歌川芳虎『奥州高館大合戦』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

奥州藤原氏は兄弟不仲につけこまれて頼朝に滅ぼされた?鎌倉奥州合戦考察

2025/08/09

源平合戦こと治承・寿永の乱に勝利した源頼朝。

その後の課題は鎌倉政権の足固めであり、目の上のたんこぶとなっていたのが奥州藤原氏でした。

金山という財力を背景に、無傷の軍隊も有している。

おまけに軍略の天才・源義経が逃げ込んだとあれば、とても無視できる状況ではなく、攻め込む機会を虎視眈々と狙っていました。

そこで頼朝が目をつけたのが奥州藤原氏の兄弟不和。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも泰衡と国衡の二人が揉め、ついには義経を死に追いやる悲劇の展開となっていましたが、いったい史実ではどうだったのか?

文治5年8月10日(1189年9月21日)は藤原国衡の命日。

奥州藤原氏の兄弟にスポットを当てながら、奥州合戦を振り返ってみましょう。

 


秀衡の跡継ぎは泰衡か国衡か

平家を滅亡に追い込む上で多大な功績をあげるも、兄・源頼朝と対立してしまった源義経。

行く先を失った彼は奥州へ逃れました。

この逃避行の一幕を描いた能「安宅」および歌舞伎「勧進帳」は名作として名高いものです。

苦労の末、ようやく訪れた奥州平泉。

しかし、そこで義経の命運は絶えてしまいます。

一年も経たない文治3年10月29日(1187年11月30日)、頼みの綱であった藤原秀衡が没してしまったのです。

藤原秀衡/wikipediaより引用

金山という財力を背景に、国力を充実させた秀衡。

彼は偉大な人物でしたが、跡を継がせる我が子となると一抹の不安がありました。

秀衡には多数の男子がいました。

正室(ドラマでは“とく”/天野眞由美さん)を母とする藤原泰衡。

その上にいる異母兄の藤原国衡。

母方の血を重視すれば泰衡が当主候補筆頭であり、しかし生まれ順を重視すれば国衡となる。

では誰を嫡男にするか。

そんな対立が生じていて、父の秀衡は我が子や家臣団たちの対立解消に心を砕いていたのです。

秀衡は死に際に、こう言い残しました。

「兄弟で手を取り合い、その上に義経を置き、頼朝と対決するように」

ドラマでもそんな場面が印象的でしたね。

しかし、これまた劇中でもあったように、兄弟の対立や、反鎌倉という姿勢は、頼朝にとって付け入る隙といえました。

 


京都と鎌倉に急かされて

文治4年(1188年)、京都からこんな宣旨が出されます。

源義経を討つべし――

源平が激しく争っている最中、虎視眈々と戦況を伺っていた奥州には、侮れぬ軍事力がありました。

そんな軍隊を軍略の天才・源義経が率いて、鎌倉を突いたらどうなるか?

そうした意図が理解できない泰衡でもありません。

父の遺言か?

それとも京都の宣旨か?

泰衡には、過酷な選択肢がつきつけられました。

鎌倉では、義経を討つべく、続々と御家人たちが集まっている――そんな情報も入ってきています。

平家を滅亡においやった鎌倉の軍勢と真正面からぶつかりあって勝てるのか?

そんな懊悩に苦しめられた泰衡は、ついに決意を固めます。

奥州藤原氏を保つためには義経を討つしかない!

かくして文治5年(1189年)閏4月30日、泰衡は衣川館に軍勢を派遣しました。

弁慶らが敵の前に立ちはだかる中、源義経は妻の郷御前、4歳の娘を刺し殺し、自らも自害。

源義経/wikipediaより引用

義経の首は、美酒に浸され、黒漆塗りの櫃で鎌倉へ。およそ一ヶ月半かけて、頼朝のもとに辿り着きました。

鎌倉と対立するつもりはない。

どうしても戦は避けたい。

そう考えた泰衡は、さらに頼朝らに恭順の意を示すため、驚くべき行動に出ています。

義経の死から二ヶ月後に異母弟の藤原頼衡(六男/川並淳一さん)、さらにその四ヶ月後に別の異母弟・藤原忠衡(三男)を誅殺するのです。

「義経に味方していた」というのが表向きの理由であり、弟を手にかけてまで頼朝にすり寄りました。

※頼衡は史料に乏しく、実在を疑う説もあります

結果、どうなったか?

義経の死の一報は京都にも届き、朝廷は「めでたいこと」と見なしました。

彼らはそれ以上の戦乱は望んでおらず、ようやく弓矢をしまう時が来たと安心し、鎌倉にも祝意を伝えます。

泰衡にしてみても、宣旨通りに義経を討ったからには一件落着という思いもあったでしょう。

 

鎌倉は朝廷の命令を求めず出兵

義経を討つにせよ、首が鎌倉へ届けられるにせよ、結構な日数がかかりました。

こうした状況から藤原泰衡が迷い悩み、彼の行動に逡巡が見られたことは間違いないでしょう。

それは鎌倉にとってはチャンスでした。

軍備はじめ様々な準備を整えていたのです。

実は義経の奥州潜伏については、鎌倉でも早い段階から認識していました。

秀衡が没する文治4年(1188年)には、朝廷が頼朝を追討使に任じていたのです。

しかし頼朝は、亡母供養の五重塔建立と厄年を理由に断っていました。

義経が自害するのは文治5年(1189年)閏4月30日ですから、頼朝は一年以上放置していたのです。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

表向きの理由はさておき、長く続いた源平合戦からの損耗を癒やすのに必要な期間だったのでしょう。

そして文治5年(1189年)、『吾妻鏡』には奥州平定を願った神事の記述が見られます。

準備万端の鎌倉軍。

奥州平定の祈願が幾度も実施され、その間に「奥州を攻め取れば所領が増える」と戦意を高揚させていたならば、武士たちの胸も高まったことでしょう。

そして出陣!

とは、なりませんでした。いざ頼朝が立ち上がろうとすると、朝廷側がトーンダウンしていて追討の宣旨が得られなかったのです。

つまり藤原泰衡の読みは当たっていました。

義経が討たれたからには、奥州で合戦をする意義はない。

鎌倉軍が奥州へ攻め込む理由が掲げられない。

そこで頼朝の側で重用されていた大庭景能が『十八史略』前漢文帝の故事を引きます。

軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。

軍事では将軍の命令を聞くものであり、天子の詔を聞かないとかなんとか言います。

「奥州の平定は朝廷とは関わりなく、武士の内戦とすべきである」

そう解釈し、鎌倉は未曾有の大軍勢を率い出立したのです。

ドラマでは、いささか愚鈍な人物造形の藤原泰衡でしたが、頼朝の行動を予測できなかったとしても仕方ありません。

「まさか朝廷の意に叛くとは……」

と、まるで前例がない禁じ手を頼朝が繰り出したのです。

 


鎌倉vs奥州藤原氏

その戦いは、無惨なものでした。

あまりに兵力差があるためマトモな戦いにすらならず、鎧袖一触、平泉ですら兵も残っていないような状況でした。

【奥州合戦】は、義経が活躍した源平合戦とはかなり内容が異なります。

・鎌倉が仕掛けた空前の大動員

・参陣するかどうかだけで鎌倉政権での待遇まで決まる

・武士同士が戦果を誇り合う

・奥州へ向かう名所で詠み合う和歌

そこには紙一重で勝敗を祈るような必死な悲壮感はありません。

源頼朝にとって【奥州合戦】とは、己のもとに武士を集結させ、政権を固めるためのアピールだったのです。

奥州藤原氏にとって、唯一の救いは最後の最後で兄弟が手を取り合ったことでしょうか。

戦いとは、対立していた者同士を結合させます。

泰衡と国衡も、押し寄せる軍勢を前にしては協力するしかありません。

文治5年(1189年)8月、大将軍・藤原国衡は【阿津賀志山の戦い】の最中に和田義盛の矢に当たり、その後、畠山重忠の家臣・大串次郎によって討ち取られたのでした。

和田義盛/Wikipediaより引用

そして9月3日(1189年10月14日)、追い詰められた泰衡は、裏切りにあい討たれました。

藤原泰衡イメージイラスト
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天才兄弟

源義経は、軍略の天才とみなされます。

平家を追い詰めてゆく最中に起きた【一ノ谷の戦い】や【壇ノ浦の戦い】など、あっと驚く奇襲で敵を粉砕した手腕は見事というほかありません。

『安徳天皇縁起絵図』壇ノ浦の戦い/wikipediaより引用

一方で、兄の源頼朝はどうでしょう?

彼は自ら前線に立つことなく、勝利を重ねてゆきました。

奥州合戦でも、朝廷と駆け引きをし、藤原氏の分裂につけこみ、泰衡に揺さぶりをかける――。

その結果、労せず義経を討ち取り、さらには奥州藤原氏も楽々と滅亡へ追い込みました。

義経が前線に立つ合戦の天才ならば、頼朝は政治の天才でしょう。

『史記』「高祖本紀」では、劉邦の軍師である張良をこう評しています。

籌(はかりごと)を帷幄(いあく)に運(めぐ)らし、勝ちを千里の外に決す。

本陣の幕の中で計略をめぐらせ、遠く離れた場所での勝利を決める

前線に立たずとも勝利をもたらす――その手腕に長けた者が名将と呼ばれます。

義経だけでなく、頼朝もまた天才だったのでしょう。

しかし哀しいかな、彼ら兄弟にしても藤原兄弟にしても、目の前に敵がいれば協力しあえるけれど、平時においては分裂してしまった。

そこには悲しき人の性(さが)が見え隠れします。

奥州合戦から約400年後と約700年後――。

「東国入りした軍勢が奥州へ攻め込む」という歴史は繰り返されました。

豊臣‌秀吉は、後北条氏を滅ぼすための【小田原‌征伐】を行い、その参陣に間に合うか否かによって、東北大名の存続を決めました。

幕末維新の時代には、徳川‌慶喜が【大政‌奉還】を行い、江戸幕府に終わりを告げても、新政府軍は【戊辰‌戦争】を強行し、明治時代の幕開けの地固めを行いました。

戦乱は国土の荒廃と人命の損失を引き起こすが、新政権を固めるためには東北を攻める。

そんな歴史が日本に刻まれました。


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【参考文献】
関幸彦『東北の騒乱と奥州合戦』(→amazon
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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