戦国史を現代風に大胆アレンジして楽しむマンガ『戦国ブギウギNEO』の第18-19話。
今回、一挙二話分を掲載したのは、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも話題となった森可成の討死に注目するためです。
三好三人衆の「野田・福島の戦い」に続いて、本願寺が蜂起するという大ピンチに陥った織田軍と信長はどう危機に対処するのか。
マンガでご覧あれ!
凱旋

◆元亀元年(1570年)6月の「姉川の戦い」を終え、岐阜へ戻ってきたのは前田利家さん。
漫画の中で話している「いっちゃん」とはお市の方のことであり、その旦那とは浅井長政のことですね。
寧々の夫である豊臣秀吉は、対浅井の最前線である横山城の城将を任されることとなりました。
束の間の休日

◆家族ぐるみのご近所さんだったと伝わる秀吉と利家は、織田家が浅井長政と対峙してから出世に差が開き始めました。
秀吉が「金ヶ崎の退き口」を成功させ、横山城を任され、さらに活躍していくからですね。
利家も中々もどかしい状況だったでしょう。
アジテイション

◆ここは、ちょっと説明が必要です。
こちらのコワモテ顕如さん、つまり本願寺が蜂起したのは、三好三人衆が織田信長と元亀元年(1570年)8月に戦い始めてからでした。
「野田・福島の戦い」と呼ばれ、本願寺のすぐそばで三好三人衆と織田軍が戦闘を始めたのです。
信長とは敵対関係ではなかった本願寺ですが、眼前で争いが起き、この調子では「いつ自分たちが攻められるか……」と危機感を抱いても仕方のないこと。
そんなときに三好方も「本願寺の味方をするから」と背中を押されたとされます。
第一次石山合戦

◆かくして元亀元年(1570年)9月、三好三人衆の「野田・福島の戦い」に続き、本願寺との「石山合戦」が始まりました。
まさかこの後、10年以上も本願寺と戦い続けるとは思いもよらなかったのでは?
兄貴の初陣

◆森可成が率いた森家の男子と言えば、信長の色小姓として有名な森蘭丸、「人間無骨」という槍を使った森長可(ながよし・漫画の中では森勝蔵)がよく知られます。
しかし、忘れちゃいけないのが森可隆(よしたか)。
可成の長兄であり、実は元亀元年(1570年)4月25日に朝倉攻めのときに亡くなっていました。
そう、この可隆に続き、今度は宇佐山城の戦いで父の森可成が……。
宇佐山城の森可成

◆織田軍の主力が「野田・福島の戦い」と「石山合戦」で対峙していたのを見計らい、出陣してきたのが浅井長政と朝倉義景です。
京都を目指して琵琶湖の西岸を南下してきた浅井朝倉軍。
信長がその一報を知ったのは、元亀元年(1570年)9月、宇佐山城の戦い後のことでした。
つまり……。
武闘派たち

◆「姉川の戦い」では前線に来なかった朝倉義景さん。
織田軍を生で見たのは、森可成が初のことかもしれません。
3万ともされる浅井朝倉軍に対し、1000~3000という森可成は宇佐山城に籠もらず、信長や織田軍のため時間稼ぎのため立ちはだかったのです。
坂本の戦い

◆寡兵で粘りに粘った森可成ですが、相手は浅井朝倉の大軍。
ついに力尽きてしまいました。
このハンパじゃない森可成の粘り、詳細は別記事「なぜ森可成は3万の大軍に立ち向かい討死したのか」にもございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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なぜ森可成は3万の大軍に立ち向かい討死したのか|信長を救った宇佐山城の死闘
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魔王覚醒

◆森可成の討死を知った信長は、三好三人衆や本願寺との戦いを切り上げ、近江へ向かいます。
浅井朝倉軍を討つためですが、彼らは延暦寺へ。
信長は延暦寺に対し「織田に味方しろ、無理ならせめて中立を保て。さもなくば山を焼き払う」と通達します。
しかし、これをあっさり却下され、織田軍と浅井朝倉軍・延暦寺との間で睨み合いが始まりました。
いわゆる「志賀の陣」です。
鬼と呼ばれたい

◆浅井朝倉軍もすぐに延暦寺へ逃げ込んだワケではありません。
当初は、森可成を討ち、宇佐山城も落とそうとしました。
しかし、可成の命で城を守っていた各務元正(かがみ もとまさ)の奮戦を前に、攻めきれず、そうこうしている間に織田信長が近江へやってきたため延暦寺へ籠もったのです。
そしてここから2か月以上に及ぶ睨み合い「志賀の陣」が始まったのでした。
なお、この一連の流れは「第一次信長包囲網」と呼ばれます。
信長が四方を敵に囲まれた絶体絶命の状況と、その全体像は以下の記事で詳しく解説していますので、よろしければ併せてご覧ください。
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第一次信長包囲網とは?四方を敵に囲まれた信長がそれでも生き残れた理由
続きを見る
第二次信長包囲網の詳細は5/2公開予定です。
※著者・アニィたかはしの『大河ブギウギ豊臣兄弟編Youtube』はこちらから👇️
文:五十嵐利休



