今井宗久の肖像画

文化・芸術

信長に2万貫を要求された堺で今井宗久は何をした?重用された理由とは

大河ドラマ『豊臣兄弟』の第11回放送で自治都市の「堺」が注目された。

劇中では、織田信長が豊臣秀吉を派遣して、2万貫もの矢銭(やせん・軍資金)を要求。

2万貫は現在の価値で20~30億円ともされ、津田宗及や今井宗久らを擁する堺の会合衆(えごうしゅう・かいごうしゅう)はこれを突っぱねたのである。

では、史実ではどうだったのか?

今井宗久の肖像画

今井宗久/wikimedia commons

信長と誼を結び、豪商にして茶人として台頭した今井宗久。彼はこの局面で何を選んだのか。

 

いち早く鉄砲に目をつけた宗久

会合衆の中では当時まだ新興勢力であった今井宗久は、若いころから目利きのある人物だった。

鉄砲の有用性にいち早く着目。

天文十七年(1548年)には火薬の原料(硝石)を買い集めるだけでなく、天文二十一年(1552年)には鋳物師を集めて火縄銃の量産を手がけるほどだった。

そこへやってきたのが織田信長である。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

永禄十一年(1568年)に上洛戦を成功させた信長は、京都(山城)だけでなく堺のある摂津や和泉、丹波・播磨の一部などを制圧。

同年10月に足利義昭を将軍に押し上げると、その後、堺に対しては豊臣秀吉ではなく佐久間信盛柴田勝家らを派遣して、2万貫という巨額の矢銭を要求した。

日明貿易の頃から栄えていた堺は、当時、日本最大の貿易港でもあり、東アジアや東南アジアを経由して、世界中の珍しい物品も集まっていた。

信長が課した矢銭の金額は、他の地域が数千貫単位。

それに対し、堺だけが突出して多かったのは対応できる財力があったからだ。

また、堺が三好三人衆の影響下にいたことから「今後、織田に逆らうのか従うのか」その試金石でもあっただろう。

そこで史実の堺はどう出たか?

 


信長に重用され堺を支配

津田宗及らを中心とする会合衆は、信長の要求を突っぱねた。

当時の堺には堀がめぐらされ、防衛機能を持っていたため、津田宗及をはじめとした堺衆の多くが抗戦を訴えたのである。

しかし今井宗久だけは違っていた。

上洛を果たした織田信長の能力に賭け、名物「松島ノ壺」と「紹鴎茄子(じょうおうなす)」の茶入を献上して、急接近を果たす。

紹鴎茄子とは、かつて茶人の大家・武野紹鴎が所持した唐物(中国製品)の茄子型茶入であり、豪商でもある紹鴎は同時に宗久の舅でもあった。

宗久が審美眼に優れるだけでなく、茶器そのものに価値をつける先見の明があったのも、紹鴎からの薫陶と言えるだろう。

結局、信長に対抗した堺の会合衆らも、永禄十二年(1569年)1月の「本圀寺の変」で三好三人衆を跳ね返した織田軍を前にしては成すすべなく、堺の直轄化に応じることとなる。

このとき支配を委ねられたのが宗久だった。

正式な代官(責任者)は松井友閑(ゆうかん)だったと目され、事実上の運営責任者が宗久だったのだろう。

信長は、宗久の有する鉄砲・火薬の調達能力を高く評価。

種子島火縄銃/photo by wikipediaより引用

その立場を確立させるために、堺にある幕府領の代官や淀川の通行権、あるいは但馬生野銀山の管理権など、幅広い特権を与えていく。

そしてそこから得られた富が織田家へ献上されながら、パトロンのような豪商として成長していった。

信長からみても、宗久の堺掌握術は極めて有用だったのであろう。

宗久が岐阜へやってきた際には歓待をしている。

 

御茶湯御政道の功労者

織田信長は勢力を拡大していく上で、土地以外の恩賞を積極的に用いた。

それが茶器である。

茶器を価値あるものとして配下の者に与えるには、名のある茶人が値付けをすることが必須となる。

鑑定人としても、うってつけだったのが今井宗久であった。

信長は茶を家中の統制だけでなく外交にも用い、宗久と共に津田宗及や千宗易(千利休)を茶頭とし、堺衆を取り込んでいく。

『信長公記』によると、天正六年(1578年)9月末、信長が大船(俗に”鉄甲船”)を堺で検分した際、その帰りに宗久邸を訪れた。

このとき宗久は信長に茶を献じたことについて、太田牛一は「天下に面目を施した」と記述。

信長は立て続けに紅屋宗陽邸・天王寺屋(津田)宗及邸にも訪れており、堺衆の中では宗久が第一の存在だったことがうかがえる。

また今井宗久は、津田宗及と同様に長期間の茶会記を執筆しており、現在は『今井宗久茶湯書抜(いまいそうきゅうちゃのゆかきぬき)』として残されている。

その名の通り宗久の茶会記を他者が複数回書写したものであり、誤記も多いため一部信憑性に欠けるのが玉に瑕だが、当時の様子を伝える貴重な一冊だ。

問題は本能寺の変“後”であろう。

 

秀吉のもとでは第三の存在に

津田宗及と同様に、秀吉の時代になると今井宗久は影響力を薄めていった。

ご存知の通り、千利休がより重んじられたためだ。

千利休の肖像画

長谷川等伯が描いた千利休像/wikimedia commons

天正十五年(1587年)10月の北野大茶会では、利休が第一、宗及が第二、宗久が第三となっており、その順位から影響力の弱体化がうかがえる。

同時に、信長と秀吉の価値観の違いが表れているとも言えるだろう。

信長は、宗久や宗及の「商人かつ茶人」という立場を政治的にも利用したが、秀吉は利休を「茶人としての面」で強く求めたのではないだろうか。

利休の切腹事件の原因が今なお不明であることも考えると、宗久や宗及が秀吉への接近を重視しなかったのは、秀吉のそうした面が性に合わなかったからなのかもしれない。

なお、今井宗久については別記事「今井宗久の生涯」も併せてご覧いただければ幸いです。

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

田中仙堂『お茶と権力 信長・利休・秀吉』(2022年2月 文藝春秋社)
谷口克広『信長の政略』(2013年6月 学研プラス)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
国史大辞典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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