2026年大河ドラマ『豊臣兄弟』で高橋努さんが演じる蜂須賀正勝。
蜂須賀小六の名でも知られ、豊臣秀吉の“親友”のように語られがちですが、実際は一回りほど年上で、しかも意外と早くに亡くなっています。
それでも秀吉が天下人を目指す上で絶対に欠かせなかった――蜂須賀正勝の功績を振り返ってみましょう。

落合芳幾画『太平記英勇伝七十八:八菅與六正勝』/wikimedia commons
川並衆の頭領
蜂須賀正勝は大永六年(1526年)、尾張国蜂須賀村で生まれました。
天文六年(1537年)辺りとされる秀吉の誕生年と比べたら、確かに一回り近く年上ですね。
蜂須賀家は、尾張守護・斯波氏の末裔とも言われますが、正勝の母方などについては詳細不明。
若き日の正勝は、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれたように、木曽川周辺で「川並衆」を率いていたとされます。

川並衆とは、流通・運搬や関所の通行料などを生業としていたと思われる集団であり、正勝と共に率いていたとされるのが、ドラマでは義兄弟として登場していた前野長康ですね。
ほとんどのフィクションで、正勝が“山賊の親分”っぽく描かれるのは、木曽川の川並衆という荒々しいイメージからでしょう。
正勝は、斎藤道三、岩倉織田氏、犬山織田氏に仕えたともされます。
ただし「川並衆」にせよ正勝の経歴にせよ『武功夜話』という文書をもとにした描写であり、史実とは認められていません。
かといって全てが否定されるものではなく、そういう状況にあったのだろうなぁと思うのがよろしいかもしれません。
墨俣一夜城
蜂須賀正勝の活躍として最も有名なのが永禄九年(1566年)の墨俣城築城――いわゆる“墨俣一夜城”でしょう。
残念ながら、これは後世の創作。
複数の物語で秀吉の事績が盛られていった結果、『絵本太閤記』に「一夜で城ができた」という話に行き着きました。

『絵本太閤記』で描かれた墨俣一夜城の築城の様子/国立公文書館
ただし、全くゼロからの作り話なのか?と問われれば、そうとも言い切れないのが難しいところです。
秀吉が美濃国内の砦に関わった記録自体はあります。
そしてその際、木曽川近辺に顔が利き、材木の調達や輸送が得意な正勝に、仕事が回ってきた可能性は十二分にあるでしょう。
要は、完全なフィクションではなく、砦や付城、守将任命など複数の要素が混ざり合って「墨俣一夜城」というカタチに収束した――そんな理解がちょうど良いかと思います。
では蜂須賀正勝は、いつから秀吉の与力として活動を始めたのか?
浅井攻めで功を重ねて長浜城主
『寛政重修諸家譜』によると、蜂須賀正勝は永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで武功を挙げ、元亀元年(1570年)金ヶ崎の退き口では秀吉の与力として協力したとされます。
実際はもっと早い段階から、秀吉に協力していたでしょう。
例えば永禄八年(1565年)に秀吉は、美濃尾張国境沿いの坪内利定という武将の調略に成功しております。
このとき領地を安堵する文書が出されたのですが、そこに秀吉の名前があり、しかも場所は木曽川流域ですから、蜂須賀正勝が関わっていた可能性は高い。
大河ドラマ『豊臣兄弟』にも登場した鵜沼城・大沢次郎左衛門の調略も、そうした調略活動の一環で行われた可能性が考えられる。
最終的には、重臣「美濃三人衆」までもが斎藤龍興を見限って織田家に降り、ついに美濃は信長のものとなりました。
正勝もまた秀吉と同じく、その頃は
・永禄十年(1567年)稲葉山城の戦い
・永禄十一年(1568年)上洛戦
・元亀元年(1570年)金ヶ崎の退き口
・元亀元年(1570年)姉川の戦い
という流れで、織田家の主な戦いで活躍したと考えられます。
なんせ正勝は、秀吉が近江の横山城を任せられると、その“在番”に命じられるほどでした。留守を任される“臨時城主”のような役ですから大任です。
そして天正元年(1573年)の浅井攻めで浅井長政を自害へ追い込むと、

浅井長政/wikimedia commons
秀吉は長浜城主となり、正勝もまた領内に所領を獲得。
秀吉の右腕と言って差し支えない存在となっていました。
信長と共に長島一向一揆征伐へ
天正二年(1574年)に迎えた長島一向一揆。
秀吉は、近江に残って北からの攻撃に備え、豊臣秀長と蜂須賀正勝は信長たちと共に伊勢へ出陣します。
このときで三度目の戦となる一揆勢は手強く、これまでの戦績は非常に厳しいものでした。
◆一度目は元亀二年(1571年)
◆二度目は天正元年(1573年)
◆三度目は天正二年(1574年)
例えば蜂須賀正勝は、元亀二年(1571年)の戦いで、弟の蜂須賀正元を討ち取られています。
だからでしょう。
この三度目の戦いで織田信長は、かつてない規模、一説には7~8万もの大軍を引き連れ、伊勢長島へ向かったのです。
結果、織田家は勝利。
詳細は、こちらの👉️別記事「長島一向一揆」に譲りますが、2万人の信徒を殲滅した戦として知られますね。
織田家飛翔の天正期
天正年間は、織田家ノリノリの時代です。
直前の元亀四年(1573年)4月に最大の脅威だった武田信玄が亡くなっており、天正二年(1574年)に長島一向一揆を潰すと、天正三年(1575年)長篠の戦いでは武田勝頼に大勝利。
さらには越前一向一揆も押さえ込み、信長は朝廷から「従三位権大納言兼右近衛大将」の官位を授かります。
事実上の天下人認定です。
一つ上のステージへ上がった信長は、その年、嫡男の織田信忠に家督と美濃・尾張・岐阜城などを与え、自身は天正四年(1576年)安土城の建築に取り掛かりました。
総奉行は丹羽長秀。

丹羽長秀/wikimedia commons
そして蜂須賀正勝にも、非常に重要な役割が与えられます。
安土城本丸の石垣作事奉行――城普請の中枢に食い込む役目です。
織田家のオールラウンドプレイヤーとして丹羽長秀が重宝された話は有名ですが、蜂須賀正勝も同様、戦だけでなく外交もできれば普請もこなせて人当たりもよい。
丹羽長秀から見ても頼れる実務者だったことでしょう。
正勝は、安土での奉行を務めながら、石山本願寺攻めのため大坂へ出陣したり、四方八方で働き続けました。
中国攻めの秀吉軍で常駐メンバーとなる
天正五年(1577年)以降、秀吉の中国攻めが本格化し、蜂須賀正勝も従軍しました。
秀吉の中国攻めというと「三木城の干し殺し」の悲惨な場面が有名ですよね……。
正勝も三木城での功を認められると、城を与えられ加増もされます。
そして以降は、豊臣秀長の配下として働く場面がますます増え、信長に直接報告する機会も増えたとされます。
羽柴軍はざっくり、秀吉が山陽方面、秀長が山陰方面を担当して戦力を分け、正勝は秀長側で“サポート役”に徹したのかもしれません。
あるいは息子の蜂須賀家政を実地訓練させたという側面もあったでしょう。

蜂須賀家政/wikimedia commons
天正九年(1581年)の鳥取城攻めに加わり、天正十年(1582年)の備中高松城水攻めでは堤の奉行も務めたとされ、「秀吉の大合戦にはほぼ正勝がいた」という状態になります。
しかし、その状態も突然終わりを迎えます。
そう本能寺の変です。
本能寺の変後
天正十年(1582年)本能寺の変で織田信長が敗死。
急ぎ京都に戻って明智光秀を討った秀吉は、その後、織田家中の権力闘争に突き進み、蜂須賀正勝もその配下として働き続けます。
柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」に始まり、「大坂城の縄張り」にも関わる他、天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いでは大坂城の留守居役を任せられます。
これが地味に重要でして。
南の紀伊には雑賀衆など徳川方につく勢力があり、実際に大坂へ迫る勢いだったところを正勝が出陣して押さえ込んでいます。

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用
翌天正十三年(1585年)には根来衆や雑賀衆への攻撃にも関与し、まさしく休む間もない働きぶり。
しかも当人はこの頃から病に蝕まれ始めていたようです。
同年の四国征伐で正勝は、長宗我部元親との取次役として重要な立場にいました。
四国の支配エリアについては長宗我部元親と織田信長が以前から揉めていて、秀吉とも折り合いがつきません。
結果、交渉は決裂。
正勝は嫡子・家政と共に出陣し、秀長軍や秀次軍とは別行動を取りつつ、流血を抑えるために交渉の余地も探ったとされます。
黒田官兵衛、仙石秀久らも参戦し、毛利勢も含めて総勢12〜13万規模に膨れた大軍です。
◆秀吉の四国征伐軍
・豊臣秀長軍 3万
・豊臣秀次軍 3万
・蜂須賀正勝軍 2万3千
・小早川隆景軍 4万
いくら四国の覇者と言えども長宗我部軍だけではいかんともしがたいのが現実。
四方からの秀吉軍に押されて守備が崩壊し、短期決着での決着となりました。
阿波18万石を息子へ譲り
戦後の恩賞として、秀吉は蜂須賀正勝に阿波18万石を与えようとしました。
しかし正勝は「長距離移動が耐え難い」「秀吉の側を離れがたい」などを理由に辞退、家政に譲ります。
正勝本人は養生費として摂津5,000石を受け取ることとしました。
秀吉の側で働きたい……というより、病気が辛かったのではないでしょうか。
明日をもしれぬ病人が国持大名になっても、現実的に、実務が回りませんしね。
そして天正十四年5月22日(1586年7月8日)に大坂邸で死去。
享年61でした。
秀吉の関白就任(1585年7月)から間もない時期のことであり、天下人の足場が完全に固まる直前、最古参の柱が一本抜けた形になります。

豊臣秀吉/wikimedia commons
豊臣秀吉は、若い頃から譜代家臣が少ない人物でした。
だからこそ、年長で実務にも戦にも通じた蜂須賀正勝の存在が特別だったはず。
彼の死は、単なる一武将の死ではありません。
豊臣政権の「均衡」が、ひとつ失われた瞬間だったのかもしれません。
※本記事は弊サイト掲載「蜂須賀正勝の生涯(完全版)」をもとに再構築したものです
参考書籍
柴裕之『豊臣秀長』(2023年8月 戎光祥出版)
黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(2025年5月 KADOKAWA)
呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(2025年11月 幻冬舎)
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