2023年大河ドラマ『どうする家康』に登場していた茶屋四郎次郎。
中村勘九郎さん演じる徳川家の御用商人であり、「茶屋」とはいかにも「お茶」と関係するような風情を感じさせましたよね。
元々この家は中島氏という名字でしたが、将軍・足利義輝が先代の屋敷でしょっちゅうお茶を飲んだことから「茶屋」になったという由来があったりします。
そこで考えたいことがあります。
「お茶」と「商売=お金」の関係です。
日本のお茶は禅の印象もあってか、ともすればその味にも似た清廉潔白なイメージがありますが、現実には「銭あり! 美女あり! バクチあり!」という欲望のたぎった一面もあったりします。
最も有名な例ですと、織田信長などが収集した高価すぎる茶器がその一つ。
他にも、豪華な賞品を賭けて茶の産地を当てる“闘茶”が大流行して幕府に咎められたり、政治問題に発展するなどのケースもあったのです。
いったい茶とは日本人にとってどんな存在だったのか?
本稿では茶にまつわる裏の歴史を見てまいりましょう。
※以下は“正統な茶の歴史”記事となります
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「劉備は母に茶を贈ったのか」問題
茶については、そもそも伝来した中国に関連して面白い話があります。
三国志の英雄・劉備です。
1939年から1943年まで連載された吉川英治の小説『三国志』は当時の日本で大ベストセラーとなりましたが、その中身は『三国志演義』の翻訳にとどまらない大胆なアレンジがありました。
それが冒頭のシーンです。
本場の『三国志演義』では、劉備と関羽と張飛の三人が義兄弟の契りを結ぶ「桃園の誓い」から始まるのですが、吉川版では
「劉備が母のためにお茶を買う場面」
が挿入されているのです。
完全に吉川発の創作であり、通常の『三国志演義』日本語訳にそんな場面はないため、事情を知らない読者からは通常版に対して「茶のシーンを飛ばすな!」とクレームが入ったなんて話もあるほど。
お茶を買うシーンは横山光輝の漫画版にもあり、その影響力の大きさから、中国ではこの時代から全土でお茶が飲まれていたと思われがちです。
しかし、これが難しい問題。
実際に飲まれていたという記録はなく、当時、喫茶の習慣はないとは断言できない――限りなく黒に近いグレーゾーンだったりします。
仮に、呉の周瑜が愛妻・小喬の淹れるお茶で一息つくのであれば問題はないですし、あるいは蜀入りを果たした劉備が、茶を飲みながら諸葛亮と語り合うのも問題ありません。
いったい何が言いたいのか?というと“気候”です。
チャノキは温暖な気候でのみ生育ができ、現在の四川省辺りにあった蜀は中国最古のチャノキ飲用が認められます。
呉も同様。
青年時代の劉備がいた北方では、茶を飲む習慣がなかったと考えた方が妥当というわけですね。
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運河と共に中国全土へ広まる
『三国志』の世界は司馬懿による西晋の成立で終わり、すぐさま南北朝時代の乱世に戻ります。
鮮卑族のような北方出身の王朝では乳製品を飲み、南方では茶を飲む――そんな南北差が飲料においても確立されていました。
それが隋と唐によって全土統一が進み、運河が建設されるようになると、仏教や道教の普及と共に茶は広まってゆきます。
カフェイン入りでスッキリする飲料は、仏僧や道士の修行と相性がよかったのですね。
そこへ日本から遣隋使や遣唐使が派遣されてくる。
となれば当時の日本人が興味を持たないわけがなく、815年には僧・永忠が梵釈寺にて嵯峨天皇に献上し、これが日本最古の茶の記録とされます。
彼らから見た茶とは、上流階級が修行に励んだり、社交で楽しむオシャレな飲み物でした。
最先端の唐物(からもの・中国渡来のもの)という扱いです。
しかし当時の茶は輸入品にとどまって栽培までは行われず、遣唐使の廃止と共に廃れてゆきます。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』には、そんな日本の茶文化を示すよい場面がありました。
北条政子と妹の阿波局(実衣)、北条義時の妻・伊賀の方(のえ)の三人が集うシーンです。
三人は宋から輸入した茶碗を手にして、茶を飲み、高坏には索餅(さくべい)が盛られていました。
索餅は中国語名で「麻花(マーホア)」と言い、日本では奈良時代に伝わりながら時代の変遷と共に姿を消した菓子。
それを三人が手にするという、何気ない場面のようで、源実朝が【日宋貿易】を目指す伏線にも思えたものです。
鎌倉時代は、一度途絶えた日本の茶文化が息を吹き返し、その後、定着へと向かう時代です。
宋でその素晴らしさを実感した栄西は、源実朝に勧めるだけでなく、自著『喫茶養生記』を執筆し、各地へ茶の栽培を伝えました。
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栄西は、まず脊振山で茶の栽培を開始。
いつしか茶葉を輸入する必要がなくなると、日本各地へ爆発的に広がってゆくのです。
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