額に矢が刺さって最期を迎える――そんな壮絶な死に方をした大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の木曽義仲。
あれは一体なんなんだ? 史実なのか?
そう思われた方も少なくないでしょう。
答えは後述させていただくとして、本稿で注目したいのは、その隣にいた武士。
今井兼平です。
『鎌倉殿の13人』は北条義時が主人公のドラマゆえ、兼平の注目度はそう高くはありませんでしたが、これがもし義仲が主役であれば、兼平もまた主役級に重要な人物。
幼少の頃から義仲に付き従い、そして最期は主君と同じく寿永3年(1184年)1月20日という同日に、自害で果てます。
非常に結びつきが強く、理想の主従関係だったとして語られる二人。

今井兼平/wikipediaより引用
今井兼平の生涯を振り返ってみましょう。
今井兼平は義仲に全てを賭けた一族出身
今井兼平と木曽義仲と結びつけるのは「乳母(めのと)」と「乳母子(めのとご)」の関係です。
兼平の母が、義仲の乳母だったんですね。
こうした取組は当時の特徴とも言えるのですが、乳母と言うと、どうしても「授乳」をイメージされると思います。
しかし、両者の関係はそれだけではありません。
乳母は生涯にわたって後見役を務める女性でもあり、結果、一族同士の関係は自然と濃くなり、子供たちは兄弟のような絆が生まれる。
その中でも理想的な人物として知られるのが今井兼平。
前述の比企一族が頼朝を全力で支えたように、

足利直義説も流れる源頼朝の肖像画/wikipediaより引用
兼平とその家族もまさにそうでした。
以下のメンツが義仲を支えた兼平の家族です。
こちらをご覧になっていると、こんな疑問も浮かんでくるかもしれません。
なぜ源氏の血を引く義仲が、中原兼遠を頼り、木曽の山奥で育ったのか?
同じ源氏である頼朝の一族とはどんな関係だったのか?
兼平の生涯にも大きく関係しますので、おさらいしておきましょう。
親世代から因縁のある義仲と頼朝
平安時代末期、京都の政治闘争に河内源氏も巻き込まれました。
河内源氏の長である源為義と二男・源義賢は、摂関家を後ろ盾として権力争いに対抗。
一方、長男の源義朝(頼朝んの父)は関東へ向かい、新たな道を目指します。
・源為義(父)
・源義朝(長男)
・源義賢(二男)

源義朝/国立国会図書館蔵
この兄弟はやがて争いに発展し、ついに凄惨な結果を迎えます。
久寿2年(1155年)、源義朝は、自身の長男で“悪源太”の異名を持つ源義平に、叔父である義賢の大蔵館を襲わせたのです。
【大蔵合戦】と呼ばれ、敗れた義賢は遺児・駒王丸をひそかに逃しました。
駒王丸は、まず武蔵国に本拠を構える斎藤実盛、畠山重能(畠山重忠の父)らの元へ逃れ、その後、信濃の中原兼遠に送られます。
武士同士の血縁と恩義のネットワークを経て、駒王丸は木曽の山中で育つことになったのです。
久寿元年(1154年)に駒王丸が木曽に匿われたとき、仁平2年(1152年)生まれの今井兼平はまだ物心つくかつかないかの年頃。
二人は、兄弟のように育ってゆきます。
ドラマ等ではワイルドさが強調される義仲ですが、当時の記録には「美男子である」と記録されています。
義仲の逸話は、あくまで京都目線。
木曽の山中にいる豪族からすれば、美男であり、洗練された貴公子です。

木曽義仲/wikipediaより引用
幼い頃は大事に育てられ、成長してからはその背中をずっと守りたいと思える――そんな麗しい主従関係が育まれてゆきます。
なんせ中原兼遠は、彼の全てを木曽義仲に賭けたといっても過言ではありません。
息子たちは義仲の右腕となり、娘たちはその室となりました。
巴御前は室でありながら武勇に長けていたほど。
義仲の武勇も、まさにこの一族あってのものであり、家族も同然。
今井兼平は、木曽義仲には無くてはならない存在でした。
なお、兄弟二人は、樋口兼光が樋口の地を領し、今井兼平が今井の地を治めています。
義仲四天王として
治承4年(1180年)、木曽義仲が立ち上がると、当然のように兼平きょうだいはその挙兵に付き従いました。
義仲に従う中でも際立った働きをするものたちは「四天王」と称され、兼平も名を連ねています。
今井兼平
樋口兼光
根井行親
楯親忠
兼平の華々しい戦歴をざっと見てみましょう。
養和元年(1181年)に信濃国で起きた【横田河原の戦い】では、越後平氏・城助職を撃破。
寿永2年(1183年)の【般若野の戦い】【倶利伽羅峠の戦い】ならびに【篠原の戦い】でも兼平らの活躍により木曽が圧勝しました。
義仲軍の破竹の勢いに耐えきれず、この年の夏、平家は都落ちに追い込まれています。

兼平の弟・樋口兼光/wikipediaより引用
木曽義仲とその配下は京都へ。
10月【福隆寺縄手の戦い】では、平家方の妹尾兼康を撃破しました。
しかし入京後、粗暴な義仲たちはすぐさま信望を失ってしまいます。
義仲の進軍を喜んでいた後白河法皇ですら、平家に助けを求めるほどで、まもなく義仲軍は後白河法皇を擁した平家軍と11月に【法住寺合戦】で激突。
この戦いでも、兼平と兼光兄弟の活躍が著しかったと記録されています。
しかし、彼らの荒々しさ、猛々しい戦いぶりは、いいことばかりでもありません。
誰も彼らを諌め止めることができなかったとも言えるし、その結果、朝廷や庶民から反感を買い、破滅へと向かったことも確かでしょう。
木曽の主従は最期を共に
実際、義仲軍が騎虎の勢いだったのもここまでのことです。
朝廷と決裂した義仲を追討すべく、寿永3年(1184年)、鎌倉から源範頼と源義経率いる軍勢が京都へ迫りました。
頼朝の弟である範頼と義経は、当然ながら源義朝の子でもあります。

源義経/wikipediaより引用
つまり、義仲とは従兄弟の関係。
同じ河内源氏という間柄ですが、すでに義仲は人望を失い、京都での支持は得られませんでした。
源氏同士で敵対した両軍は【宇治川の戦い】でぶつかり、義仲が大敗を喫すると、さらに【粟津の戦い(粟津合戦)】へと追い詰められてゆきます。
さらには甲斐源氏軍の襲撃も受け、もはや義仲たちは壊滅的なところまで追い込まれました。
残された味方は僅か五騎のみ。
木曾義仲
今井兼平
巴御前
手塚光盛
手塚別当
程なくして手塚の二人も討たれ、義仲に付き従う者は、共に生きてきた兼平と巴御前の兄妹だけになってしまいます。
このうち巴は義仲に「最期まで女連れであったと言われたくない」と説き伏せられ、彼女は、最後の奉公として敵将・恩田八郎の首をねじ切ると、そのまま落ち延びてゆきました。
ドラマでは和田義盛に囚えられていましたが、そうした逸話も残されています。

多くの絵師に描かれるなど、歴史的に人気だった女戦士・巴御前/wikipediaより引用
巴が居なくなり、残されたのは義仲と兼平の主従だけ。
最期は呆気ないものでした。
自陣の場所を探し彷徨ううちに、義仲の馬が深手にはまってしまい、身動きが取れぬところで顔に矢が当たったのです。
ドラマの描写は記録に基づいたものだったんですね。
そして主君の死を見届けると、今井兼平も自害して果てました。
義仲は享年31で兼平は享年33。
勇ましく散った主従は、理想的な武士像として伝説になりました。
『平家物語』でも「木曽の最期」では、この主従の最期を美しく描きます。
生まれた日と場所とはちがっていても、死ぬ日と場所は同じでありたい――。
理想的な主従として、二人は散っていったのです。
理想の「乳母子」とは
幼きころより義仲を慕い、その死を見届けると自らも自刃する――確かに美しい主従です。
今井兼平が理想の乳母子とされた理由がご理解いただけるでしょう。
反対に、理想から程遠いとされた乳母子も少し見ておきますと……源頼朝の乳母子であった山内首藤経俊です。
『鎌倉殿の13人』で山口馬木也さんが演じたこの武士は「参考にしたくない乳母子」として挙げられます。

源範頼・源義経の平家追討軍出陣の錦絵に100名近い家臣が描かれているが経俊の名は無し/国立国会図書館蔵
源頼朝が挙兵したにもかかわらず、罵詈雑言を浴びせて参加しない。
それどころか、頼朝に敵対した大庭景親の軍勢に加わり、【石橋山の戦い】では頼朝に矢を当てる。
かと思ったら、自身の立場が不利になり、源氏方に降伏した際は平気で命乞いをする。
母の山内尼は頼朝に対し、我が子の命乞いをしましたが、頼朝が経俊の名が書かれた矢を山内尼に見せると、さすがに諦めざるを得ない状況に。
「もはやこれまでか……」と思われましたが、頼朝は経俊の命を助けます。
その後、経俊は、頼朝から「無能である」と評され、鎌倉幕府の幕開けに名を連ねるもののさしたる活躍もありませんでした。
ただし、山内首藤経俊にも言い分がない訳でもありません。
源頼朝とは常に近接した場所に暮らしていたわけでもなく、かつ、経俊のいた相模には平家方の豪族が割拠していました。
不利な環境に居た点は考慮すべきでしょう。
それでも理想の「乳母子」と、どうしたって比べられてしまう。
主君の挙兵以来付き従い、有能かつ勇猛果敢。主君が命を落としたら、殉じて散る――こんな乳母子こそ、天晴れ忠義の者であり、まさしく武士の鑑ではないか――そう見なされたのが今井兼平です。
★
源頼朝と弟たちは、その後、血の繋がりがあっても酷い対立を繰り広げてゆきます。
儚く散ったからこそ美しい――そんな木曽の主従とはまるで別の世界。
歴史に功績を残した点を考えれば、源義朝の子である頼朝たちの方が偉大かもしれません。
しかし、人として信じ合い、生きた美しさという点では、源義賢の子である木曽義仲とその乳母子たちには及ばない。
実に興味深い対比が同じ源氏一族の中でも起きていました。
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【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
他





