武田信玄のイメージイラスト

絵・富永商太

織田家

武田軍迫る第二次信長包囲網|信長はどうやってこの窮地を脱したか

元亀元年(1570年)9月から12月にかけ、織田家はかつて直面したことのない窮地に立たされた。

三好三人衆の蜂起を皮切りに本願寺や浅井朝倉軍、さらには延暦寺や六角氏など、周囲のありとあらゆる勢力が攻勢を仕掛けてきたのである。

俗に「第一次信長包囲網」と呼ばれるこの危機。

足利義昭の調停や正親町天皇の勅命によって和睦を成立させ、四面楚歌の危機から脱した織田信長だったが、すぐにまた危機は訪れた。

武田信玄である。

元亀三年(1572年)10月、戦国最強とも畏怖される武田軍が西上作戦を実行すると、本願寺や浅井朝倉軍だけでなく足利義昭まで敵に回り信長を囲い込んだのだ。

「第二次信長包囲網」と呼ばれ、信長の生涯で最も危険だったとされるこの状況。

果たしてどうやって切り抜けたのか。

「第二次信長包囲網」の全貌を振り返ってみよう。

 


北近江での優位確保と長島での苦戦

まずは「第一次信長包囲網」を軽くおさらいしておこう。

元亀元年(1570年)4月、越前の朝倉攻めを強行した信長は浅井長政に裏切られ、浅井朝倉軍と泥沼の戦闘状態に陥った。

そこに三好三人衆や本願寺、さらには比叡山延暦寺も敵に回り、すっかり囲まれてしまった織田軍は窮地から脱するため足利義昭や正親町天皇を頼り、和睦を成立させた。

そうした詳細は以下の「第一次信長包囲網」の記事に譲り、今回はその先へ進む。

織田信長の肖像画
第一次信長包囲網とは?四方を敵に囲まれた信長がそれでも生き残れた理由

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和睦締結後、ただちに戦闘の態勢を整えた信長。

元亀二年(1571年)2月、北近江において浅井方の重臣・磯野員昌(かずまさ)を囲み、佐和山城の開城に成功させた。

同城には織田家重臣の丹羽長秀を入れ、岐阜から京都までのルートを確保し、近江・浅井の支配を崩していく。

が、すべてが順調に進んだわけではなく、重大な懸念が尾張と美濃のすぐそばにあった。

伊勢の長島一向一揆である。

長島一向一揆の中心となった願証寺/photo by 立花左近 wikipediaより引用

前年の元亀元年(1570年)11月、織田軍は、伊勢の長島一向一揆に攻められ、信長の弟・織田信興が自刃に追い込まれていた。

そこで元亀二年(1571年)5月、織田軍は伊勢方面の平定を目的として5万ともいう大軍で攻め込み、第一次長島一向一揆の討伐を始めた。

が、結果は散々なものとなる。

長島特有の河川や中洲という複雑な地形に阻まれ、思うような戦果を挙げられずに撤退へ。

このとき一揆勢の追撃を受けた織田軍は大損害を被り、殿(しんがり)を務めた美濃三人衆のひとり・氏家卜全(直元)が討死し、柴田勝家も負傷という手痛い敗北を喫した。

 


比叡山焼き討ちと対立の先鋭化

長島での苦戦を経た同年9月1日、織田信長は再び近江へ出陣する。

浅井に味方する一揆勢を討伐するためだ。

と同時に、日本仏教の総本山ともいえる比叡山延暦寺への攻撃を企てていた。

前年の「第一次信長包囲網」の最中に浅井朝倉軍を匿い、信長からの中立要求を黙殺してきた比叡山延暦寺は、数多の僧兵を抱えて大きな武力を有していた。

当時の者なら誰しも、攻め込むことを躊躇してしまう大寺院である。

そこへ正面から攻撃を仕掛けたのだ。

元亀二年(1571年)9月11日、信長は明智光秀に命じて作戦立案と指揮を任せ、比叡山の麓にある三井寺周辺に陣を敷いた。

明智光秀の肖像画

明智光秀/wikimedia commons

そして翌12日、信長は全軍に総攻撃を命じ、「比叡山焼き討ち」を断行させた。

根本中堂や山王二十一社をはじめとする比叡山の各施設に火が放たれたとされるこの事件。

僧兵のみならず一般の僧侶や老若男女もことごとく斬られ、犠牲者は3,000~4,000人にものぼると『信長公記』等では伝えられている。

しかし、その数は鵜呑みにもできないと現代では指摘されている。

近年の発掘調査などにより、当時のものとされる建造物の多くはすでに廃絶状態にあって焼失の痕跡は見つからず、「全山を焼き払う規模」ではなかったとする見方が強まっている。

犠牲者もまた同様で、犠牲者らしき人骨も見つかっていない。

それでもなお、武力行使と殺戮が行われたことは事実だったようで、日本の歴史に長く続いた延暦寺の宗教的権威を地に落とした。

一方、信長の大きな足かせとなっていったのが足利義昭である。

 

将軍・足利義昭との決裂と武田信玄の西上

信長が上洛の御輿として担ぎ、室町幕府の再興を目論んでいた15代将軍・足利義昭。

元亀三年(1572年)9月、信長はその義昭に対して「十七箇条意見書」と呼ばれる糾弾文書を突きつけた。

義昭による不公平な恩賞や、朝廷への不敬、悪政を厳しく非難するものであり、両者の対立は修復不可能なまでに悪化する。

決定的となったのが武田信玄だ。

信長との敵対姿勢を強める義昭は、反信長勢力に密使を送り続け、ついに「甲斐の虎」こと武田信玄を動かすことに成功する。

元亀三年(1572年)10月、信玄が大軍を率いて西上作戦を開始したのだ。

武田信玄の肖像

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons

このとき武田軍が、上洛を目指していたかどうかは不明。

甲斐から京都までの道のりは長く、現実的には無謀な試みと言える。

足利義昭からの上洛の呼びかけはあくまでキッカケに過ぎず、徳川に対して敵愾心を抱いていた信玄は、家康の支配域である遠江や三河を狙っていたと考えるのが自然だ。

武田家と織田家は表向きは同盟関係にあり、織田家は徳川家とも固く繋がっている。

非常に危ういバランスの中、武田信玄は遠江・三河方面(徳川領)へ本隊を進めると、秋山虎繁らに美濃を攻めさせる多正面作戦を展開。

元亀三年(1572年)11月には美濃の要衝・岩村城が陥落した。

信長は、徳川家康の再三の要請に応じて、佐久間信盛・平手汎秀(ひらて ひろひで)・水野信元らの援軍数千を派遣すると、これにより織田家と武田家の同盟も決裂。

そして元亀三年(1572年)12月22日、遠江の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市)で、徳川織田連合軍と武田軍が激突した。

ご存知「三方ヶ原の戦い」である。

結果は武田軍の圧勝で、徳川家康は命からがら浜松城へ逃げ戻るしかなかった。

織田の援軍も散り散りになり、信長の傅役として知られる平手政秀の息子(あるいは孫とされる)平手汎秀も討死した。

家康を打ち砕いた武田軍がそのまま三河へ侵攻すれば、いずれ尾張から岐阜城へと迫ってくるのは間違いない。

信長にとっては「第一次信長包囲網」を上回る絶体絶命の窮地。

そのころ京都では、信玄勝利の一報を聞いた足利義昭が大いに湧き上がっていた。

足利義昭の肖像画

足利義昭/wikimedia commons

 


室町幕府の滅亡と天正への改元

武田軍の圧倒的な勝利と進撃の報を受けた足利義昭は、元亀四年(1573年)2月、二条城などを拠点として織田信長に対し挙兵。

義昭は六角義賢や三好義継、松永久秀、本願寺(顕如)、さらには浅井朝倉にも決起を促し、俗に「第二次信長包囲網」と呼ばれる包囲網が完全に整う。

この状況を受けて信長は、2月下旬に軍勢を率いて上洛し、知恩院に陣を構える。

そして上京の町を焼き払って義昭に圧力をかけたが、4月には正親町天皇の勅命を仰いで、義昭との間に和睦が成立した。

そんな間にも、事態は、思いもよらぬ方向へ動いていた。

家康を打ち破り、尾張や美濃へ攻め込んでくると目されていた武田軍が不可解に動きを止めていただけでなく、甲斐へ軍を引き戻したのだ。

元亀四年(1573年)4月12日、武田信玄が病没していたのである。

武田信玄の最期を描いた月岡芳年の浮世絵/wikipediaより引用

武田信玄の最期を描いた月岡芳年の浮世絵/wikipediaより引用

いくら精強な武田軍といえども遠征中に総大将を失ってしまえば、まず新たな主君となる武田勝頼の体制確立に労力を割かねばならず、甲斐へ戻るしかない。

そんな武田軍の撤退を義昭はどう考えていたのか。

“秘匿”ともされた信玄の死を把握できていなかったのか。

元亀四年(1573年)7月、足利義昭は信長との和睦を破棄して宇治の槙島城に籠もり、再度の挙兵に踏み切った。

その一報を聞き、直ちに再上洛した信長は、三淵藤英らが籠もる二条城を開城させると、大軍で槙島城を包囲する。

と、7月18日、猛攻を受けた義昭がたまらず降伏。

信長は、義昭の命を奪うまではせず、身ひとつで京都から追放し、足利尊氏以来230年あまり続いた室町幕府は、事実上の滅亡を迎えた。

同月28日、元号が元亀から「天正」へと改元される。

信長が、新たな支配者として君臨する象徴でもあった。

 

朝倉・浅井両氏の滅亡

京都にあって各地の勢力を撹乱し、大きな憂いともなっていた足利義昭を追放した織田信長は、攻略を加速させていく。

目下のターゲットは、最大の宿敵である浅井朝倉軍。

天正元年(1573年)8月、3万の大軍で北近江へ出陣して小谷城を包囲すると、約2万の軍勢で朝倉義景が浅井家の救援に現れ、小谷城北方で構えた。

朝倉義景の肖像画

朝倉義景/wikimedia commons

8月13日、信長は暴風雨に乗じて自ら陣頭に立ち、朝倉軍の前線拠点である大嶽砦を夜襲で陥落させた。

戦況の不利を悟った義景が越前への撤退を開始すると、すかさず猛追撃をかける信長。

そのまま「刀根坂の戦い」へとなだれ込み、朝倉軍を粉砕した織田軍は越前へ侵入し、義景の首を追う。

と、朝倉で思わぬ裏切り者が現れた。

本拠の一乗谷を放棄して大野へと逃れた朝倉義景に対し、一族の朝倉景鏡が死を迫り、天正元年(1573年)8月20日、自刃に追い込んだのだ。

かくして越前の名門・朝倉氏を滅亡させた信長は、休むことなく北近江へ取って返し、もはや完全に孤立してしまっていた小谷城への総攻撃を開始した。

浅井にその事態を覆す余力はない。

8月27日、羽柴秀吉の部隊が京極丸を占拠して長政の父・浅井久政を自刃させると、翌28日(9月1日説も)には浅井長政もついに自刃し、浅井氏は滅亡した。

落城に先立ち、信長の妹であるお市の方と三人の娘(茶々・初・江)は無事に救出され、織田陣営へと引き渡されている。

 

信玄死後に瓦解した第二次信長包囲網

浅井朝倉という近隣の敵対勢力を滅ぼしたことで、ピンチを脱した織田信長

「第二次信長包囲網」を中心から瓦解させるも、攻勢の手は緩めない。

勢いに乗る織田軍は同年11月、河内の若江城にいた三好義継を討ち取り(若江城の戦い)、翌12月には、大和国で包囲網の一角を担っていた松永久秀も屈服させ、多聞山城は明け渡された。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

元亀元年(1570年)から織田家を苦しめ続けた「信長包囲網」。

その二度目となる「第二次信長包囲網」は武田信玄の参戦という、信長にとっては最悪の展開で頂点を迎え、しかし、その死によって勝利の好機が訪れた。

信玄の死は、まるで“神の差配”としか思えない偶然であり、信長最大の危機を脱する決定的な転機となった。

が、常に迅速に動き続けた信長の軍事行動が勝利をもたらしたのも間違いないだろう。

そんな信長をめぐる敵対勢力の動きはまだまだ終わりではない。

織田家と対立する戦国大名は摂津の本願寺(顕如)や甲斐の武田勝頼だけでなく、新たに上杉や毛利も加わっていく。

いわゆる「第三次信長包囲網」の詳細は後日(5月6日)に掲載予定とさせていただく。

なお、「第一次信長包囲網」をご覧になられてない方は以下の記事をご覧ください。

織田信長の肖像画
第一次信長包囲網とは?四方を敵に囲まれた信長がそれでも生き残れた理由

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参考文献

藤井讓治『天下人の時代(日本近世の歴史1)』(2011年5月 吉川弘文館)
池上裕子『織田信長』(2012年12月 吉川弘文館)
藤本正行『信長の戦争 ―『信長公記』に見る戦国軍事学―』(2003年1月 講談社)
堀新 編『信長徹底解読 ―ここまでわかった本当の姿―』(2014年10月 毎日新聞出版)
日本史史料研究会 監修/渡邊大門 編『信長軍の合戦史』(2016年8月 吉川弘文館)
日本史史料研究会 編『信長研究の最前線 2』(2017年8月 洋泉社)
金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』(2017年3月 河出書房新社)
岡田正人 編『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
神田千里『顕如:仏法再興の志を励まれ候べく候』(2007年10月 ミネルヴァ書房)
和田裕弘『柴田勝家 ―織田軍の「総司令官」―』(2017年11月 中央公論新社)
天野忠幸『三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争』(2016年2月 戎光祥出版)

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五十嵐利休

武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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