歴史とは不思議なもので「たった一つのエピソードが鮮烈なため人々の記憶に残りやすい」ケースがあります。
戦国武将などに多く、今回、注目の人物もその一人でしょう。
敗走する石田三成を捕縛した――田中吉政です。
後世の我々は三成の最期を知っているから、『関ヶ原の敗走後に捕まえるだけのラクな仕事じゃん』と考えてしまうかもしれませんが、当時の現場は違う。
もしも三成が大坂城まで逃げおおせれば、そこには毛利輝元がいて、再起を図ることもできるかもしれません。
そんな希望が残されている時点で徳川にとっては由々しき事態となりますから、身柄を確保することは非常に重要なことでした。
では、それを成し遂げた田中吉政とは一体どんな武将だったのか?
なぜ吉政にできたのか?

田中吉政/wikipediaより引用
実は豊臣とも関係が深かった、その生涯を振り返ってみましょう。
吉政の登場
田中吉政は天文十七年(1548年)、近江に生まれました。
母が、宮部継潤の家臣である国友与左衛門の姉だった縁からか、吉政も宮部継潤に仕えています。
宮部継潤は浅井氏の家臣だったので、吉政は浅井長政の陪臣とも言えますね。

浅井長政/wikipediaより引用
長政は信長の妹・お市の方を娶り、その後、元亀元年(1570年)に信長を裏切るのはよく知られていますね。
激戦状態に突入した浅井と織田。
その中で吉政はどう身を処するのか。
というと、主人の宮部継潤が元亀三年(1572年)10月に豊臣秀吉の調略に応じて織田家についたため、そのまま吉政も織田軍の一員として組み込まれることになりました。
秀次の家老として
天正十年(1582年)頃、田中吉政は秀吉の甥である豊臣秀次の傅役を任されるようになります。
同じ頃に宮部継潤が鳥取城主となっていますので、この機会にかつての主従が別個に取り立てたような形とも言えますね。
秀吉あるあるの離間策かどうかは不明ですが、天正十二年(1584年)の【小牧・長久手の戦い】でも吉政は秀次隊に所属しており、役割が定着した感があります。

豊臣秀次/wikipediaより引用
果たしてこの道が良かったのかどうか。
天正十三年(1585年)、秀次が近江八幡で43万石の大大名となると、吉政は筆頭家老として3万石を与えられます。
この頃は、京都にいることが多かった秀次の代理として、吉政が近江八幡に滞在していたようで、かなり信頼されていたのでしょう。
それどころか秀吉からの信頼も厚かったようです。
天正十八年(1590年)の【小田原征伐】が終わり、徳川家康が関東に移されると、旧徳川領を含めた東海道近辺が豊臣家の親族や家臣に分割されていきます。
このとき吉政は岡崎城を与えられ、約5万8000石の城持ち大名に栄転するのです。
秀次も清洲城へ転封。
つまり、織田信長と徳川家康の居城だった重要拠点が主従に渡されたことになります。
実は吉政を岐阜城へ入れる案もあったそうですが、どちらにせよ秀吉からの並々ならぬ信頼感が伝わってきますね。
ちなみに、このとき岐阜城へ入ったのは秀吉の養子である小吉秀勝でした。
秀勝は翌年に亡くなってしまい、その後は信長の嫡孫である織田秀信(三法師)に与えられました。
それより何より、注目は豊臣秀次事件でしょう。
田中吉政は、秀吉から何らかの罰をくだされなかったのか?
秀次事件で逆に褒められる
まずは豊臣秀次事件のあらましを振り返ってみましょう。
事件の真相は現代でも不明瞭とされており、ざっくり言うと次のような流れです。
①文禄四年(1595年)、秀吉が突如「謀反しようとしたな!」と秀次を疑った
↓
②秀次は誓紙を出して無実の証明を試みるも疑いは解かれず
↓
③秀次と側近らが切腹
↓
④秀次の妻子はことごとく処刑
この事件では最上義光の娘である駒姫の悲劇がよく知られていますね。

駒姫像/wikipediaより引用
秀次の側室として迎えられる直前に事件が起きたにも関わらず、駒姫まで処刑されてしまったのです。
結果、秀吉の残忍さや老害が囁かれることになるわけですが、こうした処刑メンバーの中に田中吉政は含まれていません。
なんでも吉政は
「常に秀次へ諫言しており、それを秀吉に報告していた」
という理由で連座されるどころか逆に加増され、10万石の大名になったのです。
諫言をするほどの忠臣であれば、秀次が許されなさそうだという流れになったときに助命嘆願などをしても良さそうなものですが……。
秀次事件については今後も研究が進められていくと思われますので、吉政の振る舞いについても何か明らかになるかもしれません。
そのときを待ちましょう。
ともかく秀次が自害し、その後、秀吉が亡くなると、吉政は家康へとなびくようになっていきます。
関ヶ原の戦いの後に三成を捕縛
豊臣恩顧の武将にも見える田中吉政。
秀吉よりも秀次に近かったためか、あるいは別の理由があったか、秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでも東軍につきました。
もしも吉政が岡崎城ではなく岐阜城主になっていたら、東軍最前線の補給地点のように使われた可能性もあり、歴史がかなり変わってきそうですね。
実際は黒田長政と共に石田三成と戦ったとされています。

黒田長政/wikipediaより引用
では関ヶ原ではどんな武功があったか?
というと注目は戦後です。
関ヶ原の戦いがわずか一日で決着してしまうと、石田三成は逃亡し、行方がわからなくなりました。
東軍は9月16日から、三成の居城で石田一族が籠城していた佐和山城の攻略を開始。
吉政も、脇坂安治や井伊直政らとともに佐和山城攻めに参加します。

佐和山城址
家康は開城を勧告し、石田一族側でも受け入れるつもりでしたが、ここで哀しきスレ違いが生じてしまいます。
他ならぬ吉政が、開城の合意を知らず、城内に突入してしまったのです。
結果、9月18日に石田一族は自害し、西軍は骨抜きとなりました。
この一件、吉政が咎められていてもおかしくないミスですが、家康は不問にしたどころか、吉政に三成の捜索を命じています。
石田一族をどんな処分とするか――その辺はあらかじめ決めていたでしょうし、「筋書きが多少変わっただけ」と判断したのでしょうかね。
一方そのころ三成は、伊吹山に潜んでいました。
潜伏先が洞窟だったのでろくに動けず、足腰が弱り下痢も起こしていたといいます。おそらく回復を待って大坂城あたりへ戻ろうとしていたのでしょう。
しかし、その前に吉政の家臣が三成を発見するのです。

石田三成/wikipediaより引用
9月21日、ついに三成を捕縛。
最後の情けか、吉政は三成の調子が良くなるのを待って、25日に家康の下へ連れて行ったとされます。
そして小西行長や安国寺恵瓊と共に三成が処刑されたのは同年10月1日のことでした。
三成とは仲が良かったのか?
三成を捕縛した後の田中吉政については様々な逸話があります。
関係が良好だったと思われる話とその真逆の話が伝わっているのです。
そもそも三成の逸話自体が「当時あったもの」と「後世の創作」と思われるものが混在しているので、これは致し方ないところかもしれません。
吉政に関するところだと、三成の差料だった「石田貞宗」という脇差の伝来として、以下のように3つの説があるようです。
1.「三成が自分の意志で吉政に贈った」説
2.「処刑された後に吉政のものになった」説
3.「家康は三成を処刑せず、榊原康政に預けた。そのため石田貞宗は榊原家に伝わった」
という3パターンがあります。
一体どれが正しいのか?
三成が慶長四年(1599年)閏3月に佐和山で蟄居することになった際、道中護衛してくれた結城秀康へ打刀の”石田正宗”を贈ったことがヒントになるかもしれません。

結城秀康/wikipediaより引用
1の説であれば、吉政が三成を粗略に扱わなかったことへ感謝して石田貞宗を贈ったような印象になりますね。
また、三成は自分を実際に捕縛した吉政の家臣にも「さゝ(さ)のつゆ」という打刀を贈ったとする説もあります。
捕まれば処刑されることは目に見えていたでしょうし、日頃から吉政とその家中への感情が悪くなかったからこそ、刀を贈ったのではないでしょうか。
既に一族が討死していて、送り先がなかったからという理由もありえなくはないですが。
2の説の場合は、吉政が石田貞宗を他の戦の戦利品同様に扱ったという感じになるでしょうか。
3はまあ……”源義経=チンギス・ハーン説”や、”大坂夏の陣で真田幸村が秀頼を連れて逃げた説”と似たような、民衆の希望的観測が逸話になったものと思われます。
いずれにせよ、吉政と三成の関係を推し量るのはなかなか難しそうですね。
吉政は秀吉の子飼いというわけでもありませんし、三成とはお互いに「別部署のデキる奴」みたいな認識だったのかもしれません。
柳川城主へ
翌慶長六年(1601年)、田中吉政は三成捕縛などの功績を称されて筑後一国を与えられ、柳川城(福岡県柳川市)を居城としました。
かつて立花宗茂がいた城として有名なところです。
吉政は柳川の城や周辺の整備、検地を積極的に行い、またキリスト教の布教を認めるなど、硬軟併せた政治を行いました。

柳川城跡
そして慶長十四年(1609年)2月18日、江戸へ向かう道中の伏見で亡くなっています。
享年62。
決して派手さはないけれど、堅実に大名まで出世した。運にも恵まれた生涯だったのではないでしょうか。
★
跡を継いだ嫡男の田中忠政は、正室(家康の姪)との間に男子を授かりませんでした。
そして養子を迎えられないまま忠政が元和六年(1620年)に亡くなったため、田中家は無嗣断絶・改易となってしまいます。
忠政の甥・吉勝を養子にする案もあったようですが、なぜか認められず……。
田中家のキリスト教保護方針が睨まれたからなのかもしれません。
当時はまだ末期養子も認められていないので、いずれにせよアウトだった可能性は高かったでしょうか。
これを受けて立花宗茂が旧領に返り咲くことになります。
忠政に跡継ぎがいたら、宗茂は柳川に戻れず、あまり馴染みのない何処かの土地で大名になっていたのでしょう。
こういうのもバタフライエフェクトに入るんでしょうかね。
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【参考】
菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
日本人名大辞典
他




