が保たれていた、という話が残っています。

この辺は江戸時代【天明の打ちこわし】ともちょっと似ていますね。

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嘉吉の土一揆については、将軍不在という緊急時でもあり、幕府が折れて農民限定の徳政令を出し、収拾しようとしました。

しかし、一揆勢が「ワシらだけラクになるのは心苦しいんで、お公家さんやお武家さんにも徳政してあげてくださいよ^^」(※イメージです)と要求。

ときの管領・細川持之が土倉の持ち主から「お金払うんで、私らの倉を守ってくれませんか」と依頼されていたことが守護大名たちにバレ、幕府の中でも対立が発生してしまいました。

元管領・畠山持国の家臣も一揆に加わっていたため、持国は武力による鎮圧を拒否したとされています。

応仁の乱が起きる二十年以上前のことですが、この時点で幕府がgdgdになりつつあることがわかりますね。

まぁ、持国については、そもそもアンタが家臣にちゃんとメシを食わせてやってればよかったんじゃね?とも思ってしまいますが、この後、持国が起こしたお家騒動のせいで、応仁の乱の最初の戦闘が始まってしまいます。

両方とも赤松満祐が多少なりとも絡んでいる……というのがなんともですねぇ。

満祐は気性が激しい上に楽観主義なところがあったので、為政者に向いていないタイプだったと思われます。

うまくやっていける女房役がいれば、なんとかなったかもしれませんが。

一揆は他にも【国一揆】や【一向一揆】などがあります。

詳細は以下の記事をご覧ください。


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【参考】
国史大辞典「土一揆」
一揆/wikipedia
正長の土一揆/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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