柴田勝家

柴田勝家/wikipediaより引用

織田家

柴田勝家はなぜ秀吉に敗れたのか? 織田家を支えた宿老62年の生涯まとめ

戦国大名の中でも、ダントツの人気を誇る信長。

彼に仕えた家臣たちもまた、後世の多くの人々に敬愛されてきました。

その代表格の一人が、天正11年(1583年)4月24日に亡くなった柴田勝家でしょう。

鬼柴田とも呼ばれ、織田信長が絡む作品では欠かせない猛将として知られた存在でありますが、意外と謎に包まれた人物でもあり……。

いったい柴田勝家とはどんな人物だったのか? その生涯を振り返ってみましょう。

※以下は織田信長の生涯まとめ記事となります

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信長の父に仕え、弟を盛り立て

まず柴田勝家は、生年や出自がハッキリしておりません。

いわゆる諸説アリというやつで、生まれは大体1522~1527年と推定。

信長が1534年生まれなので、最大で一回り、最低で7歳ぐらい歳上になりますね。

経緯はともかく、勝家は若い頃から信長の父・織田信秀に仕え、領地として村を一つもらっているぐらいなので、家柄あるいは若い頃から能力が突出していたであろうことは間違いないでしょう。

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また、早くから、信長の弟・織田信勝(織田信行)に仕えていたとされています。

信秀の死後もしばらく信勝に仕え続け、兄弟の対立が決定的なものとなるまでは、信長の命で武働きをしたこともありました。

例えば天文二十二年(1553年)の【萱津かやづの戦い】などです。

この頃の勝家は、林秀貞などと共に信勝が織田家の当主にふさわしいと考え、反信長派とも言える行動をしていました。

しかし、以下のような理由から信長方に転身します。

【勝家が信長派になった経緯】

・弘治2年(1556年)8月、稲生の戦いで信長方に敗れた

・信勝が新参かつ男色相手の津々木蔵人を重用し、勝家らを冷遇する

土田御前(信長・信勝の実母)の仲介で、稲生の戦いの件を赦免されたにもかかわらず、弘治3年(1557年)、信勝が再度、信長への謀反を企てた

実際に信長と戦い、敗れ、実力差を痛感させられた勝家。

にもかかわらず、弟・信勝は現実を見ようとせず、あろうことか再び兄を殺そうとした――。

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これでは、どんな人でも愛想がつきましょう。

柴田勝家は、謀反の件を信長に密告。

その報を受けた信長は仮病を使い、信勝を清州城へおびき寄せ、殺害しました。

 


信勝殺害後 8年間の動向が不明なまま

元はと言えば勝家の機転なれど、かつての主君筋を喪い、気分もすぐれなかったでしょう。それからしばらくの間、勝家は表に出てこなくなります。

尾張統一までの国内の合戦や、桶狭間の戦い

美濃攻めといった信長前半生の大舞台に、彼は意外にも参加していないのです。

もしかしたら参加していたのかもしれませんが、記録には出てこない。

永禄八年(1565年)7月頃から文書に名前が出てくるまで、おおよそ8年間の動向は不明です。

信勝の死後、遺児である津田信澄らの養育を任されていたようなので、しばらくはそちらに専念するよう命じられていたのかもしれません。

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信澄からすると、叔父の信長は父の仇であり、勝家は裏切り者です。

将来に禍根を残さないためには、できるだけ小さいうちにシッカリと教育しなければなりません。

勝家が戦のためしょっちゅう留守にすれば、どこの誰が信澄らにあることないこと吹き込むかわかったもんじゃない。

転身した経緯があるとはいえ、信長が何の意図もなく8年間もサボらせるとも考えられませんから、これ以外にも何かしらの理由はあったでしょう。

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