織田信長のもとで数々の功績を上げ、異例の出世を遂げた豊臣秀吉。
その始まりは「美濃の調略」や「金ヶ崎の退き口」など、合戦における武功や機転などが語られがちです。
しかし、特筆すべき能力は他にもあります。
政務の実行能力です。
日常における行政・統治をどう円滑に進めていくか。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では、京都奉行の仕事よりも夜の女性と遊ぶ姿が目立っていましたが、秀吉が頭角を現したのは都市の統治や相論(訴訟)にも深く通じたからとも考えられます。
では実際にどんな業務に携わっていたか。

豊臣秀吉/wikimedia commons
本稿では、上洛後の秀吉が京都でどのような政務を担ったのかを見てまいりましょう。
初の京都統治と相論
永禄十一年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛戦を行い、秀吉も従軍しました。
『信長公記』などの史料において、秀吉の動向が頻繁に確認できるようになるのはこの時期から。
上洛を果たした信長は、同年10月下旬に本拠の岐阜へ戻りましたが、京都の統治と治安維持を担う担当者として数名の武将を現地に残しています。
その一人が豊臣秀吉です。
他には佐久間信盛、村井貞勝、丹羽長秀らが在京しており、治安維持や税金、土地の利権トラブルに関わる仕事を取りまとめていました。
同時期の秀吉の具体的な行政活動として特筆されるのが、同年12月16日に行われた相論(訴訟)です。
堺では、豪商・今井宗久と武野宗瓦の間で、相続をめぐる争いが起きていました。

今井宗久/wikimedia commons
経済の中心地・堺で起きた有力者間のトラブルという、高度な政治的判断を要する場に秀吉が立ち会い、この裁判は信長から和解勧告がくだされ、最終的には宗久の要求が通ります。
同年12月後半、いったん岐阜へ戻り、翌永禄十二年(1569年)1月には信長が上洛する際に同行 。
秀吉は再び京都での政務担当者に任じられました。
このときは丹羽長秀も引き続き同役を務め、佐久間と村井に替わって中川重政と明智光秀が加わり、京都の統治にあたっています。
毛利の援軍を務め伊勢攻めにも参戦
京都での政務を担う一方、豊臣秀吉は軍事行動にも頻繁に駆り出されています。
永禄十二年(1569年)初夏、毛利軍が九州で大友氏と交戦していた際、出雲奪還を目指す尼子氏の残党が毛利の背後を脅かす事態が起きました。

毛利元就/wikipediaより引用
さらに山名祐豊(すけとよ)が尼子氏に味方したため、毛利元就は信長に対しこんな要請を出します。
「山名の動きを阻止するため、但馬へ兵を出してほしい」
この時点で毛利と織田は、敵対関係にはなかったのですね。
信長も、毛利の要請を受け入れ、同年8月1日に秀吉を大将とする軍勢を但馬へ派遣しました。
惜しいことに大河ドラマ『豊臣兄弟』ではナレーションだけで終わりましたが、秀吉軍はこの遠征で18もの城を短期間で陥落させ、8月13日には速やかに帰陣しています 。
さらに帰陣直後の8月20日には、織田軍の伊勢侵攻に出陣。
阿坂城攻めで先陣を務めるほか、大河内城攻めでは西側の攻略を担当しました。
10月4日に大河内城が陥落すると、秀吉はすぐさま上洛し、しばらくの間、再び京都での政務に復帰しています 。
戦場から京都へ。
京都から岐阜城へ、そして戦場へ。
こうした頻繁な移動には、信長の迅速な判断と行動が反映されていたのでしょう。

織田信長/wikimedia commons
能力が高くなければ右へ左への急転直下な展開についていけませんが、これを首尾よくこなした秀吉が信長に気に入られるのも当然かもしれません。
京都へ戻った直後の10月9日には、阿弥陀寺に対して軍勢の寄宿を免除する旨を伝達するなど、市中の寺社保護や治安維持といった行政実務を細やかに処理しています。
横山城を任されながら
元亀元年(1570年)4月、織田信長が越前朝倉攻めを強行。
浅井長政に裏切られると、豊臣秀吉が「金ヶ崎の退き口」で殿(しんがり)を務めたことは大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれました。
織田軍は「姉川の戦い(6月28日)」を経て、その後、秀吉は横山城の城将に任じられます。
事実上、初の城主です。
と同時に、そこは凄まじい緊張感を伴う拠点でもありました。
以下の地図をご覧のとおり
横山城は、浅井長政の本拠・小谷城と約12kmしか離れておらず、織田家にとって最も重要な軍事拠点でした。
しかも、です。
どれだけ働かされるのか、秀吉は京都における役割も完全になくなったわけではありません。
元亀元年(1570年)11月に上洛して年末まで在京していると、翌元亀二年(1571年)11月にも再び上洛。
年が明けて翌年の元日に織田信長へ年始の挨拶を済ませると、5月に再び京都に出向き、7月には小谷城攻撃にも参加して、さらには虎御前山で城番に任じられています。
浅井長政への圧力をさらに強くかけたのです。

浅井長政/wikimedia commons
この頃になると、秀吉の京都政務は徐々に比重が減らされていったようです。
浅井滅亡後の近江を統治
秀吉らが京都での滞在を始めた当初、その目的は都市の治安維持だけでなく、再興された室町幕府の補佐と監視にありました。
信長が永禄十二年(1569年)に『殿中御掟』を定めた段階では幕府の運営に深く介入していませんでしたが、永禄十三年(1570年)に『五ヶ条の条書』を追加したことで、統制を強めています。
秀吉らはこうした信長の意向を受け、幕府と朝廷や寺社をはじめ、数多の民衆が交錯する京都の最前線で実務を遂行していたのです。
しかし、徐々に関係が悪化していく足利義昭と信長。
その不穏な動きは止まず、最終的に両者は決別して「槇島城の戦い」で戦い、信長は義昭の追放を決断しました。
元亀四年(1573年)7月18日、降伏した義昭を河内国若江城まで護送したのも秀吉です(なお秀吉が羽柴姓を称し始めるのもこの頃からです)。
信長は同年8月に浅井朝倉を滅ぼすと、秀吉に浅井氏の旧領を託します。
秀吉はひとまず小谷城を居城とした後、間もなく琵琶湖畔で長浜城を新たに築き、正式に城持ち大名としての第一歩を踏み出しました 。

長浜城(本丸跡と模擬天守)
なぜ織田信長は秀吉に任せたのか?
と言えば、もちろん美濃斎藤氏や北近江浅井氏の攻略を評価してのことでしょう。
しかし同時に、その政務能力も認めていたからと思われます。
京都時代に培った都市の治安維持能力だけでなく、寺社の取り扱いや相論、税務処理など、複雑な業務を処理できる行政官としての資質も認めていた。
戦場や京都を往復して得られた豊臣秀吉の能力が買われたのです。
そうした経験が、後の検地や刀狩、身分統制など、豊臣政権による全国的な統治機構に繋がる重要な下地となったのではないでしょうか。
なお、織田軍と浅井軍の衝突は別記事「姉川の戦い」や「小谷城の戦い」をご参照ください。
参考文献
柴裕之『図説 豊臣秀吉』(2018年9月 戎光祥出版)
山本博文『天下人の一級史料──秀吉文書の真実』(2009年6月 柏書房)
藤井讓治『織豊期主要人物居所集成』(2024年10月 思文閣出版)
日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』(2015年5月 洋泉社)
小和田哲男『豊臣秀吉』(1985年4月 中央公論新社)
【TOP画像】豊臣秀吉/wikimedia commons
