ハムレット:
物事に吉凶なぞない、解釈次第よ。
『ハムレット』第二幕第二場
『三国志』の人物伝を記すとすれば、曹操は紛れもなくトップバッター候補ではあります。
歴史サイトのお約束として、このテーマにすればアクセスが稼げる。その程度のことはわかってはおります。
ただ、個人的に曹操だけは断じて書きたくありませんでした。
理由は、精神衛生上極めてよくない。健康に悪い。混沌の極みに突っ込み、本棚がややこしいことになると想像できたのです。
なぜ、わざわざ曹操のことを書かねばならないのか?
よりにもよって曹操。他でもない、曹操。
ただもう逃げられない。時間切れ。そう悟りました。
理由は、本稿そのものだと前置きしましょう。
注意点をまとめました。以下の注意点を踏まえた上で、お読みください。
・長い。ともかく長い。数日間かかってもよい方のみ、お進みください
・曹操の詩はじめ、翻訳が正確性よりも即興性重視ですので、引用するとあなたが恥を書く可能性があります。元の参考文献なり原文を当たってください
・時代背景や思想的な要素も入るため、脱線傾向があります。各自判断のうえ、飛ばし読みできる箇所はそうなさってください
・性的な記述があります。ご注意ください
・筆者の見解が入っておりますので、安易な引用は危険です、くれぐれもご注意ください。破ることで困るのは私ではなく、あなたになります
それでは本稿を開始します。
【TOP&文中イラスト・小久ヒロ】
気候変動、人口減……曹操の生まれた時代
ジュリエット:
家名が何? 薔薇はどんな名前で呼ばれようと、同じように甘く香るのに
『ロミオとジュリエット』第二幕第二場
さっさと曹操の人生について語れ!
そう書かれることはわかっております。
ただし、彼の生まれた家庭環境、時代、価値観、土地。
そういうことを考慮せねば、どうしても迫れないものがあります。
魏の人物紹介第一弾でもあります。
彼の生きた時代について考えてゆきましょう。
曹操の人生に入る前に、中国の歴史について考えておきたいことがあります。
それは、世界史上屈指の人口減が発生するということです。
Wikipedia「人為的な要因による死者数ランキング」において、中国が占める割合はかなりのものです。
2位 太平天国の乱(19世紀・清)
3位 三国時代の争乱(2-3世紀・後漢から三国)
6位 明末清初の動乱(17世紀・明から清)
7位 回民蜂起(19世紀・清)
8位 安史の乱(8世紀・唐)
11位 国共内戦(20世紀・中華民国)
15位 黄巾の乱(2−3世紀・後漢)
これをもって、
「中国人は残酷で虐殺が好きなんだ!」
とみなす本もあるものですが、そういう単純な話でもありません。そのことは、以下の記事にざっとまとめました。
-

なぜ中国王朝では人類史に残る「大量死」が何度も起きてきたのか?
続きを見る
前述のランキングにおいて、後漢末から三国時代は第3位。
こうなると、曹操はじめ誰が大虐殺をしたんだろう?と思うことでしょう。
曹操自身の戦歴には非合理的な虐殺も確かに存在します。そのことが、彼自身の人生に影を落としています。
ただし、彼一人でここまで激烈な人口減を招いたわけではありません。
戦争にせよ、虐殺にせよ、殺す人数には限界があります。
農作物ができない。食糧難。こうした社会システムの崩壊がなければ、ここまでの大打撃はありえないのです。
始皇帝による秦の統一。
-

始皇帝はいかにして中国を統一したのか|最新研究に基づく生涯50年
続きを見る
前漢崩壊を経て、社会システムが整えられ、人口も増大していった後漢末期。
-

中国最悪のペテン政治家は王莽か?前漢を滅ぼして「新」を建国→即終了
続きを見る
それは社会システムが疲弊し、変革に直面した時代でもありました。
宦官の孫
曹操は、生まれた時から規格外でした。
英雄とは誕生伝説があるものです。
龍の子であるとか、天変地異が祝福するように起こったとか。
曹操はそういう奇跡から生まれたわけではなく、制度上のイレギュラーと言える存在でした。
彼は宦官・曹騰の孫であったのです。
宦官とは、去勢された男性でなければなりません。後宮を司る以上、そこにいる妃と過ちがないように去勢されたとされます。
それはあくまで一員です。
性行為ができないこと。そしてその結果、子孫を残せないこと。
これこそが宦官の宿命であるとされていました。
それなのに、曹騰には子孫がいる。
どういうことだ?
宦官の子孫とは、存在そのものが異常である。
そう見なされてしまうのです。
このことは、曹操自身、意識していた形跡はあります。
曹騰はなぜ、宦官でありながら子孫を残すという例外的措置を取られたのでしょうか。
それは彼自身の功績によるものです。
沛国・曹氏は、曹参の同族とされています。
劉邦につきしたがい、前漢二代目の相国にまでのぼりつめたあの人物です。この姓の重要性は、劉備を考えるうえでも重要となってきます。
ただし、後漢ともなるとごく平凡な農民の家であったようです。
曹騰の父・曹節は、温厚であったと評価されています。
あるとき、彼の隣人が自分の豚を紛失してしまい、曹家に逃げ込んだと思い込み、連れ去ってしまいました。
ところがこれは誤解で、豚はひょっこり戻ってきたのです。
隣人が勘違いだと気付いて曹家に謝りに行くと、曹節は笑顔で許したとか。
エピソードとして平凡ですが、確かに温厚ではあります。
そんな曹節は、子の一人である騰を宦官にしました。字が季興ですから、兄がいたことは確かでしょう。
男子の生まれ順は【伯仲叔季】で呼ばれるもの。『三国志』の男性は字で出生順がわかります。
一例として、孫権(字・仲謀)や司馬懿(字・仲達)は二男です。
いくら男子が複数いたからとて、我が子を去勢するとなれば、相応の覚悟はあったはずです。
そこまで経済的に恵まれていなかったと推察できます。
去勢手術は危険きわまりないものです。時代が下ると幼児の去勢を行う専門家すら存在しました。
乳幼児のうちに睾丸を潰す手法が、最も合理的と言えばそうなのです。
曹騰は、貧しい農家に兄のいる男子として生まれ、幼いうちに去勢をされて、宮中に送り込まれたのでしょう。
-

中国史に必ず登場する「宦官」の実態|特に腐敗が激しい時代は明王朝だった
続きを見る
宦官とは、ある意味去勢で出仕できる枠でもあります。
コネ、人材登用試験、後世では科挙を経過しないで済むわけでして、立身出世の裏口ではあるのです。
しかし、出世できる宦官はほんの一握り。
歴史に名を残した宦官とは、善悪正邪はともかくとして実力があったことは確かです。
曹騰は何代もの皇帝に仕えました。これだけでも彼の知性がわかります。
何もできなければ、せいぜい清掃係あたりで人生を終えていたことでしょう。
第6代・安帝の治世に出仕した曹騰は、鄧太后付きとなりました。
役職はボディガードである【中黄門】でした。そんな役目だけに、これは気力体力のある若手宦官のポスト。実力者の目にとまれば、出世の糸口となります。
とはいえ皇帝の母である太后は、先は短いものであり、ポスト鄧一族を狙う必要がありました。
鄧太妃の死後、この一族は没落します。
安帝が32という享年で崩御すると、少帝懿が擁立されたのです。
しかし、彼は一年も立たないうちに没してしまいます。
ここで宦官・孫程率いる一味が宮中に乱入し、不遇をかこっていた皇族・劉保を順帝として即位させたのです。
いかがでしょうか。
宦官がキングメーカーならぬエンペラーメーカーであった後漢の政治事情が見えてきます。
宦官とは、なかなか自発的に権力を握れないもの。後ろ盾あってのもの。これにのった孫程は【車騎将軍】にまでのぼりつめます。宦官が軍事担当者である将軍になることは、異常事態です。後漢の腐敗があらわれています。
宦官のバックアップあって即位できた皇帝は、彼らの権限を認め始めるのです。
曹騰もこうした流れにうまく乗ったわけです。
順帝のあと、あまりに幼い皇帝が続きます。
9代 沖帝(在位144ー145)
10代 質帝(在位145ー146)
この質帝は、幼いながらも宮中の腐敗を皮肉ったために、外戚・梁冀(りょうき)によって暗殺されてしまったのです。
-

十常侍や梁冀らに食い潰された後漢|なぜ宦官がはびこり政治が腐敗するのか
続きを見る
かくして、帝位が移り変わりました。
11代 桓帝(在位146ー168)
この梁冀と桓帝に、曹騰は取り入ったと思われます。
曹一族は出仕者が増え、順調な出世を遂げているのです。
梁冀は専横を嫌われ、宦官・単超とはかった桓帝によって処断されています。こうした政変の中、曹騰はうまく立ち回っていたのです。
曹操の父・曹嵩がなぜ、そしていつ養子になったのかは、わかりません。
はっきりしていること。
それは曹嵩の子・曹操が永寿元年(155年)に生まれたこと。
曹騰の人脈が広かったこと。
子孫を持てないはずの宦官に、家を保つルートが用意されたこと。
ここまで読んできて、曹騰に好印象を持てましたか?
出世を遂げたとはいえ、幼い帝を暗殺した外戚・梁冀に取り入った人物です。
孫程の政権掌握にも、関与していておかしくはありません。
政治的に活躍した宦官には、どうしても暗い側面がつきまとう宿命があります。
その運命を曹操は産まれながらに背負ってきました。
自分自身の罪ではない。それでも世間からは疎んじられる。
そんな属性の元に、彼は産まれているのです。
曹操の血縁関係者
さて、曹操の背景についてここまで長々と書いてきました。
曹操の人生をたどっていくと、あまりに合理的である考え方が見えてきます。
劉備にせよ、孫権にせよ、彼らの義兄弟や土地にある義理人情の世界を、彼は重要視していないように思えるのです。
これを彼の性質と言い切ることは、なかなかできません。
あとで触れますが、それに曹操にだって身を切られるほど辛い、心理的な打撃はあります。
曹操だって人間です。血もあれば涙もある。それはそうなのです。
ただ、背景的にそこが薄いとみなされる要素もあるのです。
それが血縁関係です。
曹操の父・曹嵩が養子となる前の家系は特定しにくいのです。ただ、傍証はあります。
・夏侯氏:夏侯惇、夏侯淵はじめ多数
・丁氏:曹操の丁夫人、丁沖(丁儀の父、曹丕によって滅せられる)
彼らは、血縁関係者が重用されております。
一族がらみでつきあいがあったと思われるのです。姻戚関係も確認できます。
ただ、血縁関係者だけでは政権は運営できません。
曹操は意識的に、宦官一族の御曹司ではない、もっと影響力のある人物になろうと奮闘していたと伝わってきます。
見出された【治世の能臣、乱世の姦雄】
ヘンリー王子:
お前らが何を言っているかくらい、わかっちゃいる
そのうえで、お前らの悪ふざけにつきあってるだけなんだ
俺は太陽の真似をしている
黒雲に覆われて、地上からは見えなくなるかもしれんが
一度光を取り戻せば
民は驚き喜び、その輝きを仰ぎ見るんだ
それまで覆っていた黒雲なんて、
あっという間に吹き飛ばせる
『ヘンリー四世 第一部』第一幕第二場
曹操は、若い頃あまりにチャラい奴(=軽佻浮薄)だと噂になっていたとか。
呉で編纂され、誇張があるとされる『曹瞞伝(意訳:曹嘘つきちゃん伝)』。そこには、若き日の姿が記されています。
ニックネームは【阿瞞(意訳:嘘つき小僧)】。
騙すことを認識して、嘘をついていたのか?
そのつもりはないのに、考えがコロコロと変わるため、相手からすると嘘に思えるのか?
豊かすぎる想像力で、無茶苦茶なことを口走っていたのか?
意地っ張りですぐばれる強がりを言ってしまうのか?
疑い深くて、冗談が好きで、試すようなことを口走るのか?
曹操は、ある意味ずっと【阿瞞】であったのではないかと、思える言動が残されています。
悪意ではなく彼の本質が、この名にこめられているのかもしれません。
少年期の曹操はひねくれていました。
チャラチャラしていて、威厳ゼロ。
音楽大好き。ミュージシャンをはべらせては、日がな一日聞いている。
くつろぎたいときは、体にフィット感のある絹製の服を身につけている。そこに、ハンカチや小物を入れるレザーポーチ持参。頭にはきっちりした頭巾や冠ではなくて、ラフな帽子を乗せるだけ。
人と話す時は、ともかく威厳がないわ。落ち着きもない。
いちいち揚げ足取りをするような調子で、からかい半分。真面目にやる気なし。
宴会だと笑い転げて、食器に頭を突っ込んでベタベタにするほど。
マナー? 知らね。
お行儀が悪いんですね〜。何か問題があるのかな?
そう突っ込みたくなりますし、リアリティがあるっちゃそう。こういう奴、あなたの周囲にもいませんか?
ファッションは何が問題か、ということですが。
ぴったりした衣服は、漢民族らしからぬものという美意識があります。
頭も適当な帽子って、ありえないし!
そうなるのです。
清少納言の父・清原元輔は落馬の際に冠が落ちて、頭が露出して笑い者になったことがあります。
-

清少納言は史実でも陽キャだった?結婚歴や枕草子に注目
続きを見る
彼は禿げていたため、現代人からすると「毛のない頭が恥ずかしかったんだね」となりそうですが。
そうではないのです。儒教文化圏ではこういう価値観があります。
何もつけない頭を晒すこと=現代人にとってのパンツか、その中身が見えた状態
清少納言の父にせよ、若き日の曹操にせよ、頭のガードが弱いということは、そういう意味でも大問題なのです。
曹操の若き日のファッションセンスを現代風に解釈しますと……。
・威厳より楽であったほうがいいだろ。まじめに制服なんて着てられねえし
・わざと見せつける下着がおしゃれなんだよ
・汚れても気にしないし。楽しければいいじゃん
ここでちょっと理想的な姿を想像してみましょうか。
・ゆったりとしている
・派手すぎない。絹? そんな高級品はいけません!
要するに、諸葛亮の服装だと思ってください。
史実として、彼がどういう服装かであったかどうかはさておき。あの服装は、あるべき理想です。
『曹瞞伝』が描く曹操は、その逆です。
意識的に、規範をはみ出していたのかもしれません。
呉の強調があるとはいえ、少年曹操はチャラかったんです!
こういう悪意ある逸話は捏造説もあります。ゴシップネタではあるのです。
『世説新語』といった書物も、曹操のネタ言動が掲載されております。こうした記述を、全否定できるかというと、そう単純なことでもありません。
・そういう噂が流れる何らかの要素はあった
・あいつならばやりかねん……と思われていた
・他の逸話や本人の言動との整合性
・経過年代
『三国志演義』ともなると、時間経過の影響もあります。
ただ、『曹瞞伝』や『世説新語』は、生前の曹操を知っていた人物がソースという可能性は否定できません。情報として、なかなか生々しいのです。
曹操の魏は、全土を統一まで時間がかかったうえに、統治が短期間です。
三国時代の人物は、周辺情報のクリーンアップができなかったこと。
ライバルの貶めるゴシップも残ったこと。
フィクションでの追加要素が多い。
この点は、注意が必要ではあります。
本稿では、信憑性が低い、整合性があわない、人格形成に関係があまりないと判断した逸話は、極力取り上げないようにしています。
それでも、複数のソースや本人の言動と一致する点があれば、全否定もできません。
若き日の曹操やんちゃ伝がそれに該当します。
なんだか曹操の青春時代は、楽しそうに思えます。
正史の記述からすると、恵まれたおぼっちゃまのようには思えますよね。
・運動能力抜群! 剣術は強いし、馬術もできるぞ
・賢い。芸術的センスもある。書道も達者
・酒、キャバクラ通いその他、不良行為をエンジョイしていたようだ
ただ、そう単純でもないのです。
本人には何らか劣等感があったと、複数の逸話が残されているのです。
誰が見ても惚れ惚れとする、例えば周瑜のような、そういう長身イケメンではなかったのだと。
『世説新語』成立期から、容姿へのコンプレックスが逸話として広められているのです。
中国では、フィクションで容貌コンプレックスが強調されてゆきます。
※京劇はいかにして陰険であるか、強調されています
それを差し引いても、出自と外見には劣等感があったと推察できるのです。
その顔が、科学技術を用いて復元されましたが。
なんだかんだと言われていますが、曹操本人がそこには生前意見をビシッと出しています。
「は? 顔グラだの絵師だのカードの図柄でなくて、パラメータで判断しろよ」
そういう趣旨のことを、当時の言葉で断言していますので、顔はどうでもいいということを頭の隅にでも入れておきましょうか。
さて、そんなわけでいろいろ面倒くさい若き曹操。
反抗心はバリバリ。才能もある! そんな少年も、大人になると、身の処し方を考えるようになるのです。
やんちゃをエンジョイするだけの人生じゃつまんねえな。
何かビッグなことをやりてえし……そう思ったのでしょう。
そんな中、ただでは済まないことまでやらかしています。
大物宦官・張譲邸宅に侵入し、暗殺を狙ったのです。
さすが孟徳さん!
おれたちにできない事を平然とやってのけるッ!
そこにシビれる! あこがれるゥ!
ここまでやらかせたのも、大物宦官の孫という出自もあったのでしょう。
こんなことをしたらただは済まされませんが、家名が彼の犯罪を庇うのです。
この劣等感を逆手に取る思考回路は、曹操のセオリーでもあります。
曹操は、宦官の孫であることを気にしていたとは、よく考察されるところではあります。
ただ、逆手に取ってウェーイしている言動もあるとは思えるのです。
この、俺はありのままに生きてやる感よ。
それにこれは【義挙】でもある。
-

始皇帝はいかにして中国を統一したのか|最新研究に基づく生涯50年
続きを見る
中国はじめ東アジアでは、絶大な権力者に暴力で対抗することは【義挙】として賞賛されました。
そういうデカくてカッコいいことを、曹操は若い頃から成し遂げたかったのです。
ただ、暴れてばかりじゃいられない。
そんな曹操少年は、もっとビッグなことを夢見るようになります。
建寧5年(172年)、曹操18歳。
青春をエンジョイどころか、いろいろ考えながら世の中を見るしかない。そんな時代でした。
時は霊帝の御代。曹操はそれなりに遊び呆けておりましたが、洛陽で彼を見る目は冷たかったと思われます。
それは彼の素行が悪いというよりも、出自のせいです。
当時、後漢では【党錮の禁】の嵐が吹き荒れていました。
【濁流派】宦官
vs
【清流派】それ以外の士大夫・党人
宦官か、そうでない官僚か。
宦官に反発する士大夫が、宦官によって弾圧される恐怖政治が吹き荒れていたのです。
そんな世の中で、宦官の孫であるものの、本人は宦官でない曹操とは、どちらにも所属できないはみ出し者でした。
そんな曹操を、ある人物が見出します。
「いろいろな名士を見てきたけれども、きみみたいな人は初めてだ。自分を大切にしなさい。きみは将来、大出世して大物になる。私の妻子のことを任せたいほどだ」
この出会いが、曹操の人生を変えることとなるのです。
彼を見出した人物とは橋玄(109ー183)です。
宦官に立ち向かいながら、三公を歴任された名高い士大夫でした。
毅然とした態度でも名高いものがあります。
あるとき、橋玄の家に盗賊が乱入し10歳の末っ子が人質に取られました。
官吏は人質を恐れ手出しできないものの、橋玄はこう言い切ったのです。
「我が子の命を惜しんでなるものか。それよりも賊を捕らえろ!」
人質ごと殺せ。
そう宣言し、処断したのです。
この事件をきっかけに、人質事件は激減しました。
テロリストとは交渉無用。現在に至るまで通じる理屈がそこにはあります。
そんな断固たる人柄を、曹操は敬愛したのです。
曹操の感謝の言葉には、やんちゃをやらかしてばかりだった不良少年が、優しい大人に受け入れてもらった。そんなストレートな気持ちがあって、なかなかグッとくるものがあります。
「橋公には、感謝しかない。自邸の奥まで招いていただき、あんなにひねくれていたクソガキを受け入れてもらって……私が世間で認められるようになったのは、彼のおかげだ。そんな橋公はおっしゃっていた。私の墓を通りかかった時、好物の酒と肉を供えずにスルーしたら、腹が痛くなるかもしれんぞ、って」
曹操は、自分を最初に見出した橋玄に感謝を捧げていました。
彼の墓の前を通りかかると、生前のジョークを思い出しつつ、丁寧に酒と食物の供えることを、欠かさなかったそうです。
こうした言葉からは、傷ついていて、悩んでいて、自分に自信がなくて。ひねくれた。そんな自分を受け入れてもらえて、うれしかった。
そんな曹操の姿も見えてきます。
橋玄については、いろいろとこのあと面倒な話が出てきます。それについては後述します。
橋玄は、人物評価に長けた許劭(150ー195)を曹操に紹介します。
ここからがちょっとややこしいのですが、彼らの評価と解釈です。
「平時ならば、きみは名官僚になる(=【治世の能臣】)」
「将来、世が乱れた時。きみのような【乱世の英雄】こそ、役に立つだろう。けれども、一歩間違えると【乱世の姦賊】になってしまいかねない。気をつけなさい」
これを聞いて、曹操は喜んだとされ、それこそ悪党の証だとされがちなものですが。
フィクションですと、曹操の心情推察はこんなところです。
「ヒャッハー、世が乱れたら英雄になるんだ、乱れてしまえ〜!」
と、そう単純なことでもないのです。
・彼らは清流派でもあり、宦官の孫である曹操によい感情があるとは言い切れない
・彼らに評価してもらえることそのものが、曹操にとってはありがたいことでもある
・【警告のニュアンス=事実】でもない。【乱世の姦賊】は可能性を示されているわけであり、そうなると断定しているわけでもない
・才能と道徳心は別物である
曹操からすれば、目利きのできる実力者が、警告のニュアンスをこめつつ、才能を評価してもらったことになるのです。
それで喜んだくらいで、悪人認定されても意味がわかりません。
曹操を評価した清流派として、何顒(かぎょう)もおります。
彼は気骨ある人物です。宦官に反抗し潜伏。その経歴から地下に清流派人士ネットワークを形成し、その人脈を通して逃亡や手助けを助けてきたのです。
そんな何顒も曹操を見て、関心しました。
「漢王朝はもはや滅びる。天下を安定させるとしたら、彼だろう」
この何顒は、荀彧を【王佐の才】として評価しています。
何顒が天下を安定させると評価した曹操。
そして【王佐の才】と評価した荀彧。
清流派のネットワークは、のちにこの二人を結びつけたのです。
鬼署長から熱血上奏文投稿官僚へ
清流派士大夫から評価を受けた数年後。曹操は官僚生活をスタートさせます。
熹平3年(174年)。
20歳になった曹操は当時の官僚登用制度【孝廉】(=親孝行で清廉である人物推薦制度)に推挙されます。
官僚としての人生をスタートさせたのです。
名目的には人格的に優れた人物を推薦する制度とはいえ、実際にはコネ重視。
20歳で推薦されることは早く、それだけ曹家に実力があったということでもあります。
曹操は甘いボンボンじゃない。
コネ採用で、ぬくぬくとしてはいられない。
まだまだ知名度も不十分。ただの取り柄のない奴だと思われたくもない。
地方官吏として善政を行い、よい政治家として名をあげたい。そう思っていました。
そんな曹操は、洛陽の北部尉(警察署長)になります。
敬愛する橋玄というロールモデルを参考にして、この若き官僚は派手なポリスストーリーを展開します。
「十数本の五色棒(=処刑用)を並べろ! 違反者はこれで撲殺するぞ!」
孟徳さん、鬼署長ですね。
これはポーズではなく、大物宦官・蹇碩の叔父が夜間外出禁止令を破った際、容赦なく撲殺しました。
※『ポリス・ストーリー/香港国際警察』の原題は『警察故事』だぞ!
宦官や汚職官僚があいつをなんとか左遷してくれと訴えるものの、バックには曹騰がいます。
出自がプラスに出ました。
この北部尉選考に関わった一人に、司馬防(149ー219)がいます。
のちに、魏王となった曹操は、酒を飲みながら彼にこう語りかけました。
「今の私を、また北部尉に推挙するか?」
「あのときは、まぁ、たまたま適切だと思っただけです」
「うまいこと言うねえ、いいね!」
曹操はこの答えに受けて大笑いしたそうで。
ちなみに司馬防の息子八人は優秀で、字から【八達】と呼ばれました。その二男が司馬懿、字・仲達です。
さて、こんな鬼署長は汚職官僚にとっては邪魔なのです。
左遷ではなく栄転で、首都から遠ざける他ありません。23歳の時、頓丘に赴任させられたのでした。
その翌光和元年(178年)、霊帝の宋皇后が謀反の罪で処刑され、一族も巻き込まれました。
曹操従妹の夫・宋奇も、処刑された一人です。
連座した曹操は罷免されていまいます。
光和3年(180年)、その文書に通じた知性をかわれ、【議郎】に任命され復帰しました。
このときの曹操は、持ち前の文才、観察眼、知性、容赦ない厳しさを発揮して、ビシバシ上奏文を書いて書いて書いて書いて、提出しまくります。
内容は、ストレートなものです。
「外戚と宦官は諸悪の根源です! もっと民の安寧を考えた政治を!」
「弾圧された清流派士大夫に返り咲きのチャンスを!」
「漢に善政を取り戻すのです!」
曹操の考え方は、実はそこまで複雑でもありません。
終始一貫して、清流派人士の用語と復権を訴えているのです。
ここも曹操のおもしろいところですが、もしこれが清流派ならば、疎ましがられて処罰されそうなものです。
しかし、そうはならないと。宦官の孫なので、そうならないのです。
出自を生かして、清流派をかばったという解釈もできなくありませんよね。
ただし、上奏文が採用されることもない。スルーされ続けます。
これも曹操の性格が垣間見えるのですが、意見がスルーされ続けると精神的にダメージがあるようなのです。
誰でもそうかもしれませんが、自分に自信があればこそ、辛いのでしょう。
その逆が認められること。だからこそ橋玄にあんなに感謝しているのでしょう。
前述した司馬防とのやりとりも、
「ナイスなレスポンスだな、いいね!」
という心理を感じます。
曹操は、ナイスレスポンスをした相手には割と寛大なのです。
あと、相手の答えが面白いと大受けし、ゲラゲラと笑います。陰険でもなく、生真面目でもなく、ノリはいいのです。
レスをスルーされる。話が通じない。
そうなると、曹操は過激でろくでもない行動に及ぶ傾向を感じます……SNSならブロックよりミュートが効くタイプとみた。
そんな曹操は、上層文をスルーされ続けて、精神的にふてくされました。
【治世の能臣】ルートが閉ざされたのです。
こうなると、【乱世の姦雄】ルートが待たれるところ。
そのルートが、彼自身の望みとは関係なく、近づきつつあったのです。
【黄巾の乱】そして董卓……乱世到来
ヘンリー王:
治世では寡黙と謙譲こそが
士大夫らしき言動とされる
されど乱世を告げる風の咆哮が耳に届いたとなれば
猛虎の如き言動をすべき時なのだ
『ヘンリー五世』第三幕第一場
中平元年(184年)、【黄巾の乱】勃発――。
『三国志』ファンならおなじみの、黄色い頭巾を巻いたものによる反乱です。
この反乱を、宗教反乱とみなしてしまうと、ちょっと誤解があるものです。
日本史の【島原の乱】でも同様の問題があります。
こうした民衆反乱は、
・宗教由来であるものか?
・悪政への反発なのか?
ここで、解釈が分かれます。
結論から言いますと、
・どちらの要素もある
ということになります。厳密に分ける必要は、必ずしもありません。
反乱を率いた張角には、たしかに宗教指導者としての一面もありました。
祈願による病気治療は、まさしくその一端を示しています。
これもややこしいところで、医学が未発達である時代には、祈祷による病気治療はごく一般的な手段でした。現代人が思うほどに、非科学的で異常なことでもありません。
もうひとつ「世直し」思想もそこにはあるのです。
【蒼天已に死す、黄天まさに立つべし】(蒼天はもう死んでいる、黄天こそ立つべきだ)
この乱はこう唱えました。
中国には五行説があります。
その相生説によれば、
【木(蒼・青・緑)→火(紅・赤)→土(黄)→金(白)→水(玄・黒)→木(蒼・青・緑)……】
となります。
漢は火(紅・赤)、そのあとは土(黄)の世が訪れるという発想になります。
そのため、彼らは黄色い頭巾をトレードマークとしたのです。
中国史においては、シンボルカラーやマークつきの反乱があります(【赤眉の乱】、【紅巾の乱】)。その思想を見逃すわけにはいきません。
このあたりで、気になるところが出てきます。
【黄天】に替わられる【蒼天】とは何か?
実はこれが諸説あり、確定していません。そこをふまえて、考えてみましょう。
黄をシンボルとするもの。それはもうひとつあります。
【黄老思想】です。
黄帝を始祖とし、老子が思想を大成したことから、こう呼ばれています。
王朝交代ではなく、思想の交代であるとすれば?
漢王朝とは、儒教思想を根本に置いた国家でした。
その儒教はもう古びた、儒教による支配体制ではもはや成立しないーーそういう解釈もできます。
儒教は道徳思想の面が強調されてはいます。
ただし実際のところ、宗教と道徳思想とは切り離せるものでもありません。
儒教がさだめた宇宙の最高神とは昊天上帝(こうてんじょうてい)です。
経典『詩教』「黍離」において、この昊天上帝は【蒼天】と同一視されています。青い空を司る最高神というわけです。
そんな儒教の世はもはや死んだ!
黄老思想の世よ、到来せよ!
そんな解釈もできる、それが【黄巾の乱】です。
いかがでしょうか。この反乱にも、宗教と政治改革両面が備わっているのです。
そしてこのことは、曹操の人生と思想にも大きく関わっています。
儒教思想確立後の中国において、儒教に逆らうことはどういうことか?
そのことを、頭の隅にでも留めておきましょう。
さて、話を曹操に戻しましょう。
『孫子』マスターで、知勇兼備。さぞや活躍を期待されたはずです。
かくして皇帝の侍従武官・騎都尉に取り立てられ、潁川の賊鎮圧に活躍したのでした。
このとき、劉備にせよ孫堅にせよ、反乱討伐に参加しています。
ただし、立ち位置は違うのです。
曹操は正規軍、他はイキのいい仲間を集めた義勇軍となります。
曹操は論功行賞によって、済南国の相(長官)に抜擢されました。やるじゃないですか。
そこで、お得意の過激政治を展開します。
・贈収賄を行う汚職県令の八割(!)を罷免
・景王劉章を祀る祠を片っ端から破壊する
曹操としては、これぞ【知世の能臣】だと堂々としたいほどの成果でしょう。
橋公、俺はやりました!
そんな高揚感もあったはず。しかし、やりすぎました。
「曹操は厳しすぎます!」
腐敗した漢王朝官僚からすると、やりすぎなのです。
八割となると組織崩壊にもつながりかねませんから、確かにやりすぎです。中央にツテがある県令から、クレームがどしどし届けられます。
過激統治が裏目に出た曹操は、このままだと家族にまで迷惑が及ぶと悟ったのでした。
辞職し、反乱以前の議郎に戻されたのです。
しかし、このポストもずっといられるものではなく、東郡の太守(長官)に任命されるのです。
曹操はこの任命そのものを病気だとして辞退しました。
【黄巾の乱】という非常事態を打開するために、一時期立て直しをはかったに過ぎない改革。
そんなもののために力を尽くしても無駄。無駄だから嫌いなんだ無駄無駄。そんな心境でしょうか。
10年や20年待って、ブレイクはましな世の中になってからでもいい。
そう考え、実家・譙に戻ったのです。
かくして早々は、実家郊外に書斎を立てると、冬から春は狩猟、夏から秋は読書をするという、悠々自適隠遁ひきこもりライフに入るのでした。
退屈しないものがあれば、こういうふてくされライフをエンジョイできる性格なのかもしれません。
しかし、それどころではなかったのでした。
外戚と宦官対消滅、そして漢王朝の断末魔
中平3年(186年)、辺章と韓遂が反乱を起こしました。
曹操はまたも漢王朝に都尉として採用されます。
中平5年(188年)となると、袁紹らとともに洛陽警備を担当する【西園八校尉】に赴任するのでした。
曹操は、霊帝から剣を賜り、高揚感と義務感にやる気を出したと回想しております。
中平6年(189年)、霊帝崩御、少帝即位ーー霊帝は暗愚と評価されてはおりますが、留意点もありまして。
・外戚と宦官に縛られていて、皇帝本人の器量だけではもはやどうしようもない
・【君側の奸】(=家臣をそそのかす家臣)さえ除けばよいという感想は、当時から見られている
君主の器量よりも、制度の疲弊が深刻であるもの。
後漢もその典型でした。
-

十常侍や梁冀らに食い潰された後漢|なぜ宦官がはびこり政治が腐敗するのか
続きを見る
ともあれ、皇帝の崩御ともなれば政変が起こります。
今回も、お決まりの構図でした。
【外戚】何后(霊帝の妃、少帝の母)の兄・何進
vs
【宦官】何后
兄妹であっても、意見が一致するわけでもありません。
何后は宦官なしではいられないと兄に反発するのです。
このあたりも、宦官に頼る心理状態を考えていたほうがよいかと思います。
後宮で暮らし続けると、もはや宦官なしでは何もできない、マインドコントロール状態に陥るのです。
-

中国史に必ず登場する「宦官」の実態|特に腐敗が激しい時代は明王朝だった
続きを見る
業を煮やした何進は、腹心となっていた袁紹(154ー202)に宦官抹殺計画を立てます。
各地から董卓ら将軍を呼び寄せ、何后に威圧を与えるというものです。
これを聞いた曹操は、あまりのバカバカしさに呆れかえりました。
「宦官はいつでもいる必要悪だろうが。宦官を処罰するのであれば、諸悪の根源を処刑すればいい。処刑人だけで事足りる。それなのに、脅すためだけに将軍を呼ぶって? おまけに宦官皆殺しなんて、そんなもん計画がバレるだろ。絶対ろくでもない結果になるぞ」
室内の虫を退治しようとして火を振り回し、部屋ごと爆破炎上させるような計画。
リアリスト曹操からすれば、意味不明の極みといえる計画でした。
ただ、これが彼の辛いところ。
お前がぬるいことを言うのは、宦官の孫だからだろ!
そう偏見から邪推されかねない状況ではあります。
曹操はこうした計画から排除されていました。
曹操の読みは当たります。
何進は異変を察知した宦官に誘い込まれ、あっさり殺害されてしまったのです。
この杜撰な計画に乗っかっていたは袁紹は、素早い復讐を行います。宮中に乱入し、手当たり次第宦官を殺害したのです。
ヒゲがないために、誤って殺害された者までおりました。その犠牲者は、2千人を超えたとされています。
かろうじて逃れた十常侍も、殺害や自害を遂げ、全滅してしまうのでした。
かくして、外戚と宦官が対消滅する無茶苦茶な状況が発生します。めでたしめでたし♪とはなりません。
それも当然のこと。
曹操の言葉通り、宦官は王朝に必要なシステムでした。ここまでやると、機能が壊滅してしまうのです。
ここで董卓が、洛陽に乗り込んできます。
途中で脱出していた少帝と陳留王を従えての入城でした。
少帝を廃し、陳留王を献帝として即位させ、新秩序を打ち出したので何后は毒殺されてしまいます。
さて、曹操ですが。この状況では、もはやどうしようもありません。
様子を見るしかありませんが、朝廷から【驍騎将軍】に任命されています。
洛陽を脱出し、途中で殺されそうになったり、拘束されて知人の知り合いで逃れたり、サバイバルライフを送る羽目になります。
ここで、あの事件について弁護したいと思います。
フィクションについて触れるときりがありませんが、ここは曹操の弁護をしなければなりません。
【呂伯奢一家殺人事件】です。
呂伯奢という人物の家に立ち寄った際、曹操は自分を殺す算段を察知し、逆襲して逃げ切ります。
これがどういうわけか『三国志演義』はじめフィクションでは、曹操がおもてなしをしている呂伯奢一家を誤解して殺害した流れになっているのです。
「俺が世界に背くのはいいけど、世界の誰かが俺に背くのは許さないんだよ、バーカ!」
という決め台詞があります。
それはそれでクール。
ただし、あくまで史実では正当防衛です。誤解なきよう。
ともあれ陳留郡にまで戻った曹操は、董卓を倒すべく挙兵することになるのです。
反董卓連合軍結成! そして瓦解
初平元年(190年)正月――曹操は檄を飛ばします。
「董卓討つべし!」
反董卓連合の結成です。
ただ、曹操がリーダーとは言い切れません。
前年冬より、曹操は故郷周辺で兵士を集めてはおりました。
気の合う仲間と統合し、家財道具を処理して、5千ほどの兵を準備したのです。
ただ、この動きも袁紹の方が規模が大きいのです。
優柔不断なお坊っちゃま扱いをされる袁紹ですが、そう話は単純でもありません。
幼少期には生母の身分が低く、軽んじされた苦労も経験しております。
『世説新語』のような逸話集では、若い頃に曹操と悪さをして、いつも出し抜かれていた話もあります。本当にそういう悪ガキ仲間であったか、疑念は残るところです。何進の復讐のために宦官を抹殺したように、機敏な動きをすることもあるのです。
反董卓連合にせよ、将兵を集める上では、曹操よりもスピード感があったのです。
これは本人の器量だけの問題でもありません。
曹操:宦官の孫、どうしても不利な一族出身。若い頃はやんちゃをし過ぎていた。ふてくされて引きこもる時期もあったわけで、人脈の面で劣る
袁紹:四代連続「三公(司徒・司空・大尉)」を輩出した、エリート中のエリート。何進腹心としての実績もある。生真面目で勉強熱心だった
反董卓連合結成!
さぞやあの曹操は、エースだろうと思うところではあります。ただ、これは後世の活躍度からの逆算です。
スタート時、盟主はあくまで袁紹、曹操はその下についてるのです。
この挙兵を警戒し、董卓はとんでもない行動を取ります。
洛陽から長安へ遷都を強行したのです。
董卓は、禍々しい存在として認識されており、何の考えもなく悪政を敷いたように思えます。これについては注意も必要です。
彼は漢民族ではなく、羌族の影響が濃いとされています。
騎射に優れ、羌族とも親しかったのです。それゆえ、野蛮な異民族というニュアンスがつきまといます。
悪名を残して死んでしまったからには、対立勢力の誇張もあります。フィクションでそれが増加していくわけでして。
道理もわからぬ野蛮な所業ばかりとされるわけですが、そうでもありません。
蔡邕(さいよう・132か133ー192年・蔡琰の父)をブレーンとして登用しております。
政治改革を行おうにも、混沌とした状況下で実現できなかった、そういう一面も考えねばなりません。
遷都も、軍事的な作戦を考えれば合理性があると考えられます。無謀な思いつきでもないのです。
長安の方が、董卓軍の率いる西部の兵士補給に適しているのです。
長安遷都は、作戦として有効でした。
燃え尽きた洛陽を前にして、反董卓連合のやる気も燃え尽きたかのようです。放棄された洛陽はじめとする関東を、いかにして統治するのか。そういう厭戦気分すら蔓延していました。
曹操だけが、ハイテンションで洛陽を攻めろと主張します。
酸棗から出立し、自分だけでも董卓軍を討つと張り切るわけですが惨敗します。
徐栄と激突し、大敗を喫したのです。
将兵ともに失い、曹操自身まで流れ矢が命中し、馬まで倒れました。
ここで従弟の曹洪が馬を譲ったため、夜陰にまぎれて命からがら逃げ延びたのです。
徐栄も曹操のやたらと高い士気を警戒し、ひとまず深追いはしませんでした。
ここから先が、困ったことになります。ボ
ロボロになって連合軍まで引き返した曹操が見たのは宴会でした。
曹操はなんとか激怒をこらえ、必死で作戦を出します。
「董卓を関中に封じ込めろ。持久戦に持ち込み、ゲリラも使い、敵後方を撹乱させて補給を断つ。優位を見せつければ、世論は我々の味方となるはず。そうすれば勝てる! 正義のために挙兵しながら、互いに牽制しあっているとは。どうしてこんなに無様なんだ、まじめにやれ! 恥を知れ!!」
このときの曹操は、まっすぐな青年でした。
彼の望みはたったひとつ、シンプルなことでした。
「俺の望みは【漢・故征西将軍曹公の墓】と墓碑銘に刻まれることだけだ……」
それだけだったのです。本気です。カッコつけているだけじゃないんだぞ!
ただ、そんなやる気が周囲には通じません。辛い。
漢王朝は瓦解して、それを取り戻したいところまではわかった。
そのあとのビジョンがどうにもありません。
一人で戦い、叱咤激励する曹操。爽快感がある姿ではありますし、『三国志』「武帝紀」でも筆を割かれており、彼自身俺はやったという満足感はあるのでしょう。
ただ、これも曹操お得意の、空回り気味のところは否めません。
曹操は、この時代の人物でも資料が比較的多く残されており、性格の傾向が伺えます。
頭蓋骨も発掘されますので、健康状態も把握できるのです。
そのあたりから、私が感じた彼の短所を推察してみましょう。
・スタンドプレー好き、仕切り屋
・忠告や警告をするにせよ、言い回しがきつい、一言多い、ジョークのセンスが悪趣味
・機嫌次第で露骨な塩対応をする
・自分の意見をごり押しし過ぎている。本人には確信があっても、周囲からすればうまくいく確証もない
・皆の不安感を和らげる心理的な歩み寄りが、あまり感じられない
・やりすぎ。過激な行動の結果がどうなるか、考慮しきれていない傾向がある
ちょっとここで、袁紹のことを考えてみましょうか。
名族のお坊ちゃまで、決断力に欠けていて、無能とすらされがち。
しかし当時人望はあり、実際に多くの士大夫や将兵が集まっているのです。ただの優柔不断な人物であれば、そうはならないのではないでしょうか。
曹操ができないこと。
空気を和ませつつ、皆の意見を取り入れてまとめる。そういう人徳があったことが、想像できませんか。
そして、ライバルたる曹操にはそのあたりが欠落していたのでしょう。
理由はお察しください。
曹操は、彼自身の書き残した文章や記録からすると、ニヒルでもクールでもない性格が伝わってきます。
フィクションだと、悪役にするにせよ、カッコいいヒーローにするにせよ、基本的には割と落ち着いているものですが。
実際の曹操は、躁鬱傾向、言わないでもいいことを口にするところ。おもしろいと笑い転げるところ。そういう情緒不安定なところがあるように思えます。
意見を却下され続けると、精神状態が露骨に悪化するようです。
かくしてストレスが溜まり続けた曹操は、夏侯惇ともども酸棗を脱出し、揚州に募兵ツアーを行います。
2千人募兵したものの、反乱を起こし曹操を殺そうとした挙句、手元に残ったのは5百人でした。曹操はそれでも一応のミッションを終えて、袁紹の元へ戻ります。
そのあと待っていたのが、ストレスがますます溜まる状況でした。
董卓から派遣された使者を連合軍が殺害するわ(※重いルール違反です)。
連合軍の同盟がますます緩くなるわ。
袁紹は、連合軍の要として新皇帝擁立を画策します。
大司馬・幽州牧(長官)の劉虞でした。彼は先祖を遡れば、光武帝にまできっちり辿れます。
この計画に、袁術は何を考えているのかと反発します。
曹操も反対し、こう言い切りました。
「お前らはその新皇帝に忠誠を誓えば? 俺は西にいる本物の皇帝に尽くすからさ」
この計画は、劉虞本人の辞退で終了となります。
袁術と袁紹は分裂。袁術は江東の孫堅らを呈して依拠するのです。
袁紹は、北部の冀州を依拠することに。曹操は、袁紹側につくことになります。
ここまでが、初平2年(191年)までのざっくりとした状況であるとご理解ください。
さて、無茶苦茶となった董卓討伐ですが。
あっけない終わりを迎えることとなります。
打ち切りのような展開、それが初平3年(192年)呂布による董卓暗殺です。
あれだけ大暴れして、連合軍が手出しできなかった董卓。それがそういう終わり方でいいのだろうか。
これは、作家や読者や観客が、ずっと思ってきたことでして。
絶世の美女・貂蝉を投入した暗殺劇が展開されるわけです。
その根底には、呂布が董卓配下の女性と密通しており、発覚を恐れていたという史実がありました。
ここで、ちょっと曹操の擁護をさせていただきましょう。
曹操ばかりが非常識で、隙さえあれば人妻と関係しようとしただの何だの言われておりますが。
これは彼一人だけの話でもありません。
講談や京劇といったフィクションでは、貂蝉が関羽の妻となる展開がありました。
これはただのおもしろ捏造ではなく、関羽が呂布部下の人妻に執着し、欲しがっていたという、ソースがあるのです。
そのあたりは別の機会に掘り下げるとして、ひとまず貂蝉のことはこちらでご確認ください。
-

中国四大美人の伝説と史実|西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃 それぞれの美
続きを見る
さて、こうして空中分解してしまった反董卓連合。その顛末を見届けて、曹操がストレスの極みにあったことは想像できます。
彼の目が見た地獄絵図は、『蒿里行』(こうりこう)として詠まれることとなります。
我が子房・荀彧と青州兵を得る
ヘンリー王:
かつては、お前を兄弟として愛していたぞ、ジョン
だが今は、我が魂として尊敬している
『ヘンリー四世 第一部』第五幕第四場
さて、董卓が世を去る前年。
冀州を支配した袁紹の元で、ある一人の人物が不満を募らせていました。
荀彧(163ー212)です。
清流派名家に誕生し、潁川士大夫グループでも若きホープであった荀彧。
兵乱を避けて冀州で民を救うべく活動していたわけです。
袁紹としましては、ぜひとも厚遇したい人材です。荀彧の実弟・荀諶はじめ、多くの清流派人材が身を寄せていました。
しかし荀彧は彼を見限り、曹操の元へ馳せ参じたのです。
ポスト袁紹を探した荀彧は、曹操だと狙いを定めたのです。
ここで思い出していただきたいのが、何顒の評価です。
彼は両者を高く評価していました。こうした評価も関係しているのでしょう。
そんな荀彧を得て、曹操は大喜びをするのです。
「きみこそ我が子房(劉邦の右腕軍師である張良の字)だ!」
荀彧本人の能力もさることながら、彼には人脈がありました。
曹操政権に馳せ参じた荀攸、郭嘉、司馬懿、鍾繇らは、彼の推薦あってのものです。
荀彧だけではなく、程昱(141ー220)の参加もこの時期です。
ただ、程昱は荀彧のような理想主義者というよりも、容赦ないリアリストとしての側面を感じさせます。この性格の差が、運命としてのちに発揮されるのです。
曹操も、実は袁紹の元にいることが耐え難かった。
そういう状況です。
曹操は賊討伐の許可を得て、各地を戦い抜きます。
・黒山賊
・公孫瓚に敗れ、兗州を目指す黄巾賊
兗州刺史・劉岱が敗死してしまい、チャンスが到来します。
この開いたポストを曹操が得れば躍進につながるのです。朝廷が混乱している中、辞令を待たずに名乗ることができる乱世でもあります。
【乱世の姦雄】とはなかなかおもしろい言葉ではありますが、乱世はそもそも正攻法では生き残れないのです。
そのちょっとトリッキーなルートが、曹操にとって虎の子となる【青州兵】獲得手段です。
実は、これがなかなか難しい問題です。
【青州兵】とは、曹操が追い詰めて降伏させた黄巾賊兵士30万とされています。
しかも、非戦闘員男女100万もついていたというのですから、なかなか凄まじいものがあるのですが。
ただ、繰り返しますがこの時代は人口激減を迎えております。この数をそのまま信じることには無理があるのです。
兵士ではなく、非戦闘員までいるということ。これも厄介な問題です。
非戦闘員を養うことは、軍隊として適切であるのか?
これは古今東西、なかなかややこしい話ではあります。
非戦闘員の食料や行軍までカバーすることは、非効率的にも思えます。
ただ、独身の兵士だけでは人口増につながるはずもない。
兵士の士気を高め、支え、農作業をさせる、妻を含めた非戦闘員も養った方が、効率的といえばそうなのです。
こうしたシステムは、魏・蜀・呉で採用された【兵戸制】に連なるものとなります。
そしてここで考えたいこと。
曹操は、軍事制度改革をも伴う兵団を手に入れたということです。
ただし、その手段がはっきりしません。
曹操と黄巾賊は激闘を繰り広げていたとはわかりますが、どうにもプロレス臭が漂っています。
当時の書状は、黄巾族が曹操に親近感を見せているように思えなくもないのです。
意訳ではありますが、歩み寄る姿勢があるのです。
「曹操よ、俺たちは戦うべきか? お前にはかつて邪教の祠を徹底して破壊したソウルがある! わかっているだろ? 黄老のイエローロードをな! その運命には逆らえないッ!」
青州の黄巾賊と曹操の間には、謎のソウルがあったようです。
曹操は、青州兵に気遣っていたことが、記録から伺えます。
軍令違反を犯した青州兵を于禁が討ち果たした際、于禁は早々に釈明しているのです。
この場合、軍令違反をした側を処罰した于禁側の言い分が納得できるものでして、曹操にしては【青州兵への態度がぬるい】ことは確かなのです。
曹操の死後、そのことははっきりします。
曹操は、乱世なのだから死後も部署を離れないよう遺言を残していました。
それでも、青州兵は無断で離脱し、止めようがなかったのです。
曹操と青州兵の間にあった密約とは?
その謎が解かれる日は、訪れるのでしょうか。
ともあれ、正攻法でなかったことは推察できます。
荀彧にせよ。青州兵にせよ。曹操の中に、改革への道しるべをみていたことも、わかるのです。
しかし、曹操人生最大の汚点が、このあと待ち受けていたのでした。
血と傷だらけの道
バッキンガム公の亡霊:
夢を見ろ、悪夢を見続けろ、そなたの血腥い悪行と死を
『リチャード三世』第五場第三幕
パーシー夫人:
そう、義父上はハリーを見殺しになされたのです!
二度と、嗚呼、二度と、愛児との約束よりも
他人との約束を優先して、御身の名誉を重んじめされるな
そのような過ちで、ハリーの霊まで汚さないで、彼を一人にしてくだされ!
『ヘンリー四世 第二部』第二幕第三場
【徐州大虐殺】
曹操には優れた点があります。才能もあります。
ただし、彼はスーパーマンでもなければ、聖人君子でもありません。
その最大の汚点が、初平4年頃(193年)に発生した【徐州大虐殺】でした。
徐州牧・陶謙(132ー194)と、兗州を治める曹操は、小競り合いを繰り返しておりました。曹操が一方的に戦ったというよりも、陶謙側に反撃して曹操が徐州を攻めていたというのが、当初の状況ではあります。
これが、一転してしまった悲劇が起こります。
官界を引退した曹操の父・曹嵩および曹操の弟を含めた一族殺害事件です。
状況は錯綜しています。
『魏晋世語』・『後漢書』「応劭伝」
殺害者:陶謙配下の兵士
護衛:応劭
状況:曹操は応劭を護衛にして、曹嵩を脱出させる手はずだった。そこへ陶謙配下の追っ手がかかる。
曹嵩は穴を掘って逃げようとするが、妾が肥満していて穴に引っかかってしまう。そして殺害された。
『呉書』(呉のバイアスあり)
殺害者にして護衛:陶謙配下・張闓
状況:陶謙は張闓を護衛として送り届けようとするも、魔がさした張闓が曹嵩を殺害した。陶謙は無罪。
曹嵩殺害事件には、報告側の悪意を感じます。
妾が肥満していた云々。そんなディテールは必要でしょうか? 悪意の反映ではありませんか。
後者では陶謙が被害者であるという、『三国志演義』に踏襲されるルートが形成されています。
前述しましたが、曹操は癇癪持ちと思われる言動がしばしば見受けられます。
その最悪の結果が【徐州大虐殺】なのです。
初平4年(193年)、10余城を陥落。
中国の「城」とは城下町も含めた範囲です。
翌年は5城を陥落。
この時は男女数十万を殺害したとされます。
ここではっきりしておきたいこと。
犠牲者数は、こうした際必ずしも問題とならないことなのです。
何人からが「虐殺」という定義はありません。
人口が少なく、かつ一族単位で社会が形成されていたスコットランドでは、40名以下でも【虐殺】とされています(【グレンコーの虐殺】)。
-

グレンコーの虐殺|ゲーム・オブ・スローンズ「レッド・ウェディング」の元ネタ
続きを見る
※虐殺の記憶は消えない、語り継がれてゆく(閲覧注意)
戦乱の最中では、確たる数は特定できませんが、ともかくこの事件は【大虐殺】として歴史に刻まれました。
父と弟、一族を手にかけられたとはいえ。
敵対者である陶謙の領地であるとはいえ。
曹操は血を流しすぎました。
あまりに残酷な、消せない記憶が歴史に刻まれたのです。
曹操の兵士に追われて逃げ行く人々の中には、こんな人々もいたのです。
呉に仕えることとなる厳畯、そして諸葛瑾はじめ諸葛一家たちです。
彼らを武器で追いかけるのではなく、寛大に迎え入れたらば、どれほど曹操の力となったことでしょうか。
避難者から体験談を聞いた者たちは、曹操への警戒と憎悪をたぎらせます。
諸葛瑾の弟・諸葛亮、厳畯と同じく呉に仕えた魯粛は、曹操は項羽のように残酷だと評価しています。
のちに曹操が呉に迫った際、呉の人々はこう言い合いました。
「あんな豺虎(=凶暴な獣)に降伏したら、どうなると思うんだ!」
三石鼎立を招いた事態――それは、魯粛と心を同じくした周瑜の【赤壁の戦い】での奮戦であり、諸葛亮の【天下三分の計】でした。
彼らの心の底にあった、拭いがたい不信感。
その根底には、徐州で流れた血があるのです。
憎悪が憎悪を生み、血が血を流す。
統一されない中国大陸の大地が、血に染まってゆく。
その悲劇を生み出した一因は、紛れもなく曹操にあります。彼に染み付いた汚名も、理由がないわけではありません。
この乱世は、曹操一人が悪いわけではない。
けれども、彼にも重大な責任はあります。
世の中を変革すべく生き抜いてきたはずなのに、橋玄はじめ、少なくない人が期待をかけてきたはずなのに。
それが果たせなかったとしたら、それは彼自身のあやまちにも原因はあるのです。
この【徐州大虐殺】曹操人生最大の汚点でした。
父と弟を失った怒りだの、『三国志演義』の誇張だの、そういうことはこの際、横に置きましょう。
過ちは過ち。そこに弁解の余地はありません。
兗州の戦いで傷つく精神
徐州大虐殺で、傷がついた曹操の前途。
追い討ちをかけるような事態が、また起こります。
董卓のとどめをさした呂布ではありますが、彼には武勇はあってもビジョンはないようなものでした。
初平3年(192年)に長安を脱出すると、各地の英雄のもとを転がり込みながら、生きてはいます。
困ったことに、呂布はなかなか使いこなせないのです。
強いことは強い。
長安の李傕は賞金首にする。
袁紹や袁術も、存在そのものがよくわからないので、暗殺を試みている。
呂布は董卓殺しとして英雄になってもよさそうなものを、癖が強すぎてジョーカーのようになってしまったのです。
この呂布のみならず、空中分解した反董卓連合は、厄介なものでした。
その中心にいた張邈(ちょうばく)も、困りものです。邪魔になった袁紹は、曹操にこうアドバイスをしています。
「張孟卓、あれは殺しておいた方がいいぞ」
曹操は、その依頼を断って兗州で保護していました。
曹操が血も涙もなければ、そうはならないのでしょう。曹操は徐州から戻った際に、彼の顔を見て泣き出したこともあるとか。
この話といい、曹操は【徐州大虐殺】あたりから精神バランスが悪化していたようです。
兗州にはアンチ曹操派が多く、徐州大虐殺によってその声はますます高まっています。
その精神を決定的に悪化させるようなことが、興平元年(194年)に発生します。
陳宮や弟に迫られ、張邈が蜂起。
呂布をも味方につけ、兗州全土が曹操に反旗を翻したのです。
呂布の知名度のためか、いきなりぶつかったような印象もあるかもしれませんが、張邈由来です。
袁紹からすれば、こうなりましょう。
「だから私は殺しておけと言ったんだが。どうしてそうしなかった?」
そのせいで、曹操は痛い目にあいます。
郭嘉、夏侯惇、典韋らの奮闘もあって、兗州全土を奪われなかったものの、大ピンチを迎えているのです。
張邈・呂布
vs
曹操
この構図で戦いが続き、興平2年(195年)に食糧が尽きて両者動けなくなるまで膠着するのです。
曹操は弱気になります。
そこへ、袁紹から援助のオファーがありました。
「袁本初が支援してくれるって……どうしよう、それもありかな。なんかもう疲れたし……」
「ダメですってば! 絶対に何か裏があるから、これは断らなくちゃ!」
程昱らが必死で止めなければ頼っていたほど、弱気になっていました。
そのころ、徐州を納めていた陶謙が死去。
かわりに台頭したのが、劉備でした。
曹操は激怒し、劉備を潰そうとします。
劉備が善玉である『三国志演義』系では曹操が悪党ですが、史実を見ていくと曹操が怒る理由もわかるというものです。
「こっちが困って大変な時期に、なんだかよくわからん奴が、あの徐州トップとかありえんだろうがぁ!」
孟徳さんからすれば、こうなるでしょうよ。
荀彧が優先順位を見直すように説得し、これも不発に終わっております。
曹操は、この死闘を用兵の巧みさや伏兵によって、ギリギリのところで勝利に持ち込みます。
荀彧が指摘した通り、劉備に構っている余裕はありませんでした。
曹操は、気分の浮き沈みが激しく、メンタル悪化でろくでもないことをすると指摘してきております。
そういう意味では、人間臭い。
そのマイナス面が最悪の形で出ているのが、この時期ではないでしょうか。
曹操の悪評とは、後世の悪意ある作為によるものだけではないのでしょう。
生身の曹操は、かなり困った人ではあるのです。
精神がどん底になると、ろくでもないことをやらかす。そういう曹操には、リフレッシュが必要となります。
読書とか。狩猟とか。グルメとか。
酒とか。歌とか。宴会とか。恋愛とか。
彼の『短歌行』は優れた詩です。
ある意味、永遠の真理。文才溢れる酔っ払いシャウトですね。
以下に【訳文】を付けて掲載してみます。
對酒當歌 酒に對して当に歌ふべし
人生幾何 人生 幾何ぞ
譬如朝露 譬ゆるに朝露の如し
去日苦多 去る日は苦だ多し
慨當以慷 慨して当に以て慷すべし
幽思難忘 幽思 忘れ難し
何以解憂 何を以てか憂ひを解かん
惟有杜康 惟だ杜康有るのみ
【意訳】
酒を飲んだら歌うしかないわ
人生なんぼのもんじゃい
朝露みたいにすぐ終わるわけだし
過去の反省点が多すぎるわ
チギレでさっぱりしたいけどマジ無理
モヤモヤ感残ってんだよな
どうすればストレス解消できんの
これはもう酒しかないわけですよ
以下略、全文も素晴らしいので、各自ご確認ください。
曹操の文才は、高く評価されています。
ただ、
「粗いっていうか、弾けすぎですな。もうちょっと技巧を凝らしてもよいのでは?」
と、欠点を指摘されます。
曹操の文才は、唯一無二。古典をきっちりと踏まえて典拠とするため、パクリとかなんとかケチをつける意見を読んだことがありますが、いやいやいや……ある意味彼しかこの世界は生み出せません。彼だけの世界観です。
欠点と魅力は裏表。
ここまでぶっちゃけられる曹操は、文才も魅力的なのです。
本音むき出しであるがゆえに、永遠の命がそこにはある。
ここまでは、まあまあ無害です。節度さえ守ればね。
若い頃の張譲暗殺未遂から連綿と続く、その手の暴力沙汰となりますと、危険ですね……。
こう書いてしまうと、曹操がやたたとキレやすい困り者で終わってしまいそうですが、それだけではないのです。
ここは曹操の配下たちから、ストレス解消と打開策を学びましょう。
献帝と屯田制で飛躍せよ
袁紹、呂布、ニューカマーの劉備も割拠する中。
ブレイクのきっかけが欲しいところです。
そこで、荀彧が乗った妙案は、献帝奉戴でした。
洛陽から長安へ、そして長安から洛陽へ。
遷都とともに漂流する献帝。群雄にかつぎあげられて、安定しない立場でした。
曹操も、献帝が気にならないわけでもありません。
家臣からそのことを献策されてもいます。
ただ、黄巾残党、その他の賊、群雄との戦いで手が回らないのです。
建安元年(196年)、曹操陣営の元に献帝から救いを求める密書が届きます。
この密書を元に、荀彧が献帝保護とその後見人となることを強く勧めるのです。
曹操も、やっとここでこれに乗りました。よいタイミングでした。迷いのあった袁紹に先んじることができたのですから。
両者の動機が同じであったかわかりませんし、のちに変わってしまったのかもしれません。ともあれ、この時は君臣一致していたのです。
同時期の袁紹も、同じ選択肢がありました。
しかし彼は迷い、決断できなかったのです。
曹操は献帝を迎え、許に遷都を行いました。この都市は潁川にあります。潁川は、荀彧ら清流派の本拠地です。このことからも、君臣の間に溝があったとも思えません。清流派の理想を引き継いだ王朝の夢を、荀彧が見ていたとしてもおかしくはない状況でした。
曹操は献帝という大義名分のみならず、政治改革にも乗り出します。
【屯田制】です。
後漢末期からの人口激減は、食糧生産インフラ崩壊がその大きな原因でした。
この時代には、食糧がらみで悩ましい話が残されています。
桑、棗、泥臭い貝を食べたこと。人肉が混ざっていたこと。側室を殺し、その肉を振る舞った将軍の逸話も。
曹操のせせこましい機転も、
【梅を望んで渇きを止む】(梅のイメージトレーニングで水分補給省略)
として残されています。出典は『世説新語』「仮譎編」です。
行軍中、喉が渇いて歩けなくなって兵士に、曹操はこう言いました。
「がんばれ〜、前には梅の実がなっているぞぉ!」
これを聞いて、兵士は酸っぱい梅を想像して唾が湧いてきて、なんとか水源まで進めたんだそうです。
曹操のセコい話扱いではありますが、酸味と唾のメカニズムを理解しているという意味では、機転はあります。
余談ですが、後世になるとこの言葉は【機会的同性愛】(=刑務所、男子校、軍隊等、男性同士のみがいる環境下での同性愛のこと。日本の武士もそう)の意味で用いられるようになったとか。
「えっ、俺のおもしろ機転がそんな用語に?」
と、本人も驚きそうな転換ではありますが、ある意味では納得感もあります。理由は後述します。
-

日本が「男色・衆道に寛容だった」説は本当か?平安~江戸時代を振り返る
続きを見る
女がいないなら男で我慢すればいいじゃん、ってことです。
そんな涙ぐましい逸話はさておき。
曹操自身も、食べることに興味津々であったのです。
グルメというよりも、実践的な興味ですし、中国では古来より食の知識も教養です。
曹操がまとめた食のガイドは『魏武四時食制』として残されております(※現在は散逸、一部のみ『太平御覧』に残存)。酒の作り方を細かくレクチャーした記録もあります。いちいちマニアックだな!
-

下手すりゃスープ一杯で国が滅亡|中国料理(中華料理)の歴史は凄まじい
続きを見る
曹操も、何はともあれ、食べることは大事だと自覚していたのです。
その結果が、食糧供給手段である【屯田制】でした。
これも強引なところがあり、喜ぶ人ばかりでもなかったことには、留意が必要です。いわば強制労働として、不満や怨恨も伴っていたのです。
大義名分と食糧供給手段を得て、曹操は順調に勢力を伸ばします。
そんな曹操に、呂布から逃れた劉備が救援を求めています。
曹操は厚遇しました。
かつて激怒して劉備を殺そうと息巻いていたことを考えると、どういうことなのかわからなくなりますが。
メンタルが安定したのでしょう。
献帝をゲットして頭一つ分リードできたし、【屯田制】も好調。
劉備を殺す宣言?
そんなこともあったかな。曹操はメンタルに波があるのです。
切り替えると、恨みをあっさり捨てる。そうできないと、いつまでも悩む。
このことも記憶の隅にとどめておいてください。
あの子を返して、私に戻して!【宛城】の悔恨
建安2年(197年)正月、曹操は宛城にて張繍を降伏させます。
張繍は曹操をおそれ、即座に降伏した楽勝とも言える戦いでした。
ところが楽勝に油断しきっていた曹操に対して、張繍は夜襲をかけるのです。
この戦いも要注意事項がありますし、弁護対象をしたい事項なのです。
曹操が油断しきっていたのは、張繍夫人との情事を楽しんでいたから?
それは、はっきりとしていないのです。
非常時でも女を抱く曹操カッコいいぜパターンとか。
TPOを無視するエロ曹操とか。
いずれにせよ、どうでもいい些細な誇張が目立ちますが。
元をたどると、「張繍が、族父(叔父)・張済の未亡人をを側女にされたからことに怒った」という推察まがいの動機にたどりつきます。
儒教道徳からすると、恥さらしということにはなります。
ただ、始皇帝の秦と同じ発想をすれば、こういう理屈にはなる。
「貞操とは、あくまで生きた相手にのみ誓うもの。夫が亡くなっているのであれば、貞操も何もない」
-

始皇帝はいかにして中国を統一したのか|最新研究に基づく生涯50年
続きを見る
後世の価値観からすれば、曹操が非常識ということになります。
当時はどうであったか。そこは慎重に考えるべきでしょう。
曹操がどんな動機で、どんなアバンチュールを楽しんでいたのか。
それが真実と言い切れるのか? 敗北決定打であったのか?
真偽不明です。
人妻とTPOをわきまえないで遊んでいた曹操像を強調される筋合いはそこまでありません。
アバンチュールをやられた案件は、古今東西あるもの。
ナポレオン戦争の名将・マッセナにもその手の逸話があります。
はっきりしていることは、曹操自身は敗北の決定的要素であるとみなしていないこと。
策謀に長けた賈詡の影もそこにはちらついています。エロい趨夫人(※フィクション由来の相手の名前)で盛り上がりたいのであれば、そこはご自由に。
次の確定事項は、犠牲者と曹操の精神的な打撃です。
長男・曹昴は、逃げる父に馬を譲り戦死。
甥・曹安民も死亡。
曹操の護衛を務めて三年目。ボディガードの典韋は、立ったまま奮戦して戦死を遂げました。
追悼式典で、曹操は典韋の死を悼み、激しく慟哭しました。
曹操は、泣く時はとことん泣くのです。典韋の朴訥さが好きで好きでたまらなかったのです。
智謀の士は多いからこそ、裏表のない護衛が安心できてたまらなかった。
そんな典韋が自分のせいで死んでしまった。後悔が止まらず、曹操は泣き続けたのです。
そして敗因分析と反省です。
「同じ状況があったら、次は人質をまず取るぞ! もう二度と繰り返さないからな!」
そう教訓を熱く語る曹操です。
一方、我が子・曹昴の死にはそこまで動揺していなかったと伝わりますが、これはポーズもあるようでして。
我が子よりも家臣の死を嘆いたほうが、感動的で奮闘させられる。
そんな心理分析もあるのでしょうが、それだけではない忍耐もあったと思われるのです。
曹昴の死を嘆いたのは、彼の母も同様でした。
夭折した実母・劉夫人にかわって、曹操正室・丁夫人が同母妹とともに養育していました。丁夫人には実子がおらず、愛を注いで育ててきたのです。
彼女は、曹操の顔を見るたびに激怒をぶつけます。
「あの子を引っ張り出して殺しておいて、どうしてそんな平気な顔をしているの! この悪魔、人殺し、最低最悪の冷血野郎!」
曹操は困り果てて、実家に彼女を返します。
クールダウン期間を経たと判断してから、迎えに行くのですが、彼女は出迎えません。それどころか機織りをして、夫を完全に無視をしています。
曹操は近づいて、背中をそっと撫でながら語りかけるのです。
「なぁ、こっちを向いてくれよ。一緒に車で帰ろう」
しかし、丁夫人は完全に無視。曹操は背を向けることもできずに、じりじりと後ずさりしながら戸口でこう訴えます。
「まだ許してくれないのかな?」
それでも彼女は無視。
「じゃあ、これでもう、俺たちは終わりなんだね……」
かくして離婚が成立し、曹丕らの子を産んでいた卞夫人が正室となるのでした。
それからまもなく、丁夫人は亡くなります。
丁夫人はかなり頑固な性格に思えますが、出自の出自も関係しているのかもしれません。
丁氏は、曹氏とつながりが深い一族です。
一方で卞夫人は、歌妓あがりで実家の支援はないのです。
いずれにせよ、曹操と丁夫人は夫唱婦随ではなく、生々しい感情をぶつけ合う関係であったことは確かなのでしょう。
そんな曹操は、頑固な妻と別れてスッキリしていたのか?
それは違います。臨終の際に、曹操はこうしみじみともらしたのです。
「我が生涯に一片の悔いなし。と、言いたいところだけれど……あの世で昴に再会して、母上(丁夫人)はどこにいるのかと聞かれたら、俺は……なんて言えばいいのかな……」
孟徳さん、やっぱりメンタルが弱い。
克服しようとして冷血になろうと頑張りますが、どうしてもできないのです。
むしろ鋼のメンタリティは、曹操の部下かもしれません。
その代表格が、賈詡です。
この宛城奇襲の背後には、張繍ブレーンであった賈詡がいたのです。
長男、甥、護衛をまんまと殺しておきながら、その曹操配下に加わる賈詡こそ、図太いとは思いませんか。
曹操には、恨みを忘れて賈詡を受け入れ、自分のミスだったと反省する器量はあるのです。
袁術と呂布の乱世退場
曹操は、このように一歩リードをしたとはいえまだまだ油断できません。
目下の敵は、三つ巴です。
曹操
袁術
呂布
袁術と呂布の間には、同盟の話もありました。
呂布が自分の娘を、袁術の息子に嫁がせようとしたのです。
しかし、呂布の配下にいた陳珪・陳登父子が思いとどまらせており、破断となりました。のちに父子が曹操に仕えていることもあってか、曹操の影がチラつくように思えることも確かではあります。
このうち、最初の脱落者は、袁術でした。
曹操が献帝ならば、袁術は【伝国の玉璽】を確保していたとされます。
入手経路や真偽も含めて、不明点は多いものではありますが、存在かチラホラとしていることは確かなのです。
袁術は、この玉璽を背景に帝位僭称をしたとされますが、ここも因果関係がハッキリとはしません。
起爆剤として何か転換点を欲していたのか? ヤケになったと断定てきるものでもありません。
断定できることとすれば、人心掌握術の問題と、世代交代が迫っていたことでしょう。
父を失ったころはまだ少年であった孫策(175ー200)が、袁術のもとで上り調子であったのです。カリスマ性に飛んだ孫策と比べたとき、袁術が冴えない存在に見えてもそこは仕方がありません。
袁術弱体化により、パワーバランスが崩れてしまいます。
袁術の力がある時、曹操は呂布とは膠着状態でした。
本拠が曹操への恨みを募らせる徐州ということもあり、うかつに手出しできない状態ではあったのです。
建安3年(198年)9月、曹操は下邳城の呂布を攻めます。
なかなか攻め落とせず、彼もちょっとやる気を失っていました。
ここで、郭嘉と荀攸がプッシュをしてきます。
「がんばって、今こそ呂布を倒すチャンスですよ! 袁紹が公孫瓚と戦っている隙にやっちゃいましょう。袁紹なんか味方につけたら、あとが厄介ですからね。呂布陣営はろくにブレーンがいませんし、今は負けてばかりで士気が低くなっています。陳宮が何か策を練らないうちに、なんとかしましょうってば!」
「うん、がんばる!」
曹操もこれには納得します。
郭嘉と荀攸の言うことは最もなのです。
呂布はあまりに強いイメージがありますが、ビジョンはなく、場当たり的な行動が多いのです。
いかに武勇があろうと、そこまで怖くはありません。
厄介なのは、ブレーンの陳宮でした。
彼は曹操を裏切った負い目があり、その復讐を恐れて降伏だけはできなかったのです。
一か八か、曹操の懐に飛び込む賭けに出られたら、話は違っていたのでしょう。
対呂布を無駄にややこしくした点として、曹操の自業自得もあります。
【徐州大虐殺】さえなければ、もっとスムーズに話が進んだのでしょうが。
この年末、ついに呂布は生け捕りにされました。
ここが曹操のちょっと面倒くさいタイムが始まります。
はい、まずは陳宮が連行されてきました。曹操はおもしろがり、趣味の悪い煽り方をします。
「チッス、チッス! さんざん頭がいい俺様はうまくやってやると調子こいといて、このザマなんすか〜? どんな気持ち〜?」
「そっちの脳筋野郎(=呂布)が俺の言うこと聞かないからだ! もういい、殺せや!」
かくして陳宮は処刑されました。
ただ、煽って曹操はすっきりしたのか、陳宮の遺族は厚遇されました。本人も謝ったら、登用されたかもしれませんね。
孟徳さん……しょうもない煽りしてないで、素直にスカウトしたら?
はい、次は呂布!
呂布はこう訴えてきます。
「縛るにしても、きつすぎるってば。ちょっとゆるめてくれない?」
「は? 虎を縛るのにゆるめられるわけないだろ」
曹操は塩対応するものの、呂布が自分の武勇をアピールし始めるのです。
「でもちょっと考えてみなって。歩兵はあんた、騎兵は俺。それで暴れたら、今後楽勝だと思うんですけどね」
「むぅ?」
曹操はそう言われ、かなり真剣に迷い始めます。
そこって、迷う必要ありますかね?
そんな曹操に対して劉備がこうアドバイスします。
「いやいやいや、そいつは、信じたらあかん奴ですから! 丁原と董卓のことだってあるでしょ」
すると、呂布は怒ります。
「こっちを信じたらあかんって言うお前こそ、一番信じたらあかん奴だろ!」
そう罵倒しながら、呂布は絞首刑となったのでした。
これも奥深い話ではあります。
鳥の将に死なんとする、その鳴くや哀し(鳥が死のうとする時の鳴き声は、とても哀切だ)
人の将に死なんとする、その言ふや善し(人が死のうとする時の言葉には、とてもよい意味がある)
ちょっと忘れないでおきましょうね。
はい次〜、張遼です。
これは即採用です。この張遼は、このあと曹操の元で大活躍を遂げます。
さて、張遼ですが。
彼相手には、曹操はこうアドバイスをしたことがあります。
「単身で敵陣に乗り込んで、敵を帰服させたね。そういうの、勇気があると思っているのかな? そういうカッコつけスタンドプレーは、将のやることじゃない」
「そうですね、すみません。もう二度とやりません」
孟徳さん……あなたの言動を見ていると、自分のやらかしたことを棚上げしていませんか?
そうツッコミどころがありますが、実体験をふまえてのアドバイスかもしれませんし、そこはよい話としておきましょう。
曹操はかくして宿敵を片付け、すっきり爽快、建安3年(198年)が終わってゆきました。
明けて建安4年(199年)、落ち目の袁術は、失意のまま燃え尽きるように退場してゆきます。
実質的な死は、明けてのことです。
大量の吐血があったという記録されておりますので、健康悪化も何らかの影響があった可能性はあります。
綺麗は汚い、汚いは綺麗 曹操のラブ&ヘイトとは?
ヘレナ:
愛とは、目ではなくて心で見るもの
だから翼を持つキューピッドは、目隠しをして描かれている
『真夏の夜の夢』第一幕第一場
曹操は割と情緒不安定だと、さんざん突っ込んできましたが。
鋼メンタリティの持ち主は、ライバルの中におりまして。
あの劉備です。
曹操の呂布討伐の際。劉備は曹操に保護を求めておりました。
呂布の猛攻に耐えかねて、逃げ込んだ状況です。この劉備救援の最中、夏侯惇は矢によって片目を失明しております。
ここでこの両者の関係を、復習しましょう。
興平2年(195年)には、曹操は劉備の態度に激怒し、「あいつは殺す!」と息巻いておりました。
このときは、荀彧のとりなしで攻撃対象リスト外されております。
そのあと、建安3年(198年)の呂布討伐の際に、庇護された劉備です。
実はこのとき、程昱はこう助言していました。
「こいつはくせえッー! 今のうちに処断しておきましょう」
しかし、曹操はこうきた。
「いや、こういう英雄を殺すとよくないよ。天下の人心が離れちゃう。豫州牧(長官)に決めた!」
なんと、名目上のものとはいえ、地位まで与えているんですね。
こうして呂布を倒したあと、曹操は許に劉備を迎えました。
曹操はそんな劉備の前で、お腹を見せちゃう犬状態でリラックスをしていたことがあります。
孟徳さん、何をしているんですか?
そう突っ込みたくはなりますが、曹操はそういうところがある。そのあらわれとして、ここまで言うのです。
「天下には、英雄っていっぱいいるけど。本物は俺と君だと思うんだよね! 本初(袁紹)とか、ダメっしょ」
このとき、二人は食事中。
劉備は驚き、箸を思わず落としてしまいます。
ちょうど雷が鳴ったので、こうごまかします。
「うひょおぉ〜、すごい雷っすね! びびったわ〜!」
はい、さて劉備は、どうしてここまでびっくりしたのでしょう?
その答えは、最悪の形で発揮されます。
このちょっと愉快な会話は、曹操が劉備のことを探っていたという解釈もあるようですが、曹操はそういうことができるようで、できない性格ではありませんかな。
真偽のほどは確かめようもありませんが、真剣に劉備とお友達になりたかったのかもしれませんよ。
試すにしろ、もっと効率的な確認があるでしょうに。
お食事しながら、そんなややこしいインタビューをする必要性は感じられません。
さて、この劉備。
このとき、彼は一体何を考えていたのか?
なぜ、そこまで焦ったのか?
建安4年(199年)、劉備は許を離れると徐州へ向かいます。
そこで曹操が任命していた徐州刺史(長官)・車冑を殺害して、徐州でデビューを果たすのです。
彼を忠義溢れる性格であると解釈した場合には、こうなりますかね。
「曹操め、献帝を圧迫していて許せない! 漢王朝を取り戻さなければ!」
計画性はあります。
狙いが、大虐殺で曹操アンチが多い徐州ですから、そこはきっちりと踏まえているのです。
劉備の脱出劇は、董承の動きと連動性があります。
董承は、献帝の董貴人(側室)の父であり、いわば外戚でした。献帝と行動をともにし、この頃曹操の暗殺計画を立てていたのです。
それが発覚し、妊娠中であった董貴人ともども、一族もろとも誅殺されております。
曹操は激怒!
それはそうでしょう。恩を仇で返したことに他なりません。程昱と呂布の言葉を思い出せば、悔しさ百倍でしょう。
劉備を猛攻し、妻子を確保。
劉備は身一つで袁紹の元へと逃げ込みました。
うーんこれは……はじめから劉備の人質をとっておけばよかったかもしれませんね。呂布も忠告したのに。
極めて不愉快な事態ではありますが、曹操は心の慰めをゲットしました。
関羽です。
これも曹操のよくわからないところですが『三国志演義』で一番濃い愛は、曹操の関羽へのものじゃないかと突っ込みたくなるほどでして。
吉川英治版でも、【恋】とズバリ断言されていたものです。
映画化もされました。
-

これが21世紀理想の関羽像だ!『KAN-WOO 関羽 三国志英傑伝』感想レビュー
続きを見る
※この映画も、曹操のストーキングぶりがすごかった……
今は中国でも盛んなBLですが、この界隈に詳しい方にちょっと聞いてみました。
「『三国志』BLってどうですかね? 例えば曹操と関羽ですが」
「それは史実が公式なので、言うまでもないことですねッ!」
はい、出た。
【史実が公式】。
-

フランス史上最強の王は尊厳王のフィリップ2世か|ドロ沼の英仏関係
続きを見る
フィクションでの誇張はあるにせよ、曹操は関羽を極めて情熱的に大事にしたことは確かなのです。
羽は、交流のある張遼に本音を語っています。
「劉備将軍は、義兄弟で生死をともにすると誓っておりますからね。曹公の親切は、ありがたいとは思いますが、仕官するわけにはいかないんです! 絶対に、この親切の恩返しはしてから、帰りますよ」
史実でも関羽を悩ませるほど、情熱的アプローチを繰り返していた曹操。
劉備を見逃したことといい、関羽へのアプローチといい。
曹操は「大好き❤︎」か「大嫌い! ぶちのめす!!」の二択しかない、極端な性格だと思えるのです。
BLまで出してしまい、どうにも曹操をどうしたいのかわからなくなってきました。
ここで、曹操のラブ&ヘイトについて、ちょっと考えてみましょうか。
Q:曹操は女好き、下半身がだらしないんでしょう?
A:フィクションでの誇張は、脇に置きまして。これは中国史全体で見ますと、そこまで深刻な性的依存症傾向はありません。妾や子供の数は、必ずしも問題ではありません。
深刻な依存症状態とは?
ちょっと考えてみましょう。
・女にかまけて、政治を放棄する
・性生活の特質が原因で、後継者ができない
・健康を害するほど、性生活が激しい。漢方医学では、酒色の節制は基礎中の基礎! 極め付けは腹上死
・寵愛する者の一族を、重用しすぎる(外戚)
これが正常範囲外であり、この点において曹操はそこまで悪くありません。
ゲスな性欲ランキングに入るとも思えません。
・趙飛燕・合徳を寵愛しすぎて腹上死を遂げたともされる、前漢・成帝
・ボーイフレンド・董賢を愛しすぎて政務を停滞させた、前漢・哀帝
・楊貴妃を愛しすぎて国を破綻させかけた、唐・玄宗
・特殊性癖施設入り浸りで政務放棄した、明・武宗
もっとダメな君主はおります。
-

安禄山と楊貴妃の赤ちゃんごっこが安史の乱へ!数千万人死亡で唐は衰退
続きを見る
ただ、真面目ではない。これも確か。
そのあたりも考えましょう。
Q:そうはいっても、横暴で彼氏にしたくない三国志の人物ナンバーワンでしょ?
A:曹操の性格から分析しますと、この点もそうではないと思えます。好みは人それぞれではありますけれどね。
実は妻にかなり低姿勢になることもあれば、性格面で愛することもあるのです。
前述の丁夫人との離婚騒動も、力づくで連れ戻すようなことはしておりません。
卞夫人とは、こんな会話が残されています。
「ねえねえ、お土産にイヤリングがあるんだ〜。セレブな高級品、無難、コスパ重視。三種類あるんだけど、どれにする?」
「じゃあ、無難なのにしようかな」
「ねえねえ、どうしてそれにするの? 理由があるなら知りたい!」
「高級品だと、贅沢好きって感じでしょ。かといって、コスパ重視だと、それはそれで清貧アピールがあざとすぎ。やっぱりバランスをとって、ここは無難なのがいいかな、って」
「すごいッ、やっぱり頭いい! あなたのそういうところ、大好き❤︎」
相手の性格を重視するし、自分の趣味を押し付けないで選んでもらう。
そもそも、プレゼントは欠かさない、曹操はそういう奴なんです。
このやりとりは、空気を読まない曹操にはない、世間体を気にした理想の回答でもあります。
曹操は、彼女から自分にないものを見出していたのかもしれませんね。
卞夫人は、賢明、落ち着いた性格、世間体をしっかり気にするタイプです。
メンタル不安定な曹操にとって、ありがたい存在であったのでしょう。
Q:でも派手に遊んだんでしょ?
A:曹操の下半身事情を、そこまで詮索するつもりもありませんが……傍証はありまして。
曹操は、グルメや薬学知識にこだわるほど、博識で合理的な性格でした。
これを踏まえますと、性生活の知識も身につけていたと考えられます。
古代中国における性生活のTIPSを、簡単にまとめましょう。
・双方の気持ちを重視しないと、よい性生活になりません。ムード作りを怠るなよ!
・男だけが独りよがりでどうするんですか? ダメです、そういうのはダメ!
・ほどほどにしないと、健康に害があるのでバランスを取りましょう!
博識、マニアック、合理的と揃った曹操が、このあたりを無視したとはあまり思えないんですね。
曹操による健康重視性生活マニュアルが今後発掘されても、そこまで驚きませんよ。彼ならありうる。
Q:でもやっぱり、なんかいちいちエロスを感じる!
A:それは曹操個人単位の問題ではないのですね。黄巾族のような道教は、修行の一環として性行為もカウントしておりまして。あいつらどういうことなんだ……と驚かれています。
社会秩序大転換期であった後漢から魏晋南北朝の時代は、性的逸脱もしばしば確認できるのです。
新しい時代には新しいセックス!
(=夫婦間、男女間以外、その他諸々)
一体何を言っているんだ?
そうつっこまれそうですが、史実としてそういう傾向があるのだから、もうそこは諦めてください。
以下、性的な記述があります。苦手な方は飛ばしましょう。
18歳以下の方は、くれぐれも注意して読み進めてください。
曹操よりやや時代がくだりまして。
こんな話があります。
山濤(205ー283)は、阮籍(210ー263)と嵆康(224ー262または263)と仲良くしていました。
山濤は、あの二人の友情がイケてて、普通じゃなくて、ともかくすごいことを妻に熱心に語っていました。
それを聞いていた山濤の妻・韓夫人は、夫にこう返すのです。
「昔、僖負覊の妻は狐偃と趙衰の入浴を確認したってね」
一体何のことでしょうか。これは重耳の逸話です。
彼が曹に逃れた際、共公は重耳の肋骨が特殊な形状(駢脅)であると知って、真偽を確認したがったのです。
身体のこうした特殊性は、才能と直結するという思想がありました。
『三国志演義』はじめフィクションにおいて、劉備の福耳が強調されることもその一例です。
共公は僖負覊とその妻に、重耳が狐偃と趙衰と入浴している所をのぞかせたのです。
妻は、あの二人は只者ではないと確信をもって報告したとのこと。
「つまり、二人の全裸が見たいと?」
「あなたが力説する二人のスペシャルな友情なんて、そのうえでなければ判断できないッ!」
理論武装が激しいのですが、要するに二人が全裸でいるところを見せろという要求です。
かくして夫の許可を得て、自宅に二人を泊まらせると酒と食事でもてなし、壁に穴を開けて監視したのです。
そして翌朝、山濤と韓夫人はこんな会話をするのです。
「どう思った? あいつらの友情を」
「あの二人の才能はあなたよりも尊いッ、全力で推せるッ! あなたの友になったのはあなたの知識のためだッ!」
これはどういうことでしょうか。
わかりやすくまとめしましょう。
・山濤から話を聞くうちに、韓夫人の推しカップリングは【阮籍×嵆康】(リバーシブル)になった。ともかく気になって仕方ない。そして、そのことを確認したいと訴える
・そんな妻の腐女子ぶりを理解した山濤は、妻に推しカプ監視を許可した
・韓夫人、覗き見した推しカプライブが尊すぎて大興奮。全力で推す宣言をする
・この逸話は『世説新語』「賢媛」(賢い女)に収録
・妻に推しカプライブを見せた山濤、推しカプの阮籍、嵆康は【竹林の七賢】メンバー
結論:当時、腐女子は賢い女。腐女子を理解してこそ、イケてて最高に賢い男
登場人物全員がおかしくて、脳が破裂しませんか?
ちょっと深呼吸しましょうか。
いや、ネタじゃないんです。
朝から夜まで友情を監視して、見守って大興奮しているんです。
そういうことでしょう。全裸で同じ部屋にいて、熱い友情があって、大興奮で覗き見する腐女子がいる。
何があったか……語るだけ野暮ではありませんか!
つまり、この時代は【史実が公式】がデフォルトです。BL、がんばってください!!
「セックス!(=バラエティ溢れる性行為)ドラッグ!(=五石散、当時のドラッグ)ロックンロール!(=日がな一日楽器演奏、詩作)」も然り。
それが史実なので、そう認識しましょう。
-

三国志時代のサブカルは痛快無比!竹林の七賢も何晏もロックだぜ
続きを見る
曹操がただのゲスだったら、橋玄が妻子を託すとも思えませんし。曹操は、ラブ&ヘイトのどちらも強烈だっただけで、下半身破綻者ではないと思うのです。
曹操と女性で言いますと、彼女のことを持ち出さないわけにはいきません。
蔡琰(字・文姫、177?ー249)です。
彼女は、彼女自身に非がないにも関わらず、苦しい人生を送ることになりました。
・父の蔡邕が、董卓政権のブレーンとなる
・戦乱の中、匈奴の劉豹に拉致され妻とされ、二児の母となる
・再婚相手の董祀が死罪となりかける
彼女に罪はない。
けれども、当時の価値観においては社会から疎外されても、おかしくない要素がたくさんあります。
父のこと、夫のこと……彼女の意思でなく、強制されたにも関わらず、異民族に拉致されて子まで孕むということ。
恥知らずと罵られても仕方のないことでした。
現代社会でも、性がからむ犯罪は、被害者側の落ち度が厳しい目で見られます。
貞操を守るために自害することこそ、女の理想である【貞女】とすらされてきました。
それでも、曹操からすればそんなことは関係ないのです。
父の著作を知っている。
彼女自身にも文才がある。
ならば、手元にそのきらめく才知を置きたい。そう願い、帰還に尽力したのでした。
そればかりではなく、蔡琰が夫の弁護をした際には、訴えを聞き入れました。
儒教の理想では、女性には発言権があってないようなもの。黙殺がむしろ常識でした。
けれども、曹操は訴えに聞くべきところがあれば、発言者の性別すら無視したのです。
これがいかに、規格外であったことか。
曹操より時代が下った晩唐の時代、女流詩人の魚玄機(844ー871)はこんな句を詠みました。
挙頭空羨榜中名 頭を挙げ空しく羨ましむ榜中の名
(私は頭をあげて虚しく見ているしかないんだ、科挙合格者名簿を)
家柄じゃない、実力で登用する道。
そんな科挙であっても、女には受験資格がない。
私の才能は、男に負けないのに!
どうして私は女なんだ、どうして? どうして!
-

元祖受験地獄の科挙|エリート登竜門はどれだけ難関か受験者目線で振り返る
続きを見る
「わかりみあるわ……句にもセンスあるし、あんたじゃなくて、埋もれさす世の中が悪いわな!」
曹操なら、魚玄機のことをそう評価するんじゃないか。そう思ってしまうのです。
曹操のこうした一連の言動を評して【フェミニスト】と呼ぶ意見もありますが。
そこはむしろ【ヒューマニスト】ではありませんか。
人間が大好きで、大嫌いなんです。
我が子への愛情も、彼には残されております。
曹操は夭折した才知溢れる曹沖のことを、折に触れて嘆いていたのです。
老若男女、隔たりなくラブ&ヘイトを捧げる性格なのでしょう。
曹操は、バランスが極端におかしくなるだけなんです。
はい、締めくくりとして。
孟徳さんの意見をちょっと代弁しましょうか。
「しょっちゅう妻子を見捨てて逃亡している劉備、およびそのファンどもッ! お前らから、夫として父として失格だのなんだと、ジャッジされる筋合いはねえし!!」
はい、曹操と仲間たちによる、濃密な愛と憎ワールドから、話を戻しましょうか。
袁紹との決戦
寡兵、寡兵なれどの我らこそが、僥倖に恵まれし兄弟団なのである
なぜならば、今日私と血を流す者こそが
我が兄弟となるからだ
どんな身分に生まれていようが関係はない
今日から我らこそが天下に名乗りをあげるのだ
『ヘンリー五世』第四幕第三場
さて、ちょっと南に目を向けてみましょう。
江東です。
袁術にかわって、孫策がぐんぐんと力をつけてはおりました。
曹操は、こうぼやいております。
「イキってるガキとはやりあいたくねえぞ」
建安5年(200年)、孫策は非業の最期を遂げます。
その跡を継いだ孫権(182ー252)は幼く、脅威となるにはまだ優先順位が低い状態です。
一応、孫氏に対しては政略結婚を持ちかけており、それなりのくさびを打ち込むことは成功しています。
その策を、のちに周瑜や魯粛の支えを受けて、孫権が吹き飛ばすわけですが。
ただ、曹操がノーマークであったわけではありません。
周瑜(175ー210)のスカウトをして、失敗しております。情報集めもしていたようです。
曹操のターゲットは、袁紹に定められました。
スタート時の血統、勢力差を考えれば、よくぞここまできたものです。
曹操は、献帝というカードを生かして袁紹の心理にゆさぶりをかけております。献帝掌握前後から、曹操周辺の官位がめまぐるしく変わります。
官位任命権を得たから好きにできるとアピールする効果があります。日本の戦国時代における、天皇掌握にも似た構造があります。
同時に、地形整備も行なっておりました。
戦いとは、矢が放たれてから始まるものではありません。
戦場をいかにして整備するか?
そこへどうやって敵をおびきよせるか?
この時点で始まっています。
『孫子』マスターの曹操からすれば、その程度のことは常識。
あとは袁紹をおびきよせればよいわけです。
一方で、袁紹はそこまで思い切った行動をとっていないのです。
配下の田豊や沮授が献策しても、なかなか取り上げられません。袁紹配下には、不穏な空気が立ち込めておりました。
といっても、これは曹操側も同じことでして。
どうにも、袁紹と二股をかけていた人物はそれなりにいた形跡があります。そのことは、あとにでも。
曹操の発作的激怒も、この流れで発生しております。
袁紹陣営の檄文を読みまして。
「これを書いて奴は誰だあっ! 見つけ次第ぶちのめす!!……でも、これを読んでいると俺ですら、曹操は最低最悪だと納得できるから、そこはすげえな」
孟徳さん、キレるか感心するか、どっちかにしましょうよ。
これについても、あとで触れましょうか。
【官渡の戦い】開戦
建安5年(200年)正月――曹操は、徐州に打って出ます。
ここで曹操は劉備を打ち負かすわけです。
董承の陰謀や、劉備の動きを踏まえますと、このときこそが許を狙う千載一遇の好機です。
田豊は袁紹にそう進言するものの、袁紹は我が子の病気を口実にして、動かないのです。田豊は杖で地面を叩き、その優柔不断さを悔しがりました。
二月になってようやく、袁紹は許攻撃を命令しますが、遅すぎました。
袁紹は優柔不断とされています。
こうした一連の行動を見ていると、それもそうだと思いそうになりますが。
長所と短所は紙一重。袁紹は彼なりの理由があるのではないでしょうか。
巨大化した軍団の意見を幅広く取り入れますと、どうしても動きが鈍くなるものです。乱世でなければ、袁紹は優秀で寛大な人物となり得た可能性はあるのですが……。
かくして【官渡の戦い】が始まります。
袁紹
vs
曹操
さて、曹操の情熱的な親切三昧に悩んでいた関羽ですが。
前哨戦となった「白馬の戦い」に、張遼とともに参戦しました袁紹側の将・顔良を討ち取る功績をあげます。
律儀な関羽は、それを置き土産として劉備の元へ戻るのでした。
ちなみに文醜もこの戦いで戦死していますが、顔良とセットにして関羽の手柄とするのは、フィクションによる脚色です。
曹操と袁紹はそのあと、持久戦が続きます。
当時は全勢力が慢性的食糧難に悩まされております。そこは考慮しなければなりません。
動きが活発だった曹操の方が、この点では弱いとみなせます。
実際に、袁紹陣営では持久戦になれば勝利できるという意見がありました。
母数が多い袁紹も、厳しいことは確かです。
袁紹は【高櫓】(高い櫓)と【土山】を作り、猛射撃をします。
于禁率いる曹操軍は【発石車】で対抗しました。
袁紹軍は【霹靂車(へきれき=雷鳴)】呼ばわりしたというのですから、強烈な兵器です。
袁紹軍がトンネルで地下から潜ろうとすると、察知した曹操軍はもっと深い塹壕を掘って対抗します。
袁紹は以下の劉備にも牽制をかけつつ、反乱の動きも察知しつつ、曹操は粘り続けます。
負傷兵は増える。
兵糧も苦しい。
こうなると、あの要素も大事になって来ます。
メンタル、粘り強さです。
「もうダメだ……なんか持たないんじゃないか。撤退したい……」
はい、折れたのは曹操でした。
孟徳さん、持久戦になると数ヶ月くらいで心が折れる傾向がありませんか?
呂布の時もそうだったし。
曹操から撤退したいという手紙を受け取った荀彧は、叱咤激励をします。
「はいっ、殿、がんばって、もうちょい、もうちょいですよ! 項羽vs劉邦よりはマシでしょ。ここが、踏ん張りどころ。諦めたら、そこで決戦終了ですよ。殿は十分の一程度の兵力で、敵をここまで苦しめてもう半年! もうすぐ、あとちょっとで絶対に何か変化がありますからね。そこで逆転奇策を用いるんです。そのタイミングを逃さないで!」
「うん、わかった、がんばるッ!」
曹操は、素直にこの意見を受け入れました。
ときどきネジを締め直せば、本当に彼はがんばれるんです。
荀彧は賢いだとか、曹操は意見を聞くとか。そういう要素はもちろんあるのでしょうが、荀彧はじめ曹操陣営のブレーンは、コーチングスキルがあったんじゃないかと思いますよ。
孟徳さんは、がんばればとてもできる子なので。
そして10月。曹操は何かを察知します。
補給線が伸びきっている。
補給隊を襲撃したら、楽勝だった。
こちらの兵糧もあと一ヶ月しか持たない。
一方で袁紹にはあるらしい。しかも手薄と来た。
何かがおかしいぞ……危険性に気づいていたのは、袁紹側もそうでした。
配下の沮授は、食料庫の防備を固めるべきだと主張しますが、却下されてしまいます。
そこでタイミングが訪れました。
袁紹陣営の許攸が寝返ったのです。
「えっ、ほんとうに? よっしゃあああああああッ、やったああああああ!」
曹操はハイテンションの極みになって、裸足で猛ダッシュして出迎え、はしゃいで手をパチパチと叩いていたというのですから、もう……。
これはネタじゃない、史実です。孟徳さん、落ち着いてください。
これが記録に残るということは、曹操のハイテンションはちょっと印象が強すぎたと、当時から認識されていたのでしょう。
許攸は袁紹の幼馴染であり、曹操ともつきあいがありました。
許攸は親族逮捕といった出来事が重なり、投稿して来たのです。
しかも、最高の機密情報付きで。
「烏巣、ここの駐屯部隊が食糧をたんまり持っているんですよ」
「マジかよ!!」
最高のタイミングで、最重要情報!
流石におかしくないかと曹操の家臣でも意見が割れるのですが、荀攸と賈詡はプッシュします。
彼も許攸と同じく主君を替えてきましたので、何かピンと来たのかもしれませんね。
「おっし、ここは俺自ら5千を率いて行く!」
テンションあがりっぱなしの曹操は、自ら烏巣に乗り込みました。
カッコいい孟徳さんではありますが、これはあくまで成功例。
スタンドプレー気味で死にかけたこともあります。自ら乗り込むことの是非は、ケースバイケースとしましょう。
淳于瓊が応戦しますが、圧倒的不利です。
袁紹は、ここでもたついてしまいます。
総大将の曹操がいない官渡を急襲するか?
烏巣に援軍を派遣するか?
張郃は烏巣救援を主張するものの受け入れられず、官渡へ向かいます。
烏巣には軽装軍が派遣されるものの、時すでに遅し。
一方で官渡は防ぎきる。
そんな中、一連の流れに嫌気がさした張郃は官渡で降伏。
流れは曹操に向いて来ました。
袁紹と袁譚は8百騎を率いて、逃げ惑うしかありません。
曹操、絶好調です!
メンタルを切り替えて戦いに臨むと、圧倒的に強いのです。曹操は、天下分け目の戦いで大勝利をおさめました。やったぞ!
しかしここで、この決戦のげんなりさせられる締めくくりを記さねばなりません。
袁紹配下から離脱した沮授を見て、曹操はこう言いました。
「袁紹があなたの計略を用いていたからこそ、動乱が十年以上続いて、まだ安定していないほどなんだ。これからは、私の元で力を尽くしてくれ。遅すぎたくらいだ。もっと早く来てくれればよかったのに」
才能への賛美は、ちゃんとある。
ただ、情緒を無視する悪い傾向が出ています。
賈詡のような割り切り系ならばともかく、義理堅い沮授は違います。
恥辱と義理のために逃走し、殺害されてしまうのです。
沮授には才能があった。使い道がある。だから曹操は惜しみました。
そうでない者は?
投降兵7〜8万は処刑されました。
曹操には自軍を養うほどの兵糧もない。治安悪化を招く。使い道がない。
そのためには処刑しかないと思ったのでしょうが、徐州大虐殺とともに、曹操の天下統一を遠ざけた一因となったことは否定できません。
決戦前の曹操陣営は、袁紹の欠点を郭嘉らとステータス化ごとにまとめていました。
曹操自身も、こう分析しています。
「袁本初の性格はわかっているんだ。野望はでかいくせに、結局のところバカなんだよな。ヒーロー気取りしているけど、ビビりだし。謙虚なふりをしているけど、威厳がないことをごまかしたいだけ。兵だけ無駄に多いけど、指揮系統が無茶苦茶。諸将がバラバラに主張していて、統制ってもんがない」
曹操側の主張は、その後、歴史的にずっと残されていて、袁紹の評価は散々なものなのです。
そんなにしょうもない、くだらない人間ならば。沮授はじめ、大勢の名士がついていった理由はどのあたりにあるのでしょうか?
曹操は、袁紹は俺とは違うと主張したがっている。
その違うところにこそ、袁紹の魅力があったのかもしれません。
そして、袁紹にはない欠点。
曹操の悪いところは言動から推察できます。
沮授の気持ちを無視する。
使える人物かどうかばかりを、一方的に言い募る。
役に立たないとなれば、情けもかけずに投降兵を殺してしまう。そういう思い切りの良さは、褒められることではありません。
大勝利でも、性格的な欠点が出てしまう。それが曹操なのです。
そんな両者の性格もわかる。そんな若き日の会話が残されています。
袁紹は地形を考慮しながら、こう言いました。
具体的なプランです。
テーマは天下取り。袁紹はこう主張します。
袁紹はロールモデルとして、光武帝を意識していたことも伺えるのです。
「南は黄河。北は燕・代。戎狄の兵力も頼りにして、南に進む。それでこそ、天下が狙えるはずだ」
それに対して、曹操はこう言いました。
「この天下には、勇者、智者が大勢いるんです。彼らに才能を発揮させて、そのうえで道理をもって統率すればいい。そうすれば、不可能なことなんてないと思いますけど」
孟徳さん、なんだかものすごくカッコいいんですけど、話がでかすぎます!
これも曹操の魅力であり、原動力であり、本質であり、そして欠点なのでしょう。
袁紹はむしろ普通なのです。
よい意味での、普通の人。真面目でした。
実は、曹操も本音では袁紹を認めていたとわかる、曹丕によるこんな回想もあります。
父は勉強熱心で、戦場でも書物を手から離さなかった。
父は私と顔を合わせるたびに、こう振り返ったものだ。
「人って、最初は勉強をするものだけれども、そのうちやめるもんだ。名を成してからも励んでいたのは、俺と袁本初くらいだな」
二人とも、ともかく勉強熱心だった。そこまでは同じ。
けれども、曹操は袁紹とはなにかが違う。
曹操は、話がでかくなる。なんだかものすごい哲学、宇宙のようなものが頭の中でぐるぐると回っている。
制御できればいい。そのノリに乗れたらいい。
けれど、そうできない人間からしたら?
彼は歩く災厄、混沌なのでしょう。
華北の覇者
第一の魔女:
マクベス公万歳! 貴公こそがグラミス公!
第二の魔女:
皆の衆、マクベス公を讃えよ! 公を崇めよ! これぞコーダの主よ!
第三の魔女:
皆の者、マクベス公を敬え! 公こそが不滅の王!
『マクベス』第一幕第三場
曹操の思い切りの良さは、プラスに出るとよいものです。
袁紹に勝利を収めた戦後処理の最中。曹操陣営から敵と密通していた証拠物件がボロボロと出てきました。
曹操はこれを集め、密通未遂者を粛清をするどころか、一気に焼き捨てたのです。
「仕方ないんじゃね。俺だって袁紹相手に弱気だったんもん、普通の人ならそりゃビビるでしょ」
そう言い切った!
寛大さのアピールにもなりますが、曹操自身のメンタルにも有効な手段です。一度疑うとキリがないのならば、証拠ごと消すのが最善なのです。こういう思い切りの良さは、プラスです。
敗れた袁紹は逃げ延びたものの、建安7年(202年)病死しました。
このあと、後継者をめぐり分裂の様相を見せるのです。
長男・袁譚:辛評、郭図
三男・袁尚:審配、逢紀
後継者争いを愚かと批判する資格は、同じ問題で揉めた孫権、そして曹操にはないと思います。
同時期に同じ問題が起こる。
このことは、後継者選択が制度や思想的に不安定だった可能性も考慮しなければなりません。
そのことはさておきまして、分裂が袁一族の寿命を縮めたことは確かでしょう。
郭嘉は、こう分析します。
「厳しく当たると、あいつらは結託して面倒なことになりますよ。自由に泳がせれば、自滅し合う。そこを狙えばいいんです」
その通りでした。
袁譚陣営からの辛毗降伏を筆頭に、内部崩壊が始まります。
袁譚は降伏するものの、謀反の動きを見せたため、建安10年(205年)に処刑。
建安12年(207年)、袁煕(袁紹二男)・袁尚は烏丸族に逃げ込み、公孫康によって殺害されて首級が曹操の元に送られます。
かくして名門・袁家は滅亡を迎え、曹操が中国北部を制覇しました。
このとき、曹家は思わぬ人材も得ているのです。
曹操が陥落させた袁家本拠の鄴城から、陳琳という文人が引き立てられて来ました。
「よっ! これ、お前が書いたんだろ。読んでみ?」
曹操は、ノリノリで彼にある文書を渡します。それは曹操を罵倒し尽くした、官渡前の檄文です。
これを読み曹操は、
「書いた奴絶対ぶち殺す!」
宣言をしておりました。
孟徳さん、趣味が悪すぎませんか!
ちょっとまとめてぶっちゃけた意訳をしますね。
・曹騰はゲス宦官の極み。宦官仲間や姦臣と結託して人の生き血を啜り、不埒な悪行三昧!
・曹嵩は成金ゲスセレブ。センス最悪の悪い車を乗り回していて、もう見てらんない!
・はい、その子孫の曹操ね。アレはゲス宦官の残した最低のカス(贅閹の遺醜)。人徳ないし、性格キツいし、戦乱でヒャッハーして、人の不幸で飯がうまくなる。そういうクズですよ、クズ!
・自然破壊するし、墓場泥棒して死体と写メ撮ってSNSに投稿するレベルのアホだし。もう非常識。下衆の極み!
これを本人の前で読まされる――あまりにきついシチュエーション。
早く殺してくれないかな……そう言いたくなるでしょう。
曹操は、冷静に突っ込みます。
ニヤニヤしていてもおかしくはないのでしょうが。
「まぁ、お前の文才は認める。センスあるわ。でもさ、祖父と父まで触れる必要があった? 黒歴史暴露するにせよ、範囲は本人だけにしとけってルールがあるわけでさ」
曹操本人は、本人の責任にないことは責めません。
不可抗力であればスルーできるのです。それはそれ、これはこれ。
だからこそ、自分ではどうしようもない先祖の行為を触れることは、ルール違反なのでしょう。
陳琳は開き直りました。
「それはですね。矢が弦の上にあれば、発射するしかないってことなんです」
文筆業で生きているからには、雇用主のためにベストを尽くすまで。
曹操の欠点を刺激してこそ、プロというものでしょう。
その宣言に、曹操は喜びます。
「認めおったーッ! そのプロ根性、悪くない。むしろ好きだわ!」
戦う前には檄文が必要だし、レスポンスのセンスが最高。
曹操は陳琳を愛し、彼は当時の文壇で活躍することになります。
ある日、曹操は陳琳のドラフトを読んでいて、立ち上がりました。
「陳琳の文章がセンスありすぎて、頭痛がふっとんだー!」
曹操は持病の頭痛に悩まされていたのですが、その痛みすら文才で飛ばすほど痛快爽快最高だったわけですね。
ただ、この価値観を共有できたのは、曹操だけでした。
曹丕と曹植は、割と容赦がありません。
曹丕は、
「彼には文才がある。以上」
と実用性以外をスルー。
曹植に至っては、
「陳琳は詩の才能があると誤解して、調子に乗っているけど、どうなんでしょう。虎を描いていると思っているのは本人だけで、実物は犬のスケッチ。そういうレベル」
と、ぶった切っています。檄文が得意で、詩にはセンスがなかったのでしょうかね。
曹丕と曹植の運命を変える女性も、同じく鄴城におりました。
袁煕の夫人である甄氏です。
城で彼女を見出した曹丕が、惚れて妻にしたのです。あまりに美しいため、曹操がこう言ったとかなんとか。
「チッ、狙ってたのに先越されちまったよ」
曹植もこの美貌の兄嫁に片思いを募らせ、『洛神賦』を詠んだとされていますが、これは創作ではあります。
弟と妻の感情を嫉妬した曹丕が、処刑に追い込んだとも。
事実かどうかはさておき、そうみなされる何かはあったのでしょう。
一連の真偽はともかく、誇張もあるとしまして。この時点で、曹一家はかなりおかしいことをかましております。
滅ぼした敵の妻を、こんなふうにゲットする。
そういうことをして、世間が警戒すると思い至らなかったのか?
曹操は、そう言えなかったのか。自由すぎる息子の恋愛を許してしまったのか。
そこがドラマチックといえばそうではありますが、曹一族は恋愛でもちょっと規範からずれていると思えるのです。
丞相独裁体制
曹操の人生におけるピークがあるとすれば、官渡の戦い前後であったと思えます。
そのあとは、精彩を欠くことは否めません。
それまでだって欠点も失敗はありましたが。
建安13年(208年)、宿敵袁家を制覇した曹操は、鄴に凱旋し王朝の大改造に入ります。新しい時代への、総仕上げに入ったのです。
三公(大尉・司徒・司空)の廃止、丞相・御史大夫復活が手始めとなります。
当時、そのポストはこうなっていました。
大尉(軍事):空位
司徒:趙温→罷免
司空:曹操
三公のうち、司空・曹操だけが残る。こうして形骸化させてから、改革を断行したのです。
それから丞相として、いわば独裁体制を整えたと言えるのです。
回りくどいようでいて、この手口は洋の東西を問わずあるものです。
1799年のフランス。
東方遠征失敗により謹慎状態であった将軍ナポレオン・ボナパルトが、クーデターを断行します。
当時のフランス革命政府は、第一統領3名による統治システムがありました。このうち2名が事実上傀儡となり、ナポレオンの実質的な独裁が始まるのです。
-

ナポレオン1世 2世 3世 4世の生涯まとめ! 歴史に翻弄された皇帝たち
続きを見る
『三国志』は【三】という数字に特徴があるとされています。
中国独自のようで、世界的な真理であるという見方もできるのです。
奇数である三は、ジャンケンのように三すくみとなって、独裁を防ぐ効果があるのです。
三権分立も、この思想が背後にあります。ただの偶然ではありません。
その形骸化をするとなれば、曹操にせよ、ナポレオンにせよ、手段が一致する点においては何ら不思議もありません。
曹操のこの動きを見て、警戒心を募らせた人々がいても、それはおかしくありません。
曹操は【三公】を廃したあと、国そのものを【三分裂】させることになるのです。
さて、あの決戦前夜。
曹操は、ある人物を死に追いやりました。
孔融(153ー208)です。
孔子20世の孫であるとされています。
幼い頃から天才として有名で、清流派の一員として名を馳せておりました。
後漢末の混乱の最中、転々として曹操陣営に加わり、
【建安七子】(孔融・王粲・陳琳・徐幹・阮瑀・応瑒・劉楨)
の一員にも数えられています。
フィクションでは、孔子の子孫であることを鼻にかけていた優等生的な描写もされることがあります。
ただ、これはどうにもしっくり来ない。
曹操の文壇で活躍する前提条件として、儒教的な価値観と距離を置くことがあると考えられるのです。
孔融の発言にも、親子の基本的な情を全否定するような、現代の目から見ても過激なものが多いのです。
奇矯で過激な言動で知られる禰衡(173ー198)とも、気があっています。
ただ、これがおそろしい結果につながるのです。彼らは自由過ぎました。
禰衡の、あまりに過激な発言にいらだった曹操は、建安3年(198年)、劉表の使者に送りだしました。
これが、ろくでもない発言をして殺されることを期待していたのではないかと思われるのです。
案の定、劉表配下の黄祖によって殺害されました。
友人をこんな罠にかけられて、孔融は反発があってもおかしくありません。
曹操との対立が深まる中、曹操が赤壁へと出陣した留守中に、孔融の過激発言を弾劾する告発があったのです。
この発言は禰衡とのトークバトル(のちの【清談】原型)中に冗談半分で言ったようなもので、本気とは思えないものです。
些細な揚げ足取りをされて、孔融は妻子もろとも処刑されました。
なぜ、孔融は死へと追いやられたのか?
曹操が孔融のろくでもない発言を憎んで殺すにせよ、どうしてこのタイミングなのか?
計画的であることは確か。
世間の反発をある程度考慮したのか、留守中に殺すことで曹操卑劣なごまかしの形跡は見え隠れしています。
そんな小細工を使用と、世間は見逃しません。
曹操はあの孔子の子孫ですら容赦なく殺すということ。
才能を愛する一方で、幼いながらも才知溢れる孔融の二子も、ここに加えるのです。
孔子の子孫を殺したこの行為は、曹操の非常識、悪行として語り伝えられてゆくのです。
用意周到でありながら、その一方でどうしてこんなに杜撰なのでしょうか。
【赤壁】誤算と審判
預言者:
三月十五日に、お気をつけなされよ……
『ジュリアス・シーザー』第一幕第二場
このあとの歴史の流れから、曹操は主役の座にはもはやとどまることはできません。
反董卓連合の中一人気を吐いていた青年将軍はもう舞台の上にはいない。
そこにいるのは、倒されるべきスーパーヴィランなのです。
物語主役の座は、周瑜がふさわしい。
ジョン・ウー監督『レッドクリフ』は、あるべき人物を主役に据えたまでのこと。
その前半部は、早々から逃げ惑う劉備一行の姿を見なくてはなりません。
劉備は、この前後で別の顔を持つ軍団に変貌をとげます。
建安12年(207年)、諸葛亮を配下に加えた劉備は、もはやただの将ではなくなった。
魂と思想、来るべき世界のかけらを手に入れたのです。
そして後半は、もう一つの世界が曹操の進路を遮るのです。
『レッドクリフ』の主役である周瑜です。
-

周瑜は正史が激カッコいい!赤壁の戦いで魏を打ち破った智将の生涯
続きを見る
周瑜の言動を探れば、曹操は敗北するべくしてそうなったことがわかります。
曹操は、天命を盲信してはいない。
まぎれもない人によって、敗北した。
それはなぜなのか?
赤壁の戦いを曹操の目線から見るとすれば、敗因を探ることこそ、意義が大いににあるのです。
曹操は、周瑜と諸葛亮にだけ負けたのではありません。
無数の人の恨み、そして彼自身の慢心があったことを考えねばならないのです。
◆江東の台頭
→当時の人々にとって、江東は山越族はじめ漢民族以外が割拠する未知の世界でした。いわばフロンティアです。
【中原に鹿を逐う】という言葉が示すように、長いこと政権の基盤は黄河流域を指していたのです。しかし、このころはもう江東を無視できなくなっていた……そのことを、曹操は気づかなかったか。彼よりもむしろ時代の流れを敏感に感じ取っていたのは、孫策の意思を継いだ周瑜、魯粛、諸葛亮らでした。
かつて時代の流れについていけないライバルたちを、何もわかっていないと嘲笑していた曹操。彼はいつしか、時代が理解できていない、アップデートが停止した側になっていたのです。
◆二喬が欲しかったのか?
→曹操が赤壁に進軍した理由を、孫策と周瑜の妻である大喬・小喬姉妹に求めること。このことは、荒唐無稽であると一蹴できるものです。
『三国志演義』等でその根拠となる曹植『銅雀台の賦』成立は、建安15年(210年)。赤壁の二年後です。
唐・杜牧は、『赤壁』でこう詠んでいます。
これは文学者特有のフィクショナルなセンスであり、史実とみなすことはできません。
折戟沈沙鐵未銷 折戟沙に沈みて 鐵未だ銷せず
自將磨洗認前朝 自ら磨洗を將て 前朝を認む
東風不與周郞便 東風周郎の與に 便せずんば
銅雀春深鎖二喬 銅雀春深くして 二喬を鎖さん
【意訳】
折れた戟が砂に沈んでいて、鉄が錆びてボロボロになってはいなかった
手に取って磨いたら、昔のものだとわかったんだ
もしも東の風が周さんのために吹かなかったら
銅雀台の奥深くに、二喬が閉じ込められていたんだろうねぇ
孟徳さんの気持ちになって、要点から言いましょう。
「おめーよー、いい歳こいて城の奥にピーチ姫が閉じ込められているレベルの与太話、信じてんのか、このダボがッ! ミスコン開催すれば美人なんていくらでも手に入るのに、そんな理由で戦争するかーッ!」
こう、一刀両断はできるわけですが。
そういうことになる背景は、ないわけではありません。
・二喬は「橋」が正しい。曹操が保護を頼まれた橋玄の娘という可能性は完全否定できない
→年齢を考えると疑念は残るものの、三公になった橋氏はさほどいない。嘘であると断定はできません。とはいえ、開戦動機としては薄弱。
・曹操はじめ、曹一家の貞操観念は逸脱傾向がある
→宛城の戦いにおいて、曹操が未亡人と情事を楽しんでいたのか? それが決定的な敗因と言えるのか? その点については疑念を呈してはおります。
ただ、そういう噂が流れてもおかしくないほど、性生活が自由闊達であった可能性は十分考えられます。
曹操には、青州兵の母体となった黄巾賊も理解を示していました。彼らは性的な奥義を追求する黄老思想を信奉していました。曹操が同じ道に理解を示し、逸脱したとしても、それは十分にありえることです。
・曹丕の妻は甄夫人
→曹丕が、袁煕の妻であった甄夫人を自分の妻としたこと。このことは消せません。それを曹操が止めるわけでもありませんでした。我が子の自由恋愛を認めたのかもしれませんが、それがどう思われるかまで考えていたのでしょうか。
甄夫人と曹植との悲恋も、文学としては美しかろうが倫理観を逸脱しています。義姉と義弟なのですから。
この一連の行動を見ていて、なんて非常識でぶっ飛んだ性的規範なのか、眉をひそめた人がいても、おかしくはないのです。
・曹操は女性の意思を尊重し、そのために労を惜しまない
→曹操は丁夫人の強気な態度に降参し、手も足も出ないまま、離婚しました。
蔡琰奪還のために、曹操が労を惜しまなかったことも確かなのです。それそのものはよいことなのです。性欲のためにそうしたわけではない。けれども、当時の価値観においては奇妙なことでした。
男と比較すれば価値を認められない女。しかも、異民族の男に身を許した女に、そこまで入れ込む。そんな異常性のある曹操ならば、二喬に執着してもおかしくないのではないか?
そんな邪推がなかったとは、言い切れないのではありませんか。
杜牧や羅貫中はじめ、文人たちがおもしろおかしく脚色したことは、否定できない事実です。
それを真に受けることはナンセンスではある。
ただ、当時の人からしてみても、曹操にはどこか奇妙で異常なところがあった。
その点に警戒心を抱き、妻や娘、姉妹を守るために団結したとしても、荒唐無稽なことではないのです。心理的にみれば、ありえることです。
曹操は、性的な欲求も含め、森羅万象を激しく愛し、求めていた。
けれど、そのことが周囲からどう思われるのか。そのことには無頓着ではなかったか? そこはどうしても考えてしまいます。
◆張松をすげなく追い払う
→赤壁前夜、荊州に進軍した曹操の元に、劉璋から張松が派遣されていました。楊修はその才知を見抜いたにも関わらず、曹操は張松に塩対応を取ります。こののち、張松は劉備に期待を寄せ、蜀獲得の計画を立てることになります。
このとき、張松を追い払ったことは曹操の大きなミスでした。
孟徳さん……ご自慢の才能を見抜く目は、どこへ行ったのでしょうか?
◆自分の嘘を見破られると警戒しなかったのか? 周瑜や黄蓋の嘘を見破られなかったのか?
→周瑜の策は見事です。しかし、彼の見事さだけではなく、曹操の迂闊さも気になるところなのです。
周瑜の見立て通り、曹操は『孫子』に注釈をつけたとも思えないほどのミスを連発している。
最大のものは、黄蓋の偽装投稿を信じたことでしょうか。即座に信じるわけでもなく、一応疑念を抱いてはいるのです。それでも結果は、ああなってしまいました。
これまでの、曹操の家臣を思い出してみましょう。荀攸、賈詡、辛毗、張遼、張郃、陳琳……錚々たる面々が、元の主君を裏切って彼に投降しています。中でも許攸は、曹操にとって官渡大勝利の鍵となったほどでした。
官渡の戦いの後。曹操は味方陣営から出てきた、裏切りをにおわせる証拠物件をまとめてを焼き捨てました。自分も含めて、強い力に挫けて裏切りを仕掛けることは、人間の本質だと断言しながら。
裏切りこそ、人間の本質だーー曹操はそう信じてしまっていたのかもしれません。
◆【徐州大虐殺】の怨恨
→呉と劉備配下には、徐州大虐殺から逃れた人々がおりました。彼らからすれば、曹操は自分たちを襲い殺し食べる、そんな猛獣でしかないのです。
自分につながりのある誰かを殺されたら、怒りと恨みが残ることを、曹操は学べなかったのでしょうか。悩むだけ無駄だと割り切ってしまったのでしょうか?
我が子・曹昴と甥・曹安民、そして典韋を思い、涙したはずなのに。
丁夫人と別れ、心を痛めたはずなのに。
自分がその原因である賈詡を迎えられたのだから、他の人もそうなると思い込もうとしたのでしょうか?
それは、彼の誤算でした。
官渡の投降兵大量処刑も、敵対者にプレッシャーを与えました。
【窮鼠猫を噛む】危険性を、曹操は忘れたのでしょうか?
◆郭奉孝と我が子・倉舒は、どうしてこの世にいないのだ……
→大敗戦を受け、曹操はこう嘆いています。
「郭奉孝さえ生きていれば、こんなことにならなかったのに!」
この大敗北の前年、郭嘉は38歳という短い生涯を終えていました。
思えば荀彧の推薦で二人が出会った時、互いにこう思っていたのです。
「こいつだよ、こいつさえいれば、俺の思うままになるんだ!」
「この人こそ、我が本物の主君だッ!」
曹操って、実は友達が少ないんです。
いや、友達というと語弊があるのでしょうが、気の合う相談相手が多くはない。
武勇に長けた将軍はまだマシ。いわゆる軍師タイプはプライベート交際は避ける傾向すら見られるのです。
例えば賈詡は、いろいろあったとはいえ、プライベートでは絶対に会おうとしませんでした。理由はお察しください。
郭嘉は、曹操が公私ともに仲良くできる数少ない一人です。
郭嘉も癖の強い性格で、しばしば「あいつは一体、なんなんですか!」と糾弾されていました。
曹操は、奉考はそこがいいと庇ってきたのです。
そういう、公私ともにつきあって、相談相手になってくれる郭嘉がいなくなっていた。
ここであげてきた迂闊なミスも、郭嘉ならば突っ込みつつ、止めてくれたかもしれない。
曹操は、大好きな郭嘉の死でメンタルが悪化していたようです。
「哀しいよ、奉孝! 痛ましいよ、奉孝! 惜しいよ、奉孝……」
そう嘆き悲しんだ理由には、何か当人同士ならではの深いものがあるのでしょう。
この年、もう一人最悪の人物を亡くしております。
曹沖(母・環夫人、196ー208)です。
曹沖は幼い頃から賢いものでした。
孫権から象を贈られたときのこと。
「はい、問題です。この象の重さはどうすればわかるでしょう?」
曹操の問いに、誰もが頭を悩ませていたとき。
僅か5歳の曹沖は答えました。
「象を船に乗せて、沈んだところに印をつけます。象をおろして、そこまで重石を載せてゆけば、わかります」
【アルキメデスの原理】です。
彼が幼くして亡くなったとき、曹操は夭折していた甄家の少女とともに埋葬されました。冥婚です。
ここまではまだよいとして、慰める曹丕への態度が酷い。
「この俺の不幸は、お前たちにとっては運がいいってこと(=後継者ライバル消滅)だな……」
孟徳さん、そんな言い方、ないでしょうに。
曹丕だって、弟を失っているんですよ。
曹操の運命まで焼き尽くした、赤壁という審判。
『三国志』の記述が意外とあっさりしているから、赤壁が大したことがない。
そんな論調もありますが、論点を整理しつつ、否定しましょう。
・曹操が負け惜しみ、悔しがって過小評価したところで、主張者のバイアスがあるから信憑性に疑念がある
・劉備も同様。そもそも劉備は、この戦いではさしたる活躍はない
・『三国志演義』以下、フィクションと比べると地味って言われましても。盛りに盛った記述を削除すれば、シンプルであることは当然の帰結です。
・史書の記述を過小評価しようとも、発掘された武器が証拠となる。現に形跡は残されている
・曹操はじめ、当時の人物の軌跡や思考に明確な変化がある。たとえ赤壁を無視しようと、この歳を境に劇的な変化があったことはわかる
孟徳さん、負け惜しみをするにしても、そんなすぐバレる嘘はやめましょうよ。
「た、たまたま疫病が流行したから、船を焼いて帰ってきただけだもんね!」
船をそこで焼く必要性ってありますか?
移動に必要なのに?
帰り道は泳げって?
節約志向のくせに、船を焼いてキャンプファイヤー?
何がしたいんですか?
それに、こうも言っているじゃないですか。
「あの周瑜に負けたのであれば、恥ではない」
誰をどうこじつけようが、大敗北は大敗北です。
しょうもない負け惜しみにつきあう理由はないのです。
【赤壁】――曹操の短所が跳ね返った、審判のような大敗戦であると思えてしまう。
天命じゃない。人の行く道を塞ぐものとは、人なのではありませんか。
人を観察し、人を愛し、人の持つ魅力を見出し続けたかった。
それなのに、人を思い通りにできなかった。
そんな曹操の人生を凝縮したような苦しみが、そこにはあるのです。
砕けた何かを求めて【求才令】
ホレイシォ:
そのご様子は、嚇怒よりも、沈鬱といったところです
『ハムレット』第一幕第二場
リチャード王:
この地に座って、命尽きた王たちの悲しい物語をしようではないか
『リチャード二世』第三幕第二場
赤壁の大敗戦は、曹操に決定的な打撃を与えました。
程昱(141ー220)はこれを機に引退していますが、いろいろ困ったことになると想像がついたのでしょう。
曹操は、反省点をまとめたようです。
水軍の本格的な編成にも乗り出し、新たな屯田にも乗り出しています。
建安14年(209年)には、揚州刺史(長官)劉馥が、合肥城で10万ともされる孫権軍を押し返しました。
そして建安15年(210年)、曹操は彼の真髄とも言える【求才令(求才三令、求賢令)】を出すのでした。
まとめるとこんなものです。
「素行不良ということで、世に出ない才能がある。そういうことでは、埋もれる奴がいるから。私はそこは無視する。才能があればともかく推薦してくれ!」
これは曹操が終始一貫して主張してきたことであり、なんとなくぽっと思いついた話でもありません。
郭嘉と賈詡は、素行不良のためしばしば周囲から非難を浴びていましたが、曹操本人は気にしておりませんでした。
袁紹相手にも、「天下の智勇を集めて統制すれば不可能はない!」と言い切りました。
蔡琰奪還のために、労を惜しんでもいない。
この元をたどってゆけば、素行不良少年だった自分自身を橋玄が認められた喜びがある。
減点式ではなくて、加点式で人材を見つける。
一貫性のあるシンプルな態度を明文化したわけです。
そしてこの頃、ある人物がしぶしぶ曹操に仕えるようになっております。
司馬懿(179ー251)です。
なまじフィクションで諸葛亮のライバルとされるため、誤解があります。
曹操は、ともかく司馬懿を頼りにした。支えた。彼なしでは曹魏政権はない――それはどうでしょうか。
因果関係はむしろ逆でしょう。
曹魏あっての晋です。
司馬懿の才能にケチをつけるわけではありません。
ただ、曹操にとって唯一無二の存在ではなかった。その役割を探すとすれば、荀彧や郭嘉のほうがふさわしいのです。曹丕と曹叡の人生においては唯一無二でも、曹操にとっては違います。
そんな本音と、建前も表明しています。
劉表を討ち、天下平定をしたと宣言したのです。荊州を奪ったことで、ゲームセットだとこじつけているのです。
この観点からは、赤壁の大敗はスルーされています。
ただ、そんな曹操の論理破綻を、誰も彼もが見逃せたわけもないのです。
沸騰する関西
諸葛亮や周瑜は、曹操は西が弱いと喝破しておりました。これはその通りなのです。
関中・涼州は、羌族との武力衝突が多い地方でした。
後漢末期は、董卓はじめこの方面から将軍が中原に乗り込んできたものです。
曹操としては、もう見逃すわけにもいかない状況です。
荀彧の策もあり、曹操は韓遂・馬騰相手に和平を結んでいました。これが赤壁の敗戦によって、揺らぎ始めたのです。
しかも、事態がなかなかややこしい!
中原には、曹操がいる、
江東には、孫権がいる。
ならばどこが空いているか?
蜀、つまりは現在の四川省。そう狙いを定めた諸葛亮の策を得て、劉備が情勢を動かすようになっていたのです。
建安16年(211年)、曹操は宗教団体五斗米道・張魯による勢力に狙いを定めます。
夏侯淵を派遣し、この漢中を討伐することにしました。五斗米道は曹魏に服することとなります。こうした宗教団体も、曹操には待望論を寄せるようになったのでした。
劉璋陣営は、これを受けて反応を示します。
漢中の次はこちらの番だと恐れ、劉璋を見限った張松・法正らが劉備を蜀に引き入れるのです。
ドミノ式に、こうした動揺は関西の将軍にまでおよびます。
その筆頭が、馬超(176ー222)でした。
曹操は、馬超対策をしていなかったわけではありません。
宛城の敗戦から、人質を取ることを学んでいました。馬超の父・馬騰を朝廷の警備隊長として招聘し、手元に確保していたのです。
馬超にも招聘はあったものの、拒否していました。
この馬超が韓遂と組んで、武装蜂起したのです。
曹操は曹仁を派遣したあと、自ら出兵しました。
【潼関の戦い】が、かくして火蓋を切ります。
これも、主役である馬超側の目線で見たほうがよいかとは思います。
要点をさっくりとまとめましょう。
◆曹操、馬超の猛攻によってピンチに陥る
→丁斐と許褚のおかげでなんとか助かりました。典韋亡き後、裏表のないボディガードとして、曹操が大事にしていた人物です。
「お前ってばマイ樊噲(劉邦の護衛)❤︎」
曹操はともかく許褚が大好きでした。ニックネームは【虎痴(=虎みたいに強いアホ、発音も似ている】」。今回は彼のおかげで、曹操は助かりました。
でも、それはそれ。これはこれ。
「さぁ、お仕置きの時間だよ……」
となります。
◆偽手紙で引き裂くぞ!
→どうにも前述のピンチが強調されていますが、あれはあくまで最悪の事態でして。戦術面では絶好調です。嘘じゃありませんよ!
賈詡はここで、お手紙作戦を提案します。伏せ字やあやしい箇所だらけの手紙を韓遂に送り、馬超を疑心暗鬼にしたのです。
「うわっ……俺の同盟者、曹操と密通している?」
さらに、韓遂と馬上で親しげに会談をして見せつけ、心理的揺さぶりをかけるのです。
この策が当たります。馬超・韓遂軍にはヒビが入り、弱体化したのです。やったね!
◆敵の得意戦法を見切るんだ!
→赤壁の敗因として、水軍特性をうまくつかめなかった点があるでしょう。その点、曹操は猛反省をしたのか、敵が得意とする長矛対策を取っております。
中央に囮として軽装歩兵を置き、そこを敵兵が蹂躙したところで、左右から重装騎兵で挟み撃ちにする。そんな冴えた戦術がそこにはありました。
◆そして訪れる、馬超にとっては悪夢のお仕置きタイム
→曹操は、人質にとってあった馬騰を筆頭に、馬一族を滅しました。
孟徳さんの気持ちになれば、
「それが人質の有効活用だろ? ここで見逃したら、人質戦法が今後使えなくなるでしょ。そんな覚悟もなく反抗したの? 見通しが甘すぎて意味不明だし……」
といったところかな。
馬超はこのあと、張魯を頼り、さらには劉備を頼り、蜀の【五虎将軍】となるのでした。
曹操はこのとき、自分を見ようと集まった諸将の前でこんなことを言ったのでした。
「よっ、曹公がそんなに見たいのか? どう? ごく当たり前の奴だろ? 目が四つあると思った? 口が二つ? そうじゃない。ただ、この頭の中に知恵が詰まってんだよな」
顔グラじゃない。パラメータを見ようね。
ここで、曹操お決まりのげんなりする締めくくりについて、触れねばなりません。
関西を平定した曹操は、【徙民(=強制移住)】を断行します。
気候変動、政治の混乱、戦乱、それに伴う食糧危機……その結果、中原の人口減は深刻なものでした。
それに対する即席の策として、有効ではあるのです。
ただ、これがのちに災いとなります。
強制移住によって【五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)】は苦しめられ、再起のときを窺いました。
そしてこれから1世紀を経た四世紀に中原に押し寄せ、乱世を引き起こすのです。
五胡十六国時代の幕開けです。
人の情を考慮しない、曹操の悪癖がまたも禍根を残すことになるのです。
彼自身の言葉を借りるのであれば、彼の頭脳には知恵だけではなく、災厄も詰まっていたのです。
彼の子房を殺した空箱
建安17年(211年)、曹操は前漢・蕭何と並ぶ特典を賜りました。
・剣履上殿(帯剣・靴を履いたした状態での昇殿許可)
・入朝不趨(皇帝の前でも、小走りをしなくてもよい)
・謁賛不名(皇帝から、実名で呼ばれない)
唯一無二の家臣となったと、示したわけです。
むろんこれは献帝の意思ではなく、曹操がそうさせたわけです。
建安18年(212年)、曹操にとっては痛恨の喪失が起こります。彼自身のもたらしたこととはいえ、取り返しのつかないことです。
幾人もの人士を推薦し、彼自身が曹操を支えてきた、そんな荀彧。
「きみこそ我が子房(劉邦のブレーンである張良の字)だ!」
そう呼んで、大切にしてきた存在。
しかし、いつしか二人の間には冷たい風が吹き始めていました。
孔融はじめ、士大夫と曹操はときに対立することがありましたが、決定的な破綻はあの赤壁の後から生じ始めているのです。
この契機に程昱は引退を決めていますが、荀彧はそうできなかったのでした。
孫権と対峙するために濡須口に向かう前。
董昭はじめとする曹操の家臣は、こう進言しているのです。
・爵位を進め、国公とすること
・皇帝から恩典として【九錫】を賜ること
この前例として、王莽がおります。
-

中国最悪のペテン政治家は王莽か?前漢を滅ぼして「新」を建国→即終了
続きを見る
それは、荀彧の望むことであったのか?
何に対して彼が反対したのか?
禅譲の前段階であるとみなし、漢王朝復興が成し遂げられないことがゆるせなかったのか?
赤壁の敗戦で挫折し、ゆがんでしまった曹操の理想。
それをごまかすようにする態度がゆるせなかったのか?
動機の断定は、難しいものがあります。
漢王朝再建をするのであれば、献帝を利用した時点で反対すべきではないか?
曹操の簒奪の手助けをしておいて、ここまできてやっとこの態度をとるのは、あまりに中途半端だという解釈もできるわけです。
天下統一を成し遂げて、新たな価値観を目指していたのに。その現実と向き合わず、いじましく名誉ばかりを追い詰める曹操に絶望した?
本人に聞いてみなければ、そこはもうわかりようがありません。
荀彧を忠臣とみなすか、曹操の悪事の片棒を担いだ人物とみなすか?
これは意見が分かれるところなのです。
確かなのは、彼が死んだということ。
還暦まであと10年、享年50でした。
曹操が濡須口へ向かったあと、病気で同行しなかった寿春で荀彧は死を遂げています。
表向きは、病死とされおります。
許都では殺せなくても、遠征中であればどうにでもなります。
『魏氏春秋』には、謎が深く、ゾッとするような逸話が記されています。
曹操から空の箱を贈られて、それが原因で荀彧は精神が崩壊し、死に至ったというのです。
臣下に自殺を促す場合、剣を贈ることは常套手段でした。
ではなぜ、空箱なのか?
従来、これはもうお前は空箱、用済みだと解釈されておりました。
しかし、これも状況からの推理に過ぎません。誰にもその意味はわかりませんが、参考文献を読みながら、私なりに考えてみました。
「きみこそ我が子房だ!」
こう曹操が語ったとき。それを聞いて荀彧が臣下に付くと決めたとき。
二人の間には、曹操が劉邦となり、荀彧が張良となるシナリオがあった。
ところが、赤壁の敗戦で予定は大きく狂った。
もはや、劉邦と張良のように全土を統一することはできない。シナリオは破綻した。
二人にとって、これは痛恨の極み。
人生の大半をかけて築き上げてきた計画と志が、空中分解してしまった。
曹操はその現実から目をそらし、歩もうとする。
荀彧にはできない。
曹操だって傷ついていた。苦しかった。そのことから目をそらしたいのに。
自分の分身である荀彧の顔を見て、言葉を聞くと、どうしてもその破綻に向き合うことになってしまう。
我慢できない。
もう、限界だ!
「私たちの二人の人生は、抱いてきた計画は、いわばこの空箱だ!」
空の箱だからやりなおそうと思うか?
それとも何もない、虚無だと解釈するのか?
曹操の解釈は不明ですが、荀彧はもう、これ以上生きられないと思ってしまったと。
そして、毒をあおったのか、あるいは精神を病んだのか。いずれかの原因で死んでしまった――。
空箱を贈られて、用済みだと察知して自害したという話そのものが、真偽不明です。
役立たずという解釈も、後世の推理です。
この空箱解釈にしたって、あくまで私の推理です。
直接的な動機も、死因も、空箱の真偽も不明です。
ただ、加害者と被害者はわかっています。
加害者は曹操で、被害者は荀彧なのです。陰惨極まりない出来事であったことも、確かなのです。
曹操は自分を支えた忠臣を苦しめ抜き、死へと追いやりました。
荀彧ほどの存在を殺すことは、彼自身を殺すことにもなるのだと、気づかなかったのでしょうか?
曹操は『孫子』に注釈をつけたほどであり、彼自身が知能に絶対的な自身を持っています。
呂布や劉備とは異なり、策を立てる家臣がいなければ困るわけではない。
だからといって、支える家臣がいなくてもよいはずがありません。
自分自身の向かう道が正しいのか?
この策でよいのか?
家臣たちの反応見て確かめるために、反射板のようにするためにも彼らは必要であったはずなのです。
そんなかけがえのない一人を失って、曹操はどこへ行こうとしていたのでしょうか。
遼来、遼来!
翌建安18年(212年)、曹操は濡須口で孫権と対峙します。
なんとしても、孫権を叩いておかねばならないと感じていたのです。
孫権は建業(=業を建てる、新規事業スタート)を拠点とし、やる気を見せています。
この建業はのちに南京として栄えるわけであり、孫権の目の付け所は実に正しいのです。この都市は、のちに世界最大級のものとなり、明と中華民国の首都に指定されています。
そんな偉大なる年が生まれたこのとき、歴史は動きつつあったのです。
この対戦で曹操は、孫権の水軍を見て感心しています。
「へー、孫仲謀ってばやるなぁ。息子を持つならこういう奴がいいね。これと比べたら劉景昇(劉表)のガキどもなんて、豚や犬並だわ」
そう言い残し、勝ち目がないとわかると撤退しています。
孟徳さん、孫権を褒めるのであれば、それだけでよろしいのでは?
劉表の息子をきつい言い方で罵倒する必要ありますかね? いちいち一言多いんだ……。
曹操は、ただ見ていたわけでもありません。
孫権の利点を分析した上で、建安20年(215年)を迎えます。
合肥で対峙した曹操は、彼らしい秘策を授けておりました。
10万の守備兵に、張遼率いる8百の決死隊が襲いかかったのです。
ここまで兵力差がある場合、こんなことはまずできません。異常事態です。
到着後浮き足立っていたという要素はあるものの、あまりに規格外で対応できません。
呉の名だたる将がいるにも関わらず、張遼がリアル『三國無双』をしてしまったのでした。
呉はこのことがトラウマとなり、
「遼来遼来!(張遼が来るぞおーッ!)」
という言葉が流行したほど。
張遼も素晴らしいのですが、曹操側も頑張って水軍対策を練っていたと思われます。
準備を周到にすれば強いんだ。赤壁の敗北は、雑な事前準備が災いしたのでしょうね。
建安21年(216年)、曹操は調子に乗りましてこう言い切ります。
「歩兵と騎兵40万で、軍馬に水を飲ませようツアー開始ィ!」
孟徳さん、赤壁では「80万で狩猟ツアー!」でしたっけ。
そういうよくわからない挑発をしながら進軍することは、何かフラグを立てておりませんか。それも文才だということはわかるのですが。
まぁ、今回はそこまでひどいことにはなりません。
呉の甘寧が本陣に夜襲を仕掛けてきて、冷や汗をかいたくらいです。
横山光輝『三国志』における、「甘寧一番乗り!」ですね。
フィクションで強調されるほど被害甚大ではありませんが、本陣を夜襲されるだけでも十分屈辱的ではあります。
このことに、孫権はこう勝ち誇ったとか。
「孟徳には張遼がいるけど、こっちには甘興覇がいるからな!」
はいはい、逆張り強がりお疲れ様でした〜……というのは言い過ぎですが、張遼の一撃目の方が強烈ではありました。
孫権の息の根を止めることは、曹操だって難しいとは痛感していました。
これは地理的なものもあるのです。
長江を突破することは難しい。時代がくだると、長江を境に建国する国が出現します。
この大河は、中国史において重大な意味を持つのです。
虚しき魏王の座
荀彧が絶望し、孫権と劉備が認めなかった、曹操の中途半端な覇業。
曹操は、それでも制度を固めて、成し遂げようとしたあとが見えます。
荀彧の最期の前後から、曹操は内政改革も行なっています。
魏公国建国です。
・魏国社稷・宗廟建設
・曹操の三女(曹憲・曹節・曹華)が献帝の後宮に入る。建安20年(215年)、伏皇后が廃されたあとは、曹節が皇后となる
あわせて、国のシステムの整えてゆきます。
建安20年(215年)末、漢中を征西将軍・夏侯淵に任せます。
どうにもパッとしない夏侯淵は、こう陰口を叩かれたとか。
「親戚だから優遇される【白地(=なんとなく任命、コネ枠)将軍】だろ……」
曹操も、歴戦の勇将を補佐につけてはおります。
建安21年(216年)、ついに曹操は魏王にまでのぼりつめます。
あとの皇帝への道のりは、曹丕に託されたのです。
なぜ、曹操は皇帝の座にのぼるという総仕上げをしなかったのか?
これについても、私なりに考えてみました。
皇帝とは、始皇帝が全土を統一してからの称号です。
それ以前は、王なのです。
全土を統一しないで皇帝というのは、おかしな話ではありませんか?
袁術はじめ、統一しない状態で名乗った皇帝が出たことをふまえた後世の者からすれば、ひっかかるわけでもない。
ただ、当時の曹操としては、そんな整合性不一致は納得できなかったのかもしれない。
全土を統一して、皇帝となる。
高祖と並ぶ。
側近の荀彧は張良となる。
その志が破綻したからには、もう王だろうが、皇帝だろうが、同じこと。
破綻は破綻、空箱なのだ。
そんな心境であったかもしれない。そう想像してしまうのです。
建安文学と後継者問題
ヘンリー王:
戦の物語は父から子へと語り継がれる
この日から、末世まで
クリスピアンの日が来れば必ずや
今日の武勲は語られ、我らは思い出されるであろう
『ヘンリー五世』第四幕第三場
ここで、決着しなければならない、重大深刻な問題もあるのです。
後継者選定です。
卞夫人の生んだ三人の男子は、どれも優秀ではあるのです。
長男:曹丕(187ー226) バランス型。知勇兼備
二男:曹彰(190ー223) 勇猛で軍事の才能がある
三男:曹植(192ー232) きらめくような文才と、闊達な知性
人の才能を愛してやまない曹操は、我が子に対してもそうでした。
曹彰が烏丸討伐で功績をあげると、曹操はその黄色い髭をつまんでこう喜んだそうです。
「黄色い髭ちゃん、すごいことやったね!」
我が子のダメ出しもえげつないという傾向もみられますが、振り幅が激しいのでしょう。
曹植は、その文才ゆえに繊細でたよりないと思われがちではありますが、そう単純な話でもありません。
軍事的才能もあり、何より知性にあふれていました。残された言動からすると、性格的には曹操に近いと感じられます。
丁儀や楊修といった新進気鋭の家臣も、彼の支持に回っています。ただの文才だけの人物であれば、そもそもが後継者争いは起こらないのです。
曹操は、我が子かわいさだけによって曹植を選ぼうとしたのか?
曹操は、曹植に似たところがありすぎたのかもしれません。
自分自身の激情、振り幅の大きさが周囲を巻き込み、失敗し、取り返しのつかない失態を繰り返したことを、曹操は冷静になって思い出せたのかもしれません。
迷ったことは確か。それはわかります。
曹操は詩人でもあります。
曹操は、中国文学史において大きな足跡を残しているのです。
漢王朝まで正統派文学であった【賦】ではなく、民間歌謡である【楽府】に曹操は着目しました。
【賦】:読むことを前提としている
【楽府】:即興で歌うもの
曹操は、詠み人知らずの【楽府】に作者名を刻み、見てきた情景と心情をフィルムで切り取るようにして、詩に詠みこむことを始めたのです。
高いところに登れば詠む。寒い行軍の歩みを詠む。目にした死屍累々の惨状を詠む。
酒を飲んで詠む。大きな志を抱いて詠む。胸と腸が張り裂けそうな思いを詠む。
彼は【楽府】で思ったことをその場で即興として、文章を通して残したのです。
興奮状態がそこにはあったのでしょう。
曹操のその即興詩人ぶりは、後世蘇東坡『赤壁賦』で詠まれました。
横槊賦詩 槊を横たえて詩を賦す(武器を横において詩を詠む)
そんな人は、この前にも、後にも、なかなかいなかったんですよ。
だからわざわざ、その姿を詠まれたわけです。
曹操はともかく高い場所に登る等してハイテンションになると詩を作り、その場でバンド演奏させて歌っていたそうです。
若い頃から、ずっとそういうノリが大好きだったと。曹操は、自らの頭脳からこんこんと湧き出す詩で、世の中を変えたかったのです。
その文才は、二人の子・曹丕と曹植が引き継ぎました。
もしもどちらかに文才がなければ、曹彰でなければ、話はこじれなかったのでしょう。
曹丕は、性格が生真面目で、バランスも取れていて、端正な文才がありました。曹丕は、イヤリングの中から無難なものを選ぶ。そんな母・卞夫人の長所を引き継いだのでしょう。
父の考えも理解していました。
『典論』「論文」には、そのエッセンスが凝縮されています。
蓋文章経国之大業、不朽之盛事。 蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事なり(文学こそが国を治める偉大なる事業であり、決して朽ちることのない盛事なのだ)
曹丕も、詩人として名高いのです。
ただ、曹植はそれどころではありませんでした。
この父子の詩人としての評価は、南朝・鍾嶸編纂『詩品』(詩人ランキング、三段階評価)ですと、こうなります。
曹操:C 勢いとセンスはありますが、粗い。もうちょっと工夫があってもよいでしょう
→即興で詠んでいたこと、パイオニアであることを考えれば妥当でしょう。酔っ払って詠んだのかと突っ込みたくなるところも
曹丕:B 端正です。バランスが取れていますね。けれど、もうちょっと遊び心があってもいいかな?
→極めて真面目でバランス感覚がある。反面、確かに遊び心がない
曹植:A 最高、これ以上はありません!
→彼の作品には無限に広がる世界観があって、宝石箱のようにキラキラとしています!
夜空から星が落ちて、花になって咲いたような、琴の音色や風の香りをそのまま詩にしたような――あまりに繊細で、華麗で、豪快な文才の持ち主でした。
唐以前最大の詩人とは、この曹植なのです。
生まれながらにしてあったその文才を、人生で起きた苦しみが刃とヤスリとなって、さらに美しく磨き上げていったのでした。
文章こそが、世界を変える。
陳琳の名文で頭痛も吹っ飛ぶ。そう信じる曹操が、曹植の文才を見て、どれほど迷ったことか。
曹操は結局、妥協を選ぶしかありませんでした。
儒教を重んじる士大夫の体面も考えたのでしょうが、それだけとも思えません。
曹植のきらめく文才は、浮き沈みの激しい感受性と表裏一体でもありました。
「曹丕はバランスがとれている。後継者になれるのは彼だ。曹植は性格の振り幅が激しいからダメだな……」
孟徳さん、自分を客観視できていませんか?
自分の欠点を、我が子に見出していませんか?
彼自身、自分の激情がどれほど周囲を巻き込み、傷つけ、苦しめたのか、わからないわけでもない。
陳羣と司馬懿の信任を受け、曹丕は弟との争いを制して、後継者に指名されたのでした。
そしてここでもうひとつ、考えたいことがあります。
当時後継者争いを起こしたのが、曹操だけではないということ。
袁紹にせよ、孫権にせよ、劉表にせよ……複数才知ある男子がいれば起こっている事態なのです。
長男以外を後継者にすることそのものが、後世からすると異常事態、愚行、我が子可愛さに迷ったことのように思えます。
しかし、こうも重なるとなると、果たして当時は長子相続が当然であったのか、考えてみる必要があるのではありませんか?
乱世を乗り切るからには、生まれ順や生母といったう要素だけではなく、才能を吟味せねばならない。
儒教倫理が崩れる中で、そう判断したとしても、おかしくはない。
そしてこのことは、時代の先取りとも言えます。
暗君が続出し、根から腐っていたような明。
そのあとの清は、後継者選びにおいて、画期的なシステムを確立します。
【太子密建】です。
・皇帝は生前に後継者を決定しない。何度選びなおしてもよい
・勅書で封印した後継者は、紫禁城・乾清宮にある額の裏に置いておく
・崩御の後、立会いのもとで開封し公表する
後継者の資質を見定めながら、無用な後継者争いを発生させない。
画期的なシステムです。
その甲斐あってか、明と比較すると清は問題のない皇帝が多いものです。
このシステムにも問題がなかったとは言い切れませんが、世界史的に見ても素晴らしい選び方といえるでしょう。
それも、数多の失敗をふまえてのことではあります。
その中には、曹操・曹丕・曹植、そして卞夫人の涙。
彼ら側近と、この兄弟に愛された甄夫人の血が含まれていても、おかしくはないのです。
【鶏肋】がどこにあるのか?
マクベス夫人:
血の臭いがまだ残っている、
アラビアから取り寄せた香料を全て使おうとも
私の小さな手に染み付いた臭いは芳しくならない!
嗚呼、嗚呼、嗚呼!
『マクベス』第五幕第一場
曹操の最晩年には、彼らしからぬ過ちも見られます。
そのひとつが、建安19年(219年)に起こります。
【定軍山の戦い】です。
劉備配下の黄忠に夏侯淵が大敗を喫し、諸将を巻き添えにして戦死を遂げるのです。
総大将クラスまで討ち死にするということは、異常事態であり、悪い兆候です。
日本で言えば【長篠の戦い」がその一例でしょう。深刻な破綻の前兆とも言えます。
曹操らしからぬミスでした。
曹操は、戦術面でのミスは割とやらかしております。彼自身、若い頃から何度も負傷し、馬を失うことすらありました。
ただ、それも自ら撃って出る果敢あが裏目に出た面もあるのでしょう。
夏侯淵の敗戦は、もっと深い破綻がそこにはあります。
前述の通り、夏侯淵は味方からすら、親族だから起用されただけだと批判対象であったのです。
親族だから優遇し、敗北する。若き日の曹操が見たら、大笑いしそうなあやまちではありませんか。
賢いと日頃から言いながら、なんというザマだと。
漢中にとどまる自軍に、曹操はこう一言だけいうのです。
つぶやいたのか、それとも謎めいた司令として出したのか。状況ははっきりとはしません。
ただ、その一言は残っています。
「鶏肋、鶏肋……」
楊修はその意味を悟ります。
鶏肋とは鶏の肋のこと。捨てるのは惜しいものの、わざわざ食べるほどのものでもない。
漢中を捨てて撤退しろということだと。
これをもって撤退するわけですが、楊修はこの後処刑されています。曹植の側近であったことは考慮せねばならないのでしょう。
赤壁直前、曹操がそっけなく追い払い、禍根を残した張松の真価を見抜いていたのも、この楊修です。
またひとつ、謎がここにはあります。
曹操はなぜ怒り、楊修を死に追いやったのか?
【鶏肋】を勝手に解釈し、無断撤退をしたから?
あるいは【鶏肋】を解いた頭脳に嫉妬したから?
自分自身の苦い思いを察知できることが、怒りを招いたから?
それともこじつけ?
この地域の住民を強制移住させて、空っぽのどうでもいい場所にしていたから、くれてやってもいいって?
真相は、わかりません。
曹操は、後世の人間を混乱させる謎をいくつも残しています。
はっきりしていることがあるとすれば、漢中は【鶏肋】ではなかったということ。
天下統一を果たし、皇帝をめざしていたのであれば、中国全土どこにも捨てるところなど、なかったでしょうに。
孟徳さん、「鶏肋」とは、あなたの負け惜しみだったのではありませんか?
薤露行、消える朝露
事実、漢中は「鶏肋」ではなかったのです。
劉備が【大司馬】、【漢中王】と自称したのですから。
実のところ、劉備が本当に漢王朝の血を引いていたか、誰にもわかりません。
しかし、劉姓を名乗るからには、曹操よりはずっと信憑性があります。
荀彧が張良で、曹操が高祖劉邦――そう語り合った夢が、劉備によってまたひび割れてゆきます。
鄴ではこの年に魏諷主導の謀反が発覚し、またも数千人が誅伐にあうのでした。曹操はその足元すら、揺らいでいたのです。
曹操をすぐに滅ぼすほどの力はなくとも、漢王朝再興を夢見る人の拠り所にはなるのです。
そしてその願いが、力にもなる。
徐州はじめ、無用な血を流した曹操への反発も、劉備の推進力となり得ます。
建安24年(219年)、そうした力を得て進軍した関羽と、樊城を守る曹仁がぶつかり合いました。
この戦いは魏と蜀の争いに、呉も加勢する『三国志』らしい戦いとなります。
魏と呉の連携によって、関羽は敗死します。
このとき、孫権は曹操に臣従を誓っております。孫権は、曹操には天命があるとおだててくるのです。
曹操はその手紙を家臣に見せました。
「このクソガキ、俺を炎上ポジションに座らせて、ケツに火をつけるつもりらしいぞ」
孫権は皇帝になれと示している。その手には乗るか! といったところでしょう。
曹仁救援に向かっていた徐晃を、曹操は出迎えます。
このときの曹操を一目見ようと、兵士たちがざわめいています。
徐晃の隊列だけが整然としており、曹操はこう讃えました。
「素晴らしい統率だ。徐将軍こそ周亜父(前漢の名将)だね」
このころ、曹操の肉体は滅びつつありました。
持病の突き刺すような頭痛、歯痛、衰弱する肉体から、彼が終局を察知できないはずがないのです。
建安25年、曹操は洛陽で生涯を終えました。
享年66。
このとき、曹操は遺言を残しています。
「天下はまだ安定していない。葬式終了次第、喪服を脱いで一切の服喪禁止。兵士を指揮するものは部署離脱禁止。職務を遂行しろ。平服で埋葬して、金銀宝石類を入れないこと」
孟徳さん、最期の最期まで、合理主義者気質丸出しの業務連絡ですか……。
そしておそろしいことに、曹操の物語は命とともに終わらなかったのです。
やたらと長い本稿もまだしぶとく、続きます。
その死後
リア王:
この私は罪業を犯したというよりも、存在そのものが罪業なのよ
『リア王』第三幕第二場
ここまでが、正史での遺言ではあるのです。ここから先は、彼の墓が出来上がってからのこと。
曹操、追悼文で失望され、墓で見直される
陸機(261ー303)の『弔魏武帝文』(魏武帝=曹操追悼文、『文選』)では、いきなり曹操は失望されています。
陸機は呉・陸遜の孫とはいえ、それを差し引いても、ともかくがっかりしています。
それは、その遺言のせいでした。
陳寿も裴松之も、見て見ぬ振りをしたのかもしれません。理由は……お察しください。
「妻たちは銅雀台で住まわせてくれ(中略、細かい指示あれこれ)。そこから墓を見てくれればいいよ」
「余った香は、夫人で分けてね。暇潰しなら、靴でも作って売るといいんじゃない。官僚としての綬(現在ならば社員証やバッチ的な理解で)は、蔵の中にしまっておいて。余った服も適当な場所にしまってね。俺の余った持ち物は兄弟みんなで分けていいよ」
やたらと細かい。
形見はメルカリで売ってね♪ みたいな話じゃないですかーッ!
これに対する陸機は、がっかり感を素直に書きました。
「死ぬ間際まで、妻や家族に対して細かい指示を出していて、なんかセコくてバカみたい……すごい人なのにこれはないわ……キモくて英雄イメージが台無し……」
時代を超えたがっかり感があるといいますか。
現代人が同じことを言っても、どうかと思われそうではある。
この遺言があまりにしょうもないので、貶めるために偽造された説もあるようですが、どうでしょうか。
卞夫人にイヤリングを贈った時の逸話を始め、あってもおかしくないような気がします。強調されたり、加筆されたりといったことは考えられますが、元ネタはあったのでは?
このあとも、曹操はしょうもない誤解をされ続けます。
「『魏武注孫子』って、あの曹操が、いろいろなんか加筆訂正しているんでしょう?」
いや、そういう回りくどいことは、むしろやらないと思いますよ。
-

『魏武注孫子』は今も必見の一冊|曹操が兵法書『孫子』に注釈をつけていた
続きを見る
そしてこれだ!
「あの悪どい曹操のことだから、墓にはお宝どっさりなんでしょ?」
「しかも、墓を盗掘されたくなくて、偽物の墓を作ったらしいぞ」
「盗掘に入ったら、いきなり罠があって死んだってさ……」
「曹操怖いいぃぃぃっ!」
はい、これについては、孟徳さんの代弁をしましょう。
「わざわざ、そんなめんどくさいことしねえし! お前ら、俺の遺言読みなおせ!!」
それからいろいろありまして、曹操の墓について明かされる日が訪れたのです。
-

葬儀も墓もとにかく地味が一番!乱世の奸雄・曹操の墓はリアルに質素
続きを見る
よかった。
デストラップダンジョン説だの、あれやこれやは払拭されました。
曹操の墓には、せせこましい罠ではない、大きな特徴があったのです。
◆遺言通り。当時の形式に沿った豪華な副葬品ではなく、質素な食器類が多い
→ふーん、薄葬(=地味思考)だね……では終わりません。
・曹操の遺言の方が、当時の儒教的な慣習よりも上だというプレッシャーを曹丕以下感じて守ったのです。
・そしてこれは、当時あった迷信や宗教を否定することでもあります。
◆曹操はオカルト思考を断固拒否する、現実主義者だったと証明される
→漢代の墓から出土する【金縷玉衣(=金糸で玉を繋ぎ合わせた衣】がない。遺言通り、平服で埋葬されたのでしょう。
こうした特殊な副葬品は、死後の世界をふまえているものです。
始皇帝陵はじめ、多くの墓にある大規模な兵馬俑の類もない。
現在でも残されている、死後の世界で使う【冥銭】の風習。
あるいは、日本でもある仏壇および墓へのお供え物すら、否定するかのよう。
ともかくぶっとんだ現実主義者なのだと、改めてわかってきたわけです。
もちろん、盗掘と墓そのものの真偽については、今後も考えねばなりませんが。
→この時代の常として、曹操の性格を知らない臣下が、予言を持ち出すことがありました。曹操は喜ぶどころか、塩対応であったそうです。曹丕や劉備ですら占いを気にしていたのに、曹操は違いました。
→曹操は全力で主張したいことは、詩でも言葉でも、そして行動でも全力で出してゆきます。
例えば『蒿里行』とは、漢代では死者を悼み、霊魂を歌い上げる、現代に至るまである人類の心理に基づくものですが。
それが曹操『蒿里行』では、漢王朝の政治腐敗、反董卓連合のまとまりの悪さ、地面に散らばる自分が見てきた白骨によって表現します。
霊魂じゃない。現実にある白骨にまで、大転換をしてきました。曹操は徹底して、運命は天でもなく、地でもなく、人が決めると信じて生きてきたのです。
あのやたらと細かい遺言も、そういう現実主義の表れかもしれませんよ。
→曹沖の【冥婚】も、そうした行動原理に沿っています。亡くなった者同士で結婚させるということは、傷ついた親として区切りをつけることにもなりますし、生々しい配慮も感じさせます。我が子の追悼にまで、そういう自分の性格が出てしまうのでしょう。
そんな彼の言動から残された思想と、墓は、一致するのです。
◆曹操、やっぱりもろもろが辛かった……
→そんな副葬品から、彼が悩まされ続けた頭痛治療用の【石枕】も見つかりました。これは誰にも使い道がありませんし、埋葬されたのでしょうね。
発掘した頭蓋骨からは、虫歯と歯周病の後もあります。これは医学未発達な時代であれば、さほど珍しいことでもありません。
ただ、酒を飲みすぎた結果、糖分で悪化した可能性は考えられなくもありません。ストレスを大酒で晴らすから、そんなことになったんじゃないですかね。昔の酒は現在のものより糖分が高く、歯に悪いものです。
曹操の逸話には、発作的な暴力行為が残されています。心身不調のせいで、本当に色々と辛かったのでしょう。
ならば、治療する名医・華佗を殺さなければよかったのに、って? それはその通りです。
◆曹操は新技術が好き、墓が発掘されただけで歴史を覆す
→玉がない代わりに、曹操の墓からはとんでもないものが出てきました。
【白磁】です!
陶器よりも技術的に難易度が高く、それまでは6世紀後半から作られたとされてきたもの。それが、曹操の墓から出てきたおかげで、歴史そのものがひっくり返ったのです。
曹操は、定番かつ発掘される玉(=翡翠等の貴石、半貴石類)ではなく、新技術を好んだのでしょう。新しもの好きなんですね。
考古学的な発見により、曹操見直しの機運も高まっています。
「しょうもない罠を仕掛けたわけじゃないんだ、よかったね!」
「清貧思想があってえらいぞぉ!」
そういう論調もありますが。
これもどうでしょうね。ここで孟徳さん代弁でもちょっと。
「いや、そもそも遺言でそう主張してきたわけだし。そんな回りくどくてあざとい清貧アピールするつもりはないし。噂を流されて、それを否定されて、再評価おめでとうと言われたところで、意味不明すぎるだろ……」
曹操の目指した世界はどこにあるのか?
エピローグとして、曹操の人生とその考え方を探ってみましょう。
阿瞞(嘘つきちゃん)と呼ばれた少年。
大人がああしろと言っても、聞くそぶりもない。どうしようもなくチャラい(軽佻浮薄)とあきれられていた少年。
そんな彼が、少年期の終わりに、橋玄と出会って評価されました。
彼の中にある才能を見てくれて、曹操は感激したのです。
それでも、許劭からはこう釘を刺されてもいます。
「平時ならば、きみは名官僚になる(=【治世の能臣】)」
「将来、世が乱れた時。きみのような【乱世の英雄】こそ、役に立つだろう。けれども、一歩間違えると【乱世の姦賊】になってしまいかねない。気をつけなさい」
振り幅が広い。橋玄が見出した、見たことがないほどの才能。
それは、役立つこともあるし、凶器となって血を流すことにもなりかねない。そう言われたのです。
後漢王朝が断末魔をあげる中で、曹操は戦い抜きました。
そんな将軍がいたと墓碑銘に刻まれたら満足だと願い、彼は奮闘していたのです。
そして、何顒の評価でつながりもあった、あの荀彧が現れました。
曹操は劉邦。荀彧は張良。そうなろうと誓い合いました。
袁紹の事績を見ていくと、彼は王莽のあと、漢を復活させた光武帝を意識していた形跡があります。
曹操は違う。
彼はあくまで高祖・劉邦、新王朝の創始者をめざしていたのです。
乱世を戦い抜いていたのに、【赤壁】の大敗戦で崩れてしまう。
後継者にしたいと愛していた曹沖も、夭折してしまう。
曹操が夢見た世界は、崩れてゆきます。
それでも曹操は倒れることもできずに、歩いてゆくしかない。
そこまでタフではない荀彧は、先に世を去りました。
彼の張良はもう、いない。
劉邦のように全土を統一した皇帝となる道も、もはやない。
中途半端で、砕けた夢の中で、曹操は歩いてゆくしかない。
文章の中に、美しい世界を描く曹植。
そんな個性を、後継者に選ぶことも挫折しました。
曹操の夢見た世界の続きは、曹丕以降に託されたのです。
それが叶うことはありませんでした。
曹丕が頼りにした司馬懿は、荀彧ではなかった。
張良となることではなく、自らが劉邦となることを目指していたのです。司馬懿にとって、曹魏への恩義はさらさらない。あったとしても、燃え尽きたのです。
曹操が夢に見た世界。
隣に張良がいて、後継者の座には曹沖か曹植がいた世界。
その世界は、永遠に訪れることはなかったのです――。
悲しいことです。もし実現していたら、どうなっていたことか。
さぞや素晴らしかったことでしょう……と、締めくくると思いましたか?
いや、その点については全く残念でもありませんし、その世界がよかったとも思いませんし、曹操の夢は挫折したとも思っていません。
もうちょっとだけ、おつきあいください。
曹操の話をすると、曹操がやって来る
曹操の目指した世界とは?
その価値観のかけらは、魏晋南北朝に残されました。
東晋建国者・王敦(266ー324)は、気持ちが高ぶって来ると痰壷をボコスカ如意棒(=マッサージ器具)で殴りながら、こうシャウトしていたのです。
「老いたる馬は厩にいようと、志は千里の彼方にある! 勇者は年を取ろうと、やる気は常にあるんだよ!」
これは曹操『歩出夏門行』の一句です。
本稿でもさんざん引いた『世説新語』は、倫理観がふっとんだ魏晋南北朝時代の、わけのわからないエピソードを大量に集めております。
やりすぎ贅沢セレブライフ、美食マニア、ドラッグ中毒、アルコール中毒、レジェンド腐女子、美男追っかけ女子、下駄コレクター等……ありのままの奇行を見せています。
彼らは乱世で精神状態が悪化して、奇行を繰り返していたわけではありません。
意図的に、儒教規範やそれまでの正常範囲を破っていた形跡がいくつもあります。
そういうぶっとんだ人の個性を賞賛する、そんな流れがそこにはありました。
普通じゃいられない。ありのままに生きる。
そんな曹操はじめ多くの人が蒔いた、既成概念を破壊する価値観が花開いてゆくのです。
時代がくだっても、この流れは曹操とともに残り続けました。
中国文学史上最低最悪のスーパーヴィランとして、講談で、小説で、劇で、語り継がれてゆくのです。
こうした曹操を描いて、飯の種にしていたのは、科挙に合格できずにドロップアウトした士大夫たちでした。
何かずれているのか、運が悪いのか、どうしたって官吏になれない。就職できない。
そういう士大夫たちは、自分の想像力と文才を生かして、曹操をネタにするわけです。
もちろんネタは曹操だけでもありませんが、曹操が見たら「わかる、お前らセンスあるわ!」と喜びそうなものにも、彼らが関わっているのです。
中国五大小説(中国四大奇書+1)
◆『水滸伝』
→やっていることは黒社会抗争劇だから……。百八星が集う梁山泊とは、アウトローの溜まり場ですからね。
-

『水滸伝』ってどんな物語?アウトローが梁山泊に集うまでは傑作だが
続きを見る
◆『三国志演義』
→ひゅーっ、曹操がスーパーヴィラン、ヒャッハー!
-

『三国志演義』は正史『三国志』と何が違うのか|例えば呂布は美男子?
続きを見る
◆『西遊記』
→儒教の「怪力乱神を語らず」(真人間はオカルトホラーにハマるのはやめたまえ)を、正面切って無視。
◆『金瓶梅』
→中国文学史上、燦然と輝くポルノ。ありとあらゆるバラエティに富むエロスが出てくるわけですが、ここであの真理を思い出してみましょう。
「新しい時代には新しいセックス!」
-

『金瓶梅』は中国一の奇書?400年前の『水滸伝』エロパロが今なお人気♪
続きを見る
◆『紅楼夢』
→中国文学史上、燦然と輝く美少女萌え小説です。
ただの趣味ではなく、
「中国では伝統的に年齢が上、かつ男性を尊ぶ。だが、この世界では年齢が下、かつ女性こそが至高なのだ!」
という、価値観の逆転に挑んでいるのです。そういう挑戦的な作品だということは、重要です。美少女萌えは正義です。
-

究極の美少女作品『紅楼夢』って?中国を二分する林黛玉派と薛宝釵派
続きを見る
現代だって、魯迅と並ぶ国民的作家は、武侠小説の巨匠・金庸です。
-

中国エンタメ「武侠」は北斗の拳やドラゴンボールにも影響大!
続きを見る
中国の歴史とは、真面目に儒教的な道徳を守りたい人々だけが、築いていたわけではありません。
ドロップアウトした人たちも、それぞれ元気よく生きて、いろいろなことを考えていました。
その結果、こういうエンタメが生まれてくるわけです。
こういう奇書は、
「おもしろいけど、教育上、健康上(※ハッスルして体調不良になる)、風紀上(※ハッスルして暴力行為等に及ぶ)よろしくありませんから、ほどほどに……」
と禁止されるほど。それほど中毒性が高かったのです。
今だって、中国で知らない人がいない、国民的作家とされる故・金庸氏も、武侠作家であるわけでして。
-

中国エンタメ「武侠」は北斗の拳やドラゴンボールにも影響大!
続きを見る
そんなエンタメにおいて、曹操は長いことスーパーヴィランの王者でした。
中国統一を果たした皇帝にはなれませんでしたが、フィクションにおける悪役部門では紛れもなく永世皇帝でしょう。
先の周瑜の記事では、『三国志演義』系のフィクションでの彼の像は、無視していいと言い切りました。
造形が雑なかませ犬で、見るべきところをあまり感じないから。
呉はそういう傾向があります。
では曹操は?
どの曹操も、みんなちがってみんないいと思います。
『三国志演義』は、羅貫中がかなり考えてキャラクターを造形しており、魅力はあるものです。
周瑜はじめ呉の人物とは違って、曹操の場合は正史においてもどうしようもない悪行の数々、しょうもないミスを連発しています。自業自得ですので、そこを弁護する気は全く湧いてきません。
誇張はあるにせよ、その根本的な理由は理解できます。
コテコテした悪意あるセリフも、曹操ならば言っていてもおかしくなさそうな、本質を突いているものがある。羅貫中はじめ、文人が頑張った結果です。
それに、古今東西を問わず、曹操のような極端なところがあり、ともかくスケールがでかくて、かつ世界の根底を変えたがるキャラクターというのは、ヴィラン向きです。
『X-MEN』のマグニートーとか。『ジョジョの奇妙な冒険』のDIO様はじめとするラスボスとか。
「素晴らしいこの俺が世界を支配してこそ、素晴らしい世の中になるのだッ!」
と主張する系ですね。そこに不満は一切ありません。
曹操本人も、建安15年(210年)にこう回想しています。
「俺が王になったことに文句があるのか? 俺がいなければ、もっと自称皇帝だの王だの、うじゃうじゃしていたと思うがな」
本人にとっても、スーパーヴィラン扱いは予想範囲内です。
そんなスーパーヴィランとなった曹操ですが、嫌われるだけではなく、どの時代にもごく少数のちょっと変わった人がこう言っている形跡もあるのです。
「曹操って、そこまで悪い奴かなぁ?」
「大きな声では言えないけど、個人的にはいいと思うよ……」
「俺こそが現代の曹操だーっ!」
曹操を再評価するという意見もありますが、実は定期的にそうなされてはいるのです。
「墓の発掘で、曹操再評価の流れが!」
という論調もありますが、定期的な話ではありますね。
現在も、ドラマ、映画、ゲーム、漫画、人形劇……ありとあらゆるメディアに曹操は出てきています。
これはアジア、ひいては世界的にもそうなのです。
日本の場合、曹操が主役の漫画『蒼天航路』が転換点とされがちではあります。
そう単純な話でもありません。
正史ベースの陳舜臣氏『秘本三国志』は、この際ちょっと横に置きまして。作品としては大傑作ですとも。
日本ならではの現象として『三国志演義』と吉川英治版『三国志』の混同が起こりがち。
横山光輝版も、人形劇も、『三国志演義』ではなく吉川版のバイアスが入っていることは、ご留意ください。
吉川英治氏は、諸葛亮と曹操の二人をメインに据えておりますので、この作品の流れをくむ曹操は十分カッコいいのです。悪いと言えば、そうなのですが。
フィクションにおける曹操は、どの立場に依ろうがどれも面白い。
とはいえ、一番面白くてありのままの曹操は、彼自身の詩にある。是非とも読んでみてください。
曹操って結局、何でしょうか?
『三国志』の時点で陳寿が、
【超世の傑】(時代を超えた傑物)
と言い切っているからには、それで決着がついているとはいえます。
ただ、陳寿はオブラートに慎重に包みつつも、曹操の行動を褒めるだけではなくて、困惑し批判していると感じられます。
語彙の選び方や記述に、そんな仕掛けを仕込んでいるのです。
他の人物の伝まで読むと、敵対者だけではなく臣下であっても、曹操に困っている様子も伺えます。
人間ってそういうものではありますが、振り幅が大きい。
注をつけた裴松之は、包み隠さずけなしておりますし。
正史の時点で、褒められてばかりでもないと。
曹操をプラス評価するか、マイナス評価するのか?
どちらでもできますし、できないとも言える。
【超世の傑】にせよ。
【治世の能臣、乱世の姦賊】にせよ。
振り幅があまりに大きくて、本人ですら理解できていない。
飴と鞭を使い分けていたとか、英雄だから全てをコントロールしていたとか。そういう見方もありますが、それはどうにもしっくり来ません。
彼自身、自分自身を理解できていなかったのでは?
規格外であるがゆえに、図抜けて素晴らしくもあり、残酷でもあった。
歴史を引っ掻き回し、ろくでもない思想を中国史に植えつけていった。
曹操の前の歴史と、その後の歴史は違う。
そういう規格外の人であったことは、伝わってきます。
ですから、私は曹操がすごかったと言うつもりも、ろくでもなかったと言うつもりも、一切ありません。
規格外の人物――。
それでいいと思うのです。
彼の最大の味方は彼自身であり、彼の名前もキャラクターも、現在でも残されているのですから。
曹操は、ついにはことわざにまでなっています。
【曹操の話をすると、曹操がやって来る(说曹操,曹操就到=噂をすれば影)】
死んでから何年経っているんだよ……まだ来るのかよ!
そう突っ込まざるを得ませんが、定着したのだから、これはもう仕方ない。
これもある意味、真実かもしれません。
曹操のことを考えるたびに、あなたの近くに曹操のかけらが飛んできてしまう。
曹操の肉体は朽ち果てていますが、彼が誇りにしていて他とは違う、頭の中身はまだ生きているのではないでしょうか。
ここで、王敦がシャウトしていた『歩出夏門行』を読んでみましょう。
神亀雖寿 神亀は寿(いのちなが)しといえども(神亀は寿命は長いというが)
猶有竟時 なお終る時あり(死ぬときは死ぬ)
騰蛇乗霧 騰蛇は霧に乗ずるも(龍は霧に乗って空を飛ぶっていうけど)
終為土灰 終には土灰となる(死ねばただの土と灰だ)
老驥伏櫪 老驥は櫃に伏すも(歳をとった馬は厩で寝たきりでも)
志有千里 志 千里にあり(気持ちは千里を駆け巡っている)
烈士暮年 烈士暮年(やる気がある奴ってのは歳をとっても)
壮心不已 壮心已まず(元気な心が終わらないんだぞ!)
盈縮之期 盈縮の期(寿命というのはだな)
不但在天 独り天のみに在らず(天命=運命だけにあるもんじゃない)
養怡之福 養怡(い)の福(健康管理っていう手段があるわけで)
可得永年 以て年を永くす(そこさえ気がつけば長くもなり得る)
幸甚至哉 幸甚の至り哉(そこに気づいた俺ってラッキーだよな)
歌以詠志 歌を以て志を詠ぜむ(テンションあがったので歌って志を詠んでみた!)
健康管理で寿命が延びるって、健康診断後の指導ですか……というツッコミはやめてあげてください。
当時としては、画期的なことなのです。いい目の付け所ですよ!
寿命は運命じゃない、人間の心がけ次第というわけですから。
この詩を詠んでいると、曹操の言うことがわかってきませんか?
肉体が滅びようが、衰えようが、精神だけは元気ハツラツ、そのへんにある。千里にある、世界中を飛び回っている。
曹操は、自分の肉体が土と灰になって、頭蓋骨が踏んづけられようが展示されようが「あっそう」で終わりそうではあります。
そんなことは、どうでもいいんだ。
だって、彼の精神は、今も千里を飛び回っているから。
橋玄が認めた知能が、頭の中身が、いろいろな形でそこにあるから。
彼にとって、こんなに楽しいことってあるのでしょうか?
付:【参考文献】曹操を知るためのブックガイド
ハムレット:
森羅万象に耳を傾けよ、されど己のことはあまり告げるな。
他者の意見を傾聴し、審判は控えめにせよ。
『ハムレット』第一幕第三場
曹操を知るとなると、大変厄介なものがあります。
本稿を書くにせよ、参考文献の量が中途半端ではありません。
ざっくりとまとめてみました。
【初級:スターターパック】
新品入手が容易なものを選びました。
『正史 三国志』全8巻 ちくま学芸文庫版
これから、まずはこれからです。
『魏の武帝 曹操』石井仁
定番中の定番。まずはこれです。
『史実としての三国志』渡邊義浩監修
新書なのでさっくりとわかりやすく読めます。
『曹操 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像』三国志学会監修
テーマ別の曹操最新研究本。
『特別展「三国志」図録』
あの特別展の意義がつまった素晴らしい図録。永久保存版に。
『三国志事典』渡邊義浩
便利です。
【中級:アドバンスド】
ここから先は、古本でなければ入手困難なものも含まれます。思想と中国文学史も入り込みますので、難易度はあがってきます。広い目で見るのであれば、踏み込みましょう!
・『「三国志」の政治と思想』渡邊義浩
・『三国志 演義から正史、そして史実へ』渡邊義浩
・『漢帝国 400年の興亡』渡邊義浩
渡邊氏は思想史に強みがあります。曹操と諸葛亮の思想は、強固なもの。理解を深めたいのであれば、外せません。
・『三国志演義事典』渡邊義浩・仙石知子
これも手元にあると便利です。
・『曹操墓の真相』河南省文物考古研究所
・『三国志の考古学』関尾史郎
考古学目線で見た、曹操の墓の価値を解析しています。
・『曹操注解 孫子の兵法』孫子・中島悟史
曹操の思考回路を学ぶのであれば、これに尽きます。
・『中国人物伝II 三国時代ー南北朝 反逆と反骨の精神』井波律子
・『読み切り三国志』井波律子
・『中国的レトリックの伝統』井波律子
・『奇人と異才の中国史』井波律子
・『三国志名言集』井波律子
・『史記・三国志英雄列伝』井波律子
井波氏は、中国文学史に強みがあります。曹操は文才が独自のものがありますので、こうした解釈をしながら読み取る必要性があるのです。
曹操自身の詩も、解釈をしながら自力で解釈することで、楽しめます。
本稿の翻訳は砕けすぎていますので、井波氏の美麗で端正な翻訳で、頭をスッキリさせましょう。
・『中国の歴史4 後漢・三国時代 三国志の世界』金文京
・『三国志演義の世界』金文京
金氏は中国文学史に強みがある方です。『演義』成立過程も含めて、やはり抑えておきたいところです。
【上級:ここまで読めば何か別の世界にいける気がするッ!】
入手難易度もあがりますし、そこまでやる必要性はありません。用法用量を守ったうえで、ご自身の判断で挑んでください。
・『中国人の機智 『世説新語』を中心として』井波律子
・『中国的大快楽主義』井波律子
曹操はじめ、当時の人びとが目指したはっちゃけた世界観があります。
・『中国の五大小説(上)』井波律子
・『中国文章化列伝』井波律子
・『三国志演義』井波律子
・『中国侠客列伝』井波律子
・『古代中国の性生活』ファン・フーリック
中国史を語る上で、性生活は見落とされがちですが、それはどうにも画竜点睛。この一冊だけでも読んでほしいもの。設定にこだわりたい腐女子ならば、欠かせない一冊。これが気に入ったら『金瓶梅』へステップアップだ!
【黄金体験薤露行 ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム:せっかくだから新たな世界へ進まないか……】
せっかくだから中国史か中国文学しか中国思想史でも学ぼうかな? そんなあなたにはこれだッ!
・『人間・始皇帝』鶴間和幸
・『中国古代史研究の最前線』佐藤信弥
どちらも新書で入手が容易かつ、中国史研究へのアプローチがまとまっています。これから中国史を専攻しようか。そう思い始めた方に読んでいただきましょう。
ここでは割愛しておりますが、儒教、道教関連もおすすめ。儒教倫理がわからないと、曹操が打破を目指した価値観が把握しにくくなります。
・『昨日までの世界』ダイアモンド
・『ホモ・デウス』ノア・ハラリ
・『暴力の人類史』ピンカー
・『殺戮の世界史』ホワイト
それ以外の本は、世界史における転換点を学上で、興味深いものです。
繰り返しますが、これを全部読む必要はありませんよ。
フィクションはいろいろあります。あなたの好きな曹操を、みつけてください。どの曹操にも、味と個性があります。おっさんでも、美少女でも。顔グラはどうでもいいんです。
では、曹操と一緒に楽しい生活をお送りください。
その結果、あなたの隣で曹操がうろうろすることになっても、申し訳ありませんが私は責任を負いかねます。
絵・小久ヒロ
文:小檜山青
※2020年1月16日発売の『三國志14 TREASURE BOX』同梱のアートブックで全武将の紹介文を書かせていただきました(→amazon)(PS4版はこちら)








































