大河ドラマ『どうする家康』の第19回放送に“お万”という女性が登場しました。
劇中では松井玲奈さんが演じるこの女性、実在した於万の方(長勝院)のモデルとされ、元和5年(1620年)12月6日はその命日。
生前の彼女は徳川家康の次男・結城秀康を産み、ドラマで詳細は描かれませんでしたが、この母子はかなり辛い人生を歩まされています。
家康の正妻・瀬名(築山殿)に嫌われ、それだけでなく家康自身からも疎まれたのです。
では、なぜ疎外されたのか?というと、ドラマのサブタイトルでもあるように家康に「お手付き」されたのがすべての始まり。
まるで望まぬカタチで生まれてきたかのような秀康は、後に家康の長男・松平信康が自害へ追い込まれても、徳川家の跡取りとはならず、人質へ出されるなどして冷遇されました。
それは一体どんな状況だったのか?
史実における於万の方(長勝院)の生涯を振り返ってみましょう。
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そもそも「お手付き」とは
徳川家で“お万の方”と言えば、NHKドラマ10『大奥』で福士蒼汰さんが演じた、万里小路有功のモデルも同名の女性でした。
彼女は家光に「愛を教えた」と表現される存在で、以下に関連記事がございますが、
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『どうする家康』のお万は「愛」という観点からすれば、非常に微妙な存在。
そもそも「お手付き」というのは、カルタ遊びで間違った札を取ってしまったり、転じて早押しクイズでボタン操作を誤ってしまうことであり、家康と侍女の話となるとややこしいことになります。
主人が下女と肉体関係を結ぶこと――あるいは、そうなった女性を指すのです。
身分制度が厳しかった時代、目上の者に求められたら断ることはできず、現代ならば性暴力と指摘されかねない状況ですね。
では、ドラマで「お手付き」されてしまった彼女は、史実ではどんな女性だったのか?
子供ができたら城を追われて
於万の方は天文17年(1548年)、三河で永見貞英の娘として生まれたとされます。
身分はそこまで高くないと考えられ、年齢的には家康の5つ下。
そんな於万の方が、家康の子である結城秀康を産んだのは天正2年(1574年)のことでした。
数え年で27歳になる彼女と、32歳の家康ですから、当時であれば若くはない二人ですね。
彼女の名前を「おこちゃ」と記した書状も残されていますが、ドラマの“お万”に準拠し、於万の方で進めてゆきましょう。
この於万の方、とにかく悲惨な話がつきまといます。
徳川家康には数多の妻がいて、例えば阿茶局は知性を武器に大坂の陣でも活躍しましたが、お万にそういった一面はありません。
家康の子を妊娠すると、浜松城内から追い出されてしまいます。
当時の正室は、夫の血を引く子を認知するかどうか、という権限を有していて、問題無しと見なされた女性が側室になることもありました。
しかし、正室の管理外で妊娠した場合には罰則があり、於万の方もそうだったのでしょう。
ゆえに彼女は追い出されてしまうわけですが、不思議なのは『どうする家康』が正室・側室のシステムをそれほど重視してないように思えるところです。
例えば桶狭間の戦いで今川義元が死んだあと、息子の今川氏真は、家康の妻である築山殿(瀬名)を「夜伽役」にしようとしました。
瀬名の母親が「これでは遊女でないか!」と嘆き悲しむ展開でしたが、本来であれば、正妻・早川殿の許可がなければ、そんなことはできないはず。
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早川殿は、北条氏康の娘であり、今川家にとっては藁にもすがる思いの同盟相手であり、決して無碍にはできない存在。
にも関わらず、その意向を汲むこともなく、最終的には足蹴にするかのような扱いでした。
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